麒麟がくる・ユースケ演じるところの朝倉義景(よしかげ)、鮮烈なデビューでした。もういい。満足という気すらします。私は今まで朝倉義景のことをほとんど考えたことはありませんでした。有名なのに印象が薄い。織田信長の引き立て役。しかしユースケさんは見事に「朝倉義景を考える機会」を作ってくれました。で、考えてみます。私は「まとめ人」ではないので私見です。
昨日の第十八回「越前へ」の前半は1556年(長良川の戦い)です。でも後半は1558年(信長が弟暗殺)。以下は朝倉義景に関する「感想文」です。
朝倉義景は信長や帰蝶とほぼ同学年で、1533年生まれ。ユースケさん、23歳ぐらいからも知れません。福井県あたりの名門、朝倉氏の棟梁です。光秀がやってくる前の年までは、「ひいじいさんの弟」が政治をやっていました。ひいじいさんの弟、朝倉宗滴(そうてき)です。やっと自分で政治を始めたところだったわけです。南の滋賀県には浅井氏、同じく南の美濃岐阜には斎藤義龍。浅井とは良好、義龍とも険悪ではない。義龍つまり高政の子、龍興(たつおき)はやがて朝倉義景を頼ることになります。
南の滋賀県、さらに琵琶湖の南には六角氏。ここは浅井氏と争っていましたが、六角氏は強くはなく、朝倉は直接に合戦などはあまりしていないようです。そもそも六角さんと朝倉さんは国境を接していないように、地図上は見えます。
つまり「周りに敵国がない」、いや一つだけあります。東の加賀石川、一向一揆勢力です。手ごわいですが、終始戦っていた様子はありません。ドラマに描かれたように平和な感じの国だったのです。「感じ」ですよ、一向一揆勢力は並みの大名より手ごわいですからね。それから西の若狭の武田氏(信玄じゃないですよ)にも手を出してました。しかしこれは武田氏の「お家騒動を抑える」というPKO的出兵だったようです。
という事情で越前福井はいわゆる「小京都」で、ドラマに描かれたように、荒廃した京都よりずっと京都的な「文化都市」だったようです。
そろそろ愚将なのか、バカ殿なのかに入っていきますが、そういう次元ではないかもしれない。なんせ「自分では戦わない・あまり政治もしない」のです。あの有名な姉川の戦い(対信長)ですら総大将は朝倉景健(かげたか)です。親戚ですが家臣筋の武将です。加賀を攻めた時は大将は朝倉景鏡(かげあきら)、いとこです。この人、最後にユースケを裏切ります。
むろん自分で大将もします。でもすぐ「帰ってしまう」のです。比叡山に籠った時も帰ってしまう。織田との最後の決戦時も浅井と共に出撃したものの、とにかく帰ってしまう。
ただ朝倉義景の名誉のために書いておきますと、結構対等に戦っているのです。そんなにあっけなく負けはしない。信長も相当困ったはずです。姉川だって結構危なかったみたいだし。
まあでも最後は浅井も敗れ、結局は朝倉も一乗谷を攻められて滅びます。滅亡は朝倉のほうが10日ぐらい前だったかな。
だから「愚将だ」「バカ殿」だという気には私はとてもなれないのです。といって近代装備も整えていたから実は傑物だともいう気もありません。
まわりにそんなに敵がいなかったのだから「穏やかーに暮らしたいのじゃ」となるのは当然のように思うのです。一向一揆を退けて、隣の若狭の内紛を抑えていれば「小京都で平和に豊かに暮らしていける、光秀に米代をくれてやる、こともできる」のです。なんでわざわざ戦う必要があるのか。これが当時も普通の感覚だったのではないかと思うのです。だから兵を率いての上洛などどの大名もしなかった。
最後の将軍、足利義昭が頼ってきたのに、上洛しなかったことで愚将ともされます。でもユースケ、朝倉義景にしてみれば「なんでわざわざ京都に行って松永や三好三人衆と戦う必要があるのか。ばかじゃないか」というところでしょう。
