歴史とドラマをめぐる冒険

大河ドラマ・歴史小説・歴史の本などを中心に、色々書きます。
ただの歴史ファンです。

BS時代劇「まんぞくまんぞく」の感想

2022-12-31 | 感想
NHKBSの時代劇「まんぞくまんぞく」。「時代劇らしい時代劇」というか、「昔よく見た時代劇に、女性剣士+恋愛という新味を加えた」というか、面白い番組でした。
全く文句はありません。まんぞく、です。なにより主演の石橋静河さんが可愛かった。美しいというより、私は可愛く感じました。殺陣は初めてだそうです。でも私には殺陣を鑑定する能力がないので、いい動きをしていたとしか思えません。「殺陣」なんてしばらく見たことがなかったので、昔がどうだったか、もう忘れてしまいました。とにかくいい動きです。調べてみると石橋さんはダンサーだということで、運動能力が高いのでしょう。きっと。

「可愛い」、素敵なお嬢さんです。母親の原田美枝子さんは「鋭い美人」ですが、娘さんはやや「ゆるキャラ」で、とにかく可愛いなと思いました。

というのが素直な感想。あとは歴史的観点から見た「野暮な興味」の話です。

・時代設定が分かりませんでした。でも木刀で練習してました。ということは11代将軍の天保期より前かなと感じました。

・木刀で戦うというのは、「ほぼ殺し合い」だと思うけど、竹刀剣術普及前はどうだったのかと考えました。

・堀家は旗本で七千石。ほとんど大名ですね。

・悪旗本が「旗本のくせに金貸しをしていた」ということで逮捕されました。江戸時代のことは全く分かりませんが、室町期には幕府も金貸ししてたし、どうなのかな、江戸期はそうだったのかなと考えました。今のところあんまり調べる気はありません。


儒教とジェンダー平等について考えてみた

2022-12-30 | 儒教
私は男性で、中一ぐらいまでは「女のくせに」って言っていたような記憶があります。ところが高校に入った頃には完全な「男女同権論者」だった。その間、どういう精神的経緯があったのか。よく覚えていません。それはさておき、日本で男女同権とか、ジェンダー平等がなかなか実現しないのは、そりゃ色々理由はあるでしょうが、日本が「儒教の国」であることが最大の要因だと思います。

儒教は「江戸時代に日本人の伝統となった」と思われていますが、調べてみるとそうではない。なんと律令国家の成立(7世紀)まで遡ります。これはウィキペディアで王土王民思想を読んもらえれば分かります。そもそも「日本律令国家の建国理念」が「儒教」なのです。仏教ではありせん。また律令の背景にある思想は法家ではないようです。

儒教の中でも「礼の思想」が実は男女の「区別」に最も影響を与えています。「礼儀が行き着くところ、男女区別あり」なのですが「区別というより、女性の隔離であり、つまりは差別」なのです。「日本人は礼儀正しい」などと言って喜んでいる場合じゃないということになります(笑)

ここで困った問題が生じます。儒教が男女差別の思想であること、男尊女卑の思想であることは、明確です。でも7世紀から日本の土壌に沁みこんでいるのです。もはや「日本固有の伝統」と言っても過言ではない。実際、私だって「孝行」とか「礼儀」とか結構好きです。でも儒教という伝統を大切にしていたら、いつまで経ってもジェンダー平等が実現しないという困った事態となります。もっとも反論も可能です。それは女流作家、紫式部などが存在したり、女院といわれる貴族が広大な荘園を有していたりしたことです。また尼将軍政子の存在なども有力な反論でしょう。実はそこが私にはまだ分からない。日本史学者も深く考えている感じがしない(と網野善彦さんも書いている)。だから面白い。いずれ考えてみたい問題です。蛇足で書けば「からごころ」を排して「やまとごころ」などいう過激な思想にもとても同調できません。どこまで遡るのか。縄文時代か。縄文文化はシベリア、中国、南方文化などの複合体ですし、そもそも縄文時代、日本列島はあっても日本はありません。

さて儒教の話。なお「家父長制度」に触れるべきですが、まだちょっと考えている最中で、このブログでは触れません。

仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌、、、義は正しさ、仁はやさしさ、悌は長男が偉いとか親の面倒をみるとか、弟は逆らうなとかいうことです。

礼は「人間の区別」です。儒教は「身分社会における社会秩序」を目指す思想・宗教です。宗教性は「祖先の祭祀に異常なほどこだわる」ことに現れますが、今はそこまで「祖先を祭祀」しているのは天皇家と一部宗教機関ぐらいのものなので、「宗教だ」ということがちょっと理解しにくい事態になっています。この状況については、儒教を教義とする明治の国家神道が、あらゆる宗教の上にあるものとして、「宗教ではない」という超然的地位を与えられたことが大きい、という可能性を私は考えています。

