今回も田川建三氏の「新約聖書 訳と註」(パウロ書簡2)を参照、引用させていただきました。
12章。
1節。新世界訳「理性による神聖な奉仕」。直訳では「理性的(ロゴス的)な仕えること」(「霊的」とは違う)。古代人の考え方は、「理性」とは本質的には神の事柄であり、人間が神に対して取るべき態度は理性的でなければならない、というものだった。だからパウロは、取るべき態度としてこの語を用いただけで、今の日本語にあるような意味で用いているのではない。
3節。新世界訳「自分に与えられた過分のご親切」。1節同様、パウロは自分が神から特別な恵みを与えられた権威ある存在だと思い込み、神になりかわって教えているのだ、と思い上がっている。初期の手紙のテサロニケ①4:10,5:14の呼びかけは複数で言っているのに、ここでは1人称単数になり、パウロ個人が神をこの世で代表してるつもりになっている。
3節。新世界訳「自分のことを必要以上に考えてはなりません」。字義「思うべきことを越えて思ってはならない」。解釈として「自分を過大評価してはなりません」という訳が広まっているけど、パウロがこの表現で何を意味しているのかは分からない。解釈を訳に持ち込むべきではない。
新世界訳「健全な思いを抱けるような考え方をしなさい」。「健全な思い」の原語は、ギリシャの倫理思想の最重要概念のひとつで、死すべき人間がその則を越えて思い上がらない、という趣旨で用いられる。パウロは「思うべきことを越えて思う」の反対語としてこれを用いている。
パウロは3節で「思う」という語の単語遊びをやっている。名詞の「思い」は「横隔膜」のことで、ギリシャ人は横隔膜を人間の思いを司る内臓だと思っていた。
3節。新世界訳「神が各々に信仰を分け与えてくださったところに応じ」。個々の信者が持つ「信仰」のことではない。神がある者には大きな信仰を、他の者には小さな信仰を与えることはない。パウロにとって、個々の信者の違いは彼らが成す働きであって、「信」はすべての信者に共通する事柄。なのでここは、信者として何をどのように考えるのが正しいかという物差しを、神がそれぞれ皆に同じ「尺度」を与えてくれた、という意味。
8節。新世界訳「惜しみなく(分け与え)」。この語に「惜しみなく」の意味はない(教会に寄付すること、と解釈したための訳)。この語は「純粋な心で」の意(慈善行為は見返りを期待せずに、ということ)。
9節。新世界訳「愛を偽善のないものにしなさい」。原文は「愛(主語)非偽善的(形容詞)」。表題として「愛は偽善的ではない」と宣言した後、この章の終わり(ないし14節)まで具体例を列挙している構文、とも考えられる。
11節。新世界訳「エホバ(主)に奴隷として仕えなさい」。パウロにとって神に仕えるのは根本的なこと。ここでは倫理、宗教実践などの諸項目の一つとして言われているので、ここの「主」は奴隷に対する主人とも考えられる。
13節。新世界訳「聖なる者たちと、その必要に応じて分け合いなさい。人をもてなすことに努めなさい」。パウロは、一般の貧しい人、ではなく、信者の中の貧しい人、に話を限定して書いている。パウロは内部のことしか考えない人だった。当時のキリスト教徒が貧しい人を助け寄留者の世話をした(基本のあり方)のは、クリスチャン相手に限られない。
13章。
1~7節。パウロは、国家権力、政治権力は絶対的な善であり、絶対的に従わなければならないと言っている。教会が国家権力との結びつきを自己弁護するために、この部分が引用されてきた。(王権神授説)
生まれながらローマの市民権を持っていたパウロは、ローマ帝国の権力を有難がっていた。
1節。新世界訳「相対的な」。教義による付け足しの語。付け足しなのに括弧もついてないというヒドイ訳。パウロの文がこのままじゃ都合が悪いからと、自分たちの教義を優先して勝手に改竄しちゃダメでしょ。
6節。新世界訳「彼らは、まさにこのために絶えず奉仕する神の公僕だからです」。直訳「彼らがこのことに固執するのは神の仕え手としてなのだ」。あなた方は彼らが税金に固執していると言うけど、それは神の仕え手としての責任を果たそうとしているからで、悪口を言ってはいけないよ、と諭している。
8節。前節で「税金を支配者に対して負っている」と言ったその「負う」という単語にひっかけて、ここで「愛以外の何ものも負うな」と、つながりのないことを並べて言うのがパウロの文章。愛以外負うなと言うのなら、国家権力者に尊敬(新世界訳では、誉れ)を負うわけにはいかないのに、パウロはその矛盾に気付かずヘタなレトリックを楽しんでいる。
13節。新世界訳「不義の関係」。原語の意味は、性行為のために床にはいること、ないし性行為そのもの。
14節。新世界訳「肉の欲望のために前もって計画するようであってはなりません」。直訳「肉の思いを満足させるために実行してはいけない」。「肉の思い」となるとすべての肉体的欲求(極端な禁欲主義)になるが、パウロはごりごりの性的禁欲主義者だから、実際は性欲のことだと思われる。
14章。
前回の記事をご覧くださいませ。(タイトル「すべての物は清いのです」)
聖書を、神の霊感を与えられた聖なる者が書いた神聖な本、という色眼鏡を外して、同じ人間が書いた普通の書物として読めば、解釈も随分違ったものになるんだろうな、とつくづく思う。
聖書って、書かれた初期から、色々な宗教的解釈が入り込んで、作り込まれてるみたいだし。確かに特異な本ではあるけれど、原本が残っているわけではないし、色んな解釈ができるし・・・どこまで真理として信じられるものなのか。
・・・ともかくも、この組織の聖書翻訳も解釈も、信じられないことだけは、確信できました。
12章。
