歴史とドラマをめぐる冒険

大河ドラマ・歴史小説・歴史の本などを中心に、色々書きます。
ただの歴史ファンです。

天下概念の歴史的変容・「信長・家康がおったらそこが天下や」説

2022-12-04 | 麒麟がくる
織田信長の時代、天下とは畿内を指した。したがって「天下布武」とは「畿内を」、布武(武とは徳であり、徳によって徳治)することだ。

誰が考えた「言葉遊び」かは分かりませんが、ちょっと前にはこういう「言葉遊び」にこだわる人がいました。今は最新の研究によって「乗り越えられて」、、、、いません。

私は素人ですがちょっと考えて「奇妙な詐術」であることは分かります。そもそも「印鑑の意味」などいくら探っても、その武将の「実体」には迫れません。豊臣秀吉の印鑑の中にはいまだに「読めない」ものもあるのです。「印」なんてその程度のものです。

それでもこだわるとすると

・お釈迦様の「天上天下唯我独尊」、、、この天下も畿内なのか。お釈迦様は日本の畿内で独尊なのか。中世にもこの言葉はある。
・源頼朝の「天下草創」、、、頼朝は畿内を「草創」したのか。中世の言葉である。
・言葉には「広義と狭義」がある。
・言葉が「新しい意味を獲得」したとしても、「古い意味」(古義)は残る。ヤバイは今でも「危険」という意味を持っている。「危険なほど素晴らしい」と両立する形で意味を保っている。

2014年あたりからの「信長は普通の人だブーム」の中で「天下布武」の「解釈変更」が行われましたが、定説にはほど遠い現状です。素人が考えても「言葉遊び、ただの解釈変更」に過ぎないことは歴然としているからです。

織田信長の発行文章を読むと、なるほど「天下を畿内の意味で使っている用法」は多くあります。特に上洛以前、直後ですね。信長だって上洛以前から「日本全土を統治してやるぜ」なんて考えていません。
その意味では「天下布武」はただのスローガンであり、「あれは看板に過ぎないから」と信長に聞けばそう答えるでしょう。

ただ信長も後期になると「天下を自らの支配地域の意味、または将来自分が統治すべき支配地域の意味」として使っていきます。「天下の概念が変化する」というより、狭義に重きを置いていたものが、広義に重きを置くようになります。もともと畿内、日本という両義性を持った言葉です。

信長の支配地域は日本の半分程度ですが、将来支配しようと頭で思っている領土には「九州、東北、四国」が加わります。となると晩年における信長の「天下」とは「初期の畿内ではなく、日本全土」ということになるのです。

江戸時代、天下はいうまでもなく「日本全土」でした。もし仮に、信長以前においてそれが畿内だったとしても、30年の間に意味は「広義」に重点が徐々に移行し、「日本全土を指すようになった」、その変化を推進したのは信長、秀吉、家康ということになるでしょう。「天下は天下の天下なり」、家康の言葉かどうか分かりませんが、江戸期には存在した言葉のようです。「畿内は畿内の畿内なり」ではありません。天下の意味は信長の時代から「天下人の支配領域の拡大に伴ってだんだんと広義で使われるように変化していった」。そう考えるのが合理的です。

信長は「自分の支配領域を全て天下と呼び、将来支配を狙っている領域も天下と呼び」ました。と私は思っているのですが、最近、信長を考えていないので、なんとか検証してみたいと思っています。

芸人の永野の「クワバタオハラがおったらそこは大阪や」というギャグをご存じでしょうか。あれに着想を得て書きました。「信長が支配していたらそこが天下や」「徳川が支配していたらそこが天下や」ということになります。

北条二世の歌(バビル二世の替え歌)・承久の乱編

2022-05-21 | 麒麟がくる
北条二世の歌(バビル二世の替え歌)・承久の乱編

切通しと海に守られた
鎌倉小町亭に住んでいる
武家の世開いた 北条義時
御家人地頭職守るため
3つのしもべに命令だ!ヤア
泰時時房、東海を行け
朝時武田は別ルート
政子変身!名演説だー

後鳥羽よ、アンタは怖くない
たたりも追討も恐れない
勇敢な老人 北条義時
武士の世、地固め行うぞ
3つのしもべに命令だ!ヤア
3人の上皇は、配所へ行け
泰時時房、六波羅だ
オイラも変身!得宗だー

元ネタ(元歌の一番)
砂の嵐に守られた
バベルの塔に住んでいる
超能力少年 バビル二世
地球の平和を守るため
3つのしもべに命令だ!ヤア
怪鳥ロプロス 空を飛べ
ポセイドンは海を行け
ロデム変身!地をかけろ 

「麒麟がくる」外伝・本能寺の変からの二週間(年表風)・ふざけてますが史実です

2021-02-11 | 麒麟がくる
1582年  ふざけた書き方していますが史実です

6月2日 月曜日かな?
光秀「本能寺の変成功。安土城に向かう。げっ、瀬田橋が落ちていて通れない。仕方ないから坂本城に戻る。味方になってくれと手紙を書いた。」

6月3日
光秀「家臣を、近江平定のために派遣した。」

6月4日
光秀「近江を平定した。筒井順慶も味方してくれるそうだ。」

秀吉「げっ、本能寺で信長様が死んだ?帰らないと。帰らないと。」

家康「伊賀の山中を通って、岡崎城にやっとついた。死ぬかと思った。少し休んだら京を目指すぞ」(途中で光秀の死を知り、引き返す)

6月5日
光秀「瀬田橋が修理できたんで、やっと安土城に入れた」
斎藤利三「京極高次らが長浜城を落としたので、城に入った」
丹羽長秀・織田信孝「大坂にいる。津田信澄が光秀と内通しているかも知れない。だから殺した。でも兵が逃げちゃった。」
秀吉「中川清秀に信長様は生きていると手紙を送った。あいつ馬鹿じゃないから通じないかな」

6月6日
秀吉「姫路城に着いたどー」
光秀「秀吉も、勝家も、一益もまだまだ帰らないだろう。当面、大坂の丹羽長秀・織田信孝だな。淀城補強しようっと。」

6月7日
光秀「安土城に正親町帝の勅使が来たよ。友達の吉田兼見さんだ。うれしいな」

6月8日
光秀「坂本城に帰ってきたよ」
秀吉「丹後の細川藤孝に連絡をとった」

6月9日
光秀「上洛して金配った。正親町帝と誠仁親王に銀子500枚、五山の寺に100枚。大盤振る舞いじゃー」
光秀「吉田さんと夕食食った。下鳥羽に出陣し、細川藤孝さんに手紙書いた」
秀吉「未明に姫路を出発した。やったるぞー。高山右近が情勢を知らせてきた」
足利義昭「光秀が信長討ったから帰京する。小早川隆景にそう命じた」

6月10日
光秀「筒井順慶がこない。洞ケ峠で出陣を促す。順慶出てこいやー」
秀吉「中川清秀に手紙を書いた。明日には兵庫・西宮に着くよん」

6月11日
光秀「淀城を修復した。戦場はここだろう」
藤田伝五「筒井順慶を説得したが駄目だった。」
秀吉「尼崎に着いた。髪をそり上げた。弔い合戦だ」

6月12日
光秀「土橋重治に出陣をうながした」
秀吉「丹羽長秀や池田恒興と作戦会議だ」

6月13日
光秀「山崎の戦いが始まった。負けそうだ」
織田信孝「秀吉が会いにきた。遅いよ。信長三男だぜ、本当は次男だぜ」
光秀「負けたー。勝龍寺を出て坂本に向かう。ああ、小栗栖で竹やりで刺された」(光秀死す)
足利義昭「光秀が信長を討った。帰京するから協力せよ」