ともかく儒教は「一般的な社会秩序を目指している」わけではありません。「身分制社会の秩序」です。

日本でいうと昔の官位5位以上、まあギリ6位以上の男性のみが「君子になる資格」を持ちます。それ以下の、例えば民衆は「忙しくて自己修養などできない」ですから、君子になる資格はありません。
同じように君子になれないのが「女性とこども」です。「女こどもは口出すな」という嫌な表現は、ここが起源です。ただし女性は婚約すれば多少人間扱いされるようです。なぜなのかは一応説明を読みましたが、わけわかりません。多少人間扱いされても、やっぱり男性の付属物扱いは変わりません。女性がいると男性が欲情を持ち、性が乱れ、身分制社会の秩序が安定しない。だから「女性を隔離」する。男女〇歳にして席を同じくしない。あまりに極端です。

すべて「礼の思想」です。礼とは人間の区別。やっぱり「日本人は礼儀正しい」とか「礼に始まり礼に終わる」とか言って喜んでいてはいけない、ようです。礼儀もほどほどでいいのです。

ジェンダー平等を目指すとき、それが「今や西欧の世界基準だ」ということは有効だと思います。日本人は黒船に弱いですからね。それと同時に日本における男女不平等の起源を考えることも重要だと思います。儒教には「いい徳目もある」、実は私もそう思います。でも実際は「教育勅語」にみられるように「それぞれが分際に応じて行動しろ」という「身分差別の思想」です。しかし儒教そのものを完全になくすと一種の文化破壊となります。文化大革命みたいに。
だから「新しい倫理」を考えるしかない。そしてすくなくとも礼思想の一部は現代にそぐわないものとして排除するべきだと考えます。いかにも甘い対応ですが、文化というのは一挙に変えると弊害が多い。悌などは既に淘汰されており、忠なども弱体化している。儒教もやがて淘汰されていくと思いますが、仁、礼、孝などに関する「代替倫理」がないままに無くしてしまえば、混乱の方が大きくなる。とにもかくにも、儒教に多少いい徳目があるにせよ、その本質は身分制社会を土台にした差別思想であるという認識だけは持っておく必要があると思います。

蛇足
日本律令国家の政治理念が「儒教的徳治思想」であることは自明です。しかしこの「徳治」というのが実はたちが悪いのです。要するに「京都で祈っていればいい」「金かけて儀礼の式を行えばいい」「内裏とかを立派にして帝の徳を高めればいい」「文章経国、文章を興して天を動かせばいい。具体的には漢文の会を開いていればいい。和歌の会を開いていればいい」ということで、現実的な民政思想ではありません。だから地方は乱れ、京都だって群盗が満ちて治安が悪化するのです。鎌倉幕府はこうした非現実的な「徳治の一部」に批判を向けました。もっとも鎌倉幕府だって徳治は採用し、やたら儀式を行っています。

「和歌は政治である」、実はこれは「非常にたちの悪い、民を全く考慮しない思想」だと、今、私は考えています。

参考にしたのは山川出版「日本国家史」、桃崎有一郎「礼とは何か」など。

権門体制ではなく、権門顕密体制である。

2022-12-25 | 権門体制論
日本史を見るとき、為政者の歴史において見るということは「全く否定」しませんし、逆に「民衆の歴史」をたどることも全く否定しません。

ただそれだけが「日本史」なのかと考えると、私は違うと考えます。

私の日本史の構造・構想

1,身分社会の変化を考える。

身分といった場合、為政者などの権力者も民衆も「身分」に組み込まれます。ここで重要なのは「建前の身分と現実の身分感覚が乖離していることで」、そこは見ないといけない。

その上で日本史は「身分差が徐々に縮まる方向において変化してきたではないか」

このことをまず私は考えています。明治になって四民平等とはされたものの、女性の地位など様々な問題が残りました。戦後の改革によって文章の上では(憲法では)、完全な平等が実現したはずでしたが、「現実感覚」は違います。主に女性差別の問題が残りました。今、起こっている動きは、女性と男性の「身分差を縮める」という過程であると考えるべきだと思います。むろんそれですべてが解決し、日本史が終わるわけではなく、今後も様々な見えない身分差が解消していくのではないか。「身分差史」というものを提唱したいと思います。