上洛しようと思えばできたかも知れません。一向一揆と和睦し、浅井とともに浅井領を通っていけば距離は短い。でも松永や三好三人衆と戦うことになります。「リスクが大き過ぎる、家の利益にならない」と考えるのが当然です。京都の紛争に巻き込まれる必要はないのです。無理して坊さん上がりの義昭を将軍にして、それで何が変わるのか。いきなり諸大名が義昭の権威にひれ伏すのか。そんな馬鹿なことは起こりえない。今までだってずっとそうだったじゃないか。義昭の兄貴の義輝なんか暗殺されちゃったじゃないか。義輝と義昭の親父の12代義晴も、気が付くと京都にいなかったじゃないか。
でも織田信長という武将が、美濃を征服し、勢いに乗って足利義昭をかついで上洛します。美濃から京都への途中にある伊勢の国も、滋賀の六角氏も抵抗できません。ユースケは「なんだあいつは」と思ったと思います。バカじゃないかと。「滅びるぞ」と。
ちなみに信長は六角さんを説得はしたようです。でも六角さんは抵抗。じゃあ、殺すよ、ということで押しつぶします。ドラマなら「仲良くする機会は与えたのにーー」と突然激情にかられるあの染谷くんを想像すればいいと思います。六角さん、逃げて、この後、ゲリラになって戦います。六角さんて、あの名門の佐々木氏です。
そんなこんなで上洛、織田信長が義昭を通して「京都に来い」と言います。「行くわけないじゃん」とユースケは考えます。「巻き込まれたくない。東の一向一揆もある。なんか暗殺とかしそうなやつだし。それにこっちは名門だぞ。なんだ織田って、尾張の奉行じゃないか」と。行かなくたって、こっちに信長や京都を攻撃する意思はないのだから、まさか越前に攻めてくるはずもない。松永久秀は信長派になったが、信長は三好三人衆とは戦っているわけだし。本心かどうかは分からないが「天下静謐」(せいひつ)とかを建て前としてるようだし。越前は「天下とあんまり関係ない」し。天下静謐はこのユースケも大好きだし。
ところが信長は、若狭の武藤(武田じゃなく)を討つという口実を設けて攻め込んできます。ユースケは驚いたと思います。「えー天下静謐じゃなかったの?話ちがうじゃん。まあ一回落ち着こうよ、ね、染谷くん」というところです。
そして、なにより驚いたのは、朝倉義景と良好な関係だった浅井長政だと思います。「えー、なんだこいつ。俺の嫁のお市の兄貴。相当おかしいぞ。美濃と国境を接してはいるが、自衛中心国家である越前を攻めるって、信じられない。ダメだこいつ。痛いやつだ。こいつと組んでいたらまずい」と思ったのではないでしょうか。
それほどに信長の行動原理は異常だったのです。だから当然のこととして浅井長政は「裏切り」ます。「裏切り」というより、「当然の行為」だったはずです。で、金ケ崎の戦い、信長は逃げます。「信長最大のピンチ」とよく言われます。本当にこれが最大なのかな?それはまた別に調べます。とにかく信長は「命からがら」逃げました。「しんがり」は光秀と藤吉郎と池田勝正(恒興じゃない)
途中からは「松永さん」が信長を助けます。
話戻って、朝倉を攻めたことで、浅井長政ははっきりと織田信長の危険性を悟り、天下のために滅ぼすべしと考えたように思うのです。戦国大名が、それぞれ独立しながら、国境で小競り合いをしつつ、でも相手を全滅させることなく存在している。それが浅井長政の思う「天下のあり方」だったと思えます。六角を滅ぼしただけで十分だろと。本人に聞いたわけじゃないですが。