6月14日
秀吉「三井寺に着いたよん」

6月15日
織田信雄「安土城天主が焼けている。つけ火か。なんでだ」
明智左馬助「もはや最期、坂本城で討ち死にだ。ちなみに私は弥平次とか光春とか、秀満とかいろいろ名がある」

6月16日
秀吉「信孝殿と安土城に入る。げっ、天主焼けてるじゃん。そうだ長浜城に行こう。」
斎藤利三「生け捕られた。無念」

6月27日
清須会議が開かれる。

小説風「麒麟がくる」・スピンオフ・「明智十兵衛最後の戦い」・「第三回」「家康という男をどうする?」

2021-02-11 | 麒麟がくる
第一回はここにあります。クリックしてください。
第二回はここにあります。

これまでの話。明智十兵衛は長井十兵衛と名乗って徳川家康に庇護されている。秀吉はそれを知っているが、徳川との良好な関係を優先し、問題としない。そればかりか、光秀は確かに死んだという通達までだして、光秀生存の噂をかき消した。なお「光秀生存以外」は「なるべく史実に近づけよう」とはしていますが、フィクションです。

「家康という男」
天正14年末(1586)、徳川家康は豊臣秀吉に臣従した。徳川家中には反対論もあったが、家康自身はそれを後悔はしていないようである。

十兵衛の見るところ家康はいわゆる英雄とはよほど違っている。英雄になろうという気もないようであった。

「わたしは三河の土豪の出ですからな」と家康は言う。今は三河・遠江・駿河・甲斐・信濃の一部を有する大大名である。しかし信長の時代、家康は三河の大名で、遠江をやっと死守しているという状態であった。武田の滅亡後、駿河を与えられた。信長が天下で活動した15年間、家康の版図は、信長に比べれてまことに小さい。東の武田の抑えであった。絶えず武田勝頼の攻勢に悩まされていた。それは「長篠の戦い」で、織田徳川軍が勝利した後も同じであった。武田勝頼は旺盛な領土拡張活動を行った。家康がやっと武田から解放されたのは、信長が死んだ天正10年(1582)のことである。
十兵衛が初めて家康と会った時、彼はまだ少年で、織田の人質であった。やがて今川の人質になって、17歳まで駿府で暮らした。桶狭間の戦い(1560)で、信長が今川義元をやぶるや、やっと岡崎の入城して「領主らしく」なった。それから26年がたっている。

「わたしは英雄ではない。その点、十兵衛殿に期待されても困ります。麒麟は呼びたいが、今の版図では太閤には勝てませぬ。そもそも数年前まで私は信長公の家臣同然で、天下人になろうとしたことなどなく、自分がなれると考えたこともない。その気持ちは今も変わりません」
こうした素直さがこの男の美点であると十兵衛は思っている。十兵衛とてそのような重荷を家康に負わそうとは思っていない。それが信長との長い愛憎の時代を経て、十兵衛が得た教訓であった。今始まったばかりの関白の政治に協力しながら、関白の行き過ぎを正していく。それだけでも十分意味はある。
「家康殿にも十分に英雄というべき美点がござります」
「ほう、十兵衛殿だからおべっかは言いますまい。どのような点でありましょう」
「いざとなれば、いつでも身を捨てようという気概がございます。上洛して太閤に会う前、家康殿はそのような気概を示されました」
「ふっ、あのことですか」と家康は言う。

「三河物語」こうある。家康は上洛で秀吉の殺されることも覚悟していた。そうなれば秀吉の母も死ぬが、そういう非情さに秀吉は耐えうる男かも知れない。そうした予測のもと
「われ一人腹を切って、万民を助くべし」と言い放った。自分が死んで、関白との戦争が回避できるならば安いものだというのである。十兵衛はそれを知っていた。
しかし家康は言う。
「どこが英雄でありましょうかな。臆病者の言い草でしょう。それに家中をまとめるには、ああいうしかなかったわけで」
十兵衛はこういう素直な家康を好ましく思った。太閤の政治はまだ見えていない。あの男は信用できないが、天下人となれば、人が変わることもある。協力しながらしばし見守る。それが十兵衛の考えだし、徳川家康も家中のものもそう思っている。
さらに、十兵衛はこの「大人びた」男が、意外にも少年のように感情的だということも知っていた。褒められることではないが、好悪が激しいところがある。先年、石川数正が出奔して太閤のもとに走った。数正は家康にさほど好かれてはいなかった。この大人びた男が、ついつい顔にそれを出してしまうことがあった。わが子にすらそうであった。本来の嫡男は、結城秀康であったが、関白のもとに人質に出してから、いやその前から、家康は明らかにこの子を嫌っていた。そうした家康のマイナス面、好悪の激しさが、家康をして英雄に飛翔させる可能性がある。十兵衛はそう思っていた。大人びているだけでは、あの関白に対向することは無理である。が家康に言うことはない。まさか「好悪が強い」と言えるわけもなかった。
「しかしながら」と十兵衛は考える。あまり無理をしてこの男を英雄に育てる必要はあるまい。思えば、義昭公も、信長公も、自分の期待を実現させようとして、そして道をはずれていったのかも知れない。麒麟がくる世は、自分の理想である。人に実現してもらうことではない。自分は自分の領分で活動する。今は家康に助言をし、補佐するのみである。

「さて、十兵衛殿、わしは今、藤原を名乗っておるが、それを源氏に変えようと思う。関白は怒ると思いますか」
十兵衛は首をひねった。そして何か政治的な意図があるのかと家康に尋ねた。家康は何もない風に
「いや、特別な意図はございません。御存じでしょう。私は源頼朝公を尊敬している。英雄でない私としては、少しでも頼朝公にあやかりたい。それだけでござる。あっ、征夷大将軍への布石かとお尋ねか。いやいや違います。それに源氏でなければ征夷大将軍になれないということもありますまい。鎌倉には宮将軍もおられますからな」
家康は読書家である。十兵衛は言った。
「征夷大将軍への布石ではないのですな。いや布石であったとしても、関白は気にしますまい。征夷大将軍は、われら武士にとっては特別なものですが、関白にとってはいかほどのものでもないらしい。それに官位としてみれば、下から3番目か4番目の官であります。関白ははるか上の官位。気にもしますまい」
家康はうなずきながら笑った。この源氏改姓がなされたのは1年ほど後のことである。

続く。

小説風「麒麟がくる」・スピンオフ・「明智十兵衛最後の戦い」・「第二回」

2021-02-09 | 麒麟がくる
第一回はここにあります。クリックしてください。

第一回からの続き。
天正14年(1586)10月、徳川家康は上洛して一旦豊臣秀吉に臣従の姿勢を見せた。秀吉はこの年「明智と称するもの」が丹波の奥で潜んでいたとして処刑した。それと同時に、天下に対して次のような布告を行った。秀吉は瑞海と名乗り、明智十兵衛が生きていること、家康が匿っていることを知っている。知っていて世間に対して箝口令をひいた。