2,摂関時代から院政期、国家はあったのか

短く書きますが、なかったのではないか。なかったという仮説を立てて考えることが有効ではないか。京都地方政権(朝廷)は、文章上と税収だけをもって「国家がある」としていたのではないか。つまりこのころの国家は「バーチャル」なものではないか。そういうことを考えます。すると「公」がないのですから、「荘園公領制」は幻であり「私的所有」だけがあったことになります。天皇が有している荘園はもちろん私有で、それで儀礼とか建物建築、文章経国といった、民政とはまるで関係のないことをしていました。一部裁判ですがそれをもって公とまではいえない。それは国家ではない。したがって、天皇・上皇・摂関家が有していても「国家的性格」などもたない。そういう仮説を立てて、日本史を眺めるとどうなるのか。そういうことに興味があります。

3,権門体制論は「まやかし」ではありませんが、権門体制は「まやかし」です。これは提唱者の黒田俊雄氏自身がそう書いているのです。
特に権門体制が、正確には権門顕密体制と呼ぶべきものであることが重要です。自らの権威を顕密、特に密教の呪術機能によって確立しようとするとき、そこに「まやかし、詐術」が生じます。

権門体制は「権門顕密体制」とするのが、黒田俊雄氏の主張からみて適当と考えます。その時、それが一種の幻想の体系(密教的呪術に基づく)なのだということを、十分に留意する必要があるでしょう。

「鎌倉殿の13人」における「後鳥羽上皇」の描き方について思うこと

2022-12-23 | 鎌倉殿の13人
全くの個人の感想なので、自分の感覚と違っても怒らないでくださいね。「怒る」傾向がある方はここでやめた方がいいと思います。

まず全体にどんなことを書くかというと、
・三谷さんに対する批判はしない。特に不満もないし、むしろ褒めたいぐらいだけど、あまり褒めもしない。
・上皇や天皇という存在に忖度は一切しない。といって故意に「おとしめる気」もない。でも忖度しない時点で、一般的感覚からすると不敬に見えるかも知れない。
・私は史実を学者の本で勉強しているが、学者じゃないので知識は足りない。間違った史実認識があるかも知れない。
・ドラマの批評というより日本史や史実の話である。

1,後鳥羽上皇の描き方はバランスがとれていた

とまあ、ここまで注意書きをしておけば、あとは何を書いてもいいでしょう。では本論。
全体としては後鳥羽の描き方は良かったと思うのですよ。バランスがとれていた。この世界には僕のように学者風に突き放して「後鳥羽」と書く人間もいれば、「後鳥羽上皇さま」と書く人間もいるわけでしょ。そういうどっちの人々にもさほど不満はでなかったと思います。「後鳥羽の顔を立ててやる」描写もちゃんと入ってました。最後だって自分は武を磨いてきたから先頭に立つと言ったわけでしょ。それを兼子さんに後白河の遺言を出されて止められる。藤原秀康は「兵は1万」と言ったけど、あとで「読み違え」と言ってますよね。実際は2000でしょう。これは上皇が流鏑馬の会と称して兵を募った時に集まった数です。その数が承久の乱でも実数となったでしょう。対して泰時の軍は「1万」とドラマで言っています。あと二部隊、朝時隊と武田隊がありますから総勢2万。それを吾妻鏡では約10倍にして19万。どっちにせよ朝廷軍の10倍です。後鳥羽が先頭に立っても逆転は望めません。上皇の「威」で寝返るぐらいならそもそも泰時軍に合流しないでしょう。天皇・上皇の「権威」は本地垂迹(地元の神と国家仏教が融合)の顕密仏教の「たまもの」なんですが、武士の心には「信じつつも逃れたい」という矛盾した心情があったと指摘されています。
圧倒的に不利だから、後鳥羽が先頭に立とうとした事実はないと思うけど、ドラマでは先頭に立とうとした。後鳥羽の顔も立ててやっているわけです。それに「立とうとしなかった」ということを証明することは難しいと思います。承久記では敗走した武士たちを門を閉ざして入れない後鳥羽の姿が描かれ「大臆病の君」と味方武士に罵倒されていますが、承久記はあくまで物語です。

2,「麒麟がくる」の正親町天皇の描き方は変だった

東大の金子拓さんは東大の「史料の専門家」なんですが、こう書いているのですね。「織田信長・天下人の実像」
「すでに戦国時代において、朝廷の政治判断能力は目に見えて低下しており、天皇や関白・公家衆など複数の判断主体が併存し、それぞれ自分の利益にかなった方向にみちびこうとして統制がとれていなかった。しかも彼らはこのあり方がおかしいものだとは感じていなかった」

つまり天皇や朝廷は「縁故・コネ・自己都合」によって数少ない寺社関係の裁判を「不公平に」裁くのですね。それが常態だったんです。ところが信長は戦国大名だから一応「公平」という感覚を知っている。あと前に出した判決と整合性がないといけないとも思っている。それで天皇に注意するわけです。そうすると正親町は最初分からないのだけど、分かって驚いてパニックになる。で、息子を先頭に立てて隠れちゃって、信長に謝るわけです。(絹衣相論、興福寺別当職相論)

