前章に引き続き、イエスはこれから起こることに弟子たちを備えさせ、励まされる。
イエスが去って聖霊が来るのは益となる。聖霊は、罪と義と裁きに関する世の誤りを暴き、真理を明らかにし、イエスの栄光を表わす。イエスの復活によって、使徒たちの悲嘆は喜びに変えられ、その喜びはイエスの名によって求めるなら受けることで満ちる。イエスは世に勝利されたのだから、患難があっても勇気をもって立ち向かいなさい。
2節。「あなた方を殺す者がみな、神に神聖な奉仕をささげたのだと思う時が来ようとしている」
律法には偶像礼拝者や偽りの預言者を殺すようにとある。この律法ゆえに過去にも本当の預言者が殺されたりした。イエスも弟子たちも迫害されて殺されることにもなった。(イエスはご自分を信じない人々を糾弾されたけど、殺しはしなかった)
人は何が真実かを見誤ることが多々ある。統治体だってそう。新しい見解が出る度に、それが本当に神聖な奉仕なのかどうか、鵜呑みにしないで自分でよく考えないとね。
8節。「(聖霊は)罪に関し、義に関し、裁きに関して、納得させる証拠を世に与える」
この訳だと意味がよく分からないけど、「納得~」の部分が他の訳では、「世の人の目を開く」「世の誤りを明らかにする」「この世に誤りを認めさせる」などとなっていて、なるほどと思った(原語はもっと強く「世を糾す」「世を暴く、断罪する」の意)。
罪も義も裁きも、イエスの教えの本質を成す問題で、これから起きるイエスの贖いにすべて繋がってる事柄。イエスの贖いに信仰を働かせること(罪に関して)。イエスが復活されて天で王となられご自分の民を義と宣すること(義に関して)。イエスがサタンに勝利し死を無に帰せしめたこと(裁きに関して)。
これから聖霊が明らかにしてゆくこれらの真理(弟子たちの書簡による)は、律法による罪や義や裁きを信じてた世の誤りを暴くことになった。さらにそれは、14節にあるように「イエスの栄光を表わす」ことにもなった。
でもまだこの時には、弟子たちは何にも理解してなかったんだよね・・・・イエスはいなくなりそうだし、自分たちは殺されそうだしで、動揺してます。イエスは「あなた方の悲嘆は喜びに変えられる」と保証し、イエスの名によって「求めなさい。そうすれば受けます。あなた方の喜びが満ちるためです」と約束される。
過去の神の民の祈りは直接神に捧げられたけど、クリスチャンはイエスの名によって祈り求めることになった。(国民や組織に属することではなく)イエスだけが神への道。
27節。「父の代理者として来た」
代理者なんて言葉は他の聖書にはない。「父のところから出てきた」「神の御許から来た」「神からの出」「神のもとから出てきた」などとなってる。17:8にも代理者ってあるけど、あからさまにひどい意訳。これでいいのか新世界訳。
31節。「今のところ信じているのですか」
英語ではat lastが使われてるので、前節の弟子たちの信仰告白を受けて、やれやれ今やっと信じるのかい、という感じかなw。印象が違うよね。イエスは弟子たちの信仰告白を喜んではいただろうけど、弱さを知っていたのでこの先の弟子たちの行動を預言し、負けてしまわないようにさらに励ましを与えた。
33節。「勇気を出しなさい! わたしは世を征服したのです」
カッコイイ言葉で大好きな聖句なんだけどぉ・・・まずこのビックリマークは付け足しだよね。当時こんなマークはない。それと、「世を征服した」というより「すでに世に勝っている」という方が正しいみたいだね。
・・・感情に訴えるにはいい場面ではあるけど、こういう訳し方は如何なものかと。自分、すっかりダマされてましたよ・・・なんだかなぁ。
イエスがこれらのことを語ったのは、弟子たちが患難にあってもイエスによって平安を得るため。
今は、イエスもおられず、当時のような聖霊もないけど、聖書がある。聖書からイエスによる平安を得ることができる。なので、出来るだけ正確な意味をつかむためにも、新世界訳だけじゃなく、様々な聖書を比較することって必要ですね。