「この度、明智と称するものが丹波で逆意をあおっていたので処刑した。関白が直々に検分したが明智ではなかった。近頃、明智が生きていると風聞を流すものがいる。許せない所業である。中国大返しの速きをいぶかり、関白が明智と組んで信長公を殺したというものがいる。とんでもない話である。そのような風聞を流すものは誰であろうと、吟味の上、極刑に処す。さらに徳川が明智をかくまっていると噂するものがいる。徳川殿が死を覚悟して伊賀の山中を抜け、帰国したことを知らないのであろうか。朝廷や帝が明智と組んでいたという話に至ってはあきれてものも言えない。本日を持って、明智の「あ」の字も噂することを禁止する。また明智の旧臣や子女についても今後一切罪は問わない。明智が生きているがごとき風聞を流し、関白の偉業を卑しめるものは、きつく処断する。日記や文に書くことも、同罪である。誰であろうと、大臣であろうと、大名であろうと、きつく処分する。」

この後、明智生存の噂は消えた。そもそも十兵衛の顔を見知っている大名は多くはない。この年、秀吉はまだ全国を支配下には置いていないが、秀吉が北条征伐をした時点で考えるなら、上杉も伊達も、北条も、真田も、長曾我部も、毛利も、宇喜多も、島津など九州の大名も、十兵衛の顔は知らない。
むろんかつての織田家臣は十兵衛の顔を知っている。そのうちの大なる者は、細川藤孝、筒井順慶などがいる。しかし細川に十兵衛の名を蒸し返そうなどという気は毛頭ない。この時点、天正14年には順慶は既に死んでいる。柴田勝家も死に、滝川一益も丹羽長秀も病死した。前田利家ら信長近習だった者は豪の者を気取っているが、政治の機微を知っている。太閤に従うことで身を立てた者たちである。関白の意向にあえて逆らう必要がない。一番厄介なのは、織田信雄であったが、本心は分からぬものの、太閤の権威に逆らうことはなかった。やがて淀君となる茶々も、十兵衛と直接会ったことはない。素直に信じた。というより、謀反人の十兵衛が生きている理由を何も思いつかなかった。茶々の妹である「お江」はやがて徳川秀忠の正室となる。本能寺の変が起きた時、彼女はわずか9歳で、織田信長の顔もろくに見たことはなかった。まして十兵衛の顔なぞ知らなかった。本能寺で父や兄、弟が死んだ家族たちには十兵衛への遺恨があった。しかし彼らとても「徳川家の瑞海」に会う手立てはなく、十兵衛が明智だと断定するすべはなかった。それがあったとしても、関白に逆らうほどの力はない。関白としては、この段階において、家康をつなぎとめておくことが最大の政治課題であり、その為には、母親さえ人質に差し出した。十兵衛を「生かしておくこと」など、徳川つなぎとめという政治効果を考えた場合、何の苦にもならない。自分が「麒麟をよぶ」と伝えておく限り、あの律儀な十兵衛は、家康を説得してくれるであろう。秀吉はそう考えていた。自分の晩年、そして死後「明智十兵衛が最後の戦いを仕掛けてくる」ことなぞ、想像もできない。

十兵衛は晴れて「死んだ」ことになった。そうなるともう瑞海と名乗り、僧形でいる必要もない。すぐに俗体に戻り、武士となった。名乗りは長井十兵衛光春とした。この稿では、十兵衛で通すことにする。顔も特に変えない。ただひげだけは少しばかり長く伸ばした。それだけでも面相はずいぶんと変わった。禄高は少ない。しかし家康の参謀であった。
瑞海の弟子たちも武士に戻った。明智左馬助は長井左馬助となった。藤田伝五は斎藤伝五である。斎藤利三は山崎の戦いで戦死した。彼の娘は、やがて徳川家光の乳母となり、「春日局」と呼ばれた。

十兵衛には思想家の体質がある。お駒のいう「麒麟のくる世は」、儒学的立場から書くなら「尭舜(ぎょうしゅん)の世」であった。徳川家内には「殿さんがやること」をいぶかる声もあった。しかしその度に、本多正信、また本多忠勝などの「四天王」が出向いては、説得を行った。「殿さん」は「尭舜(ぎょうしゅん)の世」を目指していると言った。多少本を読むことが好きな家臣は、それでなんとなく納得した。もっと「現実的」な家臣には「秀吉と戦うためには、十兵衛が必要」と説いた。家内の不満は次第に収まった。上記の秀吉の禁令がでてからは、徳川家内でも明智の名を出すものはなくなった。

十兵衛が直接出向いた大名がいる。美濃金山7万石の大名。森忠政である。この天正14年(1586)においては、まだ16歳の少年であった。彼の兄が、森蘭丸であり、そして坊丸、力丸であった。いずれも本能寺の変で戦死した。本能寺の変が起きたころ、森蘭丸は17歳であった。そして森忠政は12歳であった。忠政は後、美作18万石の藩祖となる。森家は100年、美作を統治したが、18世紀の初頭に改易された。十兵衛は家康の使者として森蘭丸の弟と対面した。むろん明智十兵衛とは名乗らない。が、家老から言われたのだろう。うすうす十兵衛の正体を知っている。憎しみを込めた目で十兵衛に接した。十兵衛は目撃者と言って、蘭丸らの最期を語った。十兵衛も直接見たわけでない。兵士に聞いた話である。森の末弟はうっすらと涙を浮かべた。十兵衛は去った。憎しみの目は最後まで変わらなかったが、十兵衛は森一族だけには筋を通しておきたかった。どうした心持であろう。

続く。

小説風「麒麟がくる」・スピンオフ・「明智十兵衛最後の戦い」・「第一回」

2021-02-09 | 麒麟がくる
本能寺の変(天正10年・1582)の後、山崎の戦いで明智十兵衛を破った羽柴藤吉郎は、翌天正11年(1583)4月には賤ケ岳の戦いに勝利して、織田家筆頭家老、柴田勝家を自害に追い込みんだ。が、その後、行動を共にしていた織田家次男、織田信雄は、秀吉の意図に気が付き、袂を分かつ。秀吉と信雄・徳川家康連合軍の間で天正12年(1584)「小牧長久手の戦い」が行われた。家康は戦術レベルの勝利をしたものの、決定的な決着はつかぬまま、講和という形でこの戦いは終了した。織田家の覇権は実質的に消滅し、信雄は秀吉のもと、一大名として織田家の家名を存続させた。北条攻めの後、織田信雄は秀吉によって改易されるが、その後家康に臣従する。結局「織田の血筋」は織田信雄と信長の弟である織田有楽が残すこととなる。

本能寺の変のあと、伊賀を超えて浜松に戻った家康は、兵を起こして尾張まで進出したが、そこで光秀が敗れたことを知り、兵を返した。その後、旧武田領をめぐる戦いに忙殺され、中央の政治を顧みる余裕はなかった。その状況は「小牧長久手の戦い」で、秀吉と講和した後も変わらない。家康が、関東の雄、北条氏政や信濃の国衆、真田昌幸、また上杉景勝などと「対峙」している間に、秀吉は織田家の旧領を瞬く間に支配下においた。そして家康に臣従を求めてきた。秀吉の母、大政所が人質として家康のもとに下ってきた。この状況にあって家康は秀吉に一旦臣従することを決意し、京に上った。

