
前回記事で日吉の寮の素晴らしさと、日吉の街に対するヘイト、そしてそのヘイトが私の個人的事情によって生み出されたものであることを書きました。
退寮期限が刻々と迫る中、結婚を前提に引っ越すのか、それとも仮住まいのワンルームにするのかを決めないと引っ越しもできない。不動産屋巡りをしたいのに、見合いで奈良に呼び帰らされる事態で、なんだか煮詰まって来ています。
ここにまるであらかじめ準備された人生の転轍機のように、高校の同期、H君との再会が果たされます。
当時は私はniftyというプロバイダーがやっているパソコン通信にハマっており、その日も23時のテレホーダイタイムを狙って接続し、いつものメンバーと当時発売されたばかりのWindows98の悪口で、常連さんと盛り上がっておりました。
そこへ、お初の方が現れて議論に参加して来たのですが、やたらWindows に詳しく、しかも擁護派。私の主張がことごとく論破されて、随分私の旗色が怪しくなってきたので、
「もしかして、専門家ですか。」と聞いたところ、
「マイクロソフトに勤めています。」との返事!「ええーッ」と驚いていると、
「こちらからも質問があるのでいいですか?」と。
「はい」
「どちらのご出身ですか?」
(やばい、個人情報特定されるぞ)
「奈良です。」
「よんだ君?」
(なんで!?いきなり名前特定?しかも君付け?)
「はい‥」
「久しぶり!Hです。」
「ええーッ‼︎」
N君と青山の会社の前でばったり会った話はどこかに書いたけど、nifty チャットで再会するなんて。
聞いてみると、彼も私も東京住まい、早速、新宿に飲みに行く約束をした。
飲んでいっぱい話したのだけど、それを会話体で書いているといつまで経っても終わらない。箇条書き風味で行きます。
・H君は、新宿にマンションを借りている。勤め先までは、徒歩通勤。
・H君もまだ独身。一人暮らしかと思ったら、お母さんも同じくマンションに住んでいた。H君は高齢出産の子だそうで、唯一の身内はお母さんだけらしい。
・奈良の家をどうしたか聞いたところ、売り払ったとのこと。
「もう、奈良には何も残っていない。すっかり縁が切れた。」
・新宿のマンションって家賃とんでもないだろうと聞いた。それなりの値段だったが、徒歩通勤の楽さと安心感には変え難いとのこと。
新宿のような都心に人が住めるなんて知らなかった。住んでいるのは一部の金持ちだけだと思っていたので、H君のスタイルは非常に参考になった。さらに、奈良と縁が切れるということにも驚いた。奈良には、先祖伝来の土地と昔からの家と、田んぼと墓がある。東京はあくまでも仮住まいと考えていた僕には、軽々と故郷と繋ぐ糸を切れる姿は衝撃的だった。
最後にお互いの結婚状況を聞いた。H君は、「適当な相手がいない。この歳になってくると、ちょっと一生独身もあるかな。」と話し始めた。「食事も外食でなんでも食べられるし、掃除、洗濯は同居の母ちゃんがやってくれるしで、イマイチ結婚したいと思わないんだよな。」と話した。
一方、私は、お見合い50連敗は、まだ傷口が痛むので話さず、少し親しくなって、まだ本友達くらいの仲だった人、つまり、後のうちの奥さんのことを少し話した。
「いいなぁ、そんな素敵な人がいて。」と羨ましがるので、「まだ、友達程度の仲で、何も進展しないかもしれないよ。」と答えたら、「男として、そこは進展させるところやろ!何もしないと、将来ずっと後悔するぞ。」とアドバイスをくれた。
「うーん」と生返事しながらも、お互いの健闘を讃え合ってその夜は別れた。これから、何度も飲みに行くだろうと思っていたが、なんとそれを最後に会わなかった。
ただ彼との会話はインパクトが有った。
当時の私は、Sさんとのお見合い以降、
「長男の嫁」が欲しい母と、「仕事で自己実現しながら、共同生活を送る伴走者」が欲しい私で、ずっと喧嘩が続いていた。
この喧嘩の虚しいところは、母が私の主張を理解できず、母の主張を母の我儘だと指摘していることに対する反論が
「世の中の常識をあなたに説明しているだけなのに、わからないのか。」
という自分の「常識」を全く疑う気持ちがなく、説得可能性をかけらも感じられないところだった。
H君と話せたことで、この問題の唯一の解決は「奈良を捨てる」ことだということに気づいた。
また、引っ越し先を探していた件も、大きなヒントをもらえた。「徒歩通勤の出来る範囲で探す」である。
この記事で書いたように隅田川の川向こうで探そうとしたのは、彼の話に触発されたことが大きい。