イエスが去って聖霊が来るのは益となる。聖霊は、罪と義と裁きに関する世の誤りを暴き、真理を明らかにし、イエスの栄光を表わす。イエスの復活によって、使徒たちの悲嘆は喜びに変えられ、その喜びはイエスの名によって求めるなら受けることで満ちる。イエスは世に勝利されたのだから、患難があっても勇気をもって立ち向かいなさい。
2節。「あなた方を殺す者がみな、神に神聖な奉仕をささげたのだと思う時が来ようとしている」
律法には偶像礼拝者や偽りの預言者を殺すようにとある。この律法ゆえに過去にも本当の預言者が殺されたりした。イエスも弟子たちも迫害されて殺されることにもなった。(イエスはご自分を信じない人々を糾弾されたけど、殺しはしなかった)
人は何が真実かを見誤ることが多々ある。統治体だってそう。新しい見解が出る度に、それが本当に神聖な奉仕なのかどうか、鵜呑みにしないで自分でよく考えないとね。
8節。「(聖霊は)罪に関し、義に関し、裁きに関して、納得させる証拠を世に与える」
この訳だと意味がよく分からないけど、「納得~」の部分が他の訳では、「世の人の目を開く」「世の誤りを明らかにする」「この世に誤りを認めさせる」などとなっていて、なるほどと思った(原語はもっと強く「世を糾す」「世を暴く、断罪する」の意)。
罪も義も裁きも、イエスの教えの本質を成す問題で、これから起きるイエスの贖いにすべて繋がってる事柄。イエスの贖いに信仰を働かせること(罪に関して)。イエスが復活されて天で王となられご自分の民を義と宣すること(義に関して)。イエスがサタンに勝利し死を無に帰せしめたこと(裁きに関して)。
これから聖霊が明らかにしてゆくこれらの真理(弟子たちの書簡による)は、律法による罪や義や裁きを信じてた世の誤りを暴くことになった。さらにそれは、14節にあるように「イエスの栄光を表わす」ことにもなった。
でもまだこの時には、弟子たちは何にも理解してなかったんだよね・・・・イエスはいなくなりそうだし、自分たちは殺されそうだしで、動揺してます。イエスは「あなた方の悲嘆は喜びに変えられる」と保証し、イエスの名によって「求めなさい。そうすれば受けます。あなた方の喜びが満ちるためです」と約束される。
過去の神の民の祈りは直接神に捧げられたけど、クリスチャンはイエスの名によって祈り求めることになった。(国民や組織に属することではなく)イエスだけが神への道。
27節。「父の代理者として来た」
代理者なんて言葉は他の聖書にはない。「父のところから出てきた」「神の御許から来た」「神からの出」「神のもとから出てきた」などとなってる。17:8にも代理者ってあるけど、あからさまにひどい意訳。これでいいのか新世界訳。
31節。「今のところ信じているのですか」
英語ではat lastが使われてるので、前節の弟子たちの信仰告白を受けて、やれやれ今やっと信じるのかい、という感じかなw。印象が違うよね。イエスは弟子たちの信仰告白を喜んではいただろうけど、弱さを知っていたのでこの先の弟子たちの行動を預言し、負けてしまわないようにさらに励ましを与えた。
33節。「勇気を出しなさい! わたしは世を征服したのです」
カッコイイ言葉で大好きな聖句なんだけどぉ・・・まずこのビックリマークは付け足しだよね。当時こんなマークはない。それと、「世を征服した」というより「すでに世に勝っている」という方が正しいみたいだね。
・・・感情に訴えるにはいい場面ではあるけど、こういう訳し方は如何なものかと。自分、すっかりダマされてましたよ・・・なんだかなぁ。
イエスがこれらのことを語ったのは、弟子たちが患難にあってもイエスによって平安を得るため。
今は、イエスもおられず、当時のような聖霊もないけど、聖書がある。聖書からイエスによる平安を得ることができる。なので、出来るだけ正確な意味をつかむためにも、新世界訳だけじゃなく、様々な聖書を比較することって必要ですね。
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