それが天正14年(1586)年10月のことである。家康は秀吉の弟、豊臣秀長の屋敷で歓待を受けた。その夜、わずかな供回りとともに秀吉が家康のもとにやってきた。

「ふっ、秀吉らしい。いかにも秀吉がやりそうなことだ」と家康は思った。明日の対面で何か頼みがあってきたのだろう。が、秀吉は座につくなり、意外なことを言った。
秀吉は言う。
「家康殿、此度の上洛、まことに大儀です。ところでな、近習のうちに、瑞海なる僧がおると聞いた。なにやら徳の高い僧であると聞く。ぜひお会いしてみたいが、いかが」
家康の傍に控える菊丸は、驚いた。しかし表情は変えない。
「はあ、瑞海でござるか」と家康は言った。
「いや聞くところによると、その瑞海なる僧は、興福寺で修業を積んだ後、諸国に遊学。それがの、本能寺の変の1年後には、武蔵の国で亡くなったというのじゃ。その亡くなった僧が、どうやら今でも生きておる。しかもな、なにやら誰ぞに瓜二つという話も聞いた。わしにとっても懐かしい知り合いに似ていると。となれば、ぜひ会ってみたいものですな。」
家康はしばし考えてから口を開いた。
「私は、天下のためを思い、関白様を助けるべく上洛しました。かつて信長公に仕えていた頃の私は、まことに力ない存在であった。もし信長公に家臣を殺せと言われれば、従ったかも知れません。しかし今はいささか多くの領地も有し、北条とも縁組をしておりまする。昔の家康ではない。話は変わりますが、母上様は浜松にておくつろぎいただいております。お忘れなきように。」
「これはこれは、何の話でござろうか。私が家康殿に家臣の成敗を命じる。そんなことがあっては、天下の静謐はたちどころに崩れましょう。」
ここで秀吉はにこりと笑った。そして胡坐をかいた。柔和な口調になって言う。
「家康殿、十兵衛殿のことはよーく知っておるのじゃ。京には草の者が沢山おりましてな。あなたが十兵衛殿と組んで本能寺を起こしたわけでないことも分かっておる。いや、会ってみたいのよ。十兵衛殿に。聞いてみたいこともありますでな。」
家康は心を決した。瑞海、、、十兵衛が殺されることはあるまい。少なくとも今は。そして菊丸に目配せした。菊丸が部屋を出、やがて一人の背の高い男が現れた。
秀吉は、軽く会釈をしたその男を眺めた。眺めているうちに、目からぼうぼうと涙を流し始めた。これには家康、菊丸も驚いた。
「いやいや、十兵衛殿じゃ。明智様じゃ。本当に生きておられたのですね。いや懐かしい。懐かしい」
そう言って泣いている。十兵衛も多少面食らったようである。
「関白様、5年ぶりになりますかな。いや、山崎での采配、見事でござった。この明智十兵衛、大敗でござった」
「そうでござろう。私もよくやったと思うのですよ。中国大返しと名付けて、今でも毎日のように語っておりますわ。思えば、十兵衛殿とは長き付き合い。もっとも十兵衛殿の気持ちが分かっていたのは、帰蝶様と信長様と、そしてこの秀吉かも知れません。そうは思われませんか」
十兵衛はまだ少し戸惑っている。
「さて、関白様に私の心が分かりましょうや」
「分かっておりますとも。お駒殿と私は古い付き合いでしてな。そう、麒麟。十兵衛殿は麒麟を捜しておられるのでしょう」
十兵衛は秀吉ほど軽い口をきく習慣がない。勢い、ここは秀吉の一人語りとなった。
「いや、公方の足利義昭殿にも、細川や駒殿を通じて、帰京をお願いしておるのだが、秀吉には麒麟は呼べぬ。そちには大志がないの一点張りでしてな。わしと瑞海殿が和睦したと聞けば、義昭公の気持ちも少しは和らぎましょう」
「ほう、公方様の帰京を。それは正しい道ですな。しかし関白殿には、幕府を再興するお気持ちも、自らが将軍となるお気持ちもありますまい。いかにして麒麟を呼ぶのです」
「はあ、それですな。いやなかなか苦労が多いのでござるよ。徳川殿さえ協力してくれれば、たちどころに他の諸侯もなびきましょう。しかし家康殿はなかなかに難しい。妹を妻にやっても、母を人質に送っても、なかなかになびいてくださらぬ。聞けば瑞海殿、つまり十兵衛殿が傍に控えていると言う。それで納得したわけです。十兵衛殿がいるのなら分かる。わしは十兵衛殿に嫌われておりましたからな。まあいずれ昔語りでもして、心を開きあいましょうぞ。」
ここで秀吉は家康のほうを向いた。
「家康殿。これはついでの話なんじゃがな。明日の対面、わしは思い切り尊大にふるまいます。家康殿は適当に話を合わせてくだされ。いや天下のためでござる。私の下にいる大名たちは、もとは言えばほとんどが同僚。家康殿が頭を下げてくだされば、すこしはわしを見直すことでしょう。これで失礼いたします。くれぐれも、お願いいたします」
家康は苦笑してうなづいた。秀吉は笑いながら帰っていった。
「相変わらず食えぬお方でありますな」家康は言った。
「関白の言うこと。いささかの理はあります。果たして本心かどうか。本気で麒麟をよぶつもりはあるのか。家康様とともに、しばし関白の政を助け、また関白を叱りつけ、見守っていく必要がありますな」十兵衛はつぶやいた。油断はならぬが、自分を殺すつもりは今はないようだ。
秀吉は屋敷に帰り、「ことの顛末」をいつものように、妻のねねに言ってきかせた。「麒麟がくる世、お前様、それは本心でしょうかな」ねねは首をひねった。
「何、狂言よ。しかし嘘ではないぞ。狂言も本気になって演じれば、やがて真になるものよ」こういう詩心がこの男にはある。
「十兵衛殿は大逆人でありましょう。殺さなければ、お前様まで十兵衛殿と同心と思われるのでは」
「いや、あの頃、多かれ少なかれ、誰もが信長公の死を願っていた。かわいそうなお方じゃった。十兵衛が天下をグルリと回してくれたのよ。あの前田利家さえ、それは分かっておるだろう。十兵衛には使い道がある。あの男の大望は分かっておる。わしが麒麟を呼ぼうとする限り、十兵衛は家康を説得してくれるであろう。あの一本気な性格が変わってなければな。」
「きりん?そういえば麒麟とは何です」
「分からんで話しておったのか。徳のある王が仁政を行うとき、現れるとかいう聖獣じゃ」
「お前様が、徳、仁」ねねは声をあげて笑った。秀吉も笑った。笑いながら、
「何がおかしい。散々逆らった佐々成政も許した。織田家も存続しておる。わしの仁と徳は世に鳴り響いておるわい」と言った。
この年、秀吉は丹波の奥で明智光秀と「称する男」が人々を扇動し、逆意をあおったとして、その男を処刑した。男は人を殺めた罪人であった。秀吉はしばし十兵衛を生かしておこうと決めたらしい。

