歴史とドラマをめぐる冒険

大河ドラマ・歴史小説・歴史の本などを中心に、色々書きます。
ただの歴史ファンです。

黒田俊雄氏はなぜ「権門体制論」を提唱したのか。

2023-08-15 | 権門体制論
関西方面で人気がある「権門体制論」は極めて単純な理論です。

中世において日本の支配階級は、荘園を基盤とする公家・武家・寺家だった。天皇はこの勢力に「みかけの正当性」を付与した。権門は喧嘩したり仲良くしたりしながら(相互補完)自分たちの利権を守った。

これだけです。一般には「天皇を中心として権門は結合」と説明されますが、間違いです。少なくとも黒田俊雄氏はそう考えていません。天皇は「正当性」を付与するように見えますが、それは「みかけ」である。提唱者の黒田俊雄氏はそう考え、それを「天皇制の詐術」と呼びました。ここには「公とは何か」という深い問いが存在します。権門はそれが上皇家であろうと「私的勢力」です。私的勢力のままでは支配の正当性が得られません。そこで「天皇という公認機関=王」を「権門が作る」のです。権門は「自らを公的存在にする機関」を自分で育て上げ、天皇を「公として飾り立て」、「天皇は公だから自分たちは公認された」と主張するわけです。天皇が公だから正当性を得るわけでなく「天皇を公にみせかけている」のが実は権門なのです。これが「みかけの公」であり、「天皇制の詐術」「天皇制のマジック」です。現代でも政府は何かというと第三者機関を作り、自らの政策に正当性を付与します。この第三者機関にあたるのが、天皇であり天皇システムです。

戦前に学問を始めた黒田俊雄氏は、徹底した「反皇国史観」論者でした。戦後は徹底して「象徴天皇制」を批判しました。特に「天皇は歴史的に不執政であった。そもそも象徴であった」と言う考えを亡くなるまで痛烈に非難し続けました。だからこそ「天皇は王である」と言ったのです。「天皇は不執政ではない。王だ。王として(日中・太平洋戦争の)責任をとるべきだ」。これが黒田俊雄氏の思いでした。第三者機関として東條ら軍主導の政策を「公認」しながら、自分は弱き第三者機関だから責任はないとする、この態度は間違っていると黒田俊雄氏は主張したのです。(ちなみに黒田俊雄氏の恩師は皇国史観の代表的論者である平泉澄で、権門体制論と平泉の史観の共通性を指摘する論者もいます。たしかに私のいう「みかけの正当性」を考慮せず単純に「天皇が権門の中心」としてしまうと、権門体制論は皇国史観そのものにも見えてくるのです。その意味では危険な理論です。実際、嬉々として平泉史学の復権を主張する方もいます)

天皇制への漠然とした精神的呪縛がある限り、歴史学がまた「非科学的・神話的」なものに歪められる恐れがある。天皇制の真実を解明し、その神秘性をはく奪しないといけない。その思いが「権門体制論」の提唱につながるのです。

黒田俊雄氏はマルクス主義者でした。マルクス主義者がなぜ一見すると、皇国史観と似た構造をもつ「権門体制論」を唱えたのか。

私の疑問はそこであり、そこから権門体制論を読んでいきました。そしてなんとか「黒田俊雄氏の真意」に近づくことができたと考えています。日本史学は政治論であることを免れない。「公平で中立」ということは日本史学ではありえない。だから論者は自分の政治性を絶えず点検し、「なるべく公正に論じよう」とするしかない。黒田俊雄氏の鋭い政治性を前に、私はそんなことを考えます。黒田俊雄氏の文章が心地よいのは、黒田氏が自らのあふれるばかりの政治性を意識しながら、それでも「できる限り公正に叙述しよう」と苦闘している様が読み取れるからです。
以上。

本郷和人論・リスペクトを込めて

2023-04-26 | 権門体制論
1,本郷氏の本当の偉大さは、こういう文章を書いても怒らないだろうことである。

他の「生きている歴史学者」だと、そうはいきません。本人が許しても、お弟子さんたちが許しません。介護のために早期リタイアして、そもそも非史学科で、2年半前から学者の本を趣味で読み始めた僕みたいな人間が、「論」とか言いだしたら嘲笑されます。または単純に怒られます。

