小林秀雄の著作の中に、「写真」(原文は旧字体)という小文があります。
胸の振り子さんの話の中で小林の骨董についての作品である「真贋」についての記述があり、読み直したのですが、同じ全集の後ろの方にこの一文がありいい機会ですので、少しご紹介したいと思います。
小林がヨーロッパ旅行に行く際、NIKONの高級コンパクトカメラを貰いもって行った時のエピソードからはじまります。小林は記録の為に、最初は喜んで写していたのですが、置き忘れの名人であるため、当然最初に露出計、次に本体を紛失してしまいます。おかしいのが、最初に置き忘れた露出計を探していると、エジプトで撮った写真の一枚に、それが写っており、そこに置いてきたことが判明したのですが、流石に本体が写っている写真はなかったとのことです。紛失したことに対して小林は、それまでの機械に使われている自分を見出し、なにか開放された気分であったそうです。
その後、本文ではリアリズムと芸術についての論考に入って行きます。写真はフランスで発明され、写真の登場により肖像画家という職業がなくなって行きますが、印象派の画家達が目指した光の性質を描くことと、意外なことに写真は親和性があると述べています。ところが写真の持つリアリズムを前に、不確かな人の記憶による状況の記述に関しては、遥かに正確性が劣るため、特に小説の分野において、性格描写を多様する傾向となり、更に写真の後で登場した映画にその物語性も首位の座を奪われて行きます。映画を作る人にとっては、原作など小道具の一つに過ぎず、決して小説の反芻ではありません。そういった状況において、多くの小説家が将来映画化を望みながら本を書いているというおかしな状態になってきています。この小林の指摘は現在にも通じ、本物の大小説が戦後久しく無くなってきていることと、映像表現、ないし映像藝術との大きな関連があると思われます。
さて、長々と「写真」という文章を紹介してきましたが、最後に写真と藝術について、小林はこのように簡潔に述べています。つまり「表現するのは人間であり、機械ではない」ということです。これは写真家田中長徳氏の見解とは相容れないものですが、よく考えると、二人とも同じことを言っているのではないでしょうか。ピアニストはピアノという道具を使い、藝術表現行うのであって、機械であるピアノ自体は表現を行わない。表現をするための道具がどのように進化していっても、あくまでも表現を行うのは人です。現在でも写真は芸術かという論議があるようですが、その論議は虚しいものです。かつて五味康祐という人がレコード販売に関して、将来はどこのスタジオで録音されたものかということが重要になると予言していましたが、見事に外れています。聴衆はすぐれた音楽家の手になる曲を聴きたいのであって、録音装置の良し悪しではCDを選びません。写真も同じことで、写されている写真自体にのみ存在感があるのであり、ライカで撮ったとかコンタックスで撮ったのかというのは一部の人には重要なことなのですが、一般の人にとっては写真を見る動機にはなり得ません。ただストラビヴァリで弾いた曲と市販の入門用のヴァイオリンで弾いた曲では演奏者の腕が同じ場合、どちらがいいかというと、それはストラヴィヴァリが良いに決まっていますので、同じ道具であるカメラについてもこれと同じことが言えると思います。
最後に、本文冒頭に出てくるエピソードをご紹介します。小林がギリシャで撮った道路だけが写った写真の一枚をある芸術家が大変誉めたのですが、小林にはそこを撮った記憶がありません。よく考えると、首から下げていたNIKONが落ちた瞬間にシャッターが偶然きれた写真だったそうです。