続く。小説風「麒麟がくる」・スピンオフ・「明智十兵衛最後の戦い」・「第二回」

麒麟がくる・最終回・第四十四話「本能寺の変」・感想

2021-02-07 | 麒麟がくる

1,光秀はどうやって麒麟を呼ぶのか。

信長を殺すこと、で、です。これに尽きます。信長では太平の世は来なかったという考えに基づいています。本能寺の後は、作中ではほとんど描かれません。私はどうやって「光秀が麒麟を呼ぶことにするのだろう」とずっと考え続けていたのですが「信長を殺せば自然とそうなる」ということでしょうか。史実的にもそれなりの整合性はあります。今は信長と秀吉の「連続」より「違い」を見る学説が多いからです。信長では太平の世は来なかった、、、とにかく信長を殺すことが平和への第一歩、、、信長ファンとしては悔しいですが、まったくの荒唐無稽ではありません。

2,帰蝶はどうなるのか。

わかりません。登場しません。岐阜で自決などせず、生きて生きて生き延びてほしいと思います。史実的にはわかりませんが、生きたという傍証はあります。確定した説ではありません。

3,十兵衛は亡くなるのか。天海となるのか。

わかりません。亡くなりはしません。天海にもなったとも明確には分かりません。生きているとも、死んだとも解釈できます。視聴者がどう想像してもいい、という仕組みになっています。

4,信長はどうして本能寺で「嬉しそうに戦う」のか。

信長、生き生きとしていました。相手が十兵衛だからです。また「これでやっと長く眠れる」という思いもあるようです。信長らしい立派な最期でありました。肩に矢がささる、銃で撃たれて、最期を迎える。フロイスの叙述にそっくりです。あまり矢を使わず、基本やり、なぎなたで戦う点もフロイス「日本史」の叙述通りです。

それにしてもノッブ(信長、初めてノッブと書きました)、強い。寝巻なのに、重武装に兵士を滅多斬りです。まったく文句も言わず「わしを焼き尽くせ」。
信長が抱えていた苦悩、自己破壊への憧憬が分かり、信長ファンとしては思わず涙です。実に素晴らしい「本能寺」でした。「国盗り物語」と並びました。
日本ドラマで表現された「すべての本能寺」を見ていると思いますが(実際は少しは抜けている)、高橋英樹版「国盗り物語」と並んで史上もっとも素晴らしい本能寺です。

5,史実との整合性はどうなったか。

それなりに保たれています。でもそういうドラマではないのです。「人間と人間の感情を描く」ドラマであって、史実を描くドラマではないのです。私もその点で間違っていて、「史実じゃない」と文句を沢山書いてきました。

6,黒幕は誰か

いません。が、一番そそのかしたのは「帝」です。でも最後は自信満々に「見守るだけぞ」と宣言します。「さすがバランスのとれた帝、武士なんて手のひらで思うがまま」と捉えるか「ちょっと待ってよ。あんだけ唆したのに」ととるか、それも視聴者次第です。私は後者です。「見守るだけなら、けしかけてはいけない」でしょう。まあでも最後は納得できる正親町帝でした。

7,秀吉に本能寺の変を知らせたのは誰か。

細川藤孝が「予想段階」で知らせています。光秀につかないどころか、秀吉に「準備しろ」と伝えます。秀吉は喜びます。「明智殿やればいい」とも言います。
秀吉も藤孝も、帝も、、、みんな「ずるい大人」なのです。その中で、信長と光秀のみが「大人にならない純粋な永遠のこども」です。
細川藤孝は十兵衛の遺志を継ぐため、生き残った説、見事にはずれました。

8,この作品の評価はどうなるのか。

真っ二つに分かれると思います。すでに「みんなの感想」では「史実を改変しすぎ、ファンタジー大河説」も出ています。私は「よくやった。この終わり方しかなかった」と思っています。「いいところも悪いところもあるが、いいところのほうがずっと多かった」と思います。けなす人がいても「それは自由」です。自分にとってどういう作品か、だけが大切だと思っています。私だって史実との違いはずっと文句を言ってきました。でも終わりよければすべてよしです。史実よりハッピーエンドが今の時代には必要です。幕末近代は歴史の改変は許せませんが、すべては400年前の出来事です。

勝海舟
「行蔵は我に存す。毀誉は他人の主張。我にあずからず、我に関せずと存じそうろう。各人へお示しござ候うとも、毛頭、異存これ無くそうろう」。ほめるけなす、は他人のことです。

9、光秀はどうなるのか。

馬に乗って走りっていきます。これは大河「風と雲と虹と」へのオマージュです。「小次郎将門は死なない」とされました。「十兵衛光秀は死なない」がこのドラマの結末です。「風と雲と虹と」では最後に民衆が将門の「駒音、馬の音」だけを聞きます。そして言います。「やっぱり将門様は生きていた」。「麒麟がくる」の場合、最後に光秀の影を見るのは「お駒」です。
どうしてお駒はお駒なのか。「最後に光秀の駒音を見るもの」だからだと思います。私の二日前の予想は、このブログの一つ前にありますが、それだけは「当たり」ました。

個人的には本当に楽しませてもらったし、本能寺の信長は見事だったし、もう文句はありません。あとは時間をかけて、また考察を進めたいと思います。十兵衛光秀は死なないし、「どうする家康」はあるし、麒麟がくるも「さらに深く見ないといけないし」、信長光秀問題は永遠に終わりません。

麒麟がくる・最終回・第四十四話「本能寺の変」・あらすじ・予想・多少ネタバレ・最終版

2021-02-05 | 麒麟がくる
私の考察は何のハンドブックにも基づいていませんし、最終話を描いたハンドブックは存在しません。でも「ネタバレ」に気を付けてください。
去年の12月12日段階での予想はここにあります。半分ぐらい当たっています。「麒麟がくる」・第44回・最終回・あらすじ・予想12月版

NHKは最終話の概要を発表しています。
最終回は、宿敵・武田家を打ち滅ぼした戦勝祝いの席で、光秀(長谷川さん)は信長(染谷将太さん)から理不尽な叱責を受け、饗応役(きょうおうやく)の任を解かれる。追い打ちをかけるように信長は、光秀と縁深い四国の長宗我部征伐に相談もなしに乗り出すと告げる。
「殿は戦の度に変わってしまった」と、その行き過ぎた態度をいさめる光秀に、「己を変えたのは戦ではなく光秀自身だ」と信長は冷たく言い放つ。そしてついに、ある究極の命令を光秀に突き付けたのだった……

究極の命令とは、、、「家康暗殺か」となっているようですが「正親町帝譲位を急ぐからその担当になれ」ということでしょう。史実としては正親町帝は譲位を望んでいたと考えられますが、池端さんの解釈は違います。また学者さんでも「強要した」と考えている方は存在します。正親町帝譲位強要を「信長最大の非道」と解釈すると思います。

