武相荘(ぶあいそう・白州邸)
過日前後して、「白州次郎」(NHK)と「落日燃ゆ」(朝日テレビ)が放映された。
年齢的には24歳年下の白州次郎だが、昭和初期から第二次大戦へ突入した同時期を過ごし、廣田弘毅は外交官、政治家として、各国を巡り、白州次郎もまたケンブリッジ大学に留学し、ビジネスマンとしてもイギリス、アメリカで活動し、互いに英米の経済、軍事力の優位さを知り尽くしていた二人。
戦争回避に尽力しながら、外務省勤務、外務大臣、首相、再び外務大臣と政治の世界に引き込まれていった廣田弘毅。
政治屋嫌いで、英米を敵にしての三国同盟(日、独、伊)の愚かさを知り、召集令状(終戦直前の40歳代乙種)も忌避した白州次郎。
互いに接点はないが、戦前は近衛文麿のブレーンとして、戦後は吉田茂の側近として活躍した白州次郎と、同じく近衛文麿や吉田茂と人脈がありながら、「自ら計らわず」を信条として生涯を貫いた廣田弘毅。信念に生きる二人の命運は、まさに「天と地」であった。
☆白州次郎は1902(明治35年~昭和60年)兵庫県芦屋市に生まれる。
神戸一中時代は傍弱無人(乱暴者)で、「島流し」のように、ケンブリッジ大学クレアーカレッジに入学。同大卒後、大学院で歴史を学ぶ。
1928年(昭和3年)実家の「白州商店」倒産の為帰国。
翌年樺山正子(樺山愛輔の娘)と結婚。二人の交際のきっかけは、次郎の友人であった兄の樺山丑二(チュウジ)を通じてだった。
昭和15年に38歳で職を辞して鶴川村(現在の町田市の北部)に土地を求め農業に専念するまでの12年間に、三回職をかえている。彼が生涯のうちで最も「生活に苦労した」時期であり、歴史学者を断念し再出発する準備期間でもあった。
最初の職業は、「ジャパン・アドヴァイザー」という英字新聞社の記者。
次にケンブリッジ時代の友人ジョージ・セールとの縁で、「セール・フレーザー商会」という貿易商社に就任している。フォード自動車の販売を主に多方面の事業を展開していた大手の外資系商社(丸ビル一階)だった。
その後昭和12年3月に、後に日本水産(株)の社長になる田村啓三に請われて、吸収合併含みの日本食糧工業の取締役に就任。一年の大半を海外で過ごし、内外の財界、経済界の要人にも顔の広い次郎は、大所高所から様々なアイデアを社長に提言し、サポートした。
日本水産時代、(NHKのドラマの中にも出てくるが)戦争に突入すると、「この戦争は必ず負ける」と広言しはばからなかった。同僚の重役の娘の結婚にも祝儀をやらない、重役の家族との付き合いをしないなど、白州流の合理主義の反面、徴兵される同僚の壮行会を率先して開く人情の厚さがあり、「ヤンチャ坊主」の青年重役であった。
吉田茂と親交があって、ロンドンでは英国大使館が白州の常宿であった。
2・26事件など、急速に進む軍国主義化に嫌気がさし、戦争に突入すれば食料不足になることを予見し、職を辞して鶴川村に土地を求め農業に専念する。現在も白州邸(武相荘)として残されている。
戦後(1945年)吉田茂に請われ「終戦連絡事務局」参与に就任。GHQを向こうにまわし、八面六臂(はちめんろっぴ)の活躍が始まる。
「日本国憲法」制定の現場にも立会い、退任後(1948年)初代貿易庁長官に就任、商工省を改組し通産省を誕生させた中心的存在であった。
電力再編成の分割民営化をすすめ、東北電力会長に就任。退任後も、荒川水力発電会長、大沢商会会長などを歴任し、大洋漁業、日本テレビの社外役員などをつとめた。
尚、8月放映の予定で「白州次郎」(NHK)三部作が楽しみである。
☆廣田弘毅(1878~1948)は、福岡県那珂郡鍛冶町(現・福岡市中央区天神3丁目)の石材店を営む広田徳平(通称:広徳)の息子として生まれる。福岡市立大名小学校、福岡県立修猷館(現・福岡県立修猷館高等学校)を卒業。当初は陸軍志望であったが、修猷館時代に起きた三国干渉に衝撃を受け、外交官を志した。
上京して第一高等学校、東京帝国大学法学部政治学科に学んだ。学生時代から山座円次郎ら外交官の私邸に出入りし、1903年(明治36年)には満州・朝鮮の視察を命じられている。大学卒業後1905年(明治38年)に外交官試験を受けるが英語が苦手で落第、ひとまず韓国統監府に籍を置いて試験に備え、翌年には首席で合格して外務省に入省した。同期に吉田茂、武者小路公共、林久治郎らがいる。
