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聖なる書物を読んで

現役JW29年目

ローマ人への手紙4~6章

2019-02-13 | 聖書
4,5章は、1~3章の本論を旧約聖書のアブラハムやアダムから論証しようとし、6章は、救いと罪との関係を論じている。

4章では、前章までの「信」が「神の信実」を強調していたのに、ここでの「信」はアブラハムが神に抱いた「信頼(信仰)」に取って代わってしまっている。

4:12。新世界訳「それで、彼(アブラハム)は割礼のある子孫の父ですが、割礼を堅く守る者たちに対してだけでなく、無割礼の状態にありながら、わたしたちの父アブラハムが持ったあの信仰の足跡にそって整然と歩む者たちに対しても父なのです」。
田川訳では「彼はまた割礼の父祖でもあるが、それは、単に割礼出身であるだけでなく、我らの父祖アブラハムが無割礼であった時の信の足跡を歩むことする者たちに対してそうなのである」。

パウロは前節までで、アブラハムが信仰によって義とみなされたのは無割礼の時だったから、無割礼でも信仰によって歩む者の父でもあり、彼らも義とみなされるんだよ、って言ってる。この節では、アブラハムを父とするユダヤ人でも、割礼を堅く守るだけでなく信仰によって歩んでいる者たちの父なんだよ、ってことなんだね。新世界訳だと分かり難いけど、こう読むと文脈にすんなり入る。パウロはきっと、割礼や律法に縛られてる同族を救いたかったんだろうなぁと。ローマ人に宛てた手紙なのにね。

5:10。パウロの救済論。キリストの死は過去の出来事で、それによって義とされ神と和解できたのもすでに成立した過去の出来事であり、それは終末時(未来)に救われることの確かな保証となっているのだから、安心しなさい。

6:18。罪の奴隷が自由にされて義の奴隷となる。矛盾した表現を用いて深い真理のように見せかける説教。パウロはこういう話し方が得意だったんだろうな。


さて、ワークブックに突っ込みます。

●「神は・・ご自身の愛をわたしたちに示しておられる」の話。

「お名前を立証する」と本文にあるけど、この表現、ころころ見解が変わってるんだね。お名前は「神聖なものとされる」のが正しい、ということで、歌の本が代わった理由にもなってたのに、やっぱりみ名も「立証される」でいいってことになったんだね。なんだかなぁ・・・。

「贖いという贈り物に対する感謝をどのように表わせるか」と、また脅迫されてますね~こわいこわい。このあたりの文脈(5:8~21)を追って、贖いという贈り物とはどんなものなのか、をじっくり考えた方がずーっと良いと思うんだけどなぁ。この組織は考えることではなく、行動することを求めるんだよなぁ。

●6:3~5。この組織の教義ありきの解釈。文脈をどう考えてもこれはダメでしょ。ここは、キリスト・イエスへのバプテスマを受けたってことは、自分の中の罪に支配されたからだはすでに死んだんだ(=死へのバプテスマ)ってことだよね。

●6:7。ここも文脈を考えると、組織の言うように「死ぬことで罪を償った」ということではなく、「死んでしまえば罪のからだは働かないから、もはや罪の奴隷ではない」あるいは「罪の支配下にあった者(=死んだ者)が、罪から解放された」、の意味だと思う。
6:23にあるように「罪の報いは死」だけど、死ねば罪が償われるわけじゃないんじゃないかなぁ。イエスの贖いだけが罪を取り去るものなんじゃないかなぁ・・・


(以上、田川氏の「新約聖書 訳と註」を参考にさせていただきました)


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