1,光秀は亡くなるのか。天海となるのか。

亡くなるでしょう。また「もろに天海となる」ことはないでしょう。ただし生死はあいまいにされ、「魂は生きている」となる可能性があります。

2,黒幕論は採用されるか。

直接的には採用されないでしょう。大河は原則黒幕論を描きません。ただし「全員が黒幕的」であることは、既に描かれています。その中でも大きく影響を与えるのは正親町帝・足利義昭・帰蝶の三人です。その三人以外はよく考えると「本能寺教唆」をしていません。近衛関白は「自分は信長のいいなりだ」と言っただけです。お駒は「将軍が喜んでいた」と言っただけ。細川藤孝は「いざとなれば信長様をお諫めする」と言っただけです。秀吉も教唆のようなことは言っていません。「譲位強要はさすがにやりすぎ、殿は焦っている」と言ったのみです。いろは太夫の信長への悪口は光秀には伝わっていません。ただし光秀は「民衆の思い」をくんでいるようなので「人々の恨みの声」は光秀の耳に入っているでしょう。「殺せ」とまで踏み込んだのは帰蝶のみです。帝は「信長を見届けよ」、足利義昭は「信長がいる京都には帰らない。十兵衛の京都なら帰る」と言っただけです。黒幕論は「光秀なぞ一人でことは起こせない」という考え方であり、主人公が最後の最後に誰かに操られるとは思えません。ただしみんなが「光秀を追い込んだ」ことはすでに描かれています。

3,帰蝶はどうなるのか。

二通りの考え方があります。十兵衛の遺志を継いで「キングメーカー」になり、秀吉から家康への天下の推移を操るという考え方。これが採用されたとしても「ナレーション扱い」でしょう。
次に本能寺にて亡くなるという考え方です。これは帰蝶の「責任の取り方」とされると思います。

4,誰が光秀の遺志を継ぐのか。

物語の流れからして秀吉ではなく家康でしょう。ただ十兵衛は「あとは家康に任せた」と「伝言するだけ」なのか。それではちょっと弱い気がします。少なくとも「家康伊賀越え」ぐらいは明智軍が助けないと。もう少し強く光秀が家康の天下への道を耕した、、、とするには家康の天下まで時間がかかりすぎます。20年以上、、、大阪の陣まではなんと33年あります。光秀天海説はありえないでしょう。せいぜい光秀の魂は生きていると宣言するぐらいか。もろに天海にしたのでは「いくらなんでもやりすぎ批判」が出ます。過去に天海説を採用した大河ドラマは一本もありません。

光秀の「遺志を継ぐ」者として考えられるのは8人です。まず正親町帝(ただし本能寺の4年後には退位)、足利義昭(史実として秀吉には協力)、反省した秀吉(惣無事令)、帰蝶、徳川家康、お駒の6人です。誠仁親王は天皇になりません。残りの二名は「たまと細川藤孝」です。
本能寺も「みんなで光秀を追い込んだ」感じがあるので、「みんなで麒麟を呼ぶ」可能性もあります。「ある」というか「そうなる」と予想します。

5,光秀自身は天下を取ろうとしないのか。

分かりません。本能寺の変を「私利私欲で起こさない」ことは既に発表されています。当面の目標は「譲位阻止、非道の信長を排除すること」でしょう。
天下を取ることは「私利私欲なのか」「天下国家のため」なのか。どっちとも言えます。
私は「山崎の戦い」が「実質的にはない」可能性も考えています。「戦うポーズ」だけで、光秀が「軍を解散する」可能性です。その交換条件として「秀吉と家康の共同統治による太平の世の招来」をもちかけるという可能性です。「光秀は負けたのではなく、天下のために身を引いた」という設定です。「やりすぎ」ですが、天海説よりは「やりすぎ感」が薄いと思います。

6,史実との整合性を合わせるか

合わせないと思います。今までもさほど史実にこだわってはいません。池端さん自身も「物語としての面白さ優先」と言っています。

7,つまるところ誰が光秀の遺志を継いで麒麟を呼ぶのか

家康でしょう。と言いたいところなんですが、光秀のようなのです。「どう設定すればそうなるのか」、面白いところだと思います。「たま」「帰蝶」「お駒」の存在が気になります。「麒麟をよんだ英雄は男性ではなく、女性である」となる気もしているからです。そこでもっとも気になるのが「たま・細川藤孝ライン」です。細川藤孝はなぜ「生き残る」のか。「義理の娘であるたま(ガラシャ)とともに十兵衛の遺志を継ぐため」、友を裏切ったのではなく「友の遺志を継ぐために裏切者の汚名をきた」という設定です。これはあり得るなと思っています。

最後に一つだけ、最後のシーンの予想です。光秀の死とともに、光秀の体から麒麟が飛び出す。その光が人々の心を打つという空想です。過去においては「義経」で、滝沢君の体から聖獣が飛び出した例があります。ただ松永久秀が「爆発しなかった」ことを考えると、「爆発はなしかな」とも思います。
秀吉の「惣無事令」については最近は否定的な学説が多いですが、それでもこう終わるかも知れません。

「十兵衛が咲かせた平和の花は、秀吉の惣無事令によって結実し、やがてそれを継いだ徳川家康は、260年にもわたる平和の世の礎をきずいた。十兵衛光秀は死なない。この世に平和を願う人々がいる限り、海に山に大地に、十兵衛光秀の魂は生き続けている」

この最後の部分は「風と雲と虹と」の終わりのシーンと同じです。「主人公は死なない」のです。

読み返してみると矛盾があり「Aの意見」と「Bの意見」では「つじつまが合わない」「叙述が変」な点がありますが、時間もないので訂正しません。どうすれば「十兵衛が麒麟を呼んだ」とすることが可能なのか。その大切な一点がわからないため、叙述に「ぶれ」が生じます。私の思考の「ゆれ」を表すものなので、そのままにしておきます。
以上。

誠仁親王と信長・「麒麟がくる」の加藤清史郎くんは「可哀そうなかごの鳥」なのか。

2021-02-04 | 麒麟がくる
誠仁親王(さねひと) 1552-1586   麒麟がくる、では加藤清史郎くんが演じています。

信長時代の天皇である正親町帝のただ一人の男子です。織田信長、明智光秀が亡くなった時、ちょうど30歳です。そして34歳で亡くなってしまいます。譲位の直前でした。正親町帝は食事も摂らないほど悲しみます。そして誠仁親王の第一王子である後陽成帝に天皇位を譲ります。譲位準備(仙洞御所の造営)は本能寺のわずか1年半後には始まっています。信長が死んだのに、すぐ譲位です。ここからも信長が譲位を強要したというのは、なかなかに成り立ちにくいのですが、むろん「強要した」という学者さんもおられます。

強い根拠はないのですが、誠仁親王との方が「信長にとって誠仁親王のほうがやりやすかった」のは確かでしょう。信長は奉行の子で王子様育ちじゃありませんが、あまり人間に「ひれふす」習慣がないようです。本当かと思うのですが、信長は生涯にわたって一回も「正式な参内をしていない」ようです。正式な参内となると、圧倒的に帝に対して「ははー」とならないといけない。どうもそれを嫌ったのではないか。そういう学者さんもいます。ちなみに私は「朝廷と鋭く対立していた」という立場には否定的です。信長が朝廷を乗り越えようとしたということも、まあないかと。信長はそれほど朝廷に興味はないように「も」見えます。晩年になると、位は維持するものの、官は辞して左大臣も丁寧に断ります。(非常に難しい問題です)ただ学際的なレベルの話は置いておいて、ここで私が思っているのは「信長はあまり頭を下げる習慣がなかったのじゃないか」ぐらいの話です。誠仁親王なら20も年下です。「ひれふす」必要はなかったでしょう。そもそも「問題が起きた時」は、誠仁親王が対応していたようです。信長は時々朝廷に意見するのですが、そういうときの窓口は誠仁親王であったとのことです。「相論」に関する信長の意見はわりと「まとも」です。でも正親町帝にしても「怒られた」ことはあまりなく、怒られるのは苦手だったようで、誠仁親王に任せます。

