
・結婚生活や夫婦愛を支える要素はいろいろあるだろうけど、
私はといえば、ただ一つだけ思い当たるのに、
友情がある。
私の結婚は友情から出発したように思える。
ほんとをいえば、
私と彼とはずいぶん距離のある人生で、
お互い四十年近く別々に暮らしてきた。
私はものを書くという仕事を持ち、
彼の方は多忙な開業医、
しかも先妻との間に四人の子持ちという人間で、
もし運命の気まぐれで会うことが出来なければ、
縁なき衆生ですれ違うだろう。
かけ離れた世界の人間同士である。
それがたまたま、
私の友人の女流作家・川野彰子さんの夫だったので、
彼女が亡くなってから会う機会が作られてしまった。
したがって交際もそれからのもので、
それに彼は小説に関心のある人間ではなく、
私たちの間では文学も小説も、
素人の直感風な「おもしろい」「つまらない」、
「好きだ」「嫌いだ」という話し方でしか、
出て来なかった。
私は結婚のことは夢にも考えず、
それは彼もそうだったと思う。
二人共室内でじっと坐ってする仕事で、
太陽を享受する機会がなかったので、
なるべく休日は外へ出かけることにしていたけれど、
ほとんど一日中、
しゃべり続けていたこともよくあった。
会話を楽しみながら、
お互いの人格のありどころを確かめていくという作業は、
したたかな手ごたえを私にもたらして返ってきた。
きっと、年齢も関係あるのだと思う。
私は三十八で彼は四十一だった。
若くもないし、年取りでもなかった。
将来に未知な部分はいく分かは残っているけれど、
今まではとてもえらかった、
ひどい目にあって若い盛りを戦争に吸い取られて来た、
という感慨は、どっちにもあった。
要するに私たちが交際している間(一年半ほど)、
私たちが生きてきた世代を確かめ合う友情で、
結ばれていたような気がする。
価値判断や人間の把握の仕方がとてもよく似ており、
私は彼よりずっと年下の人にも、
年上の人にも感じたぎこちなさや、
違和感がなかったので、
非常に気楽だった。
友情というよりも、
一つ釡の飯を食った戦友、
という感じがするのだった。
同じ戦争時代に苦しみ、
戦後の混乱の荒波を泳いで精いっぱい生きてきた同士、
そういう世代的な連帯感が私たちにはある気がする。
これは結局、
戦中、戦後と生きのびた中年者の感慨であり、
それ以上に、中年になってはじめてめぐり合い、
結婚という縁で奇しくもつながれるようになってしまった、
私たちの特殊なケースが、
そうさせるのだろう。
いくら世代を同じくするといっても、
戦後の若い人たちは、
お互いの配偶者を戦友や同士とは思わないだろう。
けれども、
私たちの世代の特殊さを抜きにしても、
夫婦の愛情の根本には、
ある種の同士愛みたいな友情があるのではなかろうか。
夫婦の年齢が開いていても、
どんなに個性に差があろうとも、
共通項分母の友情は変りない。
友情だけで結婚は出来ないけれど、
結婚から友情を抜き取ったら、
永続性はないのではなかろうか。
友情とは、何か。
私のイメージによれば、
やっぱり戦争になってしまうけれど、
どうせ人生は戦場である。
塹壕にぴったり身をつけて頭半分わずかに出し、
烈しい敵の攻撃に必死に応戦している戦友を、
横目でチラと見、やってるな、と思うと、
戦友もこちらを見返して、
うん、まだ死なずにやっとるな、と思う、
そういう時の連帯感、がんばろう、という、
声のない励まし、力づけ、
大丈夫か?大丈夫!という気づかいの投げ合い、
そういうものに夫婦の友情が感じられるのである。
そういう友情は当然、
双方が同じ力を振り絞って生きてゆく、
その気力へのお互いの尊敬がなければ、
成立し得ないものである。
そうして戦い止んで日が暮れたとき、
二人は勝ったにしろ、負けたにしろ、
二人共別々の個性を死ぬまで保ちながら、
しかも一つの個性のように融和してしまう。
そんな老夫婦の世界に到達出来たら、
どんなにいいかと思う。



・「女の目くじら」
今日で読み終えました。
BS再放送の「芋たこなんきん」も、
現在、戦争中の少女時代の回想が終わり、
今週は、田辺さんのモデルの藤山直美さんが、
先妻との子供たちと彼らの母親について、
考えさせられる一週間になるようです。