武士がどうやって発生したかについての「定説」はありません。有力な説として「開発領主説」「京都職能説」「ハイブリッド説」があります。
武士の発生は10世紀です。そのころ律令制が崩れて、というより、地方では最初から崩れていて、公地公民は有名無実となり、「私領を持つ領主」が存在しました。律令制度においても「墾田永年私財法」以降、公認で私領を持つことができました。
このような「開発領主」が武装して武士になったというのは「古い説」ですが、古いから否定されたわけではなく、十分有効性を持った説明のようです。ただ問題は「開発領主」とはどんな人たちなのかということです。主に「古くからの地方の豪族」「富豪百姓」という風に山川の教科書には書かれています。正確には「豪族と有力農民」と書かれています。「有力農民」の出自が気になりますが、それは書かれていません。
そういう「武士みたいな人たちがいた地方の土壌」に「京都から王臣家(天皇や藤原氏)の子孫がやってくる。また国司として役人がやってくる」、そういう「貴族階級」が地元の「開発領主」の娘と結婚して土着する。すると生まれた子供は「貴族の看板を持ち、開発領主の地盤を持つ」ことなります。これが武士だというのが「開発領主説」で、あり「ハイブリッド説」も同じです。
「そもそも武士みたいな人たちがいた」けれど、看板がなかったということです。武士だと朝廷が認めるのは少なくとも六位程度の人達で、「貴種」の看板がないと武士とは認定してもらえないそうです。ハイブリッド説はそこにこだわって、貴族の血がどうしても必要だったとします。
それに対して「京都職能説」は、「もともと武士みたいな貴族」は京都にいて「武芸を職としていた」。そういう武芸貴族が地方に下って、開発領主たちと結びつき、武士が生まれた。あんまり違いがないような気がしますが、おそらく「私のまとめ」が拙いせいでしょう。「開発領主説」「ハイブリッド説」では「地方に下る」のは「武士みたいな人」じゃなくてもいいとなるのだと思います。
職能説の場合、多少疑問が生じます。京都から「武士みたいな人」が下って、地元民を組織化して武士にした。つまり上からの武士化であったとなるようです。しかし「武士みたいな人」がいない状態から「武士を作り出す」ことが可能なのか。特に異常に鍛錬を必要とする「弓の技術」はどうやってつけるのか。もともと「武士みたいな人がいた土壌」を想定したほうが(開発領主説、ハイブリッド説)、分かりやすい気がします。
どっちにしろ「地方に下る」というワードは共通です。京都で武士が生まれて京都で育ったということはどっちの説も採用しません。当然です。藤原秀郷も平将門も「地方の人」であることは歴然としているからです。だったら「武士は地方で生まれた」としてもいいと思いますが、そう簡単にはいかないのが歴史学みたいです。ここまでの文章を読み直してみると「開発領主説」と「ハイブリッド説」の違いを私はちゃんと理解してないようです。
ハイブリッド説はさらに「武士の精神文化」はどうやって生まれたのだろうかにこだわります。平将門は「武士のほこり」みたいなことを口にします。江戸武士とは全く違ったものですが、「ほこり」があるわけです。そういう精神文化は、地方に下った「武官輩出氏族」がもたらしたとします。坂上田村麻呂などの子孫です。京で律令国家の「武官」を代々出してきた家です。
武士は地方で私領を持った農民から生まれた、とする場合、間違っているのは「農民」の部分のようです。「私領を持った地方有力者」から生まれ、彼らは「地方に下った貴族」と結びつき、武士団を形成した、ならさほど間違った説明にならないと思います。
武士の内実というか本体部分は地方で生まれたようです。彼らは領主階級で「弓と馬」を習う時間がありました。しかし武芸だけでは「単に武装した人々」になります。そこに貴族がやってきて婚姻を通じて結合し「血筋」と「精神文化」と「物質的武士文化=武具など」を加えた。そうして武士と認められる人々が誕生した。私の理解では「こんな感じ」になるのだと思います。最終的には朝廷が武士を制度の中にとりこんで、武士が完成します。「土地の寄進」の問題がありますが、どう考えても自分は理解していないので、触れませんでした。国衙発生説にも触れませんでした。
