歴史とドラマをめぐる冒険

大河ドラマ・歴史小説・歴史の本などを中心に、色々書きます。
ただの歴史ファンです。

「青天を衝け」と「司馬遼太郎さん」のこと

2021-12-26 | 青天を衝け
「青天を衝け」はオリジナル作品ですが、多くの「優れた作品がそうである」ように、先行する諸作品の良いところをよく吸収して描いています。その先行作品として真っ先に挙げたいのは、司馬さんの「最後の将軍」「明治という国家」です。

そもそも徳川慶喜を同情的に描いた名作は「最後の将軍」ぐらいしかないような気がします。司馬さんは彼を「怜悧な人、政治家」として描きましたが、大森さんは「情の篤い人」として描きました。

「青天を衝け」はそもそも渋沢栄一を描くことが主眼で、「歴史」はさほど詳しく描かれませんが、歴史認識については「明治という国家」を大いに参照したようです。

私は近代史をあまり知りませんが、それでも旧幕臣である小栗、栗本、川路といった人々は知っていました。たしか「明治という国家」に登場すると思います。

「司馬遼太郎は明治維新を賛美した」などというのは、司馬さんを読んだことがない人間の暴言で、司馬さんは「幕府側の人間」を多く、同情と尊敬をもって描いています。

・徳川慶喜
・河井継之助
・松平容保(会津藩主)

などです。たまたま「竜馬がゆく」が大ヒットしたことで、明治維新を賛美したとされているのでしょう。でもそうなると「燃えよ剣」「最後の将軍」「峠」「王城の護衛者」などの作品はどうなるのか。

特に「峠」における薩長批判は鮮烈で「時流に乗って人を人とも思っていない官軍に、人間とは何かを思い知らせてやらねばならない」とまで主人公に言わせています。

青天を衝け・伊藤博文のことを少々

2021-10-03 | 青天を衝け
伊藤博文は日本最初の総理大臣という名誉と、日韓併合の象徴という悪名を背負っています。ただし彼が日韓併合をしたわけではなく、むしろ彼は反対派でした。その彼が大韓帝国人の安重根(アンジュングン)にロシアで暗殺されてしまう。それが1909年です。その暗殺が直接の契機となって、日本は1910年に大韓帝国を併合します。併合に積極的だったのは、山縣有朋などでした。伊藤はむしろ山縣を抑えていた。その伊藤を殺してしまったので、日韓併合は一気に進みました。

韓国の「歴史館」に視察旅行(ただの観光の)で行った時、通訳の人に「山縣有朋って知ってますか」と聞いたことがあります。通訳の人は知りませんでした。「伊藤より山縣を恨んだ方がいい」と私は言いました。通訳の人はなんと応じたか。それは覚えていません。20年ほど前です。私は「視察旅行の観光客様」でしたから、そりゃ歓待を受けました。牛肉が美味しかった。韓国の人はみんな親切だった。そりゃ「お客様」だから当然です。1度だけ韓国のじいさんに「日本人はここに来るな」と言われたことがあります。私が笑って「なぜですか」と聞いたら、正確には「ホワイ」と聞いたら、通訳やガイドの人が割ってはいって、そのじいさんと「大喧嘩」してました。私は「本音が知りたい」と通訳の人に頼みましたが、じいさんの言葉を翻訳してはくれませんでした。

あっ、伊藤の話です。

長州のお百姓さんです。やがて父親が下級足軽となります。松下村塾に入って、いろいろ雑用をやっているうちに頭角を表しました。吉田松陰からは「調整の才能はあるかな」程度に言われていました。高杉の藩内クーデターに「最初に協力した数すくない人間の一人」であったことが、彼の出世を導きました。最初は高杉に同調するものは極めて少なかったのです。伊藤は「力士隊」を率いていました。

