歴史とドラマをめぐる冒険

大河ドラマ・歴史小説・歴史の本などを中心に、色々書きます。
ただの歴史ファンです。

「中学時代のあまり有名ではない芸能人の女子」のお話

2023-04-18 | 日記
高校に行くと、成績のレベルというのはだいたい一緒なのですが、中学には「全国3位」とかいう化け物のようなやつがいて、体育もできるので本当にオール5なのです。実物を見ました。しかも相対評価ですから、「5」は学年の10パーセントという時代です。私がいくら頑張っても、5は体育と社会科ぐらいだったと思います。一方でとんでもなく学業が苦手な子もいて、先生がオール5の生徒に「学校内家庭教師」を頼んでいました。これも今では考えられない話かも知れません。

何が言いたいかとうと「いろんなやつがいたな」ということです。「あまり有名ではない芸能人の女子」もいました。子役で民放の時代劇に一度だけでました。当時AKBがあったら、その下ぐらいのグループに入っていたと思いますが、当時は個人アイドルの時代なので、彼女は有名でないまま高校時代には芸能活動をやめたようです。

その子とは同じクラスで、理科の実験グループが同じで、実験の時だけ仲良しでした。恒常的に仲良しだった記憶はありません。理科の実験の前と後ろの休み時間にだけ集中的に話していた記憶があります。何を話していたかは思い出せません。信長の話をした記憶だけはあります。彼女は興味なさそうに「不思議な生物を見るような目」で私を見ていたと「たぶん」思います。

これもたまたまなのですが「ジャニーズジュニアの男子」が学年にいました。実は私には超有名な女優さんと「知り合いだった時期」があるのですが、それは仕事上のちょっとした付き合いなので、芸能人で「かつまあまあ友人だった」のは上記の女子とこのジャニーズジュニアだけです。ただしジャニーズジュニアは親しい友人ではなかったので、話したのも一回きりです。彼は上記の彼女の「カレ」でした。

ある時下校中。その「カレ」がいきなり話しかけてきました。話したこともなかったのでわけわからなかったのですが、要するに「君は彼女が好きなのか」が聞きたかったようです。形式上の言い訳としては「一人で帰ると女の子が付きまとってうるさいから一緒に歩いていいかな」でした。今なら「自信過剰かよ。」と三村流の「ツッコミ」を入れますが、当時は「そんなものかな」と思いました。

彼女と話していると私の話がしばしば出てくると言うのです。「理科の実験の時だけの友達」ですから、にわかに信じられませんでしたが、「彼女でもないし好きでもない」と丁重に話して、ジャニーズジュニアにはお引き取り願いました。きれいな子で気も合ったので友人としては好きだったのですが、「友人としては好き」とか言うとややこしくなる。中学生でもそのぐらいの計算はできたようです。

上記の女子がTVに出たのは二回で、一つが時代劇、もう一つがバラエティの水着コンテスト。当時はアナログのだぶったような画面で「くっきり細部までは見えない」ので良かったのですが、同級生がいきなり水着でTVに出てくるのは結構衝撃的です。その画面は今も覚えています。

そう言えば、クラスの女子と男子でプールに行った時、ただ一人「大胆なビキニ」の子がいました。例のオール5が「興奮するからそういう格好はやめてくれ」と言ったら、「だってお父さんがこれ着て行けというんだもん」とのこと。男子で集まり「父親、頭がおかしい」と話しあいました。思春期は色々面白い。そのビキニの子は「セクシーでしょ」まで言いましたから、女子も男子も、いかりや流の「だめだこりゃ」であきらめました。

有名でない芸能人の子と水着の話をしたかどうかは全く覚えていません。へたに「水着とかやめてくれ」とか言うと、「ははーん、やっぱ私が好きなんだ」とかいう反応をするタイプの子だったので、意地でもしなかったのでないか。たぶんそんな感じだったと思います。オチもないくだらない話ですが、以上です。

Theマンザイ・M1の近代史・オズワルド伊藤の憂鬱

2022-12-22 | 日記
2022年のM1で敗者復活から本選に進んでものの惨敗した「オズワルド伊藤」に、「普通の人なら死にたくなるような罵詈雑言」が送られているそうだ。自分の「推し」をはねのけて、知名度で上に上がって負けやがって、、、ということなのか。怖い世の中になったもんだ。

