「姥ざかり」

田辺聖子著
昭和56年新潮社刊より

2、ヴェニス ③

2022年09月08日 08時41分51秒 | 田辺聖子・エッセー集










・陸へ上がると、地面は石でおおわれ、
堂々たる古い建物が軒を接してそびえている。

ホテルはボウエル・グリュンワルド、
狭い運河に面しており、そこから大運河に通じる。

船からホテルへ入るようになっていた。
サンマルコ広場のすぐ近くである。

映画でよく見るサンマルコ広場は、
十年前と同じであった。

あの頃より観光客が増えている。

これでシーズン前だというのだから、
シーズン中はどれくらいの人がここにあふれるものやら、
教会に向かって左右の回廊前にいっぱい、椅子が出ていて、
そこに何するでもなく、観光客が坐り、
カプチーノを飲んでいるという図も、
昔のままである。

左の方には楽団がいて「旅情」なんて演奏している。

「ツキすぎやないかなあ、お宮の松みたいやなあ」

私は「旅情」なんて演奏されると、
どっち向いていていいのかわからなくなる、
はずかしい。

ハイ・ミスの旅行者もたくさん来てるはず、
少し具合わるいのではありませんか。

「ナニ、ぴったりやと喜ぶ人の方が多いのでしょう」

ヴェニスの銀行は、
普通の事務所みたいで、
小さくて物静かである。

ローマでは不足していた硬貨が、
ここでは不自由しない。

ヴェニスは小さくていい。
歩き回っても知れている。

サンマルコ教会の横手から商店街、
ショッピングセンターがひろがって、
リアルト橋までずうっと賑やかである。

その道をそれて、細い路地を行くと、
小さい運河に小さい橋がかかっていて、
小さい広場に出たりする。

橋の下になるような、
水面に近い部屋にも人が住んでいるとみえて、
人影が動き、窓には鉢植えの花がある。

サンマルコ教会の鐘が、
細長い青空にひびく。

ここはまあ、
舞台だけで小説になりそうなよくできたところ、
しかしおっちゃんの考えは、
そういうのではないらしく、

「この町の人は、
一生、土を知らんまま、死ぬんですな」

「町中、石だたみですから・・・」

「そのせいか、足の悪い人が多いようです」

「湿気が多いからではありませんか」

「リューマチとちゃうのかなあ」

太った爺さんや婆さんが、
石だたみの路地を、
コツコツ杖を曳くのを眺めていたら、

「えらいこっちゃ!昼過ぎてしもうた。
早う食わんと晩飯にさしつかえる、
リューマチも湿気もあるかいな」

というので、あわただしく、
サンマルコ広場の近くの店に入った。

観光客相手の店かもしれないけど、
店の前に水槽があって、魚が泳いでおり、
シャコやエビなど山と積み上げてある。

アドリア海の海の幸をここに集めた、というところ。
磯のにおいがプンプンする。

前菜に、その海の幸をいろいろ、
それにほどよく冷えた白ワイン。

イワシとシャコの酢油漬け。

このシャコの身が引きしまり、
コクがあって美味しい。

それにエビとイカ、バイ貝、これが冷たくて、
タラの如き魚の身と共に、
トマトと酢油で和えられて出てくる。

この前菜は、ローマの最後の夜のタベルナのよりも、
ずっと日本人の口に合う。

スープ代わりに、スパゲティ一皿、
これはただ、トマトソースだけのあっさりしたもの、
しかし、アサリや肉よりも深みのある、いい味で、
この店、まやかしでない、
きっちりした料理屋であるようであった。






          


(次回へ)

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