聖なる書物を読んで

現役JW29年目

使徒たちの活動4,5章

2018-11-20 | 聖書
聖霊で満たされた弟子たちは、癒しを行ないながら、エルサレムの神殿(ソロモンの柱廊)で宣べ伝える。

イエスの復活についての証しは、サドカイ人には特に鬱陶しいもの。それでサドカイ人の苛立ち(4:2)によってペテロとヨハネが捕えられる。

7節の「どんな権限で、まただれの名において、このことを行なったのか」は、申命記13:1~5節「しるしや不思議を行ない、他の神に仕えようと言う預言者は、殺されなければならない」という律法によって彼らを裁くための質問だったのだろう。

2人は、イエスが神の定めた救い主であることを、聖句を用いて巧みに答える。祭司長の中庭でイエスを3度も否認した時との違いたるや。これが聖霊の力なのかな。

13節の「無学な普通の人」に関しては、読み書きできなかったという可能性もあるとは思うけど、宗教学校に行ってなかったというものみの塔の解釈でもいいのかなと思う。

「この名によって語らぬように」という脅しに、2人は「自分の見聞きした事柄について話すのをやめるわけにはいかない」と答える。・・・そう、彼らは実際に自分で見たり聞いたりした事柄を宣べ伝えてたんだよね。それも、聖霊に満たされた状態で。今の自分とは全く違う。

そして、初期の弟子たちの生活の様子が描かれる。

祈り。(神が創造者であることを思うなら恐れる必要などない。聖書の言葉を思うなら物事の本質が見えて、神がすべてを支配しておられることが理解できる。聖霊を祈り求めるなら与えられる)

共有。(バルナバの善。アナニアとサッピラの偽善。集会から偽善=サタンを除くことが初期には特に必須だったのかも。初期のこの、規則や強制ではなく、善意による共同体が、本来のキリスト教の会衆なんだろうなと思う。エホバの証人もこれを目指してるんだろうけど、今の世では無理だよね。聖霊に満たされてないし、アナニアとサッピラものさばってるw)

さらに、信じる者が大ぜい加えられていく。

サドカイ派は(苛立ちを越え)ねたみに満たされて(5:17)、使徒たちを捕らえる。でもみ使い(サドカイ派は復活やみ使いを信じない)によって自由にされ、神殿で宣べ伝えているところを、サンヘドリンに連れて行かれる。

29節(32節も)の「(自分たちの)支配者として」という言葉は他の訳にはない。かっこいいけどね、ない言葉を加えちゃダメ。
この話の流れ(特に5章)の中でのポイントは、「人か神か」だと思う。4節でも「人にではなく神に対して虚偽の振る舞いをした」とあるし、この後に出てくるガマリエルも「人間からなら覆されるが神からなら覆すことはできない」と言っている。ここでも、「人間より神に従わねばならない」と。

「従わねばならない」と訳してるのと「従うべき」と訳してるのがある。ちょっとニュアンスが違うよね。ものみの塔は「ねばならない」が多くてうんざりする・・・

サドカイ人によって捕まった使徒たちを、解放するために立ち上がったのが、パリサイ人のガマリエルだったというのも興味深い。パリサイ人は復活を信じてたから。使徒たちがイエスの「復活」についての証人だったことがよくわかる。(ちなみにガマリエルの述べた2つの事例は、宗教的なものと政治的なものだった)


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