ということで「近代史」のお話

1980年前後の漫才ブーム。私が一番好きだったのは「ビートたけし」の「ツービート」。でも一番人気じゃなかった。一番人気はB&B。島田洋七、洋八。「笑っていいとも」の前に「笑ってる場合ですよ」という番組をやっていた。「もみじまんじゅう」のギャグでおなじみ。あと紳助竜助、ヤンキー漫才。パターンとしては「ヤンキーなんだけど弱い」というお話。あとサブローシローが実力派。それとノリオヨシオ。「ホーホケキョ」「冗談はよせ」のギャグでおなじみだった。

このメンバーにピンの明石家さんま。片岡鶴太郎。山田邦子を加えて、高田文夫が台本を作って始めたのが「オレたちひょうきん族」。紳助の「ひょうきんベストテン」と「タケちゃんマン」で成立していたような記憶がある・山田邦子が時々単独コーナーを持っていた。「ただのおばさん」じゃないのだ。たけし、さんまと20代前半という年齢で共演していたのだ。

「オレたちひょうきん族」によってドリフの「全員集合」は打ち切りとなった。その「ひょうきん族」は「加藤・志村の番組」で打ち切りとなる。

最初は意気込んで沢山書こうと思ったのだが、たいして書く話がないのでやめにする。

1972年の吉田拓郎・イメージの詩

2022-12-21 | 日記
拓郎さんがアーテイストとしては引退なさるそうです。76歳。そんなに年が自分と離れているとは思ってもいませんでした。私が小学生の頃、拓郎ちゃんはまるで「ガキ大将」みたいだったからです。5つぐらい上かなと思っていた。よく考えると、10歳の5つ上では15歳です。

1,イメージの詩

これには多大な影響を受けたと思います。今私は趣味で歴史の勉強をしていて、尊大にも「どんな偉い学者の説だっておいそれとは信じない」という不遜な態度をとっています。私の中では「方法的懐疑」と呼んでいます。これを教えてくれたのが、小学校の時に聞いた「イメージの詩」

☆これこそはと信じれるものが、この世にあるだろうか。信じるものがあったとしても、信じないそぶり。

大学時代、統一教会の勧誘を断ったのも、民主青年同盟(共産党)の誘惑(これは貧乏な僕には実は魅力でした)を断ったのも、「信じないそぶり」のおかげです。まあ統一教会(原理研究会)は、高校の時から駅でたびたび勧誘されていて、完全に正体を知ってましたから、別に断るのは難しくなかった。でも民青の掲げる「平等」は魅力的だった。しかし「闘争がだめ」なんです。とにかく「信じないそぶり」が大事と思っていたおかげで「はまり」ませんでした。運動をしていた人を貶める気持ちはありません。静かに本を読んでいたい私には、とても戦う力がなかったということです。

歴史学者の意見も当然「信じないそぶり」です。魅力的な説もたまにあるのですが(笑)

2,おきざりにした悲しみは

小学校4年だったかな。「生きていくのは、ああみっともないさ。あいつが死んだ時も、オイラは飲んだくれてた」。これをみんなで歌って下校してました。友達も結構好きみたいでした。

3,初恋

歌の題ではありません。小学校高学年から中学まで「なんとなくいつもいて、楽しく話す女の子の友達」がいました。同じ部活でもありました。でも中学ではクラスは同じにならなかった。それでも一緒に拓郎を聞いて、感想を述べあったりしてました。でも中2になると、僕は陽水に走り、彼女は拓郎派で、なんとなく拓郎の話はしなくなりました。
私はブサイクですが、彼女は小学生の頃から「完成された美人」でした。彼女といるのは楽しかったけれど、なんというか眩しかった。年を経るにつれてどんどん女性として美しくなるので、眩し過ぎたのだと思います。
中二に最後だったか。彼女はこう言いました。「ねえ、拓郎が嫌いになったの。本当に嫌いになったの。嫌いなの」。それは明らかに拓郎の話ではなく、私はドキリとしました。そして、なんとなく恐ろしくなりました。彼女と「親友」であることは心地良かったし、自慢でもありました。そういう関係が別のものに変わってしまうのが、恐ろしかったのだと思います。

夏目漱石の「それから」の男女関係を「恐れる男と恐れない女」と表現することがあります。大学になってそれを聞いた時、私の心には真っ先に彼女の顔が浮かびました。
私は「いい年」ですが、「いい年」なるとかえってこういう記憶が鮮明に懐かしく思い出されます。

話は脱線しましたが、吉田拓郎。小学校の時、私のアイドルでした。ご苦労さまでした。拓郎ちゃん。