安土城には、帝を迎えるための建物があったとされます。しかし正親町帝は行幸していません。これを正親町帝と信長の「戦い」ととらえる向きもありますが、この建物は、誠仁親王用なんでしょう。誠仁親王が天皇になったら迎えるつもりだったのでしょう。譲位には誠仁親王も含めて帝も誰も反対していません、、、と簡単に書くと怒られますが、、、たぶんそうです。ただある学者さんのように「安土遷都」まで考えていたとすると、遷都ですから抵抗はあったでしょう。果たしてそこまで考えられるのか、今の私の力では分かりません。

この誠仁さんを「かごの鳥」にして、二条新御所(二条御新造)に「閉じ込めた」「人質にした」「自由を束縛した」という考えが昔からあるようです。ところがある学者さんが調べたら、誠仁一家は「絶えず禁裏と二条御所を行き来」しているのです。誠仁一家レベルだと、天正8年、本能寺の二年前の10月でも月に10日、他の月もほぼ同じようです。誠仁さんだけでも平均3~4回ぐらいは行き来しています。かなり多いと言えます。これだと「かごの鳥」「自由の束縛」説はきつくなるかなと。

なにしろご一家が多いのです。15人ぐらい息子、娘がいます。34歳で亡くなったのに、15人ぐらい。

実はこれが二条新御所に移った理由ではないか。禁裏では「狭い」から。という指摘もあります。誠仁親王に聞いたら「あ、狭いからです。子だくさんなもんで」と答える可能性があるわけです。「深淵をのぞき見たい方」にとっては、こういう単純な答えはとうてい受け入れがたいだろうし、私にも「深淵」をのぞく趣味はありますから、もちょっと考えてみたいところです。なお、誠仁親王は本能寺の変の後は禁裏に戻ったようです。「ほらみろ」という意見もあるのでしょうが、二条新御所はまさに戦場となり、織田信忠が自決し、多数が亡くなった建物です。事故物件になってしまったわけですから、「けがれ」を嫌う皇族が、そこに住み続けることはできなかったとは思います。そもそも焼け落ちなかったのか。どうもそこがよく分かりません。

天正2年ごろと、9年ごろには譲位の話が進みます。しかし両方とも流れました。これも「信長と天皇対立説」が生じる原因です。

天正9年というと、本能寺の前年です。なんで「流れたか」というと、占いです。陰陽道ですね。この年は珍しく六方向にたたり神がいるのです。「金神」です。「かねがみ」じゃなくて「こんじん」のようです。誠仁親王が二条新御所から禁裏に移ろうとする。その方向に「金神」がいてふさいでいるわけです。強行すればたたりです。方違えという方法はあります。しかし譲位は費用の都合で長く行われおらず、方違えで回避できる保証はなかったのかも知れません。陰陽師さんが書いた漢文も読みましたが、方違えについては触れていないように思います。書き下しも訳もない漢文なので、読解にまったく自信はありません。そもそも陰陽道については理解が私には不足しています。

誠仁親王の行動というか、二条新御所に移ったことに、過剰な政治性を見ようという立場は、「もしかすると」否定されつつあるのかも知れません。

なお私は生涯に一度だけ「方違え」をしたことがあります。高校受験の時、陰陽道(新書)の本を読んだら、直接その高校に行くと方向が悪いのです。友達と二人で、わざわざ別の駅で乗り換えて、方違えをしました。二人とも合格して、さすが陰陽道の力、、、とは思いませんでした。合格したら、俺の力だと思いました。(笑)

麒麟がくる・スピンオフ・「天海光秀、信長と再会す」・「明日を捜せ!」

2021-02-02 | 麒麟がくる
十兵衛と信長と帰蝶を救いたいなと思って書きました。史実的にはむろん成り立ちません。(と書く必要もないのかな)