でもそうすると、コミュニケーションは遮断されてしまうわけです。私は教育学をやってきて、コミュニケーションが教育の基盤であることは明確だと思っているわけです。そういう「教師論」を勉強した人間からすると、一番いけないのが「教祖のように構えている学者」というか簡単に言うと「とっつきにくいやつ」なんですね。対話が成立しない。「黙っておれの言うことを聞いていればいい」というタイプ。これは教師としては失格です。学者としては分かりません。とにかく教師論の立場からすると、「対話になる」という点で本郷氏は実に偉いな、と考えます。

2,先生は間違ったほうがいい時もある

中学ぐらいになると、先生の説明がおかしいと思うことがあるのですね。で私が指摘すると、譲らない。で、色々調べて「どうだ」と見せると、やっと「うーん」って考える。その間私は猛勉強するわけです。つまり先生は間違っていいのです。実際、私は本郷さんの本を多く読んでますが、「本当かな」と思うことが時々あるわけです。これは本郷さんだけでなく、すべての学者の説がそうです。一応全部疑ってます。で、ほとんどは私の誤解です。
で調べてみるとこうです。この「自分で調べ考える」という時間が本当の勉強の時間です。で、こう思う。「厳密に言うと間違いである可能性は少し残るが、本質的部分だけ考えるなら、本郷さんの説明は間違っていない。学術論文じゃないのだから、分かりやすさ優先でかまわない」となります。分かりやすい言葉で書けるならそうすべきです。私のような素人は、重箱の隅をつつくような「細かい史実に関する」学術議論をいきなりふっかけられても困ります。本郷さんは言ってます。「恐ろしいほど日本史に興味がない学生が多い。竜馬が何をしたかも知らないし、興味もない。そういう学生へ、歴史の面白さを伝えたい。細かな議論は学者が専門誌でしていればいい」と。
これは蛇足ですが、そもそも私の関心は次に述べる国家論に向いているので、「細かい学術論争」はあまり興味が持てない。歴史学者じゃないし、歴史学者になりたいとも思わない。歴史学における国家論が主要な興味です。数学論にも宇宙論にも興味がある。歴史は興味分野の一つに過ぎません。

3,権門体制論と東国国家論を考える機会を与える

私、そこそこ黒田俊雄氏を読んでいて、素人にしては権門体制論に詳しいのです。その勉強のきっかけが本郷さんです。偉大ですよね。
で本郷さんはこう言うわけです。「東国国家論と権門体制論、どっちが正しいでしょう。学会では権門が多数派、僕は東国で少数派。歴史学って多数決でしょうか。どう思います」ってね。
で私が今出している答えが「ふたつは同じもの」ということなんです。最近、立命館大学教授の東島誠さんがそう書いているので驚きました。でも「現代文読み」の立場から解読すると、同じものなんです。

東島さんは本郷さんの権門体制論の説明は違うと書いてます。厳密に言うとそうです。でも「正しい」のです。これは東島さんも十分わかっています。東島さんのいう「亜流権門体制論」のほうの説明になっているのです。本郷さんのは。、、、そして「今は亜流が主流」なんです。だから「今の権門体制論」の説明としては「正しい」のです。

まあ以上です。色々詳しく書く学者はいくらでもいます。でも本郷氏みたいな「問いかけ型」は珍しい。これこそ教師のあるべき姿なんです。先生は「どうだろうね」という態度が大切。こうである、まで言わない自制心があってもいい。先生が強すぎると、生徒は思考しなくなります。

最後に権門体制論について、ですますを使わず。自説です。間違いは多々あっても、今の段階ではこれが限界です。論理の強引さ、おかしさがちょこちょこ見えます。まあ「殴り書き」ということで大目に見てください。

