前回、漱石は青の洞門を通らなかったようだと書きました。今回は、その青の洞門の写真を掲載することにします。
青の洞門は江戸時代に往来の難所とされた山国川の岸壁に享保20(1735)年から 洞門を掘り始めた禅海和尚の名と共に今でも語り伝えられています。次に中津耶馬溪観光協会のHPから記事を転載します。
〈禅海和尚は托鉢勧進によって資金を集め、雇った石工たちとともにノミと鎚だけで掘り続け、30年余り経った明和元年(1764)、全長342m(うちトンネル部分は144m)の洞門を完成させました。
寛延3年(1750)には第1期工事落成記念の大供養が行われ、以降は「人は4文、牛馬は8文」の通行料を徴収して工事の費用に充てており、日本初の有料道路とも言われています。〉
寛延3年(1750)には第1期工事落成記念の大供養が行われ、以降は「人は4文、牛馬は8文」の通行料を徴収して工事の費用に充てており、日本初の有料道路とも言われています。〉
青の洞門 出入口を望む 今ではよい道が通っています。道路の左側に階段が見えますが、これは禅海が元々掘った洞門の一部に通じるものです。 ↓
階段を降りると、標識があります。 ↓
禅海の掘った洞門が一部保存されています。 ↓
禅海の手彫りの鑿の跡が見られます。 ↓
青の洞門の近くの広場には禅海和尚像や資料が展示されています。 ↓
禅海和尚像 ↓
青の洞門の話は、大正8(1919)年発表の菊池寛の小説「恩讐の彼方に」できわめて有名です。小説の主人公了海は元旗本で主人を殺してその息子から仇討ちされるべき人物となっていますが、それは菊池寛の創作で、禅海にはそうしたことはありませんでした。菊池寛によって青の洞門が有名になったことは確かでしょうが、了海=禅海と思っている人が多くいるかもしれません。
菊池寛の肖像もありました。 ↓
ちなみに、菊池寛は、芥川龍之介らの「新思潮」に加わり、大正5年(漱石はこの年の12月に死去)に漱石の木曜会に参加しています。
*ご覧くださり、ありがとうございました。