空っぽの部屋(虚静恬淡に生きる)

荘周菩薩品(抄)、老子、中庸、大学の仏教的解釈を掲載しています。荘周菩薩品、続、補は電子書籍(シナノブック)に。

3)足るを知る者は富む

2016年09月15日 | 幸せについて
 老子は紀元前六世紀頃の人というだけで出生も不明です。荘子書の中では老聃の名前で出てきますが、この方は精進食を取ることが無かったようで、荘子が名前を仮に用いたようです。荘子書の中に孔子に道を説いたという説話が載っていますので,いつの間にか道教の太上老君などと呼ばれ、三清の一人の如くされたようです。荘子は架空の人の名を用いて経典の偈文のように荘子書の概略を述べたもの、則ち荘周菩薩品の偈文(げもん)が老子書だったようです。荘子書同様、多くの改ざんが為されたために真意を誤解されている所が多く認められます。
 この「足を知るものは富む」は老子道徳教の第三十三節の弁徳(べんとく)に説かれている一節ですので、その読み下し文を掲載しますと、
「人を知るは智なり。自らを知るは明なり。人に勝(すぐ)るは有力(うりき)なり。自らに勝れるは強し。足るを知る者は富み、強いて行う者は志有り。その所を失わざる者は久しく、死して滅びざる者は寿なり」
説かれています。
 弁徳は徳について語ることです。文字がかなり省略さていますので私的に文字を補いながら、荘子の教えに随い解釈をしてみますと、
 「人を知るは智なり」は人を知る、すなわち世間の知とは分別知であると説いています。
「自らを知るものは明なり」は、天から与えられた天分の本性たる高位の魂の智慧は明、すなわち無分別智であると述べています。
「人に勝るは有力なり」は、人に勝れるといえども、それはただ力が勝っているだけである、則ち、富や権力などで得た力こそがすべてだと思い違いをしていることです。不幸を知らない不幸の教えです。
「自らに勝つ者は強し」とは五欲を離れ、自我を滅尽する者は畏れるもの無しと語っています。
「足るを知る者は富む」とは遺教経の”足るを知る者は貧しといえども富めり”のことです。
「強いて行う者は志有り」は強いて学問などを詰め込んで立身出世を志しても,内なる清浄心を損なっているこのに気がつかないとです。
「その所を失わざる者は久しく、死して滅びざる者は寿なり」とは、道を歩む者は富楽安穏にして、魂の不滅を知るものは寿、すなわち幸いなりと締めています。
通釈をしてみますと、
 世間の知を学ぶとは、立身出世をして地位や名誉や財貨を得るための知識を学ぶことです。自分を知るということは、欲を離れて我欲を滅し、生死や是非などの世間の分別知から離れ、無分別の一なる境地に至る智慧を学ぶことです。しかし、世間で勝れた人と言われているのは権力や財力のある人です。これが世間の知です。自分に勝るというのは自我を滅して欲を離れていますから何も失う物も有りませんから何も恐れることが有りません。己を知り足を知る者は分相応に住し、自然の摂理に順って小欲知足に生きていますので何事にも束縛されることは有りません。ですから身も心も安穏富楽に保てるのです。それなのに、世間の知に惑わされ、学問に精を出し、立身出世を志すのは自分のことをわざわざ自分の手で縛っているようなものです。道を歩む者は魔界をも超越し、富楽安穏の境地に安住することが出来るのです。欲を離れ、生死を離れ、分別知を離れて、魂の不滅を知る者、それがまさに寿、則ち幸せ者なのです、と説かれています。
 子供や孫の立身出世を願うのはこの世間では当たり前のことのように考えられていますが、それが世間の知なのですと語っています。それは、両親や祖父や祖母までみんなで揃って、すなわち家族が揃って皆で縛りあいをしているようなものだと教えています
 このブログの老子道教、弁徳第三十三も参照していたければ幸いです。
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2)富むといえども貧し