戦後史学は皇国史観への深い反省から始まった。しかしそれは「天皇を無視する歴史」という形で表れてくる傾向にあった。天皇の時代は桓武あたりで終わり、あとは摂関政治になり、院政と同時に武士が登場し、それからずーと武士の歴史が日本の歴史である。天皇は重要ではない。、、、武士(鎌倉幕府)が天皇に勝ったということで、皇国史観の否定になると考える学者もいたようだ。
それに対して黒田俊雄は異論を唱えた。それが皇国史観の完全な否定と言えるのか。もっと科学的に天皇権力システムの実相(具体的にはそのシステムを支えている公家・王家・寺社・武家)を解明しないといけない。幕府が強いか朝廷が強いか、どちらが上か下かは、一応論じる必要はあるとしても、本質的には問題ではない。武士は新時代のヒーローだろうか。彼らは所詮支配階級。権力者。天皇と同じ権力者で天皇を支えた。皇国史観を乗り越えるなら、肝心の天皇、その本当の姿、権力構造を明らかにしないと意味はない。武士は所詮最高権力機関・天皇システムの一員である。天皇・上皇・公家・武家・寺社、これらは「荘園を基盤にしているという意味で仲間」であろう。武士は「所詮は天皇の侍大将」だが、天皇も上皇も「武家と変わらない」のだ。みんな同じ基盤をもつ同質の者なのだ。これら全体が天皇システムを形成するが、この天皇システムにつき、極めて非科学的な観点からそれを絶対視したのが皇国史観であり、それは多くの人命を奪う凶器となった。歴史学はその犯罪に加担した。二度とそのような犯罪行為を犯さないためには、天皇システムの実態を、史料に基づき、科学的に研究し、タブーなき形で「ありのまま」を明らかにしなくてはならない。これが黒田の考えと私は思っている。彼の本質はヒューマニズムである。

さて、ここで一つ注を加えておきたい。それは黒田が戦後歴史学の天皇制研究に関する課題について「皇国史観と戦うことのみを念頭においていては」と書いていることである。「天皇制研究の新しい課題」という文章。「皇国史観のみ批判するのでなく」とはどういうことか。実は黒田は象徴天皇制さえ射程に入れていたのである。天皇制打破ということではない、昭和の天皇制も歴史学は冷静で科学的な分析の対象としなくてはいけないと考えていたようだ。皇国史観はなるほど「みかけ上は」戦後否定されたように見えた。だが、それに代わって「古代からずっと象徴であった。天皇はずっと日本の中心で、権力はないが、権威はあった」といういわば「隠れ皇国史観」と呼ぶべきものが現れた。私は、今後も黒田が否定したかったのは「皇国史観」と書くが、それは当然、黒田の言う隠れた皇国史観のような認識も指していることはご了解いただきたい。

黒田は、公家や天皇・上皇が鎌倉時代においてまだ強い力を持っていることを強調した。また天皇を宗教的に補佐(補完)する「旧仏教」が強い力を持っていることを強調した。

そうしてできたのが、公家・寺社・武士を権門という支配層とする権門体制論および旧仏教を重んじる顕密体制論である。黒田はその中心に天皇を据えた。要するに黒田は天皇を歴史の舞台に再登場させ、その「ありのまま」を「史料分析を通じて科学的に」かつタブーなく描けと言ったのである。

これはなにも個々の天皇の伝記を書けというのではない。個々の生身の天皇は黒田の書き方だと「形式的存在」である。その実体は権門に支えられた天皇システムである。それが権門体制。権門体制を明らかにすることで、具体的にはその権力がどのような機関によって権力を行使できたかを実証することで、天皇システムの権力構造の「ありのまま」が明らかになると考えたのである。「朝廷の権威」なる曖昧なる概念が、どのような権力システムであるかが、明らかにできると考えたのである。そうすれば天皇権力システムの相対化が可能となる。

武家研究一辺倒の歴史学はやめよ。公家天皇・寺社を研究の対象にせよ。天皇中心主義とは真逆の位置にいる彼がこれを唱えたことの意味を考えることが重要である。彼は「科学的方法によって、タブーなく、天皇・公家・寺社の実態を明らかにし、もって非科学的歴史学である皇国史観とその「亜流」(戦後においてはこの亜流の方が重要と黒田は考えた)、いわば「隠れ皇国史観」を歴史科学から放逐しようとしたのである。むろん、それによって得られる「史実の解明」が重要であることは、いうまでもないことである。