結論、朝倉義景は、特に愚将ではなく、穏やかに暮らしたい普通の文化人だった、教養もあったろう。本当に戦が嫌いだったようだ。有能な親戚に政務・軍務をまかせて越前をまとめていた(自分の限界を知っていた)のだから無能とは言えない、信長という異常人がいなければ、越前をなんとかうまくまとめて天寿を全うしただろう、です。
最後に「麒麟がくる」でこれがどうなるかというと、金ケ崎は「ユースケの謀略」とされるかと。「まんまと信長をおびき出した」と。そうなった方が面白いし、そうなる気がします。
補足
まあこんな感じで書くと、物知りの人が「越前出兵は将軍義昭の命令だった」とか言います。違うと思いますが、それならそれで「信長も義昭も異常だった」ということになります。仮に義昭が武藤だけでなく朝倉討伐も認めたなら、「人でなし」かな。散々朝倉の世話になっていたくせに。
ちなみにこういう異常な武将はもう一人、なんと新潟から小田原を攻めた「越後に住む関東管領」上杉謙信がいるのですが、それは別に考えたいと思います。日本海側から陸路で太平洋側を攻める。どんだけ謙信は戦が好きなのか。ただ好きなくせに途中で飽きちゃうんですよね、この人。(なんて軽口を書くと謙信好きの方にまた怒られる)
上記の越前攻撃に関する私の考えの欠陥は「美濃と越前が国境を接していること」で、「だから攻めて当然」という方もいるでしょう。本当に「当然」なのか、よくよく考えてみたいと思います。
昨日の第十八回「越前へ」の前半は1556年(長良川の戦い)です。でも後半は1558年(信長が弟暗殺)。以下は朝倉義景に関する「感想文」です。
朝倉義景は信長や帰蝶とほぼ同学年で、1533年生まれ。ユースケさん、23歳ぐらいからも知れません。福井県あたりの名門、朝倉氏の棟梁です。光秀がやってくる前の年までは、「ひいじいさんの弟」が政治をやっていました。ひいじいさんの弟、朝倉宗滴(そうてき)です。やっと自分で政治を始めたところだったわけです。南の滋賀県には浅井氏、同じく南の美濃岐阜には斎藤義龍。浅井とは良好、義龍とも険悪ではない。義龍つまり高政の子、龍興(たつおき)はやがて朝倉義景を頼ることになります。
南の滋賀県、さらに琵琶湖の南には六角氏。ここは浅井氏と争っていましたが、六角氏は強くはなく、朝倉は直接に合戦などはあまりしていないようです。そもそも六角さんと朝倉さんは国境を接していないように、地図上は見えます。
つまり「周りに敵国がない」、いや一つだけあります。東の加賀石川、一向一揆勢力です。手ごわいですが、終始戦っていた様子はありません。ドラマに描かれたように平和な感じの国だったのです。「感じ」ですよ、一向一揆勢力は並みの大名より手ごわいですからね。それから西の若狭の武田氏(信玄じゃないですよ)にも手を出してました。しかしこれは武田氏の「お家騒動を抑える」というPKO的出兵だったようです。
という事情で越前福井はいわゆる「小京都」で、ドラマに描かれたように、荒廃した京都よりずっと京都的な「文化都市」だったようです。
そろそろ愚将なのか、バカ殿なのかに入っていきますが、そういう次元ではないかもしれない。なんせ「自分では戦わない・あまり政治もしない」のです。あの有名な姉川の戦い(対信長)ですら総大将は朝倉景健(かげたか)です。親戚ですが家臣筋の武将です。加賀を攻めた時は大将は朝倉景鏡(かげあきら)、いとこです。この人、最後にユースケを裏切ります。
むろん自分で大将もします。でもすぐ「帰ってしまう」のです。比叡山に籠った時も帰ってしまう。織田との最後の決戦時も浅井と共に出撃したものの、とにかく帰ってしまう。
ただ朝倉義景の名誉のために書いておきますと、結構対等に戦っているのです。そんなにあっけなく負けはしない。信長も相当困ったはずです。姉川だって結構危なかったみたいだし。
