聖なる書物を読んで

現役JW29年目

生き残る人

2018-07-11 | エホバの証人
エホバの証人以外は皆、滅ぼされるんだっけ・・?

そうではなかったような気がするけど・・明言されてたっけ・・?

自分は、こう思ってた。

誰が生き残るかは、全ての心をご存知なエホバが決定されること。
だから、エホバの証人であっても滅ぼされる人はいる。
エホバの証人じゃなくても、エホバの目にかなった人は生き残る。

大切なのは、神を知って、イエスの贖いに信仰を働かせ、
イエスの弟子として、ご意思に沿った生き方をすること。

そのご意思というものが、
この組織によると、いわゆる王国第一の生き方で。

生活は、集会、奉仕、個人研究、祈り・・・・
目標は、開拓奉仕、長老、巡回、べテル・・・・

やっぱり、組織のいう事はズレてる気がする。

一番大事なのは、心であって、その心から出てくる行いだと思う。
それが、集会、奉仕・・・・といった形で出てくるなら、アリだけど。
形だけで、心が伴わないなら、ナシだ。

心を成長させないで、行いばかり強調するから、ダメなんだと思う。
心を養う食物を、組織は全く提供していない。

・・自分も、話がズレた。

輸血

2018-07-10 | エホバの証人
自分としては、学ぶ前から輸血はNGだった気がする。
他人の血を入れることには、かなりの抵抗があったし。

もちろん、献血にもすごく抵抗があったから、したことはない。
日本は、献血だから人道的なイメージだけど、売血の国だってある。
実際、献血は無償なのに、輸血はかなり高額だっていうし。

クリスチャンへの、血を避けるように、という明確な命令。

自分は、輸血も当然含まれると思っている。

でもそれは、自分の良心的な問題であって、
そうは思わない人がいるなら、それはその人の良心でいいと思う。

ちなみに、自己血輸血(貯蔵含め)はOK。
分画も血液だと思えないのでOK。

献血しないのに、分画を受け入れるのは利己的だといわれるけど・・
献血してなくても、輸血受け入れてる人もいるだろうし・・
そこはどっちもどっちということで・・・・・・

良心

2018-07-10 | エホバの証人
組織的に言うと、いわゆる灰色の部分。

自分は、白黒つけたい性分だから、最初っから悩んでた部分。
良心だというのなら、すべて個人の良心でいいんじゃないかと思う。
(バプテスマとは、神に対して正しい良心を願い求めること)

でも、それでは組織として成り立たなくなるから、あれこれ決まりをつくる。

自分の良心と、組織の決まりが一致しないで、もやもやする時が一番困る。
聖書に明言されてないことまで白黒つけられ、個人の良心が傷つく。
(誕生日、乾杯、忌避、その他イロイロ)

決まりのように思わせといて、良心の問題です、って言われるのが灰色の部分。
でも自分の良心で決めると、やっぱり裁かれるから、忖度することになる。
また、個人の良心が傷ついていく。

そして、エホバ神に対する良心が、組織に対する良心になってることに、
気付かなくさせられる。
その狭間で悩んで、病気になったりもする。

エホバ神に対する良心は、善に向かっていくけど、
組織に対する良心は、だんだんと悪に傾いていくと思う。

組織と良心を両立させるのは難しい。

復活

2018-07-09 | 聖書
誰が復活するのか。

ヨハネ5:28 「・・記念の墓の中にいる者がみな、彼の声を聞いて出て来る時が来ようとしている・・」
ルカ7:14 ・・イエスは言われた、「若者よ、あなたに言います、起き上がりなさい!」
ルカ8:54 ・・「少女よ、起きなさい!」と言われた。
ヨハネ11:43 ・・イエスは大声で叫ばれた、「ラザロよ、さあ、出てきなさい!」

