明日は義母の命日です。
義母が亡くなってから4年目になります。
くも膜下出血で、手術後1ヶ月、義母は意識が戻らないままこの世を去りました。
1月20日という日に亡くなったのは不思議なことでした。
当時、娘は今とは別の動物病院に勤めていました。
そこは、動物病院としては大きなところで、比較的名前も通っていました。
テレビで紹介されたりしていたので、遠方からも患者さんが来ました。
ペットを飼っている芸能人なども定期的に診察に来るようなところでした。
待合室はいつも患者さんでいっぱいで、忙しいところでした。
それだけに従業員に対する待遇が悪く、お休みも週に1度あるだけ、夏休みもゴールデンウィークもお正月休みもなく、早朝から夜遅くまで仕事でした。
有給休暇も4日しかなく、しかも病院で休む日を決められてしまうのです。
明らかに労働基準法で定められている規定の労働時間を超えていると思いました。
それだけ働いていながら、お給料も信じられないほど低く、私が見ていても可愛そうなくらいでした。
それで娘も退職を考えるようになり、1月20日が退職の日でした。
意識のない義母の枕元で、私たちはよく、
「娘が、1月20日まで仕事だから、何とかそれまでもってくれれば良いけれど。」
と話していました。
一度、心臓の動きが止まって危篤状態になってからの義母は、機械の力だけで生きていました。
医師からも「ほぼ脳死状態」と言われ、義母は亡くなるまでの間、何度も危篤になり、私たちはそのたびに病院から呼び出されました。
それは夜中だったり、仕事中だったりしました。
でも、その度に義母はもちなおしてくれました。
そして、1月20日に亡くなったのです。
不思議でした。
「1月20日まで持ってほしい」という私たちの会話を聞いていたかのように、日付が1月20日に変わった途端、義母は亡くなったのです。
義母が我が家に戻ってきて、告別式までの間のことです。
息子が義母の枕元にラジカセを持ってきました。
そして、義母がいつも聞いていた石原裕次郎の曲をかけました。
息子はロック系の音楽が好きなので、
いつも
「あんな音楽は、耳障りだ!」
と義母の部屋から流れてくる音楽を嫌っていました。
そんな息子が自分から裕次郎の曲をかけたことで、息子の気持ちを感じ、私たちは涙しました。
告別式の後、義母の妹である叔母から思いがけない話を聞きました。
「姉は私たちに会うと、生まれ変わってもあなたと暮らしたいって、口癖のように言っていたのよ」と。
信じられないような話でした。
他人同士の同居ですから、長い間にはいろいろなことがありました。
ぶつかったこともありました。
義母と暮らした日々に、私は特に感謝の言葉を言った事もないし、特別やさしくしてあげたこともなかったと思います。
逆に何でもやってくれる義母に甘えていました。
義母にわがままをぶつけることもありました。
そんな私だから、叔母達に私のグチをこぼされることはあっても、そんな風に言ってもらっているなんて思ってもみませんでした。
亡くなってから聞いたこの話に、私は絶句し、後悔もしました。
一度くらいきちんと感謝の言葉を言えばよかった。
私の方こそ、何もかも面倒をみてもらってありがとうと言わなければいけなかったのに。
今更気づいても遅いのだけれど。
義母が亡くなってから4年目になります。
くも膜下出血で、手術後1ヶ月、義母は意識が戻らないままこの世を去りました。
1月20日という日に亡くなったのは不思議なことでした。
当時、娘は今とは別の動物病院に勤めていました。
そこは、動物病院としては大きなところで、比較的名前も通っていました。
テレビで紹介されたりしていたので、遠方からも患者さんが来ました。
ペットを飼っている芸能人なども定期的に診察に来るようなところでした。
待合室はいつも患者さんでいっぱいで、忙しいところでした。
それだけに従業員に対する待遇が悪く、お休みも週に1度あるだけ、夏休みもゴールデンウィークもお正月休みもなく、早朝から夜遅くまで仕事でした。
有給休暇も4日しかなく、しかも病院で休む日を決められてしまうのです。
明らかに労働基準法で定められている規定の労働時間を超えていると思いました。
それだけ働いていながら、お給料も信じられないほど低く、私が見ていても可愛そうなくらいでした。
それで娘も退職を考えるようになり、1月20日が退職の日でした。
意識のない義母の枕元で、私たちはよく、
「娘が、1月20日まで仕事だから、何とかそれまでもってくれれば良いけれど。」
と話していました。
一度、心臓の動きが止まって危篤状態になってからの義母は、機械の力だけで生きていました。
医師からも「ほぼ脳死状態」と言われ、義母は亡くなるまでの間、何度も危篤になり、私たちはそのたびに病院から呼び出されました。
それは夜中だったり、仕事中だったりしました。
でも、その度に義母はもちなおしてくれました。
そして、1月20日に亡くなったのです。
不思議でした。
「1月20日まで持ってほしい」という私たちの会話を聞いていたかのように、日付が1月20日に変わった途端、義母は亡くなったのです。
義母が我が家に戻ってきて、告別式までの間のことです。
息子が義母の枕元にラジカセを持ってきました。
そして、義母がいつも聞いていた石原裕次郎の曲をかけました。
息子はロック系の音楽が好きなので、
いつも
「あんな音楽は、耳障りだ!」
と義母の部屋から流れてくる音楽を嫌っていました。
そんな息子が自分から裕次郎の曲をかけたことで、息子の気持ちを感じ、私たちは涙しました。
告別式の後、義母の妹である叔母から思いがけない話を聞きました。
「姉は私たちに会うと、生まれ変わってもあなたと暮らしたいって、口癖のように言っていたのよ」と。
信じられないような話でした。
他人同士の同居ですから、長い間にはいろいろなことがありました。
ぶつかったこともありました。
義母と暮らした日々に、私は特に感謝の言葉を言った事もないし、特別やさしくしてあげたこともなかったと思います。
逆に何でもやってくれる義母に甘えていました。
義母にわがままをぶつけることもありました。
そんな私だから、叔母達に私のグチをこぼされることはあっても、そんな風に言ってもらっているなんて思ってもみませんでした。
亡くなってから聞いたこの話に、私は絶句し、後悔もしました。
一度くらいきちんと感謝の言葉を言えばよかった。
私の方こそ、何もかも面倒をみてもらってありがとうと言わなければいけなかったのに。
今更気づいても遅いのだけれど。