各地の外交官職務を歴任したあと、1933年(昭和8年)9月14日、斎藤内閣の外務大臣、次の岡田内閣でも外相を留任。当時ソ連との間で懸案となっていた、東支鉄道買収交渉を妥結、条約化し、鉄道をめぐる紛争の種を取り除いた。また、ソ連との間で国境画定と紛争処理の2つの小委員会をもつ委員会を設けることを取り決め、のちに自身の内閣で国境紛争処理委員会として設置される。
二・二六事件の責任をとり岡田内閣が総辞職した。当時の総理大臣は最後の元老であった西園寺公望が天皇の御下問を受けて推薦していた。このとき西園寺はまず近衛文麿を推し、初めに近衛に組閣命令が下ったが、病気を理由に辞退。そのため西園寺は広田弘毅を候補に挙げる。
天皇は広田が総理になることについて、西園寺に「広田は名門の出ではない。それで大丈夫か」と尋ねた。広田は名家出身ではなく、親類・縁者にもこれといった人がなかった。当時はまだ本人自身よりも親類・縁者の関係が重視され、いわゆる毛並みのいい人が総理大臣に選ばれていた時代であった(代表的な例として、近衛は五摂家筆頭の名門である。広田以前の首相は武士や富農の出がほとんどである)。
これを後で聞いた広田は「陛下は自分に対して信任がないのではないか」ととても気にしていた。西園寺は首相就任を引き受けさせるため近衛文麿と吉田茂(広田とは外交官の同期生)を説得役として派遣した。広田は拒み続けたがついには承諾し1936年(昭和11年)3月5日、天皇から組閣大命が下る。
この際、天皇から新総理への注意として歴代総理に与えられた3ヵ条の注意(第一に憲法の規定を遵守して政治を行なうこと。第二に外交においては無理をして無用の摩擦を起こすことのないように。第三に財界に急激な変動を与えることのないように)の他に「第四に名門を崩すことのないように」という1ヵ条が特に付け加えられた。これにより広田は「自分は50年早く生まれ過ぎたような気がする」と語ったという。
首相や外相として、戦争回避を主張し続けながら、極東軍事裁判では一切弁解せずに開戦の責任を取って、A級戦犯として絞首刑となったただ一人の文官(近衛秀麿が自殺した為)であった。
過日前後して、「白州次郎」(NHK)と「落日燃ゆ」(朝日テレビ)が放映された。
年齢的には24歳年下の白州次郎だが、昭和初期から第二次大戦へ突入した同時期を過ごし、廣田弘毅は外交官、政治家として、各国を巡り、白州次郎もまたケンブリッジ大学に留学し、ビジネスマンとしてもイギリス、アメリカで活動し、互いに英米の経済、軍事力の優位さを知り尽くしていた二人。
戦争回避に尽力しながら、外務省勤務、外務大臣、首相、再び外務大臣と政治の世界に引き込まれていった廣田弘毅。
政治屋嫌いで、英米を敵にしての三国同盟(日、独、伊)の愚かさを知り、召集令状(終戦直前の40歳代乙種)も忌避した白州次郎。
互いに接点はないが、戦前は近衛文麿のブレーンとして、戦後は吉田茂の側近として活躍した白州次郎と、同じく近衛文麿や吉田茂と人脈がありながら、「自ら計らわず」を信条として生涯を貫いた廣田弘毅。信念に生きる二人の命運は、まさに「天と地」であった。
☆白州次郎は1902(明治35年~昭和60年)兵庫県芦屋市に生まれる。
神戸一中時代は傍弱無人(乱暴者)で、「島流し」のように、ケンブリッジ大学クレアーカレッジに入学。同大卒後、大学院で歴史を学ぶ。
1928年(昭和3年)実家の「白州商店」倒産の為帰国。
翌年樺山正子(樺山愛輔の娘)と結婚。二人の交際のきっかけは、次郎の友人であった兄の樺山丑二(チュウジ)を通じてだった。
昭和15年に38歳で職を辞して鶴川村(現在の町田市の北部)に土地を求め農業に専念するまでの12年間に、三回職をかえている。彼が生涯のうちで最も「生活に苦労した」時期であり、歴史学者を断念し再出発する準備期間でもあった。
最初の職業は、「ジャパン・アドヴァイザー」という英字新聞社の記者。
次にケンブリッジ時代の友人ジョージ・セールとの縁で、「セール・フレーザー商会」という貿易商社に就任している。フォード自動車の販売を主に多方面の事業を展開していた大手の外資系商社(丸ビル一階)だった。
その後昭和12年3月に、後に日本水産(株)の社長になる田村啓三に請われて、吸収合併含みの日本食糧工業の取締役に就任。一年の大半を海外で過ごし、内外の財界、経済界の要人にも顔の広い次郎は、大所高所から様々なアイデアを社長に提言し、サポートした。
