私が結婚して数ヶ月経った頃、義父がガンであることがわかりました。
当時は、ガンは不治の病であり、本人にはもちろん、特定の家族にも本当の事は告げませんでした。
なので、義父がガンだということは、主人と私しか知らないことでした。
担当の医師が、前回担当した患者の奥さんにご主人がガンであることを告げたとき、奥さんが取り乱してそれを納めるのにかなり苦労したとかで、義父の病気は、義母と義妹には知らせてくれるなという先生からの話でした。
なので、義父の病気の事は、主人と私だけの秘密でした。
しかも義父のガンはかなり末期になっていました。
手術のためにお腹を開いたのですが、そのまま閉じてしまったという状態でした。
その時、抗がん剤を入れたために、義父は奇跡的に回復し、残り数ヶ月という医師からの診断だったのですが、元気な日々を過ごしていました。
私たち夫婦は相談して、義妹には義父の病気の事を話しました。
そして、入院させて自由を奪ってしまうより、ギリギリまで好きな事をしてもらった方が良いという結論に達しました。
義父は仕事に復帰しました。
それは、脱サラをして始めた自営業でした。
その後何度か体調を崩したため、不審に思った義父は、自分で別の病院を探して検査を受けました。
当然そこで義父の本当の病気がわかりました。
本人にではなく、病名が義母に告げられました。
義母はびっくりして、私に電話してきました。
病名を知っていた私は、どう返答して良いかわかりませんでした。
「お義母さん、とにかく落ち着いて!」
というのが、精一杯でした。
その後、義父は何度も入退院を繰り返し、仕事もできなかったので収入はなくなり、その上、高額の入院費と治療費で義母の生活は困難を極めたようです。
当時は、私たちは同居はしていなくて、主人も転職したばかりで、援助というほどのことはできませんでした。
なけなしのお給料の中からほんの少しのお金を出せただけでした。
それでも、義母は私たちにとても感謝してくれました。
でも、その後貯金は底をつき、私と義妹の援助のお金では治療費はもとより、生活すらできなくなっていたようです。
困り果てている義母を見て民生委員の人が、生活保護を受けるように勧めてくれました。
でも、義母は生活保護だけは嫌だと言って聞き入れませんでした。
それから数ヶ月後、とうとう本当に生活が困難になったんだと思います。
義母は生活保護を受ける手続きをしました。
でも、お金を受け取るたびに、惨めに思うらしく、
「嫌だ。辛い。早くこんなものをもらう生活をやめたい」
と言っていました。
そして、3回くらい受け取ってから、
「私が看病の合間に働く。」
と言って、義父の工場へ行き、自分ができる仕事を始めて生活保護の打ち切りを申請しました。
私は、
「生活が大変なのは間違いないのだから、不正にもらうわけじゃなし、もらえるものはもらえば良いのに」
と思いましたが、義母はどうしても『生活保護を受けている』ということが嫌だったようです。
数ヶ月の命と言われた義父は、その後2年くらい生きてくれて、初孫である私の息子の顔を見ることができました。
お宮参りも一緒に行き、日曜日になると息子に会いに私たちの家に来ていました。
そして、息子が生後8ヶ月になった日に息を引き取りました。
仕事一筋の義父でした。
当時は、ガンは不治の病であり、本人にはもちろん、特定の家族にも本当の事は告げませんでした。
なので、義父がガンだということは、主人と私しか知らないことでした。
担当の医師が、前回担当した患者の奥さんにご主人がガンであることを告げたとき、奥さんが取り乱してそれを納めるのにかなり苦労したとかで、義父の病気は、義母と義妹には知らせてくれるなという先生からの話でした。
なので、義父の病気の事は、主人と私だけの秘密でした。
しかも義父のガンはかなり末期になっていました。
手術のためにお腹を開いたのですが、そのまま閉じてしまったという状態でした。
その時、抗がん剤を入れたために、義父は奇跡的に回復し、残り数ヶ月という医師からの診断だったのですが、元気な日々を過ごしていました。
私たち夫婦は相談して、義妹には義父の病気の事を話しました。
そして、入院させて自由を奪ってしまうより、ギリギリまで好きな事をしてもらった方が良いという結論に達しました。
義父は仕事に復帰しました。
それは、脱サラをして始めた自営業でした。
その後何度か体調を崩したため、不審に思った義父は、自分で別の病院を探して検査を受けました。
当然そこで義父の本当の病気がわかりました。
本人にではなく、病名が義母に告げられました。
義母はびっくりして、私に電話してきました。
病名を知っていた私は、どう返答して良いかわかりませんでした。
「お義母さん、とにかく落ち着いて!」
というのが、精一杯でした。
その後、義父は何度も入退院を繰り返し、仕事もできなかったので収入はなくなり、その上、高額の入院費と治療費で義母の生活は困難を極めたようです。
当時は、私たちは同居はしていなくて、主人も転職したばかりで、援助というほどのことはできませんでした。
なけなしのお給料の中からほんの少しのお金を出せただけでした。
それでも、義母は私たちにとても感謝してくれました。
でも、その後貯金は底をつき、私と義妹の援助のお金では治療費はもとより、生活すらできなくなっていたようです。
困り果てている義母を見て民生委員の人が、生活保護を受けるように勧めてくれました。
でも、義母は生活保護だけは嫌だと言って聞き入れませんでした。
それから数ヶ月後、とうとう本当に生活が困難になったんだと思います。
義母は生活保護を受ける手続きをしました。
でも、お金を受け取るたびに、惨めに思うらしく、
「嫌だ。辛い。早くこんなものをもらう生活をやめたい」
と言っていました。
そして、3回くらい受け取ってから、
「私が看病の合間に働く。」
と言って、義父の工場へ行き、自分ができる仕事を始めて生活保護の打ち切りを申請しました。
私は、
「生活が大変なのは間違いないのだから、不正にもらうわけじゃなし、もらえるものはもらえば良いのに」
と思いましたが、義母はどうしても『生活保護を受けている』ということが嫌だったようです。
数ヶ月の命と言われた義父は、その後2年くらい生きてくれて、初孫である私の息子の顔を見ることができました。
お宮参りも一緒に行き、日曜日になると息子に会いに私たちの家に来ていました。
そして、息子が生後8ヶ月になった日に息を引き取りました。
仕事一筋の義父でした。