黒田は「中世国家はこうなっている」と説明したわけではない。「中世国家をこういうものだと仮定すれば、天皇システムの解明ができるのだ」と主張したのである。だから石井進の「中世に国家はあったか」という質問は、彼の真意を誤解した結果か、分かっていてわざと誤解したふりをした結果である。石井氏は学究肌で、黒田氏の「政治」に巻き込まれたくなかったのだろう。それがおかしいとは思わない。黒田は政治を仕掛けていたが、歴史学を政治のために利用したともいえないだろう。「こうなっていると仮定すれば皇国史観や現代の皇国史観(天皇は古代より象徴であり、権力はないが権威を持っていた)が相対化できるはずだ」と考えたのである。本郷和人氏がぐちを書いている。「僕の師匠の石井先生が権門体制論ともっと真剣に戦っていれば、佐藤先生の東国国家論は今よりもっと支持者を増やしただろう。石井先生は尊敬するけど、権門体制論との戦いを避けた。中世に国家はないよね、で否定完了としてしまった。」。しかし、黒田には国家があったと主張しなくてはいけない切実な理由があったのである。皇国史観、および戦後の隠れ皇国史観の徹底的な批判と止揚のことを私は言っている。これは思想の問題ではない。黒田には強烈な思想があったが、それを歴史論文に持ち込むことには慎重だった。皇国史観は科学ではない。科学的な歴史学で、皇国史観を乗り越える必要があると論じたのである。彼は天皇制に対する嫌悪を表明したが、「思想で歴史をねじまげよう」としたわけではない。ただし歴史学の政治的中立性という言葉は虚妄である。だからと言って露骨な形で政治信条を歴史に反映していいかとそれも違っていて、要は「科学を目指す」ということに尽きる気がする。

あの長い歴史を持つ強烈な皇国史観(その亜流、天皇は古代から象徴だった、ずっと権力はなかったが、権威はあった、も含む)が、民主国家になったぐらいで消滅するわけない。消滅をしたように見えても、地下でしたたかに生き残っているではないか。隠れ皇国史観がいくらでもあるではないか。しかし権門体制仮説を検証していけば、その仮説の実証の過程で、「天皇・天皇システムの実態がタブーなくありのまま明らかになり」皇国史観およびその亜流は真に相対化されるはずだ。そう黒田は考えたのである。ただ現状の「亜流権門体制論」が、黒田の言う通りになっているかは、難しいところである。黒島誠さんは「なっていない」と書いているが、なっている人もいる気がするのである。また黒田の考えとは真逆に「隠れ皇国史観」になっているのもありそうである。隠れ皇室史観になってしまうのは、権門体制論がもつ危険性である。「理趣経」と同じだろう。解釈を間違えると大変な事態になるのである。では天皇の煩雑な儀礼を分析する仕事をどう評価すべきか。文化史としての意味はある。しかし権門体制論は権力の分析をその主眼とするものであるから、シン権門体制論(黒田俊雄の権門体制論)から見れば、権力論を考えず、ただ儀礼の様子を長々と再現するような研究は、おそらく「興味のらちがい」であろう。それはそれ単独で意味を持つもので、それが「天皇の歴史の解明」かといえば、シン権門体制論の立場のみから見るならば、意味はない。しかし文化史としての意味は多いにある。とでもなるのだろうか。

儀礼の分析ではなく、権力論として分析に「なっている」代表例は東大准教授の金子拓さんである。「天下静謐」を一部の学者が単純素朴に「天皇の平和」としてたのに対し、金子氏は「まあ見方によってはそうだけど、天下静謐って将軍や天皇をはるかにこえた徳目、そう信長は信じていたでしょ」と「やんわりと反論」する。氏などは、「タブーなく天皇の姿を厳密な史料解析によって解明している」から「なっている例」と私は考えている。

金子氏は書く。信長の時代、天皇・朝廷には公平な裁判という観念がなくなっていた。利害や人間関係で判断を下し、しかもそうした姿勢に問題あるとすら思っていなかった。信長は何度か天皇を叱責した。天皇は始め、何を注意されているのか分からなかった。やがて分かるとパニック状態になった。正親町天皇は息子を前に出し、自分は隠れるようにして信長に謝罪した。もちろん厳密な史料分析に基盤をおいています。おそらく金子氏は最も「篤実な」研究者の一人です。(織田信長・天下人の実像)

これは信長が上か正親町が上かという幼稚な問題ではない。信長には天下静謐への強烈な使命感があり、そのためには現実の天皇は先例に対し公平でないといけないと考えたわけである。史料を読み込み、科学的に、タブーなく、天皇の実態をあきらかにする。金子氏は東大准教授で、おそらくバリバリの権門体制論ではないが、黒田や佐藤が目指したことを継承していると私は考えている。