伊藤の直接の恩人は木戸孝允でしたが、木戸は陰気くさく、陽の伊藤は苦手でもあったようです。明治政府ではいち早く長州から精神的に独立し、あくまで明治政府の青年官僚としての道を歩みます。山縣有朋が「長州のドン」というイメージなのに、伊藤が長州の親玉という感じがしないのはそのためです。

顔は平面的でした。イケメンとはほど遠い。でも最近は山崎さんとか加藤剛さんとか、ハンサムな俳優が演じています。だいたいは好意的に描かれます。ただ「八重の桜」では権力づくのなんだかいやな人物として描かれました。「るろうに剣心」などにもでていたと思います。かつて「なべおさみ」さんが演じましたが、顔はなべさんが一番似ています。

この人、私が思っているより「大政治家」のような気がするのですが、どうも調べてみる情熱がわきません。でも青天を衝けを見て、機会があったら調べてみようと思いました。

青天を衝け・ダラダラとした感想

2021-07-02 | 青天を衝け
面白いのだ。面白いのにブログを更新しなかった。特に理由はない。あっ、足の筋肉が痛い。ずっと。座ってPCだと足が痛い。

尊王攘夷は昔から嫌いだ。「お国のため」という考えが、全く賛美されない時代と環境で育った。栄一があまりに「お国のため」と言うから、そこは少しも面白くない。

でも前向きな主人公はいい。

これから明治になって「一人が豊かになってもしょうがない。みんなが豊かにならないと」という方向で生きることも分かっている。

だから安心して見ていられる。

面白いのだ。

安政の大獄・桂小五郎と村田蔵六・花神の話

2021-04-15 | 青天を衝け
大河「花神」は1977年です。しかし残っているのは「総集編のみ」です。全5回です。主人公は村田蔵六ですが、吉田松陰も高杉晋作も同列で主人公です。

桂小五郎は松下村塾の塾生ではなかったけれど、吉田松陰とは兄弟のような関係でした。ドラマ内では「先生」と松陰のことを呼んでいます。松陰が安政の大獄で死刑となった後、伊藤博文らとともに遺体を引き取りにいき、回向院に埋葬されます。

これは史実です。ここからはドラマの話です。「花神」においては、そこで桂小五郎は村田蔵六(大村益次郎)に出会います。小塚原処刑場で村田が何をしていたかというと「人体解剖」です。村田が人体解剖をしたのは史実と思われますが、「ここで」村田と桂が会った(初対面ではないが)ことが史実かどうかは、調べていないので分かりません。

ドラマでは、その時の桂小五郎はとても「感傷的な気分」でいたわけです。そして村田との出会いに「運命的なもの」を感じます。村田蔵六は長州の軍制を改革し、倒幕に力を発揮した人です。戊辰戦争の指揮を、西郷に代わって江戸でとりました。明治初年に暗殺されます。

さて、ドラマ。村田を見た桂は「吉田松陰が生まれ変わった」と感じます。松陰は1830年生まれで、村田蔵六は1824年生まれですから、村田の方が年上です。ここでいう生まれ変わりとは「吉田松陰の魂が村田に乗り移った」ということです。

「およそ同じ人類とは思えない村田蔵六と吉田松陰を運命的な絆として桂が結びつけた」とナレーションが入ります。同じ人類とは思えないとは、村田が技術者・科学者であり、松陰が思想家であるということでしょう。

桂は同じ藩の重役である周布に言います。

周布「生まれ変わり?あんたにしては珍しく浮ついたことを言うじゃないか」

桂「馬鹿なことを言っているのは自分でも分かっている。しかし村田が解剖刀を振るっている風景は、いかにも知力が充実し、ゆとりのある自然な胆力生まれていた。あの男の周りの空気の密度が高くなり、一種の神韻、精神の律動があった。」

