義母は、娘が高校生になった頃から昔好きだった人のことを度々話題にするようになりました。
それは私と二人でお酒を飲んだ時だったり、二人だけでのんびり食事をしている時だったりしました。
さすがに主人や義妹には話せなかったのでしょう。
いつも私や娘が義母の話し相手でした。
当時、娘に初めてボーイフレンドができて、我が家にも遊びに来るようになりました。
その彼というのは、現在のまめパパではありませんが、サッカーをしているさわやかなスポーツマンでした。
義母は彼が来ると聞くと、せっせと家の中を片付けたり、食事は何を出そうかとあれこれ気を配っていました。
義母にとって、当時の娘の彼が、義母が昔好きだった人とダブって見えているように私には感じられました。
と言うのは、娘の彼が来ている時や帰った後、特に昔好きだった人の話をするように思えました。
そんなときの義母は、若い頃にかえったように輝いて見えました。
義母はその人と三回「さようなら」をしたと言っていました。
戦時中のことです。
義母は千葉の館山にあった航空隊で看護婦として勤務していました。
そこに看護婦の間でも人気者の先生がいたそうです。
ある日、義母が先生の部屋を掃除していた時、開いたままになっていた先生の日記が目に留まりました。
そこには、
「Iの一挙手一投足が気になる。」
と書かれていたそうです。
義母は、自分の名前が先生の日記に書かれていることに驚き、ときめいたと言います。
それ以来、義母も先生のことが今まで以上に気になり始めました。
でも、互いに意識しつつも特に親しく接することなく、先生は別の勤務地へ行ってしまいました。
それが最初の「さようなら」でした。
それからしばらくして、再び先生が義母のいる館山へやってきました。
先生の勤務地が変更になり、戻ってきたのです。
二人が再会してからは、以前よりは話をしたり、一緒に写真を撮ったりして、楽しい時間を過ごすことができたようです。
その時、並んで撮った写真を義母は大事に持っていて、私や娘にも見せてくれました。
そして終戦を迎え、義母は実家の茨城へ、先生も実家の京都へと帰ることになり、二人は離れ離れになりました。
それが二度目の「さようなら」です。
義母が実家へ帰ってしばらくしてから、先生から連絡がありました。
「自分はこれから病院を開業するので、看護婦として京都へ来て欲しい。」
ということでした。
義母はすぐに京都へ旅立ちました。
会いたいと思っていた先生からの誘いで、義母はすぐに汽車に飛び乗ったそうです。
先生のお母さんという人は厳格で神経質な人でした。
玄関には、はたきが置いてあり、家に入る度に、はたきを持ってほこりを払いながら部屋を歩く人でした。
初めて義母と会った時も、義母に冷たい視線を向けただけで、挨拶もそこそこに、はたきをかけながら部屋へ行ってしまったそうです。
義母は、先生の開業を手助けしてくれた知人の家に住むことになりました。
知人は、農家を営んでいたのですが、その知人の奥さんが底意地の悪い人で、ことごとく義母に冷たく当たりました。
京都へ義母を呼んだ時の先生の話は、
「知人の家は農家だけれど、そこに住むようなことになっても絶対に農家の仕事はさせないから。」
という事だったのに義母は野良仕事をさせられるようになり、いつの間にか看護婦の仕事は知人の奥さんの仕事となり、義母の仕事は野良仕事だけになっていきました。
先生も世話になっている知人と義母との間で、どうすることもできなかったようです。
義母を京都まで呼び寄せたものの、義母の味方になるには力不足だったのだと思います。
義母はずいぶん我慢もし、がんばりもしましたが、たった一人遠い京都で頼る人もなく、毎日こうして野良仕事を続けていても先が見えないと感じ始めました。
そして、故郷の茨城へ帰ることに決めました。
京都を離れることを決意した義母は、そのことを先生に伝えました。
二人は、河原で話をしました。
そのとき、初めて二人は手を取り、キスをしたと言います。
