老子は紀元前六世紀頃の人というだけで出生も不明です。荘子書の中では老聃の名前で出てきますが、この方は精進食を取ることが無かったようで、荘子が名前を仮に用いたようです。荘子書の中に孔子に道を説いたという説話が載っていますので,いつの間にか道教の太上老君などと呼ばれ、三清の一人の如くされたようです。荘子は架空の人の名を用いて経典の偈文のように荘子書の概略を述べたもの、則ち荘周菩薩品の偈文(げもん)が老子書だったようです。荘子書同様、多くの改ざんが為されたために真意を誤解されている所が多く認められます。
この「足を知るものは富む」は老子道徳教の第三十三節の弁徳(べんとく)に説かれている一節ですので、その読み下し文を掲載しますと、
「人を知るは智なり。自らを知るは明なり。人に勝(すぐ)るは有力(うりき)なり。自らに勝れるは強し。足るを知る者は富み、強いて行う者は志有り。その所を失わざる者は久しく、死して滅びざる者は寿なり」
説かれています。
弁徳は徳について語ることです。文字がかなり省略さていますので私的に文字を補いながら、荘子の教えに随い解釈をしてみますと、
「人を知るは智なり」は人を知る、すなわち世間の知とは分別知であると説いています。
「自らを知るものは明なり」は、天から与えられた天分の本性たる高位の魂の智慧は明、すなわち無分別智であると述べています。
「人に勝るは有力なり」は、人に勝れるといえども、それはただ力が勝っているだけである、則ち、富や権力などで得た力こそがすべてだと思い違いをしていることです。不幸を知らない不幸の教えです。
「自らに勝つ者は強し」とは五欲を離れ、自我を滅尽する者は畏れるもの無しと語っています。
「足るを知る者は富む」とは遺教経の”足るを知る者は貧しといえども富めり”のことです。
「強いて行う者は志有り」は強いて学問などを詰め込んで立身出世を志しても,内なる清浄心を損なっているこのに気がつかないとです。
「その所を失わざる者は久しく、死して滅びざる者は寿なり」とは、道を歩む者は富楽安穏にして、魂の不滅を知るものは寿、すなわち幸いなりと締めています。
通釈をしてみますと、
世間の知を学ぶとは、立身出世をして地位や名誉や財貨を得るための知識を学ぶことです。自分を知るということは、欲を離れて我欲を滅し、生死や是非などの世間の分別知から離れ、無分別の一なる境地に至る智慧を学ぶことです。しかし、世間で勝れた人と言われているのは権力や財力のある人です。これが世間の知です。自分に勝るというのは自我を滅して欲を離れていますから何も失う物も有りませんから何も恐れることが有りません。己を知り足を知る者は分相応に住し、自然の摂理に順って小欲知足に生きていますので何事にも束縛されることは有りません。ですから身も心も安穏富楽に保てるのです。それなのに、世間の知に惑わされ、学問に精を出し、立身出世を志すのは自分のことをわざわざ自分の手で縛っているようなものです。道を歩む者は魔界をも超越し、富楽安穏の境地に安住することが出来るのです。欲を離れ、生死を離れ、分別知を離れて、魂の不滅を知る者、それがまさに寿、則ち幸せ者なのです、と説かれています。
子供や孫の立身出世を願うのはこの世間では当たり前のことのように考えられていますが、それが世間の知なのですと語っています。それは、両親や祖父や祖母までみんなで揃って、すなわち家族が揃って皆で縛りあいをしているようなものだと教えています
このブログの老子道教、弁徳第三十三も参照していたければ幸いです。
この「足を知るものは富む」は老子道徳教の第三十三節の弁徳(べんとく)に説かれている一節ですので、その読み下し文を掲載しますと、
「人を知るは智なり。自らを知るは明なり。人に勝(すぐ)るは有力(うりき)なり。自らに勝れるは強し。足るを知る者は富み、強いて行う者は志有り。その所を失わざる者は久しく、死して滅びざる者は寿なり」
説かれています。
弁徳は徳について語ることです。文字がかなり省略さていますので私的に文字を補いながら、荘子の教えに随い解釈をしてみますと、
「人を知るは智なり」は人を知る、すなわち世間の知とは分別知であると説いています。
「自らを知るものは明なり」は、天から与えられた天分の本性たる高位の魂の智慧は明、すなわち無分別智であると述べています。
「人に勝るは有力なり」は、人に勝れるといえども、それはただ力が勝っているだけである、則ち、富や権力などで得た力こそがすべてだと思い違いをしていることです。不幸を知らない不幸の教えです。
「自らに勝つ者は強し」とは五欲を離れ、自我を滅尽する者は畏れるもの無しと語っています。
「足るを知る者は富む」とは遺教経の”足るを知る者は貧しといえども富めり”のことです。
「強いて行う者は志有り」は強いて学問などを詰め込んで立身出世を志しても,内なる清浄心を損なっているこのに気がつかないとです。
「その所を失わざる者は久しく、死して滅びざる者は寿なり」とは、道を歩む者は富楽安穏にして、魂の不滅を知るものは寿、すなわち幸いなりと締めています。
通釈をしてみますと、
世間の知を学ぶとは、立身出世をして地位や名誉や財貨を得るための知識を学ぶことです。自分を知るということは、欲を離れて我欲を滅し、生死や是非などの世間の分別知から離れ、無分別の一なる境地に至る智慧を学ぶことです。しかし、世間で勝れた人と言われているのは権力や財力のある人です。これが世間の知です。自分に勝るというのは自我を滅して欲を離れていますから何も失う物も有りませんから何も恐れることが有りません。己を知り足を知る者は分相応に住し、自然の摂理に順って小欲知足に生きていますので何事にも束縛されることは有りません。ですから身も心も安穏富楽に保てるのです。それなのに、世間の知に惑わされ、学問に精を出し、立身出世を志すのは自分のことをわざわざ自分の手で縛っているようなものです。道を歩む者は魔界をも超越し、富楽安穏の境地に安住することが出来るのです。欲を離れ、生死を離れ、分別知を離れて、魂の不滅を知る者、それがまさに寿、則ち幸せ者なのです、と説かれています。
子供や孫の立身出世を願うのはこの世間では当たり前のことのように考えられていますが、それが世間の知なのですと語っています。それは、両親や祖父や祖母までみんなで揃って、すなわち家族が揃って皆で縛りあいをしているようなものだと教えています
このブログの老子道教、弁徳第三十三も参照していたければ幸いです。