聖なる書物を読んで

現役JW29年目

フィリピ3:14

2019-10-01 | 聖書
フィリピ3:14の聖句が、今週の研究記事の1節に引用されてます。

「ゴールを目指してひたすら走(り)」とあったので・・・ん? ゴールを目指して? ゴールなんて言葉あったっけ? と思い、訳の比較をしてみました。

新世界訳「神からキリスト・イエスを通して天に招かれるという賞を得られるよう、ゴールを目指してひたすら走っています」
口語訳 「目標を目指して走り、キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与を得ようと努めているのである」
新共同訳「神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです」
新改訳 「キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目指して一心に走っているのです」
田川訳 「目標へと向かっているのである。キリスト・イエスにおける神の上方への招きという賞を目指して」

どうやら「目標」という語を「ゴール」に置き換えたみたいですね。「賞」を「栄冠」と訳した新改訳も独特だなぁと思いますが(ちなみに「賞」と訳されてる語は競技における賞品を示す語)・・・新世界訳は独特過ぎちゃってます。どう考えても「目標」という語には「ゴール」という意味はないでしょう。完全に意訳です。(改訂版じゃない新世界訳は「ゴール」じゃなく「目標」でした)

あと余談ですが、新世界訳の「天に招かれる」という訳し方も、自分たちが主語になってて特権意識丸出しな感じでイヤですね。ここは神が主語でしょうに・・・

パウロはエラそうな表現もいっぱいあるけど、自分や人間ではなくて常に神中心の考え方の人。人間が自らの行動によって神からの賞を勝ち取るなんていう考え方はしない。神が与えてくださる賞は人間がどうこうできるようなそんな軽いもんじゃなく、ただ神のご意思ご親切による恵み。

だからといって人間の側が何もしなくていいというわけではないので、どういう思いや姿勢でいる必要があるか、あるいはどんな行動をとる必要があるかを、くどくどと書いてしまうわけで。そうなると自己矛盾が生じて。パウロもそのあたり、どうしようもなかったんだろうなぁ・・・

さて、この「ゴール」という語、今週の研究記事の中になんと・・・10回も出てきました!(あ、写真のキャプチャーにも1個あったw)
「ゴールを目指して」「ゴールを意識して」「ゴールに到達」などなど。(ゴール!ゴーール!ゴ~~~~~ル!!・・・ってサッカーかっw)

二つの世代の新解釈によって終わりが先延ばしになってしまったものだから、信者たちになんとか終わりを意識させようとサブリミナル効果でも狙ってるのかなw。

以前だったら書かれていたであろう「もうすぐゴール」とか「ゴールは間近」とかいう直接的な言葉はなく。(おそらく書き手も終わりが近いなんて書けないんでしょうね)
ゴールを意識させるんなら、すぐそこだとか目前だとかいう方が断然いいのに。

で、終わりが近いと思わせる部分としては、17節に「最後の直線コースを全力で駆ける走者のように」と、あくまで全力疾走の例えとして出て来ただけでした。

でも、この「ゴール」という言葉と、ただ単に例えとして出て来た部分だけを頼りに、自分たちが今いるのは最後の直線コースなんだ、よ~し全力でゴールするぞ~、と勘違いしちゃう信者が多いんだろうなぁ・・・組織もそう思わせるのが目的なんだろうな。


では、また。


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