
・陸へ上がると、地面は石でおおわれ、
堂々たる古い建物が軒を接してそびえている。
ホテルはボウエル・グリュンワルド、
狭い運河に面しており、そこから大運河に通じる。
船からホテルへ入るようになっていた。
サンマルコ広場のすぐ近くである。
映画でよく見るサンマルコ広場は、
十年前と同じであった。
あの頃より観光客が増えている。
これでシーズン前だというのだから、
シーズン中はどれくらいの人がここにあふれるものやら、
教会に向かって左右の回廊前にいっぱい、椅子が出ていて、
そこに何するでもなく、観光客が坐り、
カプチーノを飲んでいるという図も、
昔のままである。
左の方には楽団がいて「旅情」なんて演奏している。
「ツキすぎやないかなあ、お宮の松みたいやなあ」
私は「旅情」なんて演奏されると、
どっち向いていていいのかわからなくなる、
はずかしい。
ハイ・ミスの旅行者もたくさん来てるはず、
少し具合わるいのではありませんか。
「ナニ、ぴったりやと喜ぶ人の方が多いのでしょう」
ヴェニスの銀行は、
普通の事務所みたいで、
小さくて物静かである。
ローマでは不足していた硬貨が、
ここでは不自由しない。
ヴェニスは小さくていい。
歩き回っても知れている。
サンマルコ教会の横手から商店街、
ショッピングセンターがひろがって、
リアルト橋までずうっと賑やかである。
その道をそれて、細い路地を行くと、
小さい運河に小さい橋がかかっていて、
小さい広場に出たりする。
橋の下になるような、
水面に近い部屋にも人が住んでいるとみえて、
人影が動き、窓には鉢植えの花がある。
サンマルコ教会の鐘が、
細長い青空にひびく。
ここはまあ、
舞台だけで小説になりそうなよくできたところ、
しかしおっちゃんの考えは、
そういうのではないらしく、
「この町の人は、
一生、土を知らんまま、死ぬんですな」
「町中、石だたみですから・・・」
「そのせいか、足の悪い人が多いようです」
「湿気が多いからではありませんか」
「リューマチとちゃうのかなあ」
太った爺さんや婆さんが、
石だたみの路地を、
コツコツ杖を曳くのを眺めていたら、
「えらいこっちゃ!昼過ぎてしもうた。
早う食わんと晩飯にさしつかえる、
リューマチも湿気もあるかいな」
というので、あわただしく、
サンマルコ広場の近くの店に入った。
観光客相手の店かもしれないけど、
店の前に水槽があって、魚が泳いでおり、
シャコやエビなど山と積み上げてある。
アドリア海の海の幸をここに集めた、というところ。
磯のにおいがプンプンする。
前菜に、その海の幸をいろいろ、
それにほどよく冷えた白ワイン。
イワシとシャコの酢油漬け。
このシャコの身が引きしまり、
コクがあって美味しい。
それにエビとイカ、バイ貝、これが冷たくて、
タラの如き魚の身と共に、
トマトと酢油で和えられて出てくる。
この前菜は、ローマの最後の夜のタベルナのよりも、
ずっと日本人の口に合う。
スープ代わりに、スパゲティ一皿、
これはただ、トマトソースだけのあっさりしたもの、
しかし、アサリや肉よりも深みのある、いい味で、
この店、まやかしでない、
きっちりした料理屋であるようであった。



(次回へ)