フォト俳句・天使の梯子

    時として見る天使のはしご
    まるで神の呼びかけのよう。

            花木柳太
   

春の雨

2025-02-15 17:40:00 | 俳句


    松風やぽつりぽつりと春の雨  







今年は干潟に鴨が少ないなと思っていたが
曇りのせいだろうか海にも幾種もの鴨が浮かんでいた。
晴れの日は餌を探して何処かに行っているのだろうか?

畑に30羽もの鴨が下りて何かをついばんでいた。
今日は生憎の曇りの天気だが日課の散歩。
途中、濡れない程度の雨がポツリポツリ。

このくらいの雨ではと他の人も歩いている。
俳句に書く散文も何時も同じようなもので申し訳ない。
今日は6377歩で切り上げた。

来週は火曜日頃からまた寒くなるようだ。
三寒四温を繰り返して待望の春になるのだろう。

猫への餌もなく、水も心配せず、メジロの餌も持たず
最近はスマホのみ持っての身軽な散歩になっている。



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春待つ猫

2025-02-15 13:40:53 | 俳句


   干潟浜春待つ猫かまだ寒し  








今日も雲の少ない一日だった。気温は10度。
日課の散歩も好天に恵まれて、いい気持だった。
干潟の野良猫は餌には困らない。今日も餌を与えてスキンシップの人あり。

まだ春というには寒いのか、まだ冬服は欠かせない。
昨夜、寒いので目覚めてしまった。室温は13度だった。
ググったら室温13度は布団の中は33度で眠りには良いらしい。

干潟での野良の猫への餌やり、メジロへの餌やりは全て止めた。
ブログを振り返るとトラやクロの句も多い。
まあ、他の人が喜んで上げるので餌には困らない。

街中ではないし、去勢はしてあるが調べてみて良くないと思った。
だがやはり、餌やりはよくないと学んだ。
今日あたり野良の猫も初春の陽を浴びて幾分幸せそうだ。

本日の散歩ーー 8255歩







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春の路

2025-02-13 18:34:32 | 俳句


     鉄塔に雲ひとつなく春の路  







昨日は終日弱い雨が降っていて
散歩は行けなかったけれど今日は晴れていた。
春めいて、こころなしか幾分人が多いような気がした。

天気がいいと本格的な春の匂いもする
だが、まだ寒いのは致し方ない、現実的にまだ冬が続く。
春は暦の上だけか、遊歩道には花の気配もない。
まあ四季を通じて花は少ないのだが・・

干潟の海だが近くに有ることは感謝だ。
雨が降るととても困る、日課の散歩に支障が出るのだ。

一年に数回ほどだが見知らぬ人と話すこともある
日本人かと思ったらカナダ系のベトナム人だったこともある
「Google翻訳」で思わず話した。
Google翻訳は滅多に使わないがスマホに入れておくと便利なときもある。

日本海側では西日本最大の干潟らしいので
遠くから来る人も多いのか。

明日も有難いことに晴れの予報だ。



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如月の空(きさらぎのそら)

2025-02-11 15:54:25 | 俳句


     海ひかり如月の空雲は無し  







今日は少し汗ばむほどの陽気だった。
祭日とあって干潟を散策する人やや多し
珍しいことに外人さんの夫婦が子供を連れて歩いていた。

雲のない遊歩道は気温は10度ばかりか
いつもの人と祭日だけの人、バードウォッチングの夫婦
ベンチに座っては句を詠み、スマホにメモする。便利になったものだ。

そして、句に合う写真などをスマホで写しまた歩く
句が出来ない時もあるがどうせ散歩のついでだ。
雲のない日は冬にしては珍しいのか、今日など春はもうすぐという気になる。

此のところ寒いものだから過眠ぎみ、反省しなければ
三月になればぐっと暖かくなるだろうか。
歩けない日もあるがだいたい7~8千歩歩く。

今日はーー7741歩



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不思議な半年ー④

2025-02-09 20:58:19 | 創作

     創作   「不思議な半年」ー④







それまでの私には信仰心と云うものは皆目なかった。人も死んだら土にかえる。それが自然界の営みだし、人間も動物である以上土にかえる。神を追求したことは無かったし育った家にも漠然としたものしかなかった。そんな程度の宗教心しか無かった。その頃は博多駅南に住んでいたので遠い油山の教会の新聞が配達されるのも少し変だった。がすぐに博多駅から油山行きのバスに乗った。普通であればそんな教会の新聞など特に気に掛けることなどなく、また出かけることもなかっただろう。少しの疑問もなく、躊躇もしなかった。そう、逃れることは出来なかった。
 加藤副牧師は窓際に私を案内し、窓の外には沼があって副牧師の肩越しに遠く沼に浮かんだ一羽の白鳥が見えた。私はそこに鳥飼美由紀がいるのではと思い、紅茶を運んできた若い女性を思わず見たりもした。
 ここに来た経過を副牧師に話すと、それは神の仕業だとは思いませんかと言われた。いいえ人間の仕業かと思います。多分5万数千名の組織力を使ってやっていることですと私は答えた。そのあと「人間の愛は価値依存の愛です。」相手の髪が美しいと思うのも価値です。と言われた。私は何故か鳥飼美由紀の事を言われたような気がした。
 「それは神の仕業とは思いませんか?」と副牧師に言わせることができる。と今では思う。その日はそれで終わり、その後は日曜日ごとに通った。しかし油山は通うには少し遠すぎた。三月になり、川本の理不尽な言動に衝動的に辞表を出し私はM運輸を退職した。わずか半年の勤務だった。めくるめくあの出来事を残念ながら上手く表現することは私には不可能だ。その後、何故という疑問だけが残った。「何故私にという疑問」

神を見たわけでもなく声を聴いたわけでもありません。文才は無いので注意深く読んでいただきたい。その後は特に啓示めいたものは無いのでこの事の結論としては「憐れんでくださった」のだというものだった。聖書には、神の存在を「わたしはいる」ではなく、「わたしはある」とあります。或いは神の存在をただ知らせただけのものかも知れません。憐れむべき人は世の名に大勢いるだろうとは思います。それから十数年後の10月15日に私はカトリック教会にて洗礼を受けて今に至ります。社会保険事務所に行く途中に木造の古い教会があった。ここが良いなと私は思った。社会保険事務所の帰り神父を訪ねようと門をくぐった。昼間の教会にはバザーの支度だったらしい婦人が3名いた。入り口には一台の白いセダンが止まっていて、そのナンバーは78-78だった。暫くしてから気がついたがその教会はM運輸の営業所からの帰り道何時も通っていた国道の傍にあった。「人間の愛は価値依存の愛だ。」という加藤副牧師の言葉だけが心に残った。それでは・・神の愛は・・・。


 

                               主は遠くから彼に現れた
                               わたしは限りない愛をもってあなたを愛している
                               それゆえ、わたしは絶えずあなたに
                               真実を尽くしてきた

                                             エレミヤ書・1-3






 
                                         ーおわりー


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