そういうこと知っていると、「ドラマは史実を描かなくてもいいけど」、あそこまで「天皇を美化」するのはいかにもおかしい。天皇は今もいる存在ですから、あんな嘘をついちゃいけない、そう思って違和感だけが残るのです。史実を描けとは言わないが、天皇に関してだけはあそこまでの嘘を描いていけない。そう思うということです。

それに比べて「鎌倉殿」の後鳥羽の描き方というのは、コメディタッチでデフォルメされてはいるものの「史実の本質」みたいのはちゃんと抑えていると思います。バランスがいいですね。

3,後鳥羽上皇はなぜ承久の乱を起こしたのだろう

それにしても分からないのは、上皇の動機です。作品でも学説でも「義時追討で鎌倉の不和を誘発し、北条を排除して、後鳥羽が主導権を握る」となっているのですね。でも別に朝廷は幕府から疎外されていなかったわけです。それどころか朝廷を構成する公家の荘園には地頭がいて、この地頭は税を公家に納めることになっていたのです。「納めないで着服する地頭」もいて、後白河なんかは頼朝に文句言うのですが、頼朝はあまり積極的には動かないけど「それはすみません。よくよく注意します」と返答するわけです。あまり動かないのですけどね。
武士の存在というのは税の徴収にとっては必要だったわけです。ある程度ちゃんと朝廷にも税を納めていた。なんでそこで満足しなかったのか。この辺りは荘園の問題になるので、素人には難しいのですが、考えてみたい問題です。
「義時追討」で引き起こされるのは鎌倉の混乱だけで「京に攻めてくる可能性」なんてちっとも考えていなかったのかも知れません。とにかくリスクの多い勝負に出過ぎであって、上皇の動機というのは一からちゃんと考え直してみるべきかなと思います。

天皇や上皇の描き方というのは、現代の歴史認識にも直接つながる問題だから慎重にならんといけないと思うわけです。もっともこういう感覚も僕ら世代の感覚で、今の若い人はまた全く違った感覚を持っているのかも知れません。とにかくその点において「鎌倉殿」は上皇や法皇を美化することなく、といって「おとしめる」こともなく、バランスのいい描き方をしたなと感心しています。

日本一短い「権門体制論」の解説

2022-12-23 | 権門体制論
中世史学の多数派を形成している権門体制論ですが、さてその考え方はA~Cのうちどれでしょう。

1,中世の一時期(院政期から応仁の乱まで)、日本を支配していたのは公家(上皇家を含む、以下同じ)、武家、寺家であり、天皇機構は形式的権威によってその利害を調整した。

2,中世の一時期、日本を支配していたのは公家、武家、寺家であり、天皇機構は「中世的な天皇権威」によってその利害を調整した。

3,中世の一時期、日本を支配していたの公家、武家、寺家であり、3勢力は「天皇の名において」、その利害を調整した。

答えは、上記のどれかです。まだ私にもわかっていません。天皇は権門なんです。朝廷、藤原氏も権門です。天皇の位置に関してはそこが問題となります。寺家と寺社は同じです。
折に触れて提唱者である黒田俊雄氏の文章を読んできて、私の考えは今「3」に傾きかけています。


Theマンザイ・M1の近代史・オズワルド伊藤の憂鬱

2022-12-22 | 日記
2022年のM1で敗者復活から本選に進んでものの惨敗した「オズワルド伊藤」に、「普通の人なら死にたくなるような罵詈雑言」が送られているそうだ。自分の「推し」をはねのけて、知名度で上に上がって負けやがって、、、ということなのか。怖い世の中になったもんだ。

ということで「近代史」のお話

1980年前後の漫才ブーム。私が一番好きだったのは「ビートたけし」の「ツービート」。でも一番人気じゃなかった。一番人気はB&B。島田洋七、洋八。「笑っていいとも」の前に「笑ってる場合ですよ」という番組をやっていた。「もみじまんじゅう」のギャグでおなじみ。あと紳助竜助、ヤンキー漫才。パターンとしては「ヤンキーなんだけど弱い」というお話。あとサブローシローが実力派。それとノリオヨシオ。「ホーホケキョ」「冗談はよせ」のギャグでおなじみだった。

このメンバーにピンの明石家さんま。片岡鶴太郎。山田邦子を加えて、高田文夫が台本を作って始めたのが「オレたちひょうきん族」。紳助の「ひょうきんベストテン」と「タケちゃんマン」で成立していたような記憶がある・山田邦子が時々単独コーナーを持っていた。「ただのおばさん」じゃないのだ。たけし、さんまと20代前半という年齢で共演していたのだ。