それが松陰の風景と重なり合うと桂は考えます。そして当時、江戸で既に名高い蘭学者であった村田蔵六(長州の町医者出身)を長州で雇うように主張します。

安政の大獄は、一橋派の弾圧だけを目指したものではありません。問題は「戊午の密勅」でした。朝廷が幕府ではなく水戸藩に直接勅命を伝えたことが問題でした。「大政委任」の原則に背きますし、命令が幕府と朝廷から出たのでは混乱が生じます。それで尊王派が弾圧されました。吉田松陰も処刑されます。もっとも松陰は老中間部を暗殺しようとしていました(あくまで計画を立てただけ)から、全く「罪なしで」はありません。ただ計画段階で藩に知れて捕縛されていましたから、本当の意味で「紙の上の計画」で死刑となったわけです。もっとも具体的な行動として、老中を暗殺するから武器を貸してくれと藩に頼みました。政治家としてはあり得ない行動ですが、それによって自分の「真の心」を見せようとしたのでしょう。

司馬さんは彼独特の見解として(別に司馬史観というほどのものでなく)、明治維新は三段階だったと言っていました。「思想家→革命家→技術者」、思想家が吉田松陰ら、革命家が高杉晋作や坂本龍馬、そして技術者が村田蔵六です。私は子供の頃は科学少年で、科学者のような合理的精神に満ちた人間が好みでした。そのせいで、西郷とか龍馬より、村田が好きだったのだと思います。ただ調べてみると村田も結構熱い人です。

吉田松陰は草莽崛起を主張しました。身分を超えた志士の決起です。これを突き詰めると国民皆兵につながります。その国民皆兵を主張したのが村田らでした。

「青天を衝け」・井伊直弼が結んだ条約は「なぜ違勅なんだろう」という素朴な疑問

2021-04-09 | 青天を衝け
井伊直弼が結んだ条約というのは1858年7月の「日米修好通商条約」です。
「青天を衝け」ではナレーションで「天皇や朝廷の意見に背いた明らかな罪、違勅でした」と表現されました。
そうかな?と思いました。勅許なし、であることは知っています。しかしそれが「違勅」でありしかも「罪」とはどういうことなんだろうと考えこんだわけです。

・そもそも「条約を結んではいけない」という勅命があるのか。あるとしたら1854年の「日米和親条約」はどうして結ばれたのか。
・「天皇や朝廷の意見」なのか。天皇と朝廷の意見は一致していたのか。
・外交における決定権は幕府にあったのか。天皇・朝廷にあったのか。

まず朝廷の様子なのですが、近世の朝廷は「合議制」だったそうです。天皇の意志がストレートに「勅」にはなりませんでした。むしろ関白・太閤の決定権の方が強く、天皇は合議の結果を決裁するという形で意思決定がなされました。ところが時の孝明天皇は26歳ぐらいで、その後の活動を見ても分かる通り、活動的でした。

幕府で、条約の推進に当たったのは老中堀田、それに岩瀬忠震、川路聖謨といった能吏です。堀田たちは朝廷にも説明し、関白九条、太閤鷹司とは承認の方向で話あっていました。この二人が承認の方向なら、朝廷の意見が「承認」となるのは間違いないと思っていたようです。しかし孝明天皇は反対しました。そして攘夷系の公家とも図って、この条約への勅許を拒絶しました。「神州のけがれ」とか「議論不足」いった考えが強かったようです。

条約に勅許が必要という「ルール」は明文法としては存在しません。しかしこの頃の幕府はいわば「挙国一致」を目指していました。条約を結んだ後に朝廷に反対されては具合が悪いわけです。そこで老中堀田は「朝廷の許しを得ておくべき」と考えました。ただし孝明天皇自身は早い段階で条約反対の姿勢を明らかにしていました。しかし九条関白は、それを堀田にきちんと伝えていなかった。もしくは天皇の反対があっても関白の自分が承認なら承認と考えていたようです。(ここはもう少し調べてみます)