武士の発生は10世紀です。そのころ律令制が崩れて、というより、地方では最初から崩れていて、公地公民は有名無実となり、「私領を持つ領主」が存在しました。律令制度においても「墾田永年私財法」以降、公認で私領を持つことができました。
このような「開発領主」が武装して武士になったというのは「古い説」ですが、古いから否定されたわけではなく、十分有効性を持った説明のようです。ただ問題は「開発領主」とはどんな人たちなのかということです。主に「古くからの地方の豪族」「富豪百姓」という風に山川の教科書には書かれています。正確には「豪族と有力農民」と書かれています。「有力農民」の出自が気になりますが、それは書かれていません。
そういう「武士みたいな人たちがいた地方の土壌」に「京都から王臣家(天皇や藤原氏)の子孫がやってくる。また国司として役人がやってくる」、そういう「貴族階級」が地元の「開発領主」の娘と結婚して土着する。すると生まれた子供は「貴族の看板を持ち、開発領主の地盤を持つ」ことなります。これが武士だというのが「開発領主説」で、あり「ハイブリッド説」も同じです。
「そもそも武士みたいな人たちがいた」けれど、看板がなかったということです。武士だと朝廷が認めるのは少なくとも六位程度の人達で、「貴種」の看板がないと武士とは認定してもらえないそうです。ハイブリッド説はそこにこだわって、貴族の血がどうしても必要だったとします。
それに対して「京都職能説」は、「もともと武士みたいな貴族」は京都にいて「武芸を職としていた」。そういう武芸貴族が地方に下って、開発領主たちと結びつき、武士が生まれた。あんまり違いがないような気がしますが、おそらく「私のまとめ」が拙いせいでしょう。「開発領主説」「ハイブリッド説」では「地方に下る」のは「武士みたいな人」じゃなくてもいいとなるのだと思います。
職能説の場合、多少疑問が生じます。京都から「武士みたいな人」が下って、地元民を組織化して武士にした。つまり上からの武士化であったとなるようです。しかし「武士みたいな人」がいない状態から「武士を作り出す」ことが可能なのか。特に異常に鍛錬を必要とする「弓の技術」はどうやってつけるのか。もともと「武士みたいな人がいた土壌」を想定したほうが(開発領主説、ハイブリッド説)、分かりやすい気がします。
どっちにしろ「地方に下る」というワードは共通です。京都で武士が生まれて京都で育ったということはどっちの説も採用しません。当然です。藤原秀郷も平将門も「地方の人」であることは歴然としているからです。だったら「武士は地方で生まれた」としてもいいと思いますが、そう簡単にはいかないのが歴史学みたいです。ここまでの文章を読み直してみると「開発領主説」と「ハイブリッド説」の違いを私はちゃんと理解してないようです。
ハイブリッド説はさらに「武士の精神文化」はどうやって生まれたのだろうかにこだわります。平将門は「武士のほこり」みたいなことを口にします。江戸武士とは全く違ったものですが、「ほこり」があるわけです。そういう精神文化は、地方に下った「武官輩出氏族」がもたらしたとします。坂上田村麻呂などの子孫です。京で律令国家の「武官」を代々出してきた家です。
武士は地方で私領を持った農民から生まれた、とする場合、間違っているのは「農民」の部分のようです。「私領を持った地方有力者」から生まれ、彼らは「地方に下った貴族」と結びつき、武士団を形成した、ならさほど間違った説明にならないと思います。
武士の内実というか本体部分は地方で生まれたようです。彼らは領主階級で「弓と馬」を習う時間がありました。しかし武芸だけでは「単に武装した人々」になります。そこに貴族がやってきて婚姻を通じて結合し「血筋」と「精神文化」と「物質的武士文化=武具など」を加えた。そうして武士と認められる人々が誕生した。私の理解では「こんな感じ」になるのだと思います。最終的には朝廷が武士を制度の中にとりこんで、武士が完成します。「土地の寄進」の問題がありますが、どう考えても自分は理解していないので、触れませんでした。国衙発生説にも触れませんでした。