まあでも最後は浅井も敗れ、結局は朝倉も一乗谷を攻められて滅びます。滅亡は朝倉のほうが10日ぐらい前だったかな。
だから「愚将だ」「バカ殿」だという気には私はとてもなれないのです。といって近代装備も整えていたから実は傑物だともいう気もありません。
まわりにそんなに敵がいなかったのだから「穏やかーに暮らしたいのじゃ」となるのは当然のように思うのです。一向一揆を退けて、隣の若狭の内紛を抑えていれば「小京都で平和に豊かに暮らしていける、光秀に米代をくれてやる、こともできる」のです。なんでわざわざ戦う必要があるのか。これが当時も普通の感覚だったのではないかと思うのです。だから兵を率いての上洛などどの大名もしなかった。
最後の将軍、足利義昭が頼ってきたのに、上洛しなかったことで愚将ともされます。でもユースケ、朝倉義景にしてみれば「なんでわざわざ京都に行って松永や三好三人衆と戦う必要があるのか。ばかじゃないか」というところでしょう。
上洛しようと思えばできたかも知れません。一向一揆と和睦し、浅井とともに浅井領を通っていけば距離は短い。でも松永や三好三人衆と戦うことになります。「リスクが大き過ぎる、家の利益にならない」と考えるのが当然です。京都の紛争に巻き込まれる必要はないのです。無理して坊さん上がりの義昭を将軍にして、それで何が変わるのか。いきなり諸大名が義昭の権威にひれ伏すのか。そんな馬鹿なことは起こりえない。今までだってずっとそうだったじゃないか。義昭の兄貴の義輝なんか暗殺されちゃったじゃないか。義輝と義昭の親父の12代義晴も、気が付くと京都にいなかったじゃないか。
でも織田信長という武将が、美濃を征服し、勢いに乗って足利義昭をかついで上洛します。美濃から京都への途中にある伊勢の国も、滋賀の六角氏も抵抗できません。ユースケは「なんだあいつは」と思ったと思います。バカじゃないかと。「滅びるぞ」と。
ちなみに信長は六角さんを説得はしたようです。でも六角さんは抵抗。じゃあ、殺すよ、ということで押しつぶします。ドラマなら「仲良くする機会は与えたのにーー」と突然激情にかられるあの染谷くんを想像すればいいと思います。六角さん、逃げて、この後、ゲリラになって戦います。六角さんて、あの名門の佐々木氏です。
そんなこんなで上洛、織田信長が義昭を通して「京都に来い」と言います。「行くわけないじゃん」とユースケは考えます。「巻き込まれたくない。東の一向一揆もある。なんか暗殺とかしそうなやつだし。それにこっちは名門だぞ。なんだ織田って、尾張の奉行じゃないか」と。行かなくたって、こっちに信長や京都を攻撃する意思はないのだから、まさか越前に攻めてくるはずもない。松永久秀は信長派になったが、信長は三好三人衆とは戦っているわけだし。本心かどうかは分からないが「天下静謐」(せいひつ)とかを建て前としてるようだし。越前は「天下とあんまり関係ない」し。天下静謐はこのユースケも大好きだし。
ところが信長は、若狭の武藤(武田じゃなく)を討つという口実を設けて攻め込んできます。ユースケは驚いたと思います。「えー天下静謐じゃなかったの?話ちがうじゃん。まあ一回落ち着こうよ、ね、染谷くん」というところです。
そして、なにより驚いたのは、朝倉義景と良好な関係だった浅井長政だと思います。「えー、なんだこいつ。俺の嫁のお市の兄貴。相当おかしいぞ。美濃と国境を接してはいるが、自衛中心国家である越前を攻めるって、信じられない。ダメだこいつ。痛いやつだ。こいつと組んでいたらまずい」と思ったのではないでしょうか。
