「姥ざかり」

田辺聖子著
昭和56年新潮社刊より

2、ヴェニス ④

2022年09月09日 08時50分42秒 | 田辺聖子・エッセー集










・イシモチの如き魚のグリルを食べる、
魚を焼いて蒸したのが出てくるが、
たっぷり、どっしりした魚である。

給仕長のおじさんが、傍らのテーブルで、
器用にナイフを動かし、魔法のように、
骨をそっくりはずしてしまう。

温かい皿に、きれいに魚の身をならべ、
文字通り骨抜きをしてくれるのである。

魚の身を食べるときは、
日本人は箸に限ると思うが、
ナイフとフォークの技術にかけては、
西洋人もおどろくべき巧者なものである。

我々は、西洋人を不器用だと伝統的におとしめてきたが、
絶対、そんなことはない、と今度の旅行で開眼した。

お腹がでっぷり出て、
腕も脚も巨人のように太く、
はちきれんばかりの黒い服、
真面目な顔つきの、黒目黒髪の中年おじさん、
彼の手が大きいので、ナイフもフォークも、
手の中へかくれてしまいそうであるが、
ちょいちょいと動かしただけで、
皿の上の魚の肉はすっと骨から離れて、
きれいに身だけ、そっくり移動している。

「いや、それは西洋人は不器用といえませんでしょう」

とホトトギス氏も認めるわけである。

食卓のショーとして給仕長が、
ああいうナイフさばきを見せてくれると、
よけい魚がおいしく思える。

「日本では宴席で、
アユが出たりすると、
芸者はんとか仲居さんが、
アユの骨抜きをしてくれますな」

おっちゃんは日本を思い出したのかもしれない。

「そうですか、
そういうていねいな扱いをされたことがないから知りません」

ホトトギス氏はニベもなく答えている。

しかしあれは、何というか、
女の脂粉の香がついたりして、
私は、あまり好きではない。

しかもあれは、まず魚の身を箸で押さえ、
骨ばなれをよくしておかねばならない。

アユの姿は完全に崩れてしまう。

アユは味や香りと共に、
姿のよさを賞味する魚で、
一流料亭へ行くと、
皿の底に小石など敷いて、
その上に生けるがごとく、
アユが尻尾をピンと立て、
身を躍らせて横たわっている。

それを、

「ユサユサと、箸で押さえて姿を崩してしまっては、
カタなしですわ」

と私は反対である。

アユなどは、頭はともかく、
わんぐりと骨ごと食べるものである。

天然のアユなら、
骨をやわらかくて美味しく食べられる。

「そういうことですなあ」

と、ふだんなら脂粉の香の好きなおっちゃんも、
アユに関する限り、
女手が加わることは好かないようである。

尤も日本男児の中には、
魚は骨を取り、カニは身を出してもらわないと、
食べることができない、幼稚園児みたいな人がいる。
(私は現に見たのであるが)

そしてその男性のかたわらにいた芸者さんは、
せっせとカニの脚から身を取り出しては皿に並べ、
手が汚れたといって、洗いに立った。

私はそんなのを見ると腹が立つのだ。

「大体、モノを食べる、という楽しみの中には、
魚のあらだきの眼玉をほじくって吸うとか、
甲羅の内側の肉をつつくとか、
骨から身をむしるとか、
そんな作業も入ってるもんでしょ」

「そうそう」

「それを人に任せないと食べられないような男は、
モノを食べる資格はない。
じゃまくさいと思うなら、
いっそ食べないほうがよい。
過保護の弊害です」

「まあまあ」となだめられ、
しかしこの旅先では、
いくら腹を立てても、
美味しいものを食べている最中だから、
力が入らない。

給仕長の熟練した名人芸は美事であったが、
魚の味はかなり大味である。

焼いたり蒸したりして味付けしてこの程度なら、
台北の黄魚の料理の方が上であるあっさり。

黄魚も大味な白身の魚であるが、
片身はフライ、片身は煮つけにして出してくれる。

フライは日本のワカサギのフライに似て淡白でかるく、
煮つけは、豚の脂で煮るのだが、
絶妙の深い味がついて、
脂がギトギト浮いていながら、
口にふくむとあっさりしている。

それにくらべると、
ここのグリルは、やや愛想がない。

日本の刺身、たとえばタイのあらいの、
冷たく縮れてひきしまった身の歯ごたえとか、
芸術品のようなてっさ(ふぐさし)の美しさとか、
ヒラメのほの甘い刺身の繊細さ、
またカツオのたたきなどというたけだけしい美味に比べると、
ヴェネチアの魚料理は大味である。

尤も、ヴェネチアで私たちが入ったレストランはみな、
一人二千円から三千円見当、
店の構えは立派であるが、
この値段は日本でいうと、
高架下の小料理屋、
といったところではないだろうか。

値段は赤提灯なみである。

それで前菜、スパゲティ、メイン料理が食べられて、
ワインがつくのだから、
やはり安い。






          


(次回へ)

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