「オレたちひょうきん族」によってドリフの「全員集合」は打ち切りとなった。その「ひょうきん族」は「加藤・志村の番組」で打ち切りとなる。

最初は意気込んで沢山書こうと思ったのだが、たいして書く話がないのでやめにする。

1972年の吉田拓郎・イメージの詩

2022-12-21 | 日記
拓郎さんがアーテイストとしては引退なさるそうです。76歳。そんなに年が自分と離れているとは思ってもいませんでした。私が小学生の頃、拓郎ちゃんはまるで「ガキ大将」みたいだったからです。5つぐらい上かなと思っていた。よく考えると、10歳の5つ上では15歳です。

1,イメージの詩

これには多大な影響を受けたと思います。今私は趣味で歴史の勉強をしていて、尊大にも「どんな偉い学者の説だっておいそれとは信じない」という不遜な態度をとっています。私の中では「方法的懐疑」と呼んでいます。これを教えてくれたのが、小学校の時に聞いた「イメージの詩」

☆これこそはと信じれるものが、この世にあるだろうか。信じるものがあったとしても、信じないそぶり。

大学時代、統一教会の勧誘を断ったのも、民主青年同盟(共産党)の誘惑(これは貧乏な僕には実は魅力でした)を断ったのも、「信じないそぶり」のおかげです。まあ統一教会(原理研究会)は、高校の時から駅でたびたび勧誘されていて、完全に正体を知ってましたから、別に断るのは難しくなかった。でも民青の掲げる「平等」は魅力的だった。しかし「闘争がだめ」なんです。とにかく「信じないそぶり」が大事と思っていたおかげで「はまり」ませんでした。運動をしていた人を貶める気持ちはありません。静かに本を読んでいたい私には、とても戦う力がなかったということです。

歴史学者の意見も当然「信じないそぶり」です。魅力的な説もたまにあるのですが(笑)

2,おきざりにした悲しみは

小学校4年だったかな。「生きていくのは、ああみっともないさ。あいつが死んだ時も、オイラは飲んだくれてた」。これをみんなで歌って下校してました。友達も結構好きみたいでした。

3,初恋

歌の題ではありません。小学校高学年から中学まで「なんとなくいつもいて、楽しく話す女の子の友達」がいました。同じ部活でもありました。でも中学ではクラスは同じにならなかった。それでも一緒に拓郎を聞いて、感想を述べあったりしてました。でも中2になると、僕は陽水に走り、彼女は拓郎派で、なんとなく拓郎の話はしなくなりました。
私はブサイクですが、彼女は小学生の頃から「完成された美人」でした。彼女といるのは楽しかったけれど、なんというか眩しかった。年を経るにつれてどんどん女性として美しくなるので、眩し過ぎたのだと思います。
中二に最後だったか。彼女はこう言いました。「ねえ、拓郎が嫌いになったの。本当に嫌いになったの。嫌いなの」。それは明らかに拓郎の話ではなく、私はドキリとしました。そして、なんとなく恐ろしくなりました。彼女と「親友」であることは心地良かったし、自慢でもありました。そういう関係が別のものに変わってしまうのが、恐ろしかったのだと思います。

夏目漱石の「それから」の男女関係を「恐れる男と恐れない女」と表現することがあります。大学になってそれを聞いた時、私の心には真っ先に彼女の顔が浮かびました。
私は「いい年」ですが、「いい年」なるとかえってこういう記憶が鮮明に懐かしく思い出されます。

話は脱線しましたが、吉田拓郎。小学校の時、私のアイドルでした。ご苦労さまでした。拓郎ちゃん。

後醍醐天皇の「理想と悲しい現実」・リラックス文体で書く。

2022-12-20 | 後醍醐天皇
重くならないため、なるべくリラックス文体で書きます。たぶん重くなるけど。

後醍醐天皇ぐらい「アゲられたり」「サゲられたり」「異形の王権にされたり」、まー評価がコロコロ変わる人物はいません。同時代の評判はすこぶる悪いんです。お仲間の公家も批判してます。なぜって「新しいことをやったるぞ」と言ったから。朝廷は「超先例主義」ですから、「新しいこと」は生理的に無理なんです。「やったるぞ」はいいけど、「仕組みを作らない」から日本がカオス状態。武者にもその他市民にも、すこぶる評判が悪い。明治になってからすら、公家である岩倉具視は悪王としています。先例を破った後鳥羽と後醍醐は悪王。岩倉は公家の感覚をよく継承しています。