それほどに信長の行動原理は異常だったのです。だから当然のこととして浅井長政は「裏切り」ます。「裏切り」というより、「当然の行為」だったはずです。で、金ケ崎の戦い、信長は逃げます。「信長最大のピンチ」とよく言われます。本当にこれが最大なのかな?それはまた別に調べます。とにかく信長は「命からがら」逃げました。「しんがり」は光秀と藤吉郎と池田勝正(恒興じゃない)
途中からは「松永さん」が信長を助けます。
話戻って、朝倉を攻めたことで、浅井長政ははっきりと織田信長の危険性を悟り、天下のために滅ぼすべしと考えたように思うのです。戦国大名が、それぞれ独立しながら、国境で小競り合いをしつつ、でも相手を全滅させることなく存在している。それが浅井長政の思う「天下のあり方」だったと思えます。六角を滅ぼしただけで十分だろと。本人に聞いたわけじゃないですが。
結論、朝倉義景は、特に愚将ではなく、穏やかに暮らしたい普通の文化人だった、教養もあったろう。本当に戦が嫌いだったようだ。有能な親戚に政務・軍務をまかせて越前をまとめていた(自分の限界を知っていた)のだから無能とは言えない、信長という異常人がいなければ、越前をなんとかうまくまとめて天寿を全うしただろう、です。
最後に「麒麟がくる」でこれがどうなるかというと、金ケ崎は「ユースケの謀略」とされるかと。「まんまと信長をおびき出した」と。そうなった方が面白いし、そうなる気がします。
補足
まあこんな感じで書くと、物知りの人が「越前出兵は将軍義昭の命令だった」とか言います。違うと思いますが、それならそれで「信長も義昭も異常だった」ということになります。仮に義昭が武藤だけでなく朝倉討伐も認めたなら、「人でなし」かな。散々朝倉の世話になっていたくせに。
ちなみにこういう異常な武将はもう一人、なんと新潟から小田原を攻めた「越後に住む関東管領」上杉謙信がいるのですが、それは別に考えたいと思います。日本海側から陸路で太平洋側を攻める。どんだけ謙信は戦が好きなのか。ただ好きなくせに途中で飽きちゃうんですよね、この人。(なんて軽口を書くと謙信好きの方にまた怒られる)
上記の越前攻撃に関する私の考えの欠陥は「美濃と越前が国境を接していること」で、「だから攻めて当然」という方もいるでしょう。本当に「当然」なのか、よくよく考えてみたいと思います。
朝倉が織田に滅ぼされた後、織田は石山攻めを行います。本願寺から逃れる際に朝倉を名乗ることができず、箭原を名乗ったのではないか、という内容の手紙でした。
ちなみに私の曽祖父以前は富山の出身で、南砺市の八乙女山近くに矢於留神社があり、その山の中に先祖代々の一族の墓地があります。
ただ、どういった証跡でこの手紙が書かれたのかの背景が分からず、信ぴょう性は不明ですが、南砺に伝わる箭原伝承(南砺に訪れた際に神社守の方から伺いました)と、石山本願寺から逃れた逸話が不思議と一致しています。神像を背負って逃げた。その箱が功を奏して矢から身を守ることができた、南砺に逃れてその後矢於留神社を背負ってきた神像をご神体とした(当時は寺だったらしい?)を創建、その後明治以降は地元に村長として貢献したが、開発事業に私財を投入して失敗、南砺を離れた、、、など。
そういったことをベースに考えると、義景はご指摘の通り、おぼっちゃまでのんびり屋だったけれども文化的、経済的にかなり恵まれており、教育もきちんと受けていたはずで、決して愚将ということではなかった、一向一揆とも、ある程度和平を築いたとも思われます。
朝倉義景という、戦国名将とは言えないような「大名」ですが、私感としては、家来からすると平和的な良き御屋形様だったのではないかと思います。ユースケさんは適役かも(笑)?
長いコメ、申し訳ございません、また、話題にしてくださってありがとうございます。