イエスは、復活されて40日間、弟子たちに現われた。そして弟子たちに「父が約束されたものを待つように」と言われて昇天された。それから10日後、ペンテコステの時に120人ほどの弟子たちが、聖霊で満たされる。(ヨエルの預言の成就と言われてることからも、使徒たちだけではなく、いつも集まっていた120人ほどが聖霊に満たされたんだろうと思う)
その10日間、弟子たちはひたすら祈り続ける。また、ペテロの言葉によってくじが引かれ、ユダの代わりにマッテヤが使徒とされる。
聖霊で「満たされる」というのは、「注がれる」よりずっと濃いニュアンス。聖霊でバプテスマを受けるのだから、水のバプテスマで浸水するように、全身聖霊に満たされる感覚なんだろう。もしかしたら、外側だけでなく内側も満たされるのかもしれない。
弟子たちの宣教は、そのような状態で行なわれた。それまでイエスが行なってきた業を、聖霊が弟子たちを通して行なうようにと、引き継がれたようなもの。「使徒たちの活動」とあるけれど、この記録は「聖霊の活動」の記録だとも言われている。
そう考えると、やっぱり今はそういう聖霊は働いていないんじゃないかと思う。少なくとも自分には。
だから宣教は、自分に聖霊が働いている、自分は聖霊に満たされている、と確信できる人に任せればいいんじゃないかなと思う。(もしいつか自分がそう確信できたら、宣教するようになるかもv)
3:15 イエスを「命の主要な代理者」と訳している新世界訳。
他の訳では「いのちの君」「命への導き手」「生命の導師」「命の先達」など。「命の先導者」「命の創始者」などの意味もある、とのこと。洞察には、ギリシャ語では「(命の)主要な指導者」を意味している、と。
代理者っていう表現は、復活も裁きもイエスが神の代理として行う、という教義に基づいた意訳だよね。
ペテロがここで言いたかったことは、単純に、イエスが命への導き手なんだよ、ってことだけなんじゃないかと。それを仰々しく、命の主要な代理者、なんて言葉を使うから、分かりにくいったらありゃしない。
新世界訳は分かりやすい、なんて言われてたけど、とんでもないですね。他の訳の方がよっぽど分かりやすい、ということに最近気がついた次第です。使徒たちの活動(使徒行伝)も、他の聖書を読んだ方がよく分かります。
その10日間、弟子たちはひたすら祈り続ける。また、ペテロの言葉によってくじが引かれ、ユダの代わりにマッテヤが使徒とされる。
聖霊で「満たされる」というのは、「注がれる」よりずっと濃いニュアンス。聖霊でバプテスマを受けるのだから、水のバプテスマで浸水するように、全身聖霊に満たされる感覚なんだろう。もしかしたら、外側だけでなく内側も満たされるのかもしれない。
弟子たちの宣教は、そのような状態で行なわれた。それまでイエスが行なってきた業を、聖霊が弟子たちを通して行なうようにと、引き継がれたようなもの。「使徒たちの活動」とあるけれど、この記録は「聖霊の活動」の記録だとも言われている。
そう考えると、やっぱり今はそういう聖霊は働いていないんじゃないかと思う。少なくとも自分には。
だから宣教は、自分に聖霊が働いている、自分は聖霊に満たされている、と確信できる人に任せればいいんじゃないかなと思う。(もしいつか自分がそう確信できたら、宣教するようになるかもv)
3:15 イエスを「命の主要な代理者」と訳している新世界訳。
他の訳では「いのちの君」「命への導き手」「生命の導師」「命の先達」など。「命の先導者」「命の創始者」などの意味もある、とのこと。洞察には、ギリシャ語では「(命の)主要な指導者」を意味している、と。
代理者っていう表現は、復活も裁きもイエスが神の代理として行う、という教義に基づいた意訳だよね。
ペテロがここで言いたかったことは、単純に、イエスが命への導き手なんだよ、ってことだけなんじゃないかと。それを仰々しく、命の主要な代理者、なんて言葉を使うから、分かりにくいったらありゃしない。
新世界訳は分かりやすい、なんて言われてたけど、とんでもないですね。他の訳の方がよっぽど分かりやすい、ということに最近気がついた次第です。使徒たちの活動(使徒行伝)も、他の聖書を読んだ方がよく分かります。
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