ところが昭和、戦前。今の皇室は北朝なのに、南朝を正統としてしまったから、後醍醐天皇を上げざる得なくなっちゃった。悪名高い皇国史観ね。好きな人もいるけど。

皇国史観といえば、布教者は東大教授の平泉澄。ないことないこと書いて歴史を捻じ曲げたくせに、最近は「見直そう」という人がいて、私は大反対。同時代にボロクソ言われた後醍醐を散々持ち上げ「聖君」とし、足利尊氏を「大悪人」に仕立てあげた。ついでに「北条の小四郎義時」も悪人。「大悪人じゃない」から、小四郎はさほど有名にもなりませんでした。トホホ。皇国史観のせいで、一体何人の人間が死んだのか。殺したのは軍隊だ、東条だ、という向きもあるかもしれませんが、実際の政治装置より、イデオロギー機構のほうが恐ろしいことがある。それは歴史の教訓です。
「天皇の歴史」「寺社の歴史」を詳らかにすることには無論反対しない。しかしそのツールとして皇国史観の旗手であった平泉澄を利用するのは、極右言論人ならいいとしても、「学者」には慎重であってほしい。そう願います。

さて、読んだ本の中では、伊藤喜良「後醍醐天皇と建武政権」が一番バランスよく後醍醐を論じている。「それなりに評価」してるんですね。「それなり」だからバランスがいい。桃崎有一郎氏などは「京都を壊した天皇、護った武士」の中で、まーボロクソ毒舌を書いている。実は「同時代の評判をまとめた」だけなんだけど、当時の史料を紹介すると「それだけでボロクソの悪口に」なる(笑)。それが後醍醐。桃崎氏はTVで見る限り温和な坊ちゃん顔なんだけど、やっぱり平泉史学、皇国史観の「復権」(というか天皇の美化)に危機感を持っているのでしょう。だから言葉がきつくなる。歴史探偵の平安京ダークゾーンに出てた人。英雄たちの選択の「足利義満」にも出ていた。「天皇の権威という言葉を安直に使う学者がいなくなれば、日本史学も少しはましなものになって、ビシッとしてくる。内部改革は無理だから、読者、国民の厳しい目が必要だ」と「いうようなこと」を書いています。

じゃあ伊藤氏がどう「それなりにアゲて」いるかというと、「東アジアで普遍的な君主独裁官僚制を目指した」というアゲ方。ところが失敗。なぜなら東アジアにはいない武家と公家がいたから。
しかも高い家格の公家にそっぽ向かれ(先例主義じゃないからが理由)、官僚制を担える人材がいなかったから、結局君主独裁だけが残って、綸旨を乱発。滅茶苦茶なことになった。「後醍醐天皇と建武政権」は画期的な視点に満ちていると思います。天皇制を解体して中国風の君主官僚制にしようとした後醍醐が、戦前「天皇制の鑑」とされ、歴史は実に皮肉であるとか。検討しがいのある説です。

私にとっては皇国史観の象徴が後醍醐天皇だから、あんまり勉強する気にもなれなかったのです。でも伊藤氏の本を読んで考えが変わりました。これから少しずつ勉強するつもりです。

即興歴史小説「義時の涙、泰時の誓い」、「義時死す」

2022-12-18 | 鎌倉殿の13人
少し前に書いた「義時の死」ですが、「少しかすっていた気が」します。もっともこの「駄文」の最後の部分はある歴史ドラマのパクリです。

悪人・北条義時に捧ぐ

承久の乱の後、北条太郎泰時と北条時房は「六波羅探題」の長官として京に「出張」ということになった。「京で修行してこい」、これが親父である義時の言葉である。

公家は噂が好きだ。嘘と分かってもその嘘を楽しんでいる。時には嘘と分かりつつ、日記に「さも本当のように」書くことも多い。正確な歴史を記述するという観念自体が存在していない。ただし儀礼に関しては違う。日記とは子孫に伝える儀礼の記録である。時事情報はあくまで「おまけ」であった。時事情報は正確でなくても、いいのである。

その公家の間では鎌倉に関するいくつも噂が飛び交っている。「鎌倉がこうなってしまえばいい」という悪意に満ちた願望であることも多い。

「義時の妻の伊賀の方が、実子の政村を執権にするため、義時に少しずつ毒を盛っているらしい」
「北条は怨霊によって、この後、だれが執権になっても短命で終わる」
「北条時房が次の執権を狙っている。泰時と時房は口もきかぬ仲らしい」

江戸期の「かわら版」のようなものも、すでに存在して「ないことないこと」を書いている。

泰時も時房も洒落は分かるので、目くじらはさほど立てない。だがこの噂は泰時にとってはちと頭が痛かった。「鎌倉犬追物の残虐さ」についてである。

犬追物とは、犬を放ちそれを「馬場」という空間で、馬から弓で射る競技である。一応神事と言っていたが、要するにスポーツである。単に射るだけではだめで、打つ時の姿勢、打ち方の珍しさ、美しさ、射た場所の位置などが審判によって点数化される。室町時代は「武家文化に染まった京都」でも行われたが、鎌倉期ではまだ「野蛮な東夷の行為」とされていた。現代の動物愛護協会にあたる