「勅許を受けようとしたため」に、反対されて違勅となってしまったとも解釈できます。「勅許」は明治期以降の日本人が考えるものとは当時は違います。井伊直弼も勅許があった方がいいとは考えていましたが、「勅許がないことは重罪」という意識はなかったようです。井伊の考えでは外交のおける決定権はあくまで「大政委任された」幕府にあるというものであったと思われます。ちなみに法制の学者さんによれば、「平安期」の違勅罪は従(ず)肉体労役1年半から二年で、貴族なら「罰金刑」ぐらいのものだったそうです。

井伊直弼はこの時「勅許を待たざる重罪は、甘んじてわれ一人で受ける」と言ったという話が「公用方秘録」という書にあるそうです。しかし学者さんの意見では、これは明治になって井伊家が作った創作です。「公用方秘録」の原本にはないとのことです。(佐々木克、幕末史)

水戸斉昭らは、現実を知っていましたから、条約締結自体に反対ではありませんでしたが、政敵井伊直弼を排斥する意図もあって、ことさらに違勅を強調しました。しかし作戦ミスでした。騒いだことで、逆に「一橋派」の岩瀬や川路が処分されます。そして自分たちも処分されてしまいます。

天皇と攘夷系の公家は、これに怒り、幕政改革の勅書を水戸に送ります。戊午の密勅といいます。「ぼご」です。なんで密勅かというと九条関白を通していないからです。既に書いたように、この問題に関する九条関白と天皇の意志はかなり違ったものでした。しかしこれも水戸の力を過大評価した行動で、「大政委任」の原則に沿わないこの密勅は水戸で「返納」ということにされてしまい、関わった公家、活動家も処分されます。これが「安政の大獄」の原因でした。(勅書返納をめぐり、水戸藩は分裂します。激派と鎮派。激派といわれた集団の一部が水戸を脱出し、桜田門外の変を起こします。なお孝明天皇は亡くなるまで基本は大政委任派です。)

孝明天皇は大老井伊直弼から「説得」を受けます。そして「心中氷解」と述べ、攘夷が実際には難しいことも理解します。しかし攘夷という姿勢はあくまで崩さず「条約破棄の猶予」という形で応じます。「基本的には攘夷だが、やみくもに外国を打ち払うという攘夷は望まない」。孝明天皇は亡くなるまでこの姿勢だったと思われます。

堀田も井伊も、「大政委任」である以上、勅許は必須とは考えておらず、不文律としてもそのようなルールは存在しないと考えていたようです。しかしいわゆる「尊皇攘夷派」は、そのような考えを許しませんでした。流れをみると、老中堀田は朝廷に対してきちんと順序を踏んでいます。岩瀬が締結を急いだのは、アロー号事件に見られるイギリスの脅威への対応からでした。現場の外交官としては現実的な対応だったわけですが、そうした現実を知るものは多くはなかった。もう少し時間があれば、天皇の意志を「攘夷開国」、つまり開国による富国強兵、それをもとにした外交による攘夷に変えられたのではないかと思います。天皇の「心中氷解」という言葉は天皇がこの条約を「やむなし」と考えたことを意味すると思いますが、それは天皇の意志が多少軟化した、現実的になったというだけのことであり、攘夷系の公家やいわゆる尊王攘夷派の工作もあり、実際にこの条約に勅許が下ったのは7年後の1865年11月です。ただし書いてきたように、朝廷の意志は「承諾である」と堀田が感じたのは正しい感覚でしょう。関白や太閤の出した意見が、天皇や攘夷系の一部の公家の意志によって覆るという事態は、当時の朝廷の「あり方、伝統」からみて想定し得なかったと思います。この孝明天皇の活動力、そして一橋慶喜の才気、岩倉具視の智謀、薩摩の実力、長州の熱気、会津の軍事力が幕末動乱期を実に複雑なものにしていきます。