H君と会ったあと、また母と電話して、またいつもの喧嘩になった。その時、母がいつもより、激しく怒り、
「あんたには長男の資格がない。もう一人で勝手に変な人と結婚して、生きてらっしゃい。」
と実に丁度いいことを言ってくれた。
「わかった。それでいいよ。母さん、あなたにはよんだという息子はいなかった。だから、我が家に嫁さんがくることはない。僕は結婚については諦めて、東京で一人で暮らすよ。」
「正月も盆も帰って来るな。お前に帰る家はない。親戚には絶縁したと言うぞ。見合いの口ももう聞かないからな。」
「結婚しないから、見合いの話ももういらないよ。従兄弟たちに会えないのは残念だけど。さようなら。」
と、電話を切り、無事、奈良を捨てることに成功しました。
いや、実は成功していなかったのですが、それはそのうち書きます。
親のしがらみもなくなり、見合いも諦めて、無事、前の記事に書いた福住のアパートに引っ越せました。
太宰治が27歳で「晩年」を書いたことを高校生の僕は笑いましたが、34歳で福住のアパートで一人暮らしを始めた僕は、まさにここで「晩年」を始めようとしていた。五年間の怒涛の寮暮らしで溜まった荷物を整理し、必要最低限のものだけで暮らしを始めた。
下手くそながら、自炊も始めた。
この記事で楽しかった自由ヶ丘でのA君やBさんとのパーティーを思い出しながら、一人でカレーを作った。
見合いを諦めたことと実家への仕送りをやめたことで、都心部の家賃、光熱費を払っても充分生きていける収入があった。会社は結婚して子供を養っていける給料を払ってくれていたのだなと改めて思った。
福住の町は一人暮らしの寂しい男に優しかった。同じアパートに住んでいる大家のおばあちゃんは、やたらと気にかけて声をかけてくれたし、新たに顔馴染みになった散髪屋のおばちゃんは、富岡神社の祭りで神輿を担げる法被を貸してあげようかと声を掛けてくれた。
近所のスーパー赤札堂で困った顔をしていたら、近所のおばあちゃんが絶対声をかけてくれる。
本当の一人暮らしをして、初めて深川の温かい下町情緒に触れることができた。
そして、たま、後のウチの奥さんとは、お互いに友達以上の微妙な何かを感じながら、きっかけが掴めずにいた。
本だけでなく、サッカーでもご縁があった。たまの実家の近くにサッカースタジアムができ、誘われて一緒に、そこをホームタウンとするFC東京の試合を一緒に観に行った。試合後、実家に帰るというたまと別れて、一人で飛田給の駅から福住のアパートに帰るときは、名残惜しくて、電車の中でずっとたまのことを考えていた。
ある秋の夜更け。ベランダに出て、綺麗な月を眺めていると、矢も盾もたまらず、たまと話したくなった。携帯の番号を打つと、すぐにたまが出て、
「私もベランダで月を見ていたところ。こんな時にあなたから電話があればいいと思って、携帯を眺めていたら、突然、かけて来るんだもの。」
「この月、あなたと一緒に見たい。」
「私も。ねえ、ちょっとそのまま、そこにいなさい。今からそっち行くから。」
こうして墓標になる筈だった福住のアパートにどら猫たまが転がり込んで来ました。
静かだった私の生活は一変。温厚な大家のおばあちゃんが怒り出す楽しい福住同棲暮らしが始まったのです。
この話、まだまだ続きます。
思わず引き込まれる文章でワクワクしながら続き希望です
お母様には悪いけど故郷を捨てる決心がついたのはよかったですね
ワタシにもムスコがいてとても好きですが子育ての目標は幸せに自立させることと思ってたので さっさと自分で選んだ相手と結婚した時は寂しさもあったけど良かったなぁと思いましたよ
文章褒めていただき、ありがとうございます。
しっかりと自立された息子さん、立派ですね。
母の視点でこの文章を読んでいただく方もいらっしゃるのですね。その指摘、斬新です。そう言う視点で読んでいただいて耐える文章になっているか、自信はありません(笑)。
私は反抗期らしい反抗期もなく、大人になってしまったのですが、親との関係性にこの年まで苦しめられるとは思っていませんでした。やはり、自分の人生を生きるために、どこかで乗り越えないといけない壁だったみたいです。続きもぜひお読みください。
奥さんとの馴れ初め、なかなかロマンチックに思いますv
でも、キチンと読んでいただいて、コメントも書いてもらえると励みになります。この話、二人が家を買うまで続きますので、先は長いですが、続きも読んでもらえると、嬉しいです。