イエスの声に応じる者が復活してる。

ヨハネ10:4 「・・羊はあとに付いて行きます。彼の声を知っているからです」
ヨハネ18:37 「・・真理の側にいる者はみなわたしの声を聴きます」

イエスの声(真理)を知っている人は、その時、声を聞いて復活する。

でも、
イエスの声を知らないで死んだとしても、その時、その声に答え応じるならば、
復活するんじゃないかな。若者や少女のように。

罪の報いは死、死んだ者は自分の罪から放免されている。

死者すべて(聖霊に逆らった者以外)に、等しく、復活の機会があると信じたい。

真の命

2018-07-08 | エホバの証人
子どもの頃に父母から聞いた、凄惨な戦争体験。
毎日のように見聞きする、悲しい出来事、理不尽な死。

人はなぜ生まれてくるのか。生きる目的はなんなのか。
自分も、遅かれ早かれ確実に死ぬのに、なんで生まれてきたんだろうと、
子どもの頃からずっと、考えてた。
色々本も読んだりした。

でも、答えなんてわからないと思ったから、
毎日、それなりに幸せならいいや、自由に生きればいいや、
って感じで、まあまあ気楽に暮らしてた。
「ただ食べたり飲んだりしよう、明日は死ぬのだから」だった。

エホバ神を知って、
理不尽な死も、悲惨な出来事も、悪も苦しみも無くなる時が来ることを知って、
生きることに意味ができたと思った。
真の命を生きてみたいと思った。

だがしかし・・
エホバの証人としての生き方は、要求が多すぎて、束縛が多すぎて。
ちっとも自由じゃないし、いつも重荷に押しつぶされた。
頑張っては力尽き、頑張っては力尽き、の繰り返し。
頑張れてる間は、結構楽しかったりもしたんだけど・・
力尽きては、なんでこうなっちゃうのかなぁ、自分・・と。

組織がおかしかったんだ、って分かって楽になったけど、
これからどうするか、まだ考え中。

とりあえず、
「最善のこと、すなわち麗しいことは、まことの神が人にお与えになった命の日数の間、人が食べ、飲み、日の下で骨折って働くそのすべての骨折りによって良いことを見ることである。それがその人の分だからである」
というエホバ神からのアドバイスを、実行したいと思います。

ペット

2018-07-07 | 聖書
詩編50:10~12
森林の野生動物はどれもわたし(エホバ神)のものだからである。
千の山の上の獣も。
わたしは山々にいる翼のある生き物を皆よく知っており、
原野の動物の群れもわたしと共にいる。・・・
産出的な地とそこに満ちるものは、わたしのものだからである。

エホバ神を信じていない人には、この真理が理解できないんだろうな。

動物をぺットにすること自体が、歪んだ行為であるかもしれないのに。
人間の傲慢さの表われかもしれないのに。
地がエホバ神から離反した状態にあるから、神の目的から外れているから、
行われていることかもしれないのに。

人間は、生き物のサイクル含め、自然の法則をすべて理解しているわけではない。

可愛がっていたペットが死ぬのは、悲しいと思う。
それは、楽園であっても変わらないだろうと思う。
でも、それを人間の死と同じもののように捉えるのは、違うと思う。

聖書通読

2018-07-07 | エホバの証人
黙想しながら、少しずつ読んでも、全体像はつかめない。

分からないところが多々あっても、短期間で読み通すことを、
何回か繰り返すと、全体像がつかめてくる。
その間に、洞察や霊感など使って、人物や地図や背景なども調べる。

黙想は、それからでいいと思う。

読書百遍意自ずから通ず。
著者がエホバ神で、人間へのメッセージを伝えるものであるなら、
他人に頼らずとも、そのメッセージを受け取れるはず。

そうされては困るから、最初から黙想を勧めてる気がする。

統治体崇拝

2018-07-06 | エホバの証人
統治体=忠実で思慮深い奴隷

新たな光として、この教義が打ち出されたのが2013年。

それまでは、油そそがれた者たちが、霊的食物を分配する奴隷級として、
33年のペンテコステの時から任命されてきた、というものだった。
(自分はそう思ってたけど、違うかな)

でも、霊的検分がなされて、小麦が毒麦から分けられて、
1919年に、油そそがれた者たちの中から、奴隷が任命されたことになっちゃった。
(だから、ラッセル兄弟は、奴隷じゃないってことだ)

なんでこうなっちゃったのか?

