立春も過ぎ、町の空気も何処となくバレンタイン一色に染まりつつある中、つくしの顔色はどこか冴えない。
と言うのも、昨年夢子にした相談事が、何一つ解決していないからだ。
手術の件もそうだが、何より一人息子である修平の行く末が全くもって決まっていない。
それが一番の懸念材料である。
「夢子さんにそれとなく聞いても、『心配しないで。あと少しで解決するから大丈夫よ』の繰り返しだし」
そもそも、何が解決するの?
私の手術の事かしら。
それとも、私がこの世から去った後の、修平の今後について?
いやいや。もしかしたら、両方いっぺんに解決するって意味かもしれない。
などと、頭の中であれこれ考えているうちに目的地に到着したつくしは、先方から指定された場所へと歩みを進めた。
実は一週間ほど前、つくしは夢子から電話をもらっている。
その内容は、
「つくしちゃんに大事なお話があるの。まずは、つくしちゃん一人だけで来てくれる?」
という、どこか意味ありげなものだった。
ニュアンス的に、どうやら難しい話になりそうだと当たりをつけたつくしは、修平を伴わず自分一人だけで話を聞くと返事をした。
だが、学校が休みになる土日は無理だし、平日は平日で仕事があり難しい。
有給休暇を取るにしても、休む一ヶ月前に申請しなければならないので、急に話があると言われても時間を作るのは無理だ。
だから、会えるのは早くても3月初頭になる。
そう告げるつくしに、
『つくしちゃんや修平君の為にも、早い方がいいの。何とかならないかしら』
「何とかと言われましても・・・」
『平日の仕事終わりに、どこか時間を作ってもらいたいの。今月は無理にしても、来月2月には会って話したいのよ』
「2月の平日は───」
『無理を承知で言ってるの。お願いよ、つくしちゃん』
夢子は必死になって懇願した。
いつになく強引に。
そんな常ならぬ夢子の様子が電話越しにも伝わったのか、電話をもらってから数日後、つくしは何とか2月初めの平日に時間を作った。
但し、1時間ほどしか時間はとれないが。
その旨を先方に伝えると、それでも構わないという返事だったので、こうして今、つくしは指定された場所までやって来たのだった。
「えっと・・・あ、ここだ」
「いらっしゃいませ」
「あの、こちらで人と会う約束をしているんですが・・・」
「失礼ですが、牧野様でございますか?」
「へっ!?あ、そ、そうです。牧野です」
「お待ち致しておりました」
丁寧にお辞儀をされ、ご案内致しますと言われたつくしは、係員の後をついて行った。
そして、店の個室に連れられ中に入り、まだ誰もいない席に腰掛けると、思わず辺りをキョロキョロ見渡した。
「あ、あの!」
「何でございましょう」
「早く来すぎましたか?」
「いえ。そんな事はございませんよ」
「そう・・・ですか」
それならいいんだけど。
ほら、約束の時間より10分早く来ちゃったしと、独りぶつくさ言うつくしに対し、係員は笑顔を見せながらお茶をお持ちしますと告げ、個室から出ていった。
そんな係員の姿を目で追ったつくしは、だだっ広い部屋に一人取り残されソワソワし始めた。
と言うのも、普段こんな広い部屋に一人身を置く事がないからだ。
物心ついた時から現在に至るまで、狭いアパートでしか暮らした事のないつくしにとって、この部屋の広さは居心地の悪さを感じる。
「修平と暮らしてるアパートより、ここの個室の方が広いじゃないの」
思わずそうぼやいたつくしは、自嘲しながら深い溜息を吐いた。
母子二人が暮らすのは、間取り2DKの古いアパートだ。
築年数が経っているのでリフォームはされているものの、それでも古い事には変わりない。
「古くて狭いけど、それでも幸せだからいいもんね」
などと口にしてはみたものの、強がっている自分を否めない。
だからと言って、今の環境を嘆いている訳でも、否定している訳でもない。
息子と二人、慎ましくも仲良く幸せに暮らしているのは事実だ。不満はない。
しかし、ふとした瞬間に過(よぎ)る虚無感は、どうにもこうにも拭えないのだ。
「仕方ないじゃない」
子供を盾にとり、結婚を迫ればよかったのか。
それとも子供を堕胎して、なに食わぬ顔して傍にいればよかったのか。
「そんなの、出来る訳ないじゃない」
好きな人だからこそ困らせたくないし、好きな人の子供だからこそ産みたい。
だから、一人で産んで一人で育てた。
などと、偉そうな事を言える立場でないのは、つくし自身がよく分かっている。
何せ、あきらの母親である夢子に色々と手助けしてもらったのだから。
「夢子さんに叱られたなぁ。子供が一番の被害者だって」
独り善がりをするな。
責任持てない事はするな。
自分は好きな人の子供を産めて幸せかもしれないが、その後の生活はどうするつもりなのか。
成長した子供から父親について訊ねられたら、どう説明してどう対応するのか。
その辺りの覚悟はあるのか。
等々、手厳しい事をつくしは夢子から言われた。
だが、
「嬉しかったな。親身になって叱咤激励してくれる人が、私にもいるんだと分かって」
自分は一人ぼっちじゃない。
耳障りのいい言葉だけじゃなく、ちゃんと耳の痛い事も言ってくれる人がいる。
そんな信頼出来る人がいて、私は本当に幸せ者だと数年前を懐古していたつくしの耳に、係員の訪う声が届いた。
「お待たせしました。お茶とお茶請けをお持ちしました」
「あ、ありがとうございます」
「お連れ様から、もう間もなく到着するとのお電話がありました」
「あ、はい」
「それでは失礼致します」
お辞儀をした係員がこの個室から出て行くのを確認したつくしは、
「夢子さんが来る前に、お茶菓子を食べちゃおうっと」
込み入った話になったら、茶菓子を食べてる場合じゃないしねと自分に言い訳しながら、一目見て高級だと分かる茶菓子を頬張った。
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