現在は、我が家のクリスマスと言っても特別なことは何もありませんが、私の子供の頃のクリスマスは、今から思えばかなりバブリーだったと思います。
戦後の成長期で、日本経済も発展途中の頃でした。
我が家の家業は、時計の皮ベルトを手作りする仕事でした。
父の兄弟、従兄弟たちで会社を経営し、一番上の叔父が社長、2番目の叔父が営業を担当し、我が家と従兄弟たちが製作の担当でした。
我が家は両親二人だけの家庭内工業でした。
大手時計メーカーの仕事だったので、仕事量は多く、私の両親はいつも忙しそうでした。
営業を担当していた2番目の叔父の家は特に羽振りがよく、伯父は、当時の一般家庭では珍しかった自家用車をいち早く乗り回していました。
初めてその車に乗せてもらうことになった時、車に乗ればアメリカへ行けるものと思った私は、近所の友達に自慢したものでした。
「おじさん、これからアメリカへ行くんでしょう?」
と聞くと、
「アメリカ?アメリカは遠すぎるなぁ。」
と笑った叔父の言葉で、その車に乗ってもアメリカには行けないことを知り、がっかりしたものでした。
クリスマスになると、毎年その叔父の家でクリスマスパーティがありました。
叔父の家に仕事に関係している親戚中が集まりました。
叔父の家には、天井まで届きそうな大きなもみの木があり、白い綿のようなガラスの繊維の雪と共に色とりどりのモール、ガラスボールやアクセサリーが吊るされていました。
従兄弟や叔母がきれいに飾り付けをしていたようです。
当時、本物のもみの木、しかもそんなに大きなもみの木が手に入ることすら珍しかったと思います。
でも、叔父はどこからどうして買ってくるのか、毎年クリスマスには、大きなもみの木があり、きれいに飾り付けられていました。
わたしは、まるで外国の映画に出てくるようなクリスマスツリーにいつもうっとりしていたものです。
クリスマスパーティの日は、きれいに飾られたツリーの下にたくさんのプレゼントの包みが置かれていました。
包みの上には番号札がついていました。
大人たちは宴会が始まります。
お酒を飲み、歌を歌い盛り上がります。
私たち子供はコタツのある部屋に集まって遊びました。
大人たちの宴会が終わる頃、プレゼントのくじ引きがありました。
ツリーの下に置かれたものが次々と別の部屋に運ばれてきます。
そして、父の一番下の弟である叔父が番号の書いた紙が入っている箱を持ち、それを一人ずつ引きます。
家族全員がそのクジを引く権利があります。
品物は、電化製品だったり、生活用品だったりでした。
子供心にも、かなり良いものが揃っていた記憶があります。
子供たちには別なクジで、プレゼントも子供用のものが用意されていました。
2番目の叔父は私と弟をとても可愛がってくれていたので、そのプレゼントとは別に何か買ってくれたり、品物がないときはお小遣いをくれたりしました。
宴が終わり、酔っ払って上機嫌の父はタクシーを呼び、二駅の道のりをタクシーで帰るのが常でした。
タクシーの中でも酔った父が大声で話をするのを恥ずかしく思っていた私は、タクシーに乗るのを好まず、電車で帰りたいなと思った記憶があります。
そんなバブリーなクリスマスが何年か続きましたが、その後、両親の仕事はますます忙しくなり、私が小学校の高学年の頃はクリスマスシーズンになると両親は毎晩夜遅くまで仕事をしていました。
クリスマスパーティどころではなかったみたいです。
なので、私と弟は母が買ってくれた小さなクリスマスツリーをコタツの上に置き、クリスマス用のデコレーションケーキを二人で食べました。
隣の部屋では両親が仕事をしていたので、私と弟はいつもそうして寂しくクリスマスを過ごすことになりました。
そのおかげか、その後両親の仕事は波に乗り、工場を広くして、住み込みの従業員を雇い、十数人のパートさんを雇うまでになりました。
そんな羽振りの良かった時代は、当然、終わりを告げるわけです。
時代の流れとともに時計のベルトは皮製品から安価な合成皮革へ、そして金属製へと推移し、両親の皮製品の仕事は、父のアルツハイマーと共に消滅していきました。