あと桃崎有一郎氏も明らかに分かっているのだが、権門体制論、マルクス史観を「生きる言説にアップデートして継承する意図はない」ように見える。ただこうは言っている。
「天皇は絶対善であり、京都はそのような天皇が、1200年もの間、民のためを思って維持してきた賜物である。というまことしやかな神話に退場してもらわなければならない。」

この神話は思想というより、観光宣伝の「1200年のミヤコ」というイメージ作りを想定しているようだが、いずれにせよ現在の神話である。現在も「神話」があることを明示している。(京都を壊した天皇、護った武士)

さて本題に戻って黒田俊雄の言葉を紹介しよう

全人民を覆っている、全支配階級の、全権力機構を明らかにしろ、、、、これが黒田の主張であった。これがオリジナルの権門体制論である。

朝廷は鎌倉幕府よりエラいぞ、とか、そんな次元の話ではないのだ。なお私が天皇の敵だと考えたら間違いである。私見では平成の上皇こそ伝統的天皇像と戦いつづけたのであり、そのイズムは秋篠宮に継承されている。それに今の日本が共和制=大統領制に耐えられるだろうか。衆愚政治の問題をクリアーできるだろうか。いささか心もとない。私は反天皇主義者などではない。反皇国史観、というより反・非科学的歴史観の徒である。あえて敵というなら、それは「全体主義」である。

東国国家論も皇国史観(おそらく戦後の亜流も含む)への反省とその乗り越えを目指して作られた。東国国家論は、日本の中心は複数あると主張した。しかし複数あるというためには、天皇の具体的政治機構の分析が必要である。だから佐藤進一は「日本の中世国家」を「王朝国家の政治機構の分析」から始めたのである。

権門体制論はそのオリジナルの姿においては、東国国家論と対立するものではなく、同じ問題意識を共有する「兄弟理論」だったのである。私はひそかに「東国・権門体制国家論」と名付けている。

本郷さんに望むこと、ぜひ東島誠さんが「幕府とは何か」で提起した「二つは同じもの問題」を「検討」してください。この二つを融合させた「東国・権門体制国家論」に問題ありというのなら、それでもいい。またご本を読んで勉強します。そんなこんなで、心より、本当に社交辞令ではなく、応援いたしております。

権門体制ではなく、権門顕密体制である。

2022-12-25 | 権門体制論
日本史を見るとき、為政者の歴史において見るということは「全く否定」しませんし、逆に「民衆の歴史」をたどることも全く否定しません。

ただそれだけが「日本史」なのかと考えると、私は違うと考えます。

私の日本史の構造・構想

1,身分社会の変化を考える。

身分といった場合、為政者などの権力者も民衆も「身分」に組み込まれます。ここで重要なのは「建前の身分と現実の身分感覚が乖離していることで」、そこは見ないといけない。

その上で日本史は「身分差が徐々に縮まる方向において変化してきたではないか」

このことをまず私は考えています。明治になって四民平等とはされたものの、女性の地位など様々な問題が残りました。戦後の改革によって文章の上では(憲法では)、完全な平等が実現したはずでしたが、「現実感覚」は違います。主に女性差別の問題が残りました。今、起こっている動きは、女性と男性の「身分差を縮める」という過程であると考えるべきだと思います。むろんそれですべてが解決し、日本史が終わるわけではなく、今後も様々な見えない身分差が解消していくのではないか。「身分差史」というものを提唱したいと思います。

2,摂関時代から院政期、国家はあったのか

短く書きますが、なかったのではないか。なかったという仮説を立てて考えることが有効ではないか。京都地方政権(朝廷)は、文章上と税収だけをもって「国家がある」としていたのではないか。つまりこのころの国家は「バーチャル」なものではないか。そういうことを考えます。すると「公」がないのですから、「荘園公領制」は幻であり「私的所有」だけがあったことになります。天皇が有している荘園はもちろん私有で、それで儀礼とか建物建築、文章経国といった、民政とはまるで関係のないことをしていました。一部裁判ですがそれをもって公とまではいえない。それは国家ではない。したがって、天皇・上皇・摂関家が有していても「国家的性格」などもたない。そういう仮説を立てて、日本史を眺めるとどうなるのか。そういうことに興味があります。

