「姥ざかり」

田辺聖子著
昭和56年新潮社刊より

2、ヴェニス ②

2022年09月07日 09時26分58秒 | 田辺聖子・エッセー集










・飛行機は、違和感にとどまっている私を、
不意に空港に投げおろす。

たいがいどこの空港でも、
(空港です)という予告の風景があり、
車輪が着地すると(やっと大地へ、足がついた)
の感懐をかみしめるものである。

しかし、
マルコ・ポーロ空港では、
何しろ建物は、
すぐ直線的に海から生えあがっているくらいだから、
突如その一角に舞い下りる。

つんのめったら、鼻先は海へ入らないか、
というようなところである。

空港の鼻先にタクシー乗り場があり、
ピカピカの新車がとまっていた。

ヴェニスのタクシーは、水上タクシーである。

私は泳げないのは十年前と同じだが、
しかし、水を見て怖がるようなことはなくなっている。

おっちゃんの方は、
これはむろん、海が大好き、
奄美生まれだから、
海へ潜ってアワビやサザエをつかまえ、
車エビを素手で手づかみし、
海岸でたき火をして料理をし、
満腹するとガジュマルの根元で昼寝をするといった、
魏志倭人伝のような育ち方をした男である。

「う~む、魏志倭人伝とヴェニスとは、
違いがありすぎですなあ」

ということであった。

中世ヴェニスの華麗な繁栄のあとは、
まだ華やかな夕映えのように現代のヴェニスを染めていて、
同じく海洋民族でも、魏志倭人伝とでは民度がちがう。

タクシーは私たちが買い切り、
快適にホテルに向かう。

広い海上をわたる風は、まだ冬の冷たさである。

「つまり、この航路は高速道路、というところですなあ」

とおっちゃんはいい、
見ると航路の両側に杭が出ている。

海原はるか、杭はつづく。
杭の上にはカモメがいる。

カモメは一本の杭にそれぞれ一羽ずつとまり、
みんなこっちを向いている。

海はさながら抹茶ようかんのように、
深いトロリとした緑色、
はるか向こうには蜃気楼という見てくれで、
古い教会や宮殿が海に浮かんでいる。

その上に広がる三月の青い空。

自家用らしきランチ、
海上保安庁らしき船、
水上タクシーなど、
水しぶきをあげて走り、
かなり水上高速道路も交通ははげしい。

そうかと思うと、
葦のごときものが繁る彼方に杭があり、
(これが浪花であると「みおつくし」というべきなのだが)
そのへんは浅いのか、
人が立っていたりして、
あれは貝でも採っているのであろうか。

「晩めしに出るのがそうかもしれません」

とホトトギス氏らと、
満足そうに言い交わす。

船はヴェネチアの市中に入り、
これが運河というもの、
両側に宮殿や教会がぎっしりつづく。

タイのメナム川をランチで行くと、
ちょっとこんな感じであった。

あそこも寺院があり富裕な邸宅の庭園、
川に面した桟橋には自家用ランチがつながれて、
波にゆられていたりする。

しかしタイは、
その間に空き地やジャングルなどあって、
のどかであったが、ヴェネチアは、
残りなく塗りつぶされたように、
ぎっしり古い建物がつづく。

さらに狭い運河へ分け入ると、
黒いゴンドラが音もなく行き交っていた。

その横手にはまた更に細い運河が連なり、
両側の家々の窓から窓へロープが張りめぐらされて、
西洋腰巻というか、西洋腹巻というか、
そのたぐいの布が、盛大にかけわたして干され、
風にはためいていた。

その下を黒いゴンドラはすべってゆく。

石の船着場にはゴンドラがつながれているが、
石段の半ば以上、水に浸かってしまっていたりする。

地階の木のドアの裾は波に洗われ朽ちていて、
石は黒ずんで色も変っていた。

角砂糖がコーヒーに溶けていくような、
と形容すべきだろうか。

船に乗っていると視点が低いので、
溶けつつある角砂糖を連想して、
焦燥を感じるが、陸へ上がると、
その危惧はすっかり拭われるのである。






          


(次回へ)

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