2016年09月08日 | 幸せについて
 お釈迦様の最後の教えとされている遺教経(ゆいきょうぎょう)の一節に説かれている言葉です。
 仏教はお釈迦様の教えとされていますが、ヒッタイトからの教えを仏教として広めるために、インドの仏教を信奉する人々の想念が作り出したものですのですから、実際にはお釈迦さまはこの輪廻の世界には生まれて来ていません。しかし、二十一世紀に入り、天上界の会議でお釈迦ざまは神の一員として認められてようです。イエスキリストはインドまで訪れてこのヒッタイトからの高次元の教えを説いていたのは事実のようです。
 それでは遺教経の第二節の出世間法要に説かれている「知足の功徳」ですが、短い一節ですので全文の読み下し文を記載します。
「汝ら比丘よ、もし諸々の苦悩を脱せんと欲せば、まさに知足を観ずべし。知足の法は,即ちこれ富楽安穏の教えなり。知足の人は大地の上に臥すといえどもなお安楽とするも、不知足の人は天堂に住すといえども、また意に叶わず。不知足の人は富むといえども貧し。知足の人は貧しといえども富めり。不知足の人は常に五欲のために牽(ひ)かれ、知足の人に憐愍(れんみん)せらるる。これを知足と名づくなり」
 と説かれています。不知足の人は五欲、すなわち五感(眼耳鼻舌意)を満足するための欲望が絶えることが無いので、自ら苦悩を招いて苦しんでいる。いくらお金を持っていて良い住まいに住んだとしても、もっと良い所に住みたくなって、欲望の止まる事が無いから、年中、悶々とした生活を送っている。それがすべての患いの元であることも知らないで、自分は成功者で幸せ者だと思っている。知足の人はそのことに気づかない不知足の人を憐れんでいる、と説かれています。
 ヘラクレスの冒険の中の修道院長の言葉が思い浮かびます。不幸であることを知らない人のことを一言で語っています。「その方はお金持ちなんですね」
 遺教経のこの前の一節、無求(むぐ)の功徳では小欲について説かれています。全文を掲載しますと、
「汝ら比丘、多欲の人は利を求めることが多きが故に苦悩もまた多し。小欲の人は利を求めること無く、欲も無ければこの患(うれ)い無し。ひたすら小欲を修習すべし。小欲なることの諸々の功徳を生ずるは語るまでもなし。小欲の人は諸根、すなわち五欲のために牽かれず、すなわち諂曲(てんごく)して以て人の意を求めず(人を欺してまで自分の利益を得ようとはしない)。小欲を行ずる者は心担然(たんねん)として憂畏(うい)するところ無く、事にあたりても余裕有りて、常に足らざること無し。これ則ち、涅槃行(ねはんぎょう)なり。これを小欲と名ずくなり」と説かれています。遺教経では小欲知足の話を二つに分けて説いています。
 不幸を知らない不幸、そして富むといえども貧し、これらすべての原因は貪欲さであることが説かれています。これらの苦悩を逃れる方法は、離欲、すなわち小欲知足に生きることが功徳を生ず、すなわち魂の浄化のための精進修行であることが説かれていると思います。
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1)不幸を知らない不幸

2016年09月06日 | 幸せについて
 世間では、思いが叶ったり、お金が儲かったり、恋が叶ったりすると自分のことを幸せ者だとよく言いいます。世間の言うところの幸せは本当の幸せなのでしょうか。
 ポワロの晩年を描いた「ヘラクレスの冒険」(アガサクリスティ著)の第十一話のなかに不幸について書かれているところが有りますので、それを一部引用して紹介したいと思います。
 ある時、ヘラクレスことエルキュール・ポワロは太い眉、酷薄そうな唇、貪欲そうなあごの線、相手の心の底を見透かすような鋭いまなざしをもつ、財界の権力者の所へ呼ばれ、ある依頼を受けます。それは、十年ほど前、三万ポンドで競い落としたエメラルドでできたリンゴのついた金の酒杯が自分の所へ届く前に盗難にあってしまったので、それをいくらかかってもいいから探して欲しいという依頼でした。ポワロはプロメテウス役の探偵社や刑事たちの情報を元に推理を進め、盗賊団の主犯格はすでに死亡したが娘がアイルランドの田舎の修道院に勤めていることを知ります。そこでポワロは人里離れた修道院をなんとか訪ねたのですが、その娘はすでに二年前に無くなっていました。いったん町へ引き返したポワロはアトラスという競馬の予想屋を雇い、再度そこを訪れます。その修道院の塀を乗り越える時、アトラスに案内代としれ5ポンド紙幣を二枚与えて天球の代わりに屈んでポワロを支える役をさせます。こっそり修道院に侵入したポワロは教会の聖火台の上に置かれてた酒杯を、本来はオークションで手に入れた依頼主のものなのですが、失敬して戻ります。アトラスにはお礼として、明日の競馬で手数料の十ポンドを大穴のヘラクレスにつぎ込むようにと教えます。
 ポワロは聖杯をもって財界の権力者の所を訪れます。机の上に小包を置き、きれいに紐解いてていねいに黄金の酒杯を取り出します。富豪は満面の大喜びで、「代金はあなたの言う値段を支払うよ」と言うのですが、ポワロは「代金はいらない」と言います。「それじゃ株の情報が欲しいのか」と言ったのですが、「それもいらない」と言います。「では何が欲しいのか」と言われ、ポワロは机の上の黄金の酒杯を指さして、おもむろに「それが欲しいのです」と言います。あまりのことに呆れかえる財界の権力者ですが、ポワロは「実は酒杯の底は二重に成っており、そこには小さな穴が隠されています。昔はそこに毒を入れて持ち主を殺害したようです」とその仕掛けを見せます。このような物はあなたが持つより教会に飾って祈りで浄めてもらうのが一番良いと思います。修道院の尼僧たちがあなたの魂のためにミサの祈りを捧げてくるでしょう」と言ってなんとか納得させようとします。富豪は貪婪(どんらん)な笑みを満面に浮かべて、「これは私の最善の投資だ」と言って酒杯を返すことに同意しました。
 ポワロは修道院の小さな応接間の中で院長に一部始終を語り、聖杯を返します。修道院長は、
「その方に感謝の祈りを捧げるとお伝え下さい」ポワロはうなずいてしみじみと言います。
「あの方にはあなた方の祈りが必要なのです」
「では、その方は不幸なのですか」
「あまりに不幸であったために幸福とは何であるかを忘れてしまったのです。自分が不幸であることを知らないほどの不幸なんです」修道院長は優しく言います。
「ああ、お金持ちなんですね」
ポワロは何も言わなかった。助加えるべきコトが何も無いことを知っていたからだ。
 以上がヘラクレスの冒険の第十一話の概略です。是非一読をお勧めします。
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