3,権門体制論は「まやかし」ではありませんが、権門体制は「まやかし」です。これは提唱者の黒田俊雄氏自身がそう書いているのです。
特に権門体制が、正確には権門顕密体制と呼ぶべきものであることが重要です。自らの権威を顕密、特に密教の呪術機能によって確立しようとするとき、そこに「まやかし、詐術」が生じます。

権門体制は「権門顕密体制」とするのが、黒田俊雄氏の主張からみて適当と考えます。その時、それが一種の幻想の体系(密教的呪術に基づく)なのだということを、十分に留意する必要があるでしょう。

日本一短い「権門体制論」の解説

2022-12-23 | 権門体制論
中世史学の多数派を形成している権門体制論ですが、さてその考え方はA~Cのうちどれでしょう。

1,中世の一時期(院政期から応仁の乱まで)、日本を支配していたのは公家(上皇家を含む、以下同じ)、武家、寺家であり、天皇機構は形式的権威によってその利害を調整した。

2,中世の一時期、日本を支配していたのは公家、武家、寺家であり、天皇機構は「中世的な天皇権威」によってその利害を調整した。

3,中世の一時期、日本を支配していたの公家、武家、寺家であり、3勢力は「天皇の名において」、その利害を調整した。

答えは、上記のどれかです。まだ私にもわかっていません。天皇は権門なんです。朝廷、藤原氏も権門です。天皇の位置に関してはそこが問題となります。寺家と寺社は同じです。
折に触れて提唱者である黒田俊雄氏の文章を読んできて、私の考えは今「3」に傾きかけています。


鎌倉殿の13人関連・「後鳥羽上皇の目的は討幕ではない説」は論理的に成り立つか。

2022-12-14 | 権門体制論
最近、後鳥羽上皇は討幕を企てていない。北条義時を排除しようとしただけだ。と偉い学者さんがよく言います。これは妥当でしょうか。
まず結論から書くと「妥当ではないが、成り立つ可能性も残されてはいる」と思います。以下少し詳しく。
なお大河は物語ですから「史実じゃない」という「物語のあげ足取り」ではありません。基本「鎌倉殿の13人」とは関係がない「ただの史実論議」です。

1,討幕なんて言葉は当時なかった。追討宣旨は「個人宛」である。

当時、幕府という言葉は禅僧ぐらいしか使いません。京都政権が幕府と呼んだことはない。鎌倉も自らを幕府と呼んだことはありません。
京都政権は鎌倉幕府を「関東」とか「武家」とか言っていました。六波羅探題ができてからは探題が「武家」、幕府は「関東」と呼ぶことが多かったようです。
幕府という言葉を使用しないのだから、当然「倒幕」という言葉はありませんし、使いません。

さらに追討宣旨は個人宛が先例で、後醍醐天皇すら「討幕という言葉は使っていない」わけです。「北条高時とその仲間」を追討せよ、です。

後鳥羽上皇の追討院宣(仲恭天皇の宣旨も)は「北条義時個人宛であり、鎌倉幕府追討とはなっていないから、討幕ではない」は「成立するわけがない論理」です。討幕という言葉がないのです。これが成り立つなら同じく「北条高時を討て」と命じた後醍醐帝の宣旨も「討幕目的ではない」と言わないと学説として一貫性がありません。

「義時追討だから倒幕でない」は「形式的論理、言葉遊び」です。しかも史実の探求というより、ある「理論=原理」によって生み出された「党派性を伴った歴史の見方」です。(後述)

・北条義時を倒して、その代わりに執権に三浦胤義か三浦義村を据え、摂家将軍は残して鎌倉幕府は温存する。

その場合のみ「討幕ではない」と言えるわけですが、その可能性はあったでしょうか。ないでしょう。武家の統治機構は京に移管される可能性の方が強く、鎌倉に残る可能性は極めて低かった。だから「鎌倉幕府は倒れる」のです。「義時追討だから討幕でない説」は成立することはないでしょう。武士の府は京に移り、鎌倉の幕府は単なる出張所扱いとなります。

2,では後鳥羽上皇は何がしたかったのか。

武家の存在は王家(上皇家)にとっても必要でした。都の治安を守っていたのは武士です。内裏修理などの金を出すのも武士です。荘園から税をとるには武家の存在は不可欠でした。農民には自立的傾向も強く、もはや「本所の権威」だけでは税をとれない場合も多かったのです。だからこそ白河院も鳥羽院も御白河院も平家など武家を重用したのです。