1節。新世界訳「理性による神聖な奉仕」。直訳では「理性的(ロゴス的)な仕えること」(「霊的」とは違う)。古代人の考え方は、「理性」とは本質的には神の事柄であり、人間が神に対して取るべき態度は理性的でなければならない、というものだった。だからパウロは、取るべき態度としてこの語を用いただけで、今の日本語にあるような意味で用いているのではない。
3節。新世界訳「自分に与えられた過分のご親切」。1節同様、パウロは自分が神から特別な恵みを与えられた権威ある存在だと思い込み、神になりかわって教えているのだ、と思い上がっている。初期の手紙のテサロニケ①4:10,5:14の呼びかけは複数で言っているのに、ここでは1人称単数になり、パウロ個人が神をこの世で代表してるつもりになっている。
3節。新世界訳「自分のことを必要以上に考えてはなりません」。字義「思うべきことを越えて思ってはならない」。解釈として「自分を過大評価してはなりません」という訳が広まっているけど、パウロがこの表現で何を意味しているのかは分からない。解釈を訳に持ち込むべきではない。
新世界訳「健全な思いを抱けるような考え方をしなさい」。「健全な思い」の原語は、ギリシャの倫理思想の最重要概念のひとつで、死すべき人間がその則を越えて思い上がらない、という趣旨で用いられる。パウロは「思うべきことを越えて思う」の反対語としてこれを用いている。
パウロは3節で「思う」という語の単語遊びをやっている。名詞の「思い」は「横隔膜」のことで、ギリシャ人は横隔膜を人間の思いを司る内臓だと思っていた。
3節。新世界訳「神が各々に信仰を分け与えてくださったところに応じ」。個々の信者が持つ「信仰」のことではない。神がある者には大きな信仰を、他の者には小さな信仰を与えることはない。パウロにとって、個々の信者の違いは彼らが成す働きであって、「信」はすべての信者に共通する事柄。なのでここは、信者として何をどのように考えるのが正しいかという物差しを、神がそれぞれ皆に同じ「尺度」を与えてくれた、という意味。
8節。新世界訳「惜しみなく(分け与え)」。この語に「惜しみなく」の意味はない(教会に寄付すること、と解釈したための訳)。この語は「純粋な心で」の意(慈善行為は見返りを期待せずに、ということ)。
9節。新世界訳「愛を偽善のないものにしなさい」。原文は「愛(主語)非偽善的(形容詞)」。表題として「愛は偽善的ではない」と宣言した後、この章の終わり(ないし14節)まで具体例を列挙している構文、とも考えられる。
11節。新世界訳「エホバ(主)に奴隷として仕えなさい」。パウロにとって神に仕えるのは根本的なこと。ここでは倫理、宗教実践などの諸項目の一つとして言われているので、ここの「主」は奴隷に対する主人とも考えられる。
13節。新世界訳「聖なる者たちと、その必要に応じて分け合いなさい。人をもてなすことに努めなさい」。パウロは、一般の貧しい人、ではなく、信者の中の貧しい人、に話を限定して書いている。パウロは内部のことしか考えない人だった。当時のキリスト教徒が貧しい人を助け寄留者の世話をした(基本のあり方)のは、クリスチャン相手に限られない。
13章。
1~7節。パウロは、国家権力、政治権力は絶対的な善であり、絶対的に従わなければならないと言っている。教会が国家権力との結びつきを自己弁護するために、この部分が引用されてきた。(王権神授説)
生まれながらローマの市民権を持っていたパウロは、ローマ帝国の権力を有難がっていた。
1節。新世界訳「相対的な」。教義による付け足しの語。付け足しなのに括弧もついてないというヒドイ訳。パウロの文がこのままじゃ都合が悪いからと、自分たちの教義を優先して勝手に改竄しちゃダメでしょ。
6節。新世界訳「彼らは、まさにこのために絶えず奉仕する神の公僕だからです」。直訳「彼らがこのことに固執するのは神の仕え手としてなのだ」。あなた方は彼らが税金に固執していると言うけど、それは神の仕え手としての責任を果たそうとしているからで、悪口を言ってはいけないよ、と諭している。
8節。前節で「税金を支配者に対して負っている」と言ったその「負う」という単語にひっかけて、ここで「愛以外の何ものも負うな」と、つながりのないことを並べて言うのがパウロの文章。愛以外負うなと言うのなら、国家権力者に尊敬(新世界訳では、誉れ)を負うわけにはいかないのに、パウロはその矛盾に気付かずヘタなレトリックを楽しんでいる。
13節。新世界訳「不義の関係」。原語の意味は、性行為のために床にはいること、ないし性行為そのもの。
14節。新世界訳「肉の欲望のために前もって計画するようであってはなりません」。直訳「肉の思いを満足させるために実行してはいけない」。「肉の思い」となるとすべての肉体的欲求(極端な禁欲主義)になるが、パウロはごりごりの性的禁欲主義者だから、実際は性欲のことだと思われる。
14章。
前回の記事をご覧くださいませ。(タイトル「すべての物は清いのです」)
聖書を、神の霊感を与えられた聖なる者が書いた神聖な本、という色眼鏡を外して、同じ人間が書いた普通の書物として読めば、解釈も随分違ったものになるんだろうな、とつくづく思う。
聖書って、書かれた初期から、色々な宗教的解釈が入り込んで、作り込まれてるみたいだし。確かに特異な本ではあるけれど、原本が残っているわけではないし、色んな解釈ができるし・・・どこまで真理として信じられるものなのか。
・・・ともかくも、この組織の聖書翻訳も解釈も、信じられないことだけは、確信できました。
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