一橋慶喜と桜田門外の変・会沢正志斎と水戸学の分裂

2021-04-06 | 青天を衝け
「青天を衝け」のネタバレを積極的にする気はないのですが、「史実のネタバレ」がありますからご注意ください。もっとも史実と言っても、比較的有名な事柄ばかりで、たいしたもんではありません。少し歴史を知っている方は、読んでも大丈夫だと思います。「天狗党」についても触れます。

「青天を衝け」では今週「茶歌ポン」井伊直弼が大老となって、来週にはもう「桜田門外の変」です。この間、1858年4月から1860年3月。2年です。一橋慶喜が登城禁止になったは、1858年7月です。慶喜が謹慎を解かれるのは1860年の9月です。

水戸学というのは「幕末の思想」です。後期水戸学とも言われます。戦前まで大きな影響力を持っていました。さらにこの後期水戸学は「藤田東湖の水戸学」と「会沢正志斎の水戸学」に分かれます。どっちも戦後「天皇制ファシズムの思想的基盤、危険思想」として否定されましたから、研究はしばらく停滞していたようです。

水戸学というのは「身分制を前提にした秩序安定のための思想」です。天皇がいて、政治を委託された将軍がいる。その下に藩主がいて、それぞれの家臣がいる。その下に町人とか農民がいる。そういう「身分制秩序を守ることで、日本全体が安定する」。身分に応じた道があって、それぞれがそれを守ることで社会全体が安定する。基本的には「幕藩体制の強化」を目的としたものでした。倒幕を目指したものではありません。

しかし藤田東湖は踏み込んだ主張をしました。低い身分の者であっても「天下国家(天皇を主とする日本)に関心を持つべきだ」としたのです。これは明らかに幕藩体制への批判です。渋沢栄一ら「豊かな農民」は「読書階級」であっても「低い身分」です。どんなに修養を積んでも天下国家に参加することはできない。そういう「教養ある農民層や下級武士層」が「藤田東湖の水戸学」に「心酔」したのは、そこに「身分制社会を否定するかの如き」考えがあったからです。

今「身分制社会を否定するが如き」と書きました。水戸学はあくまで「江戸期の身分制社会が生み出した思想」で、そこに純然たる平等思想がないことは当然です。あくまで幕藩体制を守るための思想なのです。だから「如き」となります。「秩序思想」ですから「身分制を根こそぎ否定する」ことはありません。身分制とは、例えば男と女。殿と家臣。武士と農民、下級武士と上級武士というものです。

徳川慶喜は藤田東湖の思想(水戸学)を学んだとされますが、彼は貴族中の貴族ですから、身分制度の堅持は自明の考えでした。実際、彼は天狗党の乱を起こした藤田東湖の息子らを「討伐」し、藤田小四郎は斬首の後さらし首となります。藤田東湖の「身分制社会を否定するが如き」考えには共感することはなかったと思われます。

水戸では「水戸学派の分裂」が起きました。安政の大獄に伴った動きです。藤田東湖の流れは「激派」と言われ、会沢正志斎派は「鎮派」と呼ばれます。過激派と穏健派です。

井伊直弼の水戸斉昭処分等に対し、朝廷は「幕政改革」に関する「勅書」(天皇の意向)を水戸藩に伝えます。孝明天皇自身が主導したようです。しかしこれを受けるか否かで、水戸藩は二つに割れます。朝廷に「送り返す」、返納すべきだというのが「鎮派」の考えです。「激派」は受け取るべきだと主張しました。

この時、水戸の徳川斉昭は会沢正志斎に強く説得され「返納」に同意します。「激派」は鎮圧されることになり、その一部は江戸に脱出します。この「脱出した激派」が起こしたのが「桜田門外の変」です。彼らは本当の意味の脱藩浪人だったのです。水戸では鎮圧される側の人間たちでした。