後鳥羽上皇としては武家をコントロール下に置く。地頭の任免権を獲得する。といった狙いがありました。そもそも承久の乱のきっかけは「上皇による地頭罷免要求の拒否」なのです。
武家はかつては王家に比して弱い権門でしたが、今や王家と対等な存在となりつつある。後鳥羽上皇としては武家権門は残しながらも、王家の圧倒的優位を獲得したかったわけです。

幕府を解体して、武士を自分が支配下に置く。つまり自分が「源頼朝になる」というのが後鳥羽の狙いでした。封建王政と言います。「鎌倉の幕府は解体するが、武士は温存して支配する」、これが狙いです。「解体」ですから「倒幕」です。

3,なぜ「討幕ではない」と一部学者は過度に強調するのか。

それは学者自身が折に触れて書いていますが「公武協調史観」という原理=イデオロギーを信じているか、信じているふりをしているからです。「公武対立史観に代わって、公武協調史観を」ということが一部で言われ、西の研究者を中心に賛同者が少なからずいます。その原理は現代風権門体制論です。多数派を形成しているようです。

私は黒田俊雄氏の「オリジナル権門体制論」を読み進めた結果、公武協調史観は「強調し過ぎるべきではない」という結論に達しています。
公家と武家は相互補完している「そう」です。
「相互補完」とは「足りないところを補いあう」という意味ですが、「対立が生じること」は黒田氏も認めており、対立のみが強調された時代の雰囲気に抗して「対立ばかりじゃないだろう。その対立だって本質的か分からない」と言うわけです。

黒田氏はあまりに対立がクローズアップされるので、「対立だけじゃない」と言っているだけです。したがって協調のみを偏重するのは間違っています。公と武は「協調したり、対立したり、妥協したり」していたのです。あまりに当然過ぎますが、原理があって現実があるのではありません。ありふれた普通の現実が先にあるのです。
なお「対立しても最後は協調した」も私見では間違いです。それについてはこのブログの他の文章で書いているので詳述はしません。
「権門体制論」の「正しい理解と批判」のための序論をお読みください。

公と武が「決定的に対立してはまずい」「決定的対立を認めたら権門体制論が崩れる(実は崩れないので杞憂ですが)」という「原理的とも言える思考」が「討幕ではない」の過度な強調につながっています。それに付き合う必要を私自身は感じません。相互補完という言葉の濫用はやめてほしい、と願うのみです。これは現代の一部に存在する「悪弊」だと思います。

「相互補完」と言い出したら疑ってみることが大切でしょう。提唱者の黒田俊雄の「原著」を読むことをお勧めします。

ちなみに「非権門体制論」系の近藤成一さんも、桃崎有一郎さんも「倒幕ではない」と書いています。しかし「解体である」と少なくとも桃崎さんは書いている。解体なら倒幕です。論理的にそうなるはずです。

もっとも史実に照らせば「頼朝は何度も追討されている」わけです。それでも頼朝は後白河法皇を遠流になぞせず、最後は条件闘争となっていきました。
後鳥羽上皇はそれを見ていますから、「義時追討」ぐらいで自分が遠流されるわけはないと思っていた可能性はあります。そうなると「三浦胤義などに乗せられてつい軽い気持ちで、後白河院の先例を真似て出した」という可能性があるわけで、その場合は「討幕なんてたいそうな狙いはない」とも言えるかも知れません。が、これは成立しそうもない論理です。

蛇足

「武家と公家の相互補完」とかすぐ言う人。「天皇権威はまだ強かった」と言うだけで、その理由を分析しようとしない人。つまり「安直な耳触りがいい言葉で歴史を説明しようとする学者は疑え」。今、私はそう思っています。ただの日本史のド素人として。

「権門体制論」の「正しい理解と批判」のための序論

2022-11-27 | 権門体制論
権門体制論には黒田俊雄氏の「オリジナル権門体制論」つまり「シン・権門体制論」と、そこから思想性とかいろんなものを抜いてしまった「現代風権門体制論」があります。
多くの学者が、今依拠しているのは単純化された「現代風権門体制論」です。
それは極めてシンプルな考えで、果たして「論」と呼ぶべきものなのかも分かりません。

