ハナの花

そのときどきの出来事や見聞について記します。

旅先の光景;夏目漱石のゆかり(7) 耶馬溪 賴山陽 擲筆峰(てきひっぽう)

2021-09-15 10:24:18 | 漱石ゆかりの地
 引き続き、漱石の明治32年1月五高の同僚奥太一郎との旅行についてです。

下は旅程の概略です。
1月1日 熊本出発・小倉泊
1月2日 宇佐八幡参詣  四日市泊
1月3日 耶馬溪 口の林(くちのはやし)泊
1月4日 耶馬溪 守実(もりざね)泊
1月5日 日田 吉井(よしい)泊
1月6日 久留米 熊本帰着
(小倉泊、四日市泊は、近砂敦さんの『耶馬溪』に拠ります。)

 耶馬溪には賴山陽が訪れたときに、余りの絶景に筆を投げ出したという〈擲筆峰(てきひっぽう)〉があり、今では記念碑があります。 ↓

 漱石は、耶馬溪について「山陽の賞囋し過ぎたる為(ため)にや左迄の名勝とも存ぜず通り過申候」と友人への手紙に書いています。山陽は賴山陽のことです。
 『草枕』の中で、寺の和尚が、賴春水(山陽の父)、賴杏平(春水の弟)などと比べて「山陽が一番まずい様だ。どうも才子肌で俗気があって、一向面白うない」と言っていますが、これは漱石の見方でもあったようです。
 漱石は、山陽の書は否定的に見ていますが、『日本外史』については否定的には言っていないようです。審美眼が合わなかったのかもしれません。

擲筆峰;戦前(大正?)の絵葉書 「山陽投筆」と下の説明書きの中にあります。 ↓


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『論語』つれづれ27 子曰く、「吾十有五にして学に志す。・・・」      2021.9.15

2021-09-15 09:36:54 | 論語
 今回は孔子が晩年に自己のあり方を振り返って述べた章を取りあげます。

〇子曰く、「吾十有五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑はず。五十にして天命を知る。六十にして耳順ふ。七十にして心の欲する所に従ひて、矩を踰えず。」                                         
〇読み しいわく、「われじゅうゆうごにしてがくにこころざす。さんじゅうにしてたつ。しじゅうにしてまどわず。ごじゅうにしててんめいをしる。ろくじゅうにしてみみしたがう。しちじゅうにしてこころのほっするところにしたがいて、のりをこえず。」
〇意味 先生がおっしゃった、「私は十五歳の時に本格的な学問に志した。三十歳で、何とか学問の基礎ができた。四十歳で学問の道に迷わなくなった。五十歳で天から授かった使命がわかった。六十歳で他者の言葉を素直に聞けるようになった。七十歳で自分の思いどおりに行動しても人の道をはずれなくなった。
(注)上に記した意味は、人によって異なる部分があります。

 ここから、人の年齢について、志学(しがく)=十五歳、而立(じりつ)=三十歳、不惑(ふわく)=四十歳、知命・知天命(ちめい/ちてんめい)=五十歳、耳順(じじゅん)=六十歳、従心(じゅうしん)=七十歳、という言い方ができました。

 この章を読むと、孔子はまったく努力の人だと思わされます。
 また、あくまでも矩=さしがね・規範を言動の基準に置いているところは、人の道をまっすぐに歩む孔子らしい点だと感じます。

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