一切衆生悉有仏性の会・いっさいしゅじゅう・しつ・う・ぶっしょうのかい

というのがあって、そこの会員が匿名だが「許せない」と言っている、と噂文に書いてある。
泰時は鎌倉に下って、義時にそれを伝えようと思った。鎌倉の名誉に関わる事案である。

鎌倉に下った泰時は馬場に平然と足を踏み込んだ。騎射は止まったが、手負いの獰猛な犬が2匹残って駆け回っている。「危ない」と見物している御家人の誰もが思ったが、泰時は意に介さない。自分は死なないという絶対の自信があった。子供の頃から、危険な場面にはいくらでも遭遇したが、なぜか傷一つ負わない。

義時もそれが分かっているので、泰時を止めなかった。ただ神事の場の無礼だけは叱った。泰時は京の「動物愛護について」また「毒を盛られているという噂」を伝えた。

義時は宣言する。「犬追物は神事とは言え、京では評判が悪いようだ。今後、犬追物では先の丸い矢を使い、犬を殺さぬこととする。なお、今の泰時を見たであろう。天の加護があるのだ。次期執権は泰時である。」

泰時の弟、朝時、重時、政村たちは神妙な面持ちでそれを聞いている。伊賀の方も同様である。

泰時が京に戻って半年もたった頃、義時倒れるの一報が京に届いた。泰時は急ぎ関東に下った。泰時は伊豆で鎌倉の様子を探っていると京で噂されたが、実際はすぐに鎌倉に入っている。
しかし肝心の義時が床にいない。聞くと出家し、病躯をおして雨ごいをしているという。鎌倉は少雨による凶作が起こりかけている。天に祈り雨を降らせる、中世においてはそれが為政者の「徳」であった。義時はすでに死を覚悟している。

「雨ごいの場」には誰も出入りを許されなかったが、声だけは聞こえてくる。
義時は言う。

「天の神よ、雨を降らせたまへ。私は悪行を積んだが、それすなわち民のためである。それが分からぬ神なら、そんな神はいらない。悪行は全て私が地獄に背負って逝く。恨みも憎しみも全部私が引き受ける。私はここで死ぬが、鎌倉の悪行は全て消え、ただ息子泰時の徳だけが世に残る。悪行は全てこの義時が一身に背負う。雨を降らせたまへ。泰時を聖君になしたまへ。」

すると雨が降り出した。鎌倉の人々はこの奇跡を長く「義時の涙」と呼んで言い伝えた。

義時は死んだ。泰時が次の執権となる。泰時の時代、北条と他の一族の殺し合いは、起きなかった。義時は泰時の世を作ることで、悲願であった「撫民」を遂に成し遂げた。

鎌倉殿の13人関連・「後鳥羽上皇の目的は討幕ではない説」は論理的に成り立つか。

2022-12-14 | 権門体制論
最近、後鳥羽上皇は討幕を企てていない。北条義時を排除しようとしただけだ。と偉い学者さんがよく言います。これは妥当でしょうか。
まず結論から書くと「妥当ではないが、成り立つ可能性も残されてはいる」と思います。以下少し詳しく。
なお大河は物語ですから「史実じゃない」という「物語のあげ足取り」ではありません。基本「鎌倉殿の13人」とは関係がない「ただの史実論議」です。

1,討幕なんて言葉は当時なかった。追討宣旨は「個人宛」である。

当時、幕府という言葉は禅僧ぐらいしか使いません。京都政権が幕府と呼んだことはない。鎌倉も自らを幕府と呼んだことはありません。
京都政権は鎌倉幕府を「関東」とか「武家」とか言っていました。六波羅探題ができてからは探題が「武家」、幕府は「関東」と呼ぶことが多かったようです。
幕府という言葉を使用しないのだから、当然「倒幕」という言葉はありませんし、使いません。

さらに追討宣旨は個人宛が先例で、後醍醐天皇すら「討幕という言葉は使っていない」わけです。「北条高時とその仲間」を追討せよ、です。

後鳥羽上皇の追討院宣(仲恭天皇の宣旨も)は「北条義時個人宛であり、鎌倉幕府追討とはなっていないから、討幕ではない」は「成立するわけがない論理」です。討幕という言葉がないのです。これが成り立つなら同じく「北条高時を討て」と命じた後醍醐帝の宣旨も「討幕目的ではない」と言わないと学説として一貫性がありません。

「義時追討だから倒幕でない」は「形式的論理、言葉遊び」です。しかも史実の探求というより、ある「理論=原理」によって生み出された「党派性を伴った歴史の見方」です。(後述)