私の懐かしい思い出です。
戦後の成長期で、日本経済も発展途中の頃でした。
我が家の家業は、時計の皮ベルトを手作りする仕事でした。
父の兄弟、従兄弟たちで会社を経営し、一番上の叔父が社長、2番目の叔父が営業を担当し、我が家と従兄弟たちが製作の担当でした。
我が家は両親二人だけの家庭内工業でした。
大手時計メーカーの仕事だったので、仕事量は多く、私の両親はいつも忙しそうでした。
営業を担当していた2番目の叔父の家は特に羽振りがよく、伯父は、当時の一般家庭では珍しかった自家用車をいち早く乗り回していました。
初めてその車に乗せてもらうことになった時、車に乗ればアメリカへ行けるものと思った私は、近所の友達に自慢したものでした。
「おじさん、これからアメリカへ行くんでしょう?」
と聞くと、
「アメリカ?アメリカは遠すぎるなぁ。」
と笑った叔父の言葉で、その車に乗ってもアメリカには行けないことを知り、がっかりしたものでした。
クリスマスになると、毎年その叔父の家でクリスマスパーティがありました。
叔父の家に仕事に関係している親戚中が集まりました。
叔父の家には、天井まで届きそうな大きなもみの木があり、白い綿のようなガラスの繊維の雪と共に色とりどりのモール、ガラスボールやアクセサリーが吊るされていました。
従兄弟や叔母がきれいに飾り付けをしていたようです。
当時、本物のもみの木、しかもそんなに大きなもみの木が手に入ることすら珍しかったと思います。
でも、叔父はどこからどうして買ってくるのか、毎年クリスマスには、大きなもみの木があり、きれいに飾り付けられていました。
わたしは、まるで外国の映画に出てくるようなクリスマスツリーにいつもうっとりしていたものです。
クリスマスパーティの日は、きれいに飾られたツリーの下にたくさんのプレゼントの包みが置かれていました。
包みの上には番号札がついていました。
大人たちは宴会が始まります。
お酒を飲み、歌を歌い盛り上がります。
私たち子供はコタツのある部屋に集まって遊びました。
大人たちの宴会が終わる頃、プレゼントのくじ引きがありました。
ツリーの下に置かれたものが次々と別の部屋に運ばれてきます。
そして、父の一番下の弟である叔父が番号の書いた紙が入っている箱を持ち、それを一人ずつ引きます。
家族全員がそのクジを引く権利があります。
品物は、電化製品だったり、生活用品だったりでした。
子供心にも、かなり良いものが揃っていた記憶があります。
子供たちには別なクジで、プレゼントも子供用のものが用意されていました。
2番目の叔父は私と弟をとても可愛がってくれていたので、そのプレゼントとは別に何か買ってくれたり、品物がないときはお小遣いをくれたりしました。
宴が終わり、酔っ払って上機嫌の父はタクシーを呼び、二駅の道のりをタクシーで帰るのが常でした。
タクシーの中でも酔った父が大声で話をするのを恥ずかしく思っていた私は、タクシーに乗るのを好まず、電車で帰りたいなと思った記憶があります。
そんなバブリーなクリスマスが何年か続きましたが、その後、両親の仕事はますます忙しくなり、私が小学校の高学年の頃はクリスマスシーズンになると両親は毎晩夜遅くまで仕事をしていました。
クリスマスパーティどころではなかったみたいです。
なので、私と弟は母が買ってくれた小さなクリスマスツリーをコタツの上に置き、クリスマス用のデコレーションケーキを二人で食べました。
隣の部屋では両親が仕事をしていたので、私と弟はいつもそうして寂しくクリスマスを過ごすことになりました。
そのおかげか、その後両親の仕事は波に乗り、工場を広くして、住み込みの従業員を雇い、十数人のパートさんを雇うまでになりました。
そんな羽振りの良かった時代は、当然、終わりを告げるわけです。
時代の流れとともに時計のベルトは皮製品から安価な合成皮革へ、そして金属製へと推移し、両親の皮製品の仕事は、父のアルツハイマーと共に消滅していきました。
私の懐かしい思い出です。