聖なる書物を読んで

現役JW29年目

フィリピ (2)

2019-07-06 | 聖書
新世界訳改訂版 フィリピ4:11後半~13。
「私はどんな状況にいても満足する、ということを学びました。貧しい生活も、豊かな生活も知っています。満たされているときも飢えているときも、物がたくさんあるときも少ししかないときも、常にあらゆる状況でやっていく秘訣を学びました。力を与えてくださる方のおかげで、私は強くなり、どんなことも乗り越えられます」

ここだけを取り出すと、ホントに良い聖句ですよね。これを用いて話を作るとしたらどんな話になるか、あるいは、どんな状況の場合にこの聖句を適用できるか・・・といった具合に、組織は聖書を用いる際、こんな風に聖句を切り取って、都合良く話を作ったり、状況に適用させて教えたりする、という方法をとっています。個人で黙想する時も同様だと思います。

でも、実際のところパウロがどんな話の中でこの聖句を書いたのかを考える(つまり文脈を把握し言葉のチョイスを考える)と、その聖句の用い方や適用の仕方がいかに間違っているかがよくわかるんですよ。

4:10~18でパウロは、フィリピの信者たちがローマで拘禁生活を送っている自分を心配して、援助資金を送ってくれたことについて書いているのだ、ということを念頭に置いて読むと・・・見える景色が全く違ってくるんですよね。

自分で説明できればいいのだけれど、上手く書けないので、またまた田川氏の「新約聖書 訳と註」パウロ書簡②から引用させて頂きます~

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(13節)・・略・・それにしてもパウロという人物のひねくれ方はたいしたものである。拘禁生活で困っているのだろうと察して、フィリポイの信者たちがわざわざ使者に託しておそらくかなり多額の援助資金を送ってくれた。それなら、素直に感謝して、どうも有難う、おかげさまで助かります、と言えばいいのに、俺は欠乏することにも処していける免許皆伝なんだから、金がなくても困らないよ、と宣言するのだから、お礼の言い方も知らないひねくれ方である。もう少し謙虚になれよ。

(14節)・・略・・私にとっては金なぞなくてもどうということはないが、それはむしろ、あなた方が私の困難にあずかるという結構なことをおやりになったのだから、あなた方にとってよかったではありませんか、というのである。

(15節)・・略・・しかし事実としては「贈与授与」の相互関係ではないので、一方的にパウロが援助資金をもらっただけの話である。こんなややこしいもってまわった言い方をしないで、もう少し素直に、あの時もまた援助して下さって有難う、と言えばいいのに。

(17節)・・略・・あなた方は最後の審判に際して、偉大な使徒パウロの困窮を助けたという「成果」があなた方の貸し方の欄に算入してもらえるよ、という言い方。私が金を欲しかったわけではない。ただ、あなた方が金を送ってくれたのは、あなた方自身にとって、パウロ様のお役に立ったというので、最後の審判の時に役に立つだろ、というのである。これだけ世話になったくせに、逆に恩を着せようというのだから、人間、そこまでつけあがっちゃいけないよ。フィリポイ人たちは、多分、そんな見返りなど求めずに、単に困っている人を助けようという純粋な気持から資金援助しただけなのだろうに。

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以上、同じ聖句を読んでいても、こんなにも違うという。

新世界訳は、なるべく説教として教え易いように、信仰を鼓舞するように、パウロが聖霊(聖なる力!)を受けて神の言葉を語っているように、と意識して(意)訳しているのでしょうけど、それでも読めばこうしたことをうすうす感じることができます。(田川訳だとパウロのこうした高飛車な感じが分かり易いです)

結局、パウロの言葉も教理に都合良く解釈され訳されてきたということで。

これが人間の仕業だとしたら、どこまでが神の意図されたことなのか・・・なんだか訳が分からなくなってきます。

こんな面倒臭いことは何にも考えず、組織に言われるままに信仰をはぐくんでいければ、ある意味幸せなんだろうなぁ、なんて思っちゃいますね。・・・でも、そうはなりたくないな。


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