明日のものみの塔研究記事。
読んでると頭の中がぐちゃぐちゃになっていく感じ。決めつけと矛盾と押し付け。どこから突っ込んだらいいのか・・・
う~ん・・・組織が信者をマインドコントロールしてる、ということへの反論なんだろうなぁ。でも実際マインドコントロールしてるから、論理が破たんしちゃって訳分からない文章になっちゃってるんだろうなぁ。
流れとしては・・・世の考え方を愚かだと全面否定し、エホバ(つまり組織)の考え方が優れていてためになると一部証拠付けた上で、組織(つまりエホバ)の考え方を述べて、どちらを選ぶかと迫る。エホバを選べば、結果、組織にマインドコントロールされる、という仕組み。
うんざりだ。
ものみの塔研究って聖書の研究じゃないんだな、ってことはよく分かった。
まず1,2節。ペテロの言葉「ご自分を大切になさってください。あなたは決してそのような運命にはならないでしょう」(マタイ16:22)。
他の訳では「とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」「とんでもない・・あなたにそんなことが起こってはなりませぬ」などとなってる。
「ご自分を大切になさってください」って、いったいどこから出て来た訳なのか・・・本文には「ペテロに対する言葉から分かるように、イエスはエホバの考え方を受け入れ、世の考え方をきっぱりと退けました」とある。これを言いたいがために、都合良く訳したとしか思えない。
この聖書の文脈で、イエスが「世の考え方をきっぱり退けた」なんて読み取るって、そう教えられてない限りあり得ないと思う。普通に考えれば、人間的にイエスを大切に思う気持ちよりも、神のお考えの方が優先されるんだ、って意味だよね。それと、人間的な考え方は、時にサタンに味方してしまうこともある、ということだよね。世の考え方をきっぱり退けた、とは都合の良い拡大解釈だよ。
最初で、すでにオカシイことになっちゃってるから、もにょもにょした気持ちで読み進めることになる・・・はぁ・・・。
3節も4節も意味が分からない。ここに出てくる「神の考え方」「世の考え方」の定義って何? それが分からないと「自分の考え方」がどっちに属するのかも分からないよ。
5節の脚注は、マインドコントロールの正当化かな。
で、7節の親子の例えは、いわゆる世の親のことだよね?・・とすると世の考え方を肯定してるってことになるよね。矛盾してる。「正直であること、よく勉強したり家の手伝いをしたりすること、人を思いやること」って良いことばっかり例に出してるけど、「誕生日を祝わないこと、集会や伝道に行くこと」などなどエホバの証人の親が子どもに教えてることを、どうしてここで書かないんだろうねぇ。
13節。「エホバはご自分の考え方をわたしたちに押しつけたりはされません。忠実で思慮深い奴隷も長老たちもそうです」とある。
え~っと・・・この記事がもう押しつけになってるんですけどね。よくもまぁいけしゃあしゃあと書けるよね、こんなこと。次の副見出しで書くことが押し付けだって分かってるから、先に自己弁護しとこうって感じかな。
14~19節は読む価値ありません。すべて良心に基づいて決めるべきことです。読むと良心が歪みます。マインドコントロールされます。
他にも突っ込みたいとこいっぱいあるんだけど、あり過ぎて上手く文章に出来そうもないので、このくらいにしておきます・・・最後に一言、この研究記事は最悪です。
読んでると頭の中がぐちゃぐちゃになっていく感じ。決めつけと矛盾と押し付け。どこから突っ込んだらいいのか・・・
う~ん・・・組織が信者をマインドコントロールしてる、ということへの反論なんだろうなぁ。でも実際マインドコントロールしてるから、論理が破たんしちゃって訳分からない文章になっちゃってるんだろうなぁ。
流れとしては・・・世の考え方を愚かだと全面否定し、エホバ(つまり組織)の考え方が優れていてためになると一部証拠付けた上で、組織(つまりエホバ)の考え方を述べて、どちらを選ぶかと迫る。エホバを選べば、結果、組織にマインドコントロールされる、という仕組み。
うんざりだ。
ものみの塔研究って聖書の研究じゃないんだな、ってことはよく分かった。
まず1,2節。ペテロの言葉「ご自分を大切になさってください。あなたは決してそのような運命にはならないでしょう」(マタイ16:22)。
他の訳では「とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」「とんでもない・・あなたにそんなことが起こってはなりませぬ」などとなってる。
「ご自分を大切になさってください」って、いったいどこから出て来た訳なのか・・・本文には「ペテロに対する言葉から分かるように、イエスはエホバの考え方を受け入れ、世の考え方をきっぱりと退けました」とある。これを言いたいがために、都合良く訳したとしか思えない。
この聖書の文脈で、イエスが「世の考え方をきっぱり退けた」なんて読み取るって、そう教えられてない限りあり得ないと思う。普通に考えれば、人間的にイエスを大切に思う気持ちよりも、神のお考えの方が優先されるんだ、って意味だよね。それと、人間的な考え方は、時にサタンに味方してしまうこともある、ということだよね。世の考え方をきっぱり退けた、とは都合の良い拡大解釈だよ。
最初で、すでにオカシイことになっちゃってるから、もにょもにょした気持ちで読み進めることになる・・・はぁ・・・。
3節も4節も意味が分からない。ここに出てくる「神の考え方」「世の考え方」の定義って何? それが分からないと「自分の考え方」がどっちに属するのかも分からないよ。
5節の脚注は、マインドコントロールの正当化かな。
で、7節の親子の例えは、いわゆる世の親のことだよね?・・とすると世の考え方を肯定してるってことになるよね。矛盾してる。「正直であること、よく勉強したり家の手伝いをしたりすること、人を思いやること」って良いことばっかり例に出してるけど、「誕生日を祝わないこと、集会や伝道に行くこと」などなどエホバの証人の親が子どもに教えてることを、どうしてここで書かないんだろうねぇ。
13節。「エホバはご自分の考え方をわたしたちに押しつけたりはされません。忠実で思慮深い奴隷も長老たちもそうです」とある。
え~っと・・・この記事がもう押しつけになってるんですけどね。よくもまぁいけしゃあしゃあと書けるよね、こんなこと。次の副見出しで書くことが押し付けだって分かってるから、先に自己弁護しとこうって感じかな。
14~19節は読む価値ありません。すべて良心に基づいて決めるべきことです。読むと良心が歪みます。マインドコントロールされます。
他にも突っ込みたいとこいっぱいあるんだけど、あり過ぎて上手く文章に出来そうもないので、このくらいにしておきます・・・最後に一言、この研究記事は最悪です。