引き続き、漱石の明治32年1月五高の同僚奥太一郎との旅行についてです。
下は旅程の概略です。
1月1日 熊本出発・小倉泊
1月2日 宇佐八幡参詣 四日市泊
1月3日 耶馬溪 口の林(くちのはやし)泊
1月4日 耶馬溪 守実(もりざね)泊
1月5日 日田 吉井(よしい)泊
1月6日 久留米 熊本帰着
(小倉泊、四日市泊は、近砂敦さんの『耶馬溪』に拠ります。)
耶馬溪には賴山陽が訪れたときに、余りの絶景に筆を投げ出したという〈擲筆峰(てきひっぽう)〉があり、今では記念碑があります。 ↓
漱石は、耶馬溪について「山陽の賞囋し過ぎたる為(ため)にや左迄の名勝とも存ぜず通り過申候」と友人への手紙に書いています。山陽は賴山陽のことです。
『草枕』の中で、寺の和尚が、賴春水(山陽の父)、賴杏平(春水の弟)などと比べて「山陽が一番まずい様だ。どうも才子肌で俗気があって、一向面白うない」と言っていますが、これは漱石の見方でもあったようです。
漱石は、山陽の書は否定的に見ていますが、『日本外史』については否定的には言っていないようです。審美眼が合わなかったのかもしれません。
擲筆峰;戦前(大正?)の絵葉書 「山陽投筆」と下の説明書きの中にあります。 ↓
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