まあ、終わりの日の預言の中で語られてる例え話だから、
ってこともあるんだろうけど・・でもそれは、1914年の教義ありきのことであって、
普通に読めば、いつ来るか分からないエホバの日に備えるように、
ということを強調するための例え話に過ぎないんじゃないかと思える。
霊的食物を分配する責任は、当時、イエスの言葉を聞いた弟子たちにはあったわけだし。

で、こんなことを考えてみた。

本部にほかの羊が増え、霊的食物の執筆を含め、
ほとんどの仕事を、ほかの羊が担うようになってきて、
このままでは、統治体の権威が危なくなると思い、
霊的食物を分配して、霊的に養っているのは、自分たち統治体なんだ、
と強調したかったのかも。
(最近の霊的食物は、ジャンクフードばかりで、食べたいと思えない)

世界中に、油そそがれた者たちが2万人弱もいるんだから、
その人たちを本部に迎えればいいのに。
それができてない時点でもう、なんのための油そそぎなのか。

でもって、少数の人を通して多くの人を養う、という教義も同時に打ち立て、
その少し後から、ブロードキャスティングを通して、統治体を視覚に印象付け、
結果として、統治体崇拝が推し進められてきた。

最初からそのつもりだったとしたら・・
そうではないと、信じたい。


この教義が出された頃から、組織はおかしな方向へ向かってる。
もっと前からかもしれないけど、少なくとも、自分のような者にまで、
不信感を抱かせるほど、おかしくなって来ているということで。

会衆

2018-07-05 | 聖書
ギリシャ語で、エクレーシア。

呼び集められた人々の集団。


新約聖書で、この語が「会衆」と訳されてるのは、

新世界訳だけかも・・

他は、教会とか、集会とか、集まりとかになってる。


イエス・キリストは、岩塊の上にエクレーシアを建てると言われた。


教義によると、この岩塊はイエス・キリスト。


確かに信仰の土台は、イエスだけど、

エクレーシアの土台は、ペテロだったのかも・・と思う。

イエスはペテロに、わたしの羊たちを養いなさい、と言われた。

使徒たちの初期の活動を読むと、まさにペテロは大活躍してる。

福音書でも、ペテロへの注目度は、半端ない。



も一つ。

教義によると、神のクリスチャン会衆とは、油そそがれた人たちのこと。


とすると、聖書中にある、会衆に関して書かれた事柄は、

すべて油そそがれた人たちへの言葉ということになる。


だとしたら、今、自分の属している会衆ってなんなのだろう。

1914年

2018-07-05 | エホバの証人
エホバの証人にとっては、教義の要となる大事な年。


諸国民に踏みにじられる期間が終わり、

キリストが即位され、王権を行使し始めた年。

まずは、サタンと悪霊たちを天から地へ落とし、天を清められた。

そして、地の神殿を検分に来られ、

エホバの証人(聖書研究者)を忠実な奴隷として任命された。


・・あれ?

油そそがれたのって、いつなんだろう?

すでにそそがれてたなら、検分の必要ないよね・・?

ま、いいや。


この1914年を算出する元となる、古代エルサレムの滅びが、

歴史の証拠によると、20年程後にずれているらしい。


自分としては、ずれてようがあってようが、正直どっちでもいい。

エホバの証人になる上で、そこが重要だったわけではないから。

自分んにとって、組織は、宣べ伝えるために必要な取り決め、

ただそれだけだったから。


重要だったのは・・

エホバ神を信じ、その信仰を基盤として、

道徳面や倫理面で、同じ価値観を持っていることだった。

初めて会った人でも、エホバの証人であれば、信頼できるという安心感。


実際、初めての大会に行く時には、司会者の姉妹に、

「財布も鞄も、座席に置きっぱなしにしといても大丈夫よ。

盗る人いないから」と言われ、驚いた。


少し経ってから、

会場にはエホバの証人じゃない人も来てるから、

貴重品は持ち歩くようにってなったけど・・


結構、盗難事件が報告されるようになったんだろうな。

でも、失礼な言い方だよね。

犯人はエホバの証人かもしれないのに。


最近では、エホバの証人であっても、道徳面や倫理面で、

裏表ある人がいっぱいいそうだから・・

信頼できなくなってきてる。


こんな組織じゃなかったはずなのに・・



・・そんなこんなで、

自分にとっては、1914年はどうでもいいという話でした。