・北条義時を倒して、その代わりに執権に三浦胤義か三浦義村を据え、摂家将軍は残して鎌倉幕府は温存する。

その場合のみ「討幕ではない」と言えるわけですが、その可能性はあったでしょうか。ないでしょう。武家の統治機構は京に移管される可能性の方が強く、鎌倉に残る可能性は極めて低かった。だから「鎌倉幕府は倒れる」のです。「義時追討だから討幕でない説」は成立することはないでしょう。武士の府は京に移り、鎌倉の幕府は単なる出張所扱いとなります。

2,では後鳥羽上皇は何がしたかったのか。

武家の存在は王家(上皇家)にとっても必要でした。都の治安を守っていたのは武士です。内裏修理などの金を出すのも武士です。荘園から税をとるには武家の存在は不可欠でした。農民には自立的傾向も強く、もはや「本所の権威」だけでは税をとれない場合も多かったのです。だからこそ白河院も鳥羽院も御白河院も平家など武家を重用したのです。

後鳥羽上皇としては武家をコントロール下に置く。地頭の任免権を獲得する。といった狙いがありました。そもそも承久の乱のきっかけは「上皇による地頭罷免要求の拒否」なのです。
武家はかつては王家に比して弱い権門でしたが、今や王家と対等な存在となりつつある。後鳥羽上皇としては武家権門は残しながらも、王家の圧倒的優位を獲得したかったわけです。

幕府を解体して、武士を自分が支配下に置く。つまり自分が「源頼朝になる」というのが後鳥羽の狙いでした。封建王政と言います。「鎌倉の幕府は解体するが、武士は温存して支配する」、これが狙いです。「解体」ですから「倒幕」です。

3,なぜ「討幕ではない」と一部学者は過度に強調するのか。

それは学者自身が折に触れて書いていますが「公武協調史観」という原理=イデオロギーを信じているか、信じているふりをしているからです。「公武対立史観に代わって、公武協調史観を」ということが一部で言われ、西の研究者を中心に賛同者が少なからずいます。その原理は現代風権門体制論です。多数派を形成しているようです。

私は黒田俊雄氏の「オリジナル権門体制論」を読み進めた結果、公武協調史観は「強調し過ぎるべきではない」という結論に達しています。
公家と武家は相互補完している「そう」です。
「相互補完」とは「足りないところを補いあう」という意味ですが、「対立が生じること」は黒田氏も認めており、対立のみが強調された時代の雰囲気に抗して「対立ばかりじゃないだろう。その対立だって本質的か分からない」と言うわけです。

黒田氏はあまりに対立がクローズアップされるので、「対立だけじゃない」と言っているだけです。したがって協調のみを偏重するのは間違っています。公と武は「協調したり、対立したり、妥協したり」していたのです。あまりに当然過ぎますが、原理があって現実があるのではありません。ありふれた普通の現実が先にあるのです。
なお「対立しても最後は協調した」も私見では間違いです。それについてはこのブログの他の文章で書いているので詳述はしません。
「権門体制論」の「正しい理解と批判」のための序論をお読みください。

公と武が「決定的に対立してはまずい」「決定的対立を認めたら権門体制論が崩れる(実は崩れないので杞憂ですが)」という「原理的とも言える思考」が「討幕ではない」の過度な強調につながっています。それに付き合う必要を私自身は感じません。相互補完という言葉の濫用はやめてほしい、と願うのみです。これは現代の一部に存在する「悪弊」だと思います。

「相互補完」と言い出したら疑ってみることが大切でしょう。提唱者の黒田俊雄の「原著」を読むことをお勧めします。

ちなみに「非権門体制論」系の近藤成一さんも、桃崎有一郎さんも「倒幕ではない」と書いています。しかし「解体である」と少なくとも桃崎さんは書いている。解体なら倒幕です。論理的にそうなるはずです。

もっとも史実に照らせば「頼朝は何度も追討されている」わけです。それでも頼朝は後白河法皇を遠流になぞせず、最後は条件闘争となっていきました。
後鳥羽上皇はそれを見ていますから、「義時追討」ぐらいで自分が遠流されるわけはないと思っていた可能性はあります。そうなると「三浦胤義などに乗せられてつい軽い気持ちで、後白河院の先例を真似て出した」という可能性があるわけで、その場合は「討幕なんてたいそうな狙いはない」とも言えるかも知れません。が、これは成立しそうもない論理です。

蛇足

「武家と公家の相互補完」とかすぐ言う人。「天皇権威はまだ強かった」と言うだけで、その理由を分析しようとしない人。つまり「安直な耳触りがいい言葉で歴史を説明しようとする学者は疑え」。今、私はそう思っています。ただの日本史のド素人として。