その後、この「激派」は藤田東湖の息子、藤田小四郎らを中心にして活動します。しかし「いろいろあって」、結局は勅許を仰いだ上で、一橋慶喜によって討伐されました。

水戸学といっても、藤田東湖の流れと、会沢正志斎の流れでは歴然とした差異が存在するようです。

「青天を衝け」と「安政の大獄」

2021-04-04 | 青天を衝け
安政の大獄というのは、最初は一橋慶喜派の弾圧から始まりました。でもそうすると一橋慶喜なんて関係ない「吉田松陰」がどうして殺されたのかということになります。徳川家定が死んだ後に弾圧は厳しくなります。新将軍は13歳ぐらいですから、これらは全て井伊直弼の命令です。

時の天皇は孝明天皇でして、かなり「活動的」な天皇でした。この後、手紙で会津を動かし、長州の追い出しなどにも成功します。

黒船以降、幕政改革を求める声は各所から上がってきます。井伊の考える本来の幕政のあり方からすれば、全く伝統無視の「異常事態」に見えたわけです。

慶喜擁立問題は、家茂の擁立で一応の決着をみます。にもかかわらず、井伊はその後、弾圧を強めていきます。

もっとも問題であったのは、朝廷が水戸藩に詔勅という形で「幕政改革」を命じ、それを各藩に回すように迫ったことです。これが安政の大獄における本質的な問題です。

朝廷を動かしたのは、公家や、尊王派だったと考えられますが、孝明天皇自身も「かいらい」などではありません。天皇主導だという説もあります。水戸藩としてはことが幕府政治の根幹にかかわる重大なものであるため、対応に苦慮します。結局、御三家、御三卿には回したものの(朝廷からも直接送付されていた)、井伊直弼の命令によって「秘匿」します。つまりは断りました。

朝廷の幕政への「直接的な」口出し。しかも幕府にではなく、水戸藩に伝えてきた。(幕府には二日遅れて知らせた)。これを許せば古くからの幕府体制は根幹からゆらぎます。井伊が「止めよう」としたのは「朝廷が形式的な立場」を超えて「リアルな政治」に直接的な形で口を出すことでした。「朝廷が」というより、その背後にいる雄藩やいわゆる「尊王の志士が」かも知れませんが、孝明天皇自身も「この段階では」強い攘夷派だったようです。

幕府は幕末、外交問題を朝廷に相談して勅許を都合よく使っていたふしがあります。幕府と朝廷が相談する、ならいいわけです。しかし水戸藩は親戚といえど、そもそも幕政に参加できません。斉昭の幕政参加は例外中の例外です。朝廷としても「相談されてきた」という事実があるため、「意見は言えるもの」と考えたのでしょう。しかし幕府を飛び越して水戸藩に直接にそれをやってしまった。

「こうした形の」朝廷の幕政介入を防ぐため、井伊直弼は公家や親王を処分し、「過剰な尊王思想」を広めたとされた「吉田松陰」など思想家、水戸学派などを弾圧しました。
これが安政の大獄の本質のように思います。

偉そうに書いてますが、読んでみるとすべてウィキペディアに書いてあるなと思います。

かなり強硬的な「政治弾圧」「思想弾圧」事件でした。しかし井伊直弼にとっては「古き本来のご政道」に戻す道だったのでしょう。しかしこの強硬策がかえって幕府への反発をあおってしまいます。

この時期、朝廷を「説得」して協力し、朝廷の同意を得た上で政治を行うことが「うまいやり方」でした。孝明天皇自身にも、倒幕の考えはなく、「大政委任」派で、佐幕的でした。井伊直弼、天皇、どちらの側にも「思い違い」があったように思えます。

青天を衝け・第6回・「栄一、胸騒ぎ」・感想・明るい幕末大河

2021-03-22 | 青天を衝け
青天を衝けは、90過ぎまで生きた渋沢栄一が主人公ですから「幕末大河じゃないかも」知れません。でも今はまあ幕末です。

幕末から明治の大河を「予習」しようと思って「八重の桜」をきちんと見てみました。「いい作品」です。しかしながら「暗い」。長谷川博己さんの晩年なんで涙ものです。基本的に「会津の苦悩」を描いていますから、明治になっても暗いのです。朝敵とされたことへの恨み、がそれぞれの人物を動かしていきます。