日本水産時代、(NHKのドラマの中にも出てくるが)戦争に突入すると、「この戦争は必ず負ける」と広言しはばからなかった。同僚の重役の娘の結婚にも祝儀をやらない、重役の家族との付き合いをしないなど、白州流の合理主義の反面、徴兵される同僚の壮行会を率先して開く人情の厚さがあり、「ヤンチャ坊主」の青年重役であった。
吉田茂と親交があって、ロンドンでは英国大使館が白州の常宿であった。
2・26事件など、急速に進む軍国主義化に嫌気がさし、戦争に突入すれば食料不足になることを予見し、職を辞して鶴川村に土地を求め農業に専念する。現在も白州邸(武相荘)として残されている。
戦後(1945年)吉田茂に請われ「終戦連絡事務局」参与に就任。GHQを向こうにまわし、八面六臂(はちめんろっぴ)の活躍が始まる。
「日本国憲法」制定の現場にも立会い、退任後(1948年)初代貿易庁長官に就任、商工省を改組し通産省を誕生させた中心的存在であった。
電力再編成の分割民営化をすすめ、東北電力会長に就任。退任後も、荒川水力発電会長、大沢商会会長などを歴任し、大洋漁業、日本テレビの社外役員などをつとめた。
尚、8月放映の予定で「白州次郎」(NHK)三部作が楽しみである。
☆廣田弘毅(1878~1948)は、福岡県那珂郡鍛冶町(現・福岡市中央区天神3丁目)の石材店を営む広田徳平(通称:広徳)の息子として生まれる。福岡市立大名小学校、福岡県立修猷館(現・福岡県立修猷館高等学校)を卒業。当初は陸軍志望であったが、修猷館時代に起きた三国干渉に衝撃を受け、外交官を志した。
上京して第一高等学校、東京帝国大学法学部政治学科に学んだ。学生時代から山座円次郎ら外交官の私邸に出入りし、1903年(明治36年)には満州・朝鮮の視察を命じられている。大学卒業後1905年(明治38年)に外交官試験を受けるが英語が苦手で落第、ひとまず韓国統監府に籍を置いて試験に備え、翌年には首席で合格して外務省に入省した。同期に吉田茂、武者小路公共、林久治郎らがいる。
各地の外交官職務を歴任したあと、1933年(昭和8年)9月14日、斎藤内閣の外務大臣、次の岡田内閣でも外相を留任。当時ソ連との間で懸案となっていた、東支鉄道買収交渉を妥結、条約化し、鉄道をめぐる紛争の種を取り除いた。また、ソ連との間で国境画定と紛争処理の2つの小委員会をもつ委員会を設けることを取り決め、のちに自身の内閣で国境紛争処理委員会として設置される。
二・二六事件の責任をとり岡田内閣が総辞職した。当時の総理大臣は最後の元老であった西園寺公望が天皇の御下問を受けて推薦していた。このとき西園寺はまず近衛文麿を推し、初めに近衛に組閣命令が下ったが、病気を理由に辞退。そのため西園寺は広田弘毅を候補に挙げる。
天皇は広田が総理になることについて、西園寺に「広田は名門の出ではない。それで大丈夫か」と尋ねた。広田は名家出身ではなく、親類・縁者にもこれといった人がなかった。当時はまだ本人自身よりも親類・縁者の関係が重視され、いわゆる毛並みのいい人が総理大臣に選ばれていた時代であった(代表的な例として、近衛は五摂家筆頭の名門である。広田以前の首相は武士や富農の出がほとんどである)。
これを後で聞いた広田は「陛下は自分に対して信任がないのではないか」ととても気にしていた。西園寺は首相就任を引き受けさせるため近衛文麿と吉田茂(広田とは外交官の同期生)を説得役として派遣した。広田は拒み続けたがついには承諾し1936年(昭和11年)3月5日、天皇から組閣大命が下る。
この際、天皇から新総理への注意として歴代総理に与えられた3ヵ条の注意(第一に憲法の規定を遵守して政治を行なうこと。第二に外交においては無理をして無用の摩擦を起こすことのないように。第三に財界に急激な変動を与えることのないように)の他に「第四に名門を崩すことのないように」という1ヵ条が特に付け加えられた。これにより広田は「自分は50年早く生まれ過ぎたような気がする」と語ったという。
首相や外相として、戦争回避を主張し続けながら、極東軍事裁判では一切弁解せずに開戦の責任を取って、A級戦犯として絞首刑となったただ一人の文官(近衛秀麿が自殺した為)であった。
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