コリント②4:16「私たちは諦めません」が、今週末のものみの塔研究記事のテーマ。
新世界訳は「諦めません」だけど、口語訳や新共同訳は「落胆しません」となっており、田川訳は「さぼることをしない」。(面白いのは新改訳で「勇気を失いません」)。
田川氏の解説によると、元のギリシャ語は「怠惰でいる」を否定した表現だとか。(4:1にも同じ表現が出て来る)
ついでに聖句の後半の部分、新世界訳は「私たちの外面は衰えていくとしても」。
口語訳は「わたしたちの外なる人は滅びても」。新共同訳は「わたしたちの『外なる人』は衰えていくとしても」。田川訳は「外なる人は朽ちても」。
このギリシャ語も「衰える」ではなくて「朽ちる」の意。つまり、死んだら朽ちると言ってるだけ。
文脈を見るとパウロが言いたかったのは、死にかねない患難をしのいで宣教して回ってるけど、たとえ死んだ(朽ちた)としても、神は永遠の栄光へと、日々新たにされていく我々を蘇らせてくださるんだから、さぼったりしないよ~、って感じかな。
続く5章も地上の天幕(肉体)と天の永遠の家の話だし。
さて、研究記事に戻って。
この聖句の「諦めません」という言葉(しかも改竄訳)だけを切り取って、命の賞を目指す競争のテーマに当てはめるって、どうなん?・・・こういう用い方、ホントいやらしいよねぇ。こういう風に用いたいから改竄したんかい、って突っ込みたくなる。
普通に、パウロが競争やら賞やらに言及してる聖句を持ってくれば済むことなのに。本文には、コリント①9章24~27とかフィリピ3:12~14とか参照されてるんだし。
ところで、パウロって何気に競技好きだよね。走ることだけじゃなくて、拳闘も好きそう。コリント①9:26,7あたり。田川訳では「空を打たないような拳闘をする。自分の身体に的確にパンチをくらわして、従わせる」って。
自分は、拳闘は好きじゃないから、読んでてあんまりいい気分にはならない表現。
まぁ、神の言葉とはいえ、人間が書いてるんだしね。どうかと思うような表現がいっぱいあったんだろうけど、うまいこと改竄したり意訳したりして、神の言葉に相応しく書き直されてきたんだろうなぁ・・・なんて思ったり。
では・・続きはまた。
新世界訳は「諦めません」だけど、口語訳や新共同訳は「落胆しません」となっており、田川訳は「さぼることをしない」。(面白いのは新改訳で「勇気を失いません」)。
田川氏の解説によると、元のギリシャ語は「怠惰でいる」を否定した表現だとか。(4:1にも同じ表現が出て来る)
ついでに聖句の後半の部分、新世界訳は「私たちの外面は衰えていくとしても」。
口語訳は「わたしたちの外なる人は滅びても」。新共同訳は「わたしたちの『外なる人』は衰えていくとしても」。田川訳は「外なる人は朽ちても」。
このギリシャ語も「衰える」ではなくて「朽ちる」の意。つまり、死んだら朽ちると言ってるだけ。
文脈を見るとパウロが言いたかったのは、死にかねない患難をしのいで宣教して回ってるけど、たとえ死んだ(朽ちた)としても、神は永遠の栄光へと、日々新たにされていく我々を蘇らせてくださるんだから、さぼったりしないよ~、って感じかな。
続く5章も地上の天幕(肉体)と天の永遠の家の話だし。
さて、研究記事に戻って。
この聖句の「諦めません」という言葉(しかも改竄訳)だけを切り取って、命の賞を目指す競争のテーマに当てはめるって、どうなん?・・・こういう用い方、ホントいやらしいよねぇ。こういう風に用いたいから改竄したんかい、って突っ込みたくなる。
普通に、パウロが競争やら賞やらに言及してる聖句を持ってくれば済むことなのに。本文には、コリント①9章24~27とかフィリピ3:12~14とか参照されてるんだし。
ところで、パウロって何気に競技好きだよね。走ることだけじゃなくて、拳闘も好きそう。コリント①9:26,7あたり。田川訳では「空を打たないような拳闘をする。自分の身体に的確にパンチをくらわして、従わせる」って。
自分は、拳闘は好きじゃないから、読んでてあんまりいい気分にはならない表現。
まぁ、神の言葉とはいえ、人間が書いてるんだしね。どうかと思うような表現がいっぱいあったんだろうけど、うまいこと改竄したり意訳したりして、神の言葉に相応しく書き直されてきたんだろうなぁ・・・なんて思ったり。
では・・続きはまた。
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