青天を衝け、は「明るい幕末大河」です。見ていて気持ちが明るくなる。それがいい点です。今週などは「初恋」がテーマです。

時代的にはすぐに「安政の大獄」が始まりますが、あまり描かないかも知れません。深く描かなくてもいいと思います。本当に暗い事件ですから。

あとはぐたぐたと感想です。

・徳川慶喜の正妻がヒステリー持ちという情報を知らなかったので、驚きました。史実に近いというから余計驚きです。

・尾高家は兄さんも長七郎もバリバリの尊皇攘夷派という感じですが、渋沢栄一はその点、あまり思想的ではなく、のめり込んでいく感じがない。そこがいいと思います。

・橋本愛さんは美しい女優さんです。登場人物の真田さんは、「こんな田舎にあんな美女が」と言います。とはいうものの、栄一にしろ喜作にしろ、とんでもないイケメンで、むしろそっちに驚くべきかと。

・徳川慶喜、何考えているか分からない感じがいいと思います。草なぎ剛さん、好演です。最近の幕末大河は慶喜を少し軽く見すぎでしたから、私としては彼の難しい立場がよく描かれていると好印象を持っています。

青天を衝け・第2回・「栄一、踊る」・感想

2021-02-21 | 青天を衝け
「麒麟がくる」に比べると、「茶を飲んだから急に毒で人が死ぬ」こともなく、安心して見ていられます。

前半では「お代官様」の不合理が描かれます。不合理なのかな?渋沢栄一の一族は「コメを生産して」いません。基本的には年貢はなかった?のかな。蚕と藍玉でしこたま儲けて、富農階級です。

お代官様からは、100人の人足と、2000両の献金を求められます。2000両。一番安く見積もって8000万円。もしかすると2億円です。それだけの献金を「わかりました」と請け負っています。ただし人足は減らしてと頼んだ渋沢父はお代官様から激怒されます。

官尊民卑への抵抗。これが渋沢栄一のキーワードですが、さっそく登場しました。

一橋慶喜は吉幾三さん12代家慶にかわいがられています。12代がやがて亡くなって、面倒なことになっていきます。それは先の話なのかな。

渋沢さんは15歳ぐらいになります。吉沢亮さんです。「いい男」です。実際の渋沢栄一は若い時から小デブで小さく(150センチ)、お世辞にもいい男ではありません。

でも渋沢がこれだけいい男になれるなら、村田蔵六とか河井継之助とか、一種気合の入ったブ男も、いずれは「いい男になるのかな」と考えました。

いろいろあるものの、富農のお坊ちゃまの青春であって「牧歌的」です。こういうのも悪くないと思います。

渋沢の自伝である「雨夜譚」あまよがたり、を読み始めています。徳川宗家、将軍家分離論など語っています。ただし後年になって語ったものなので、どの程度当時の状況を反映しているのか。

以上。


青天を衝け・第1回・「栄一、目覚める」・感想・子役が女の子かと思ったことなど

2021-02-14 | 青天を衝け
積極的にネタバレさせるつもりはありませんが「これからの史実がネタバレする」ことはあります。

といっても渋沢栄一については「ウィキベテア程度の知識」しかありません。しかもあまりに多くのことをやっているために、「結局何やった人」という部分が少しあいまいになってしまいます。

さて第一回の感想です。
子役の男の子が「女の子」に見えます。声も女の子の声のように感じます。でもクレジットを調べると確かに男です。つまり「かわいい」ということです。うまい演技してました。