関ケ原の戦いが終わった慶長5年(1600)、11月のことである。駿府城の門前に、一人の僧が現れた。従者らしき女性を伴っている。老女らしいが肌の色に艶があり、身に着けた装束もどこかあでやかである。門番が誰何した。
「ご坊、なにか用でござるかな」
僧形の男は、懐から文を取り出し「天海僧正に呼ばれました」と短く言った。70にも見える老体だが、声に張りがある。文には確かに今日、この日に駿府城にてと書いてある。
「お名は」
「美濃、浄法寺の空信と申す。これにおるは妻の妙鴦」
「はあ、くうしん様とみょうおう様」
門番たちはいぶかった。天海僧正の客がこのように「ふらり」となんの先ぶれもなく現れるのは妙である。しかも妻女を連れている。
「調べまするゆえ、しばし番所で待たれよ」。僧と従者の女性は丁寧に頭を下げた。
しばし待っていると、城から背の低い男がやってきた。急ぎ駆けつけたのか、息を切らしている。
「上様お側衆の者でございます。天海僧正がお待ちです。こちらへ」
長い道を通って、本丸に至り、「樹の間」に通された。30畳ほどの広間で、襖には一面、天に伸びるごとき生命力にあふれた樹が描かれている。狩野派の筆であろうか。
すでに天海らしき高僧は茶を立てている。少し離れたところに空信と妙鴦は着座した。言葉はない。
やがて案内の小男が茶を運び、二人は黙って茶を服した。小男は黙って、天海の後ろに着座した。
天海が二人に向かって深く頭を下げた。
「無用のこと」と空信が言った。言葉にとげはない。
天海が口を開いた。
「信長殿、あの日、本能寺の炎の中で貴方を見つけた時、貴方はすでに虫の息でありました」
信長と呼ばれた僧が応じる。
「そして、私は京の古寺に運ばれ、お駒殿の介抱を受けました。後ろにおられる菊丸殿にもお世話になりました。一月後、やっとなんとか起き上がれるようになりましたが、その時、すでに明智十兵衛殿はこの世のお人ではなかった」
「そう、私は秀吉殿に敗れ、小栗栖の里で重傷を負った。死んでも良かった。死にたかった。しかし菊丸殿に助けられ、やがて家康様に庇護されました。その折にはすでに故太閤は信長殿の存在に気が付いていた」
「太閤は私のもとに現れました。ところが私は、何か憑き物が落ちたような心持で、、、もはや天下や政に興味がないと言った。太閤は疑っていましたが、半年もすると信じるようになりました。私は美濃の浄法寺に入って出家しました。帰蝶は俗体のまま、ついてきてくれました」
「信長殿のお子らは」
「信雄にとっても、信孝にとっても、私はただ怖いだけの男で、とても父親としての愛着を感じることはできなかったようです。それより織田の当主に自らがなりたかったらしい。死んだことにしておいてくれ、という私の願いを、拍子抜けするほどあっさりと受け入れてくれました。一人の男として自分を試してみたかったのでしょう。信孝は太閤に敗れ、死んだ。それも男の在り方でしょう。」
天海、十兵衛はここで深く頭を下げた。
「帰蝶様、信忠殿のこと、まことに申しわけない仕儀となりました」
ここで妙鴦、帰蝶が初めて口を開いた。
「何度も降伏をうながし、命は助けると十兵衛殿が申し送ったのに、信忠はそれを拒否して戦って死にました。残念ですが、見事な死でありました」
(それよりも、たま殿のこと)と思ったが帰蝶は何も言わなかった。十兵衛は言う。
「信忠殿は父と母を慕っておりましたな」
十兵衛がそう言うと、信長と帰蝶は遠くを見つめ、悲しげな顔になった。信長が言う。
「すべては20年も前の出来事、愛もまた執着、執着が人を不幸にするのです。どうです。あの信長も少しは悟りが開けたと思われますか」
十兵衛はくすりと笑った。
廊下にせわしない足音が響いた。やがて家康が入ってきた。天下人であるはずのこの男が、十兵衛の後ろ、菊丸の傍に座り、座るや頭を下げた。信長も帰蝶も頭を下げる。
口を開いたのは信長のほうであった。
「家康殿、秀信(三法師、信長の孫、関ケ原にて西軍に属し高野山に追放)のことならご挨拶は無用です。あれも男です。自ら選んだ道です」
「秀信殿はいずれ高野山から呼び戻すことでしょう。それにしても信長殿、帰蝶殿、お久しゅうございますな。」
「浄法寺にて、修行を始めたころ、京から妙鏡和尚が美濃に下り、わが師となってくれました。あれは太閤からの指図かと思いましたが、妙鏡和尚は死ぬ間際、家康殿の指示だと明かされました」
膳が運ばれてきた。侍女に交じって膳を運んできたのは、身なり涼しき、身分高くみえる女性である。帰蝶の横にちょこんと座って微笑んだ。
「お駒殿、久方ぶりです」これは帰蝶である。
「そうでもありません。この前美濃を訪れたのは一月ほど前でありましょう。帰蝶様、お薬は処方通りに飲んでいますか」
「ええ、夜になって目がかすむということなく、なんとか暮らしております」
「あれは食べ物のせいなのです。緑濃きお野菜をとれば、栄養が目に回って、自然とよくなりまする」
帰蝶は言う。
「お駒殿は半年に一度ほど、来るたびに、いろいろ話をしてくれますが、十兵衛殿のことは、何を聞いてもこの二十年、何も言ってくれませんでした」
駒は目を伏せた。
「明智十兵衛様のことは、すでに亡くなられた方ですから、その方の心を推し量って、私が口を開くのは」
十兵衛が口を開く。
「あの時、私は織田信長という男が憎くて仕方がなかった。帝も信長殿を疎んじておられた。戦っても戦っても敵が増えた。その後ろには義昭様がいた。義昭様と信長殿が和解する道はなかった。夢を見た。いやな夢を。命の樹を切る夢を。信長殿の命かと思うたら、今になれば自分の命であった。誠仁親王はかごの鳥だと思った。信長殿は朝廷をもないがしろにする非道の男だと思った。ところが、帝も親王も譲位を望んでおられた。本能寺の後、帝はすぐに譲位された。みんなが信長殿を恨んでいると思っていたが、そうではなかった。ただ一点、今でもわからぬのは徳川様接待の時、なぜ信長殿が私を足蹴にされたのか」
帰蝶はくすりと笑った。
「十兵衛殿、あれは嫉妬でありますよ」
「はあ、嫉妬。でも私は帰蝶様に懸想したことなぞ。若き日こそお慕いしておりましたが。」
「そうではありません。信長殿は光秀殿が大好きだったのです。ところが光秀殿の気の合う友は家康殿だった。仲良さげに話しておられた。信長殿はそれに嫉妬なさったのです」
これには光秀と家康は目を見張った。信長が言う。
「十兵衛殿、だから愛とは執着であり、人を不幸にすると言ったのです。私はあなたが大好きだった。自分にないすべての物を持っていた。誰にも慕われていた。私は何をしても嫌われた。もがけばもがくほど人は私を恐れ、そして嫌った。なぜだ、私が信長で、あなたが十兵衛光秀だからなのか。信長は何をやっても信長なのか。私はあなたにだけは認められたかった。あなたに褒めてほしかった。でもあなたは会うたびに苦言ばかり言った。次第にあなたが憎くなった。憎くて仕方なくなった。愛とは妄執です。」
十兵衛の目に初めて涙が浮かんだ。
「そうで、ありましたか。私もあなたが大好きだった。いや、自分とあなたは一心同体であると思っていた。本能寺を起こした折、己が天下なぞ取れぬことは九割がたわかっていた。左馬助も反対した。自殺行為だと言った。しかし私は消え去ってしまいたかった。あなたを殺すことで、自分を殺そうと思った。私も信長殿もお互いにお互いを誤解して。私は貴方を認めることができず、、、そんなことであったのですね。私が愚かだったために、あたら多くの命を死なせました」
信長の目に涙が浮かんだ。

菊丸が口を開いた。
「上様、今日は信長殿にお話があると聞いておりましたが」
「ああ、そうじゃな。どうであろうか。信長殿、もういいのではありませんか。織田秀信殿の領地、10万石程度であるが、岐阜城とともに差し上げたいと思うのだが」
信長は黙った。しばしして。
「あのお城は、道三殿が作ったお城は、この度の戦いでほぼ焼け落ちました。このまま廃城にしていただければ幸いです。あのお城は道三殿そのものでした。思えば、道三殿の妄念が、私と十兵衛殿を縛り、そして帰蝶を不幸にしました。もう道三殿も許してくださるでしょう。十兵衛、帰蝶、信長、よくやったと申してくれるはずです」
「道三殿、お会いしたことはありませんが、乱世そのもののお人であったのですな。分かりました。道三殿の妄念とともに岐阜城は必ず廃しましょう。しかし領地は、あっても困りますまい」
「無下に断るのも煩悩でありましょう。なら美濃の浄法寺の傍に、3000石ほどの領地をいただければ。帰蝶によいものでも食べさせてやりたい。死んだ者の供養もまだ足りないと思っています」
「わかりました。あとよろしければ、私のお側衆になってはいただけぬか。まだ天下は盤石ではない。今のあなたなら、心を合わせてやっていけそうな気がするのです」
「いやいや、政にかかわれば、私の中から、また昔の信長が現れ、みんなを食い尽くし、不幸にすると思いますな」
十兵衛が言う。
「いや、信長殿、今のあなたなら大丈夫です。今のあなたとなら、やれるかも知れません」
「やれるかも、、、でしょうか」
「いや必ずやれます。乱世は終わり、乱世の子であった織田信長も明智十兵衛も死にました。次の世を建設する時がきました。それは極めて難しい。でも昨日できなければ今日、今日できなければ明日、そうだ、明日を捜せばいいのです」
信長は言う。
「織田信長とは何だったのか。私もふと考える時があります。しかし信長は死に、もはや彼のような人間は必要ない時代となりました。ならば私も十兵衛殿を信じて、明日を捜してみることにいたしましょう。ところであなたは若い頃には帰蝶を慕っていたと、先ほどおっしゃったが本当ですか」
十兵衛は照れた。帰蝶のほほが桃色に染まった。そして信長は幸福そうに微笑んだ。

続く、、、かも。