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制服と自由

2021年06月24日 | 日々徒然
私は幼稚園から、高校まで、制服が決まっている学校に通っていました。
家内に聞くと、家内は全く制服を着たことがないらしく、地域によっても大きな差がある模様。

幼稚園、小学校は制服があると言っても、あまり制限とはなっておらず、逆に毎日着て行く服の選択に困らないというメリットのほうが大きかった。
おしゃれな子供なら苦になったかもしれないが、私に関して言えば、何も思うところはなかった。

ただ、小学校の制服は、冬服もなぜか半ズボンだった。身体の弱かった私は、冬になると、白タイツの上に半ズボンを入っていたが、この格好は非常に格好悪く感じた。小学校5年生になって、ようやく、半ズボン-白タイツじゃなく、長ズボンを履かせてもらった。長ズボンのほうがずっとましだった。

あと、小学校から持ち物検査があった。引き出しの中身、ランドセルの中身、ポケットの中身を机の上に並べて、先生のチェックを受ける。学校の勉強に関係ないものを持ち込んでないか調べるのと、ハンカチ、鼻紙など必要な身の回りの物を持ってきているかチェック。
いつも私は、ハンカチがくしゃくしゃだったり、忘れていたりしてよく怒られた。
自由という観点で見るとちょっと微妙だが、まあ牧歌的であった。

この状況が大きく変わるのが中学校になってから。生徒のほうも積極的に反抗し、それを抑える教師と、激しくぶつかり合うようになる。当時は、まさに校内暴力が吹き荒れた時期で、教師と生徒のぶつかり合いは、常に暴力沙汰に展開した。教師の体罰、あるいは、生徒側の反抗という形で。
登校時に学校の門前に教師がズラリと並び、以下の項目をチェックした。
〇 髪の毛を染めていないか、パーマをかけていないか。
  地毛が黒髪じゃない証明書や天然パーマであることの証明書を持っていないといけなかった。

〇 服装が正しいかどうか
  制服が指定の物と同じ形か、ボタンはきちんと止めているか、スカートの丈は正しい範囲内か、靴下は白でワンポイントか

〇 指定の鞄を持っているか。鞄は潰していないか。教科書を入れているか

チェックするのは、もちろん、違反する生徒がいるからで、特に当時は変形制服には驚くほどの種類があった。失礼ながら、全滅する前のアンモナイトの貝殻の形と思った。

で、違反する生徒と、取り締まりたい教師の二項対立であればよかったのだけど、生徒内の同調圧力があった。校則通りの制服で通う生徒に対し、「教師の犬」として、クラス八分にするというものである。

私は、アンモナイトの貝殻と思っているほど、そういう校則違反に頑張る人たちに滑稽味を感じているほうだったので、完全に校則通りの格好で通学しており、それが理由でいじめられることとなった。
要領のいい優等生タイプの子たちは、ホックや第一ボタンくらいを外して、同調圧力に従っている振りをしながら、教師の顔も立てるくらいのことはやっていたが、そういう意味でも私は不器用であった。

私の中学校の悲惨な体験はこの記事にも書きました。

一方、高校のほうは、この記事に書いたような感じで、実に自由であった。
生徒がどんな格好で通学しようが、その恰好が法律違反でない限り、知らんって感じ。
中学校は、生徒が学ぶ目的がバラバラで、卒業後も社会的に大過なく過ごせるように、管理しやすい子供たちを育てることに主眼を置いていたように思える。
一方、私の入った高校は進学のための組織であり、目的の大学に進学することが目的なので、子供たちを管理することは不要である。少なくとも服装チェックなどは。
みんな好き勝手な格好で通っていた。私のように、普通に制服で通っている人も、全くの私服で通っている人もいた。中に一人、茶髪に変形制服、潰した鞄という、典型ヤンキーファッションで通っている人もいた。先生からは、何も言われていないのに、そんな格好して楽しいのか、わざわざ聞きに行った。(こういうところがおっちょこちょいである)。すると、「単にヤンキールックが好きだから。」と言う返事だった。こういうのが本当に「みんな違ってみんな(どうでも)いい。」ってことだなあと思った。

中学校では、先生と生徒が対面して座り、お互いの不満点をあげつらっていたような感じで、一方、高校では、先生と生徒は、並行して座り、双方の前方には大学受験という巨大な壁があったような気がします。こういう構えのほうが、人間関係はうまく行きます。相手がどんなやつであれ、共通の目的のために、その範囲内で協力し合うことができますから。

どちらが幸せかというのは、一目瞭然だと思います。

日本の組織が、しばしば、全人格的コミットメントを求め、その結果として、目的合理性を見失ってしまう構造があるかもしれません。
それに対して、この記事のドイツのクラブ活動の合理的なこと。



うまくリンクが貼れないので、画面写真を貼り付けました。「東洋経済 ドイツの学校 部活」などでググって下さい。

「失敗の本質」などの名著で、日本陸海軍の失敗について、散々分析してきたのに、今回の五輪の騒動で、我々はあの失敗から何も学習していないことが改めて明確になりましたね。

このまま愚かな歴史が繰り返されることがないように、せめてモノだけでも申して行きたい所存。「欲しがりません、勝つまでは」が、うっかり、再来してしまいそうな雲行きの昨今でしたから。

多様なスタイルの少数派の人がのびのび暮らせる寛容な社会であり続けたいと思います。


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