前半は「渋沢栄一と徳川慶喜の二人主役」でしょう。明治になってからは渋沢一人だと思います。徳川慶喜の子役はイケメン風の子供です。慶喜の屈折を多少感じさせました。
屈折というのは「誰もかれも俺に期待しやがって。そんなに期待されても困る」という屈折です。12代将軍、家慶というより吉幾三さんも、大層気に入った様子です。
この子は今回は見事「飛ぶ鳥を射落とし」ます。「鳥を殺してはだめでしょ」と「超現代人的な感想」が心に浮かびました。

渋沢栄一はまだ子供です。歴史的人物としては高島秋帆が出てきます。玉木宏さんです。正直「名前を知っている程度」の人物です。調べてみると確かに、栄一たちの岡部藩に罪人として預けられたようです。罪は「ずざんな組合経営」みたいです。どうやら冤罪ぽいので、作中では冤罪とされるでしょう。砲術師範です。

武田耕雲斎が出てきたので「ああ、あれを描くのかな。でも暗いぞ」と思ったり「水戸斉昭はまあこんな感じかな。言葉が多いのだよ。悪く言うと言葉だけだ」と思ったりしています。
そもそも「幕末大河」を最近ほとんど見ていなかったので「幕末大河の見方がよくわからない」と思ったりしています。

徳川慶喜については、渋沢栄一の主君ということで、「よく描かれる」ことは間違いないでしょう。少なくとも「江戸のヒー様」とかいうことにはならないと思います。写実的だと、そう期待しています。会津にやったことはそりゃ酷い仕打ちで、悪い点も多くある人物ですが、いい点も沢山あります。「維新最大の功労者の一人」という評価すらあるのです。とにかく幕末から昭和を描くとなると「そんなに史実からはずれてしまっては」困ります。戦国ならいいけど、近代はだめだというのが個人的見解です。

ここからは作品から完全に離れます。

明治維新、幕末、、、しばらく考えたことなかったなと思います。最後にはまった大河が「翔ぶが如く」で、それ以降はみんな「うーん」という感じです。「龍馬伝」「八重の桜」「花燃ゆ」「西郷どん」、、、たぶん「八重の桜」は良い作品なんでしょう。でも「なんとなく見た」程度です。その他も「なんとなく」です。

司馬さんのファンなのに、坂本龍馬にそれほど魅力を感じない。新選組は血に染まりすぎている。体育会系の土方歳三も苦手。

じゃあ誰が好きかというと長州系で桂小五郎とか村田蔵六です。大河、小説「花神」の影響でしょうね。

明治維新は三段階からなると司馬さんは言っていました。まず「思想家」が現れる、吉田松陰です。それから「革命家」が現れる、高杉晋作、坂本龍馬、西郷隆盛です。そして「技術者」が現れて「仕上げ」を行う。村田蔵六です。もちろん独特の見方であって、歴史学者でこんなことをいう人はいないでしょう。

思想家→革命家→技術者、、、「坂本龍馬が維新の仕掛け人とするならば、仕上げ人は大村益次郎(村田蔵六)」ということになります。

すると「徳川慶喜」「渋沢栄一」はどうなるのか。徳川慶喜は「徳川側の維新の仕上げ人」でしょう。彼が将軍でなければ内戦はもっとずっと長く続いたはずです。そして渋沢栄一は「完成させた人」となるかと思います。明治維新は、徳川を倒す運動ではなく、近代国家を建設する運動でした。しかしそれを担った人はそう考えていなかった。考えていても一部の人であった。村田蔵六はその一部の人の一人です。徳川慶喜にもそれが見えていたと思います。西郷は、、、どうもよく分かりません。

「完成させた人」は多くいます。資本主義の発展(労働者の生成)という面からみると渋沢栄一らでしょう。軍隊となるとたとえば西郷従道(山縣有朋)、政治制度となると伊藤博文ら。そして近代日本語の完成となると夏目漱石らということになります。

でも自信はありません。どうもあまりに「幕末、明治を考えない時間」が長すぎました。