そして、それが三度目のそして永遠の別れになりました。
それは私と二人でお酒を飲んだ時だったり、二人だけでのんびり食事をしている時だったりしました。
さすがに主人や義妹には話せなかったのでしょう。
いつも私や娘が義母の話し相手でした。
当時、娘に初めてボーイフレンドができて、我が家にも遊びに来るようになりました。
その彼というのは、現在のまめパパではありませんが、サッカーをしているさわやかなスポーツマンでした。
義母は彼が来ると聞くと、せっせと家の中を片付けたり、食事は何を出そうかとあれこれ気を配っていました。
義母にとって、当時の娘の彼が、義母が昔好きだった人とダブって見えているように私には感じられました。
と言うのは、娘の彼が来ている時や帰った後、特に昔好きだった人の話をするように思えました。
そんなときの義母は、若い頃にかえったように輝いて見えました。
義母はその人と三回「さようなら」をしたと言っていました。
戦時中のことです。
義母は千葉の館山にあった航空隊で看護婦として勤務していました。
そこに看護婦の間でも人気者の先生がいたそうです。
ある日、義母が先生の部屋を掃除していた時、開いたままになっていた先生の日記が目に留まりました。
そこには、
「Iの一挙手一投足が気になる。」
と書かれていたそうです。
義母は、自分の名前が先生の日記に書かれていることに驚き、ときめいたと言います。
それ以来、義母も先生のことが今まで以上に気になり始めました。
でも、互いに意識しつつも特に親しく接することなく、先生は別の勤務地へ行ってしまいました。
それが最初の「さようなら」でした。
それからしばらくして、再び先生が義母のいる館山へやってきました。
先生の勤務地が変更になり、戻ってきたのです。
二人が再会してからは、以前よりは話をしたり、一緒に写真を撮ったりして、楽しい時間を過ごすことができたようです。
その時、並んで撮った写真を義母は大事に持っていて、私や娘にも見せてくれました。
そして終戦を迎え、義母は実家の茨城へ、先生も実家の京都へと帰ることになり、二人は離れ離れになりました。
それが二度目の「さようなら」です。
義母が実家へ帰ってしばらくしてから、先生から連絡がありました。
「自分はこれから病院を開業するので、看護婦として京都へ来て欲しい。」
ということでした。
義母はすぐに京都へ旅立ちました。
会いたいと思っていた先生からの誘いで、義母はすぐに汽車に飛び乗ったそうです。
先生のお母さんという人は厳格で神経質な人でした。
玄関には、はたきが置いてあり、家に入る度に、はたきを持ってほこりを払いながら部屋を歩く人でした。
初めて義母と会った時も、義母に冷たい視線を向けただけで、挨拶もそこそこに、はたきをかけながら部屋へ行ってしまったそうです。
義母は、先生の開業を手助けしてくれた知人の家に住むことになりました。
知人は、農家を営んでいたのですが、その知人の奥さんが底意地の悪い人で、ことごとく義母に冷たく当たりました。
京都へ義母を呼んだ時の先生の話は、
「知人の家は農家だけれど、そこに住むようなことになっても絶対に農家の仕事はさせないから。」
という事だったのに義母は野良仕事をさせられるようになり、いつの間にか看護婦の仕事は知人の奥さんの仕事となり、義母の仕事は野良仕事だけになっていきました。
先生も世話になっている知人と義母との間で、どうすることもできなかったようです。
義母を京都まで呼び寄せたものの、義母の味方になるには力不足だったのだと思います。
義母はずいぶん我慢もし、がんばりもしましたが、たった一人遠い京都で頼る人もなく、毎日こうして野良仕事を続けていても先が見えないと感じ始めました。
そして、故郷の茨城へ帰ることに決めました。
京都を離れることを決意した義母は、そのことを先生に伝えました。
二人は、河原で話をしました。
そのとき、初めて二人は手を取り、キスをしたと言います。
そして、それが三度目のそして永遠の別れになりました。