A,中世(平安末期から室町中期または安土桃山時代まで)において日本を支配していたのは、公家、武家、寺家の3大勢力である。

終わり。基本的にはこれだけです。もうちょっとだけ複雑にすると

B,中世において日本を支配していたのは公家、武家、寺家の3大勢力である。彼らは天皇を中心にしてゆるく結合しながら、相互補完を行っていた。

これだけです。「現代権門体制論」は単純すぎて理論とは言い難い。図書検索をして「権門体制論」を調べてみてください。私の住む東京の某区には20以上の図書館がありますが、ヒットする本はわずか1冊です。
しかも黒田氏の著作ではありません。黒田氏には「権門体制論」という著作はありません。ただし永原氏らが編んだ著作集の一巻は「権門体制論」となっています。論文の題名ではありません。
権門体制論は1960年代に黒田氏が「中世の国家と天皇」という短い論文で主張しました。それは1970年代から唯物史観を凌駕する形で、日本歴史学の主流となりましたが。各々の学者は、自分なりに「権門体制論を理解し、または改変し」つつ使用しました。しかし黒田氏が亡くなった1993年までは、「新権門体制論」や「改変権門体制論」は出ませんでした。1993年以降、この考えはますます日本歴史学の「多数派」を形成しましたが、「権門体制論」という本は、皆無と言っていいほど書かれていません。「理論的な深化」はないのです。

しかも「B」は黒田氏の考えを正確に反映したものではありません。日本語としても極めて曖昧です。「3大勢力である」までに問題はないと仮定(実はあります)しても、「相互補完」とは何か。「天皇が中心」の「中心」とは言葉の厳密な意味においてどういうことか。「ゆるく結合」とは具体的にどういうことか。

説明は各学者によって微妙に、または全く違います。だから「相互補完」を「協調を過度に重視して」考えたり、「中心」を「天皇権威の高まり」として捉える「間違い」が生じます。

私が多少専門とするのは「現代文の読み方」です。歴史学者ではありません。しかし上記の「B」が説明になっていないことは、現代文読みの感覚で分かります。そこでこの半年、黒田氏の著作を「折に触れて」は勉強してきました。以下は私がその作業を通じて得た知識の披露ですが、むろん私が間違っている可能性はあります。でも結構「いい線いってる」のではないかと、私自身は思っています。

「オリジナル権門体制論」からみた場合、今よく言われていることは正確なのか不正確なのか。〇×形式で考えてみます。

1,権門とは荘園から税をとる権利をもった支配層のことであり、公家、武家(幕府)、寺家のことである。これはかなり正確です。

2,権門体制は中世を通じて維持された。これはかなり不正確です。黒田氏自身は、権門体制の始まりを平安末期、院政期が起点と考えています。しかし権門体制の終点については「足利義満の時代」「応仁の乱をもって終わる」とややぶれがあります。権門体制の終わりは「権門体制の克服」と表現されます。「江戸幕府が完全に克服した」ことは述べていますが、応仁の乱で「ほとんど消滅し」、戦国期に衰退を加速させ、秀吉期で「完全に終わる」と述べている、と考えるの妥当です。

3,権門体制が続くためには「荘園」が必須条件となる。これは正確です。だから現代の学者が、権門体制を江戸幕府開府の直前まで「延長」しようとすれば、「荘園」がその時代まで「命を保って活動していた」と言わなくてはならなくなります。かなりの無理をもってそういう言い方をする人がいるのはそのためです。

4,室町末期になっても権門体制は維持されたため、織田信長と幕府は「相互補完の関係」にあったし、織田信長と天皇も「相互補完の関係」にあった。これは完全な間違いです。
まず室町末期には権門=荘園体制は加速度的に崩れ、もはや機能不全の状態です。「幕府と大名の相互補完」というのは一応出てきます。しかし応仁の乱で終わったとしており、戦国大名には「適用できない」とはっきり書いています。さらに「天皇と信長の相互補完」もかなり支離滅裂です。天皇は権門という「私的勢力」に「公的なみかけ」を与える存在であり、権門ではないからです。ただし天皇自身が私的勢力の家長として権門になる場合はあります。いずれにせよ、信長の時代にまで「権門体制を適用」するのは、いわば「濫用」であり、「権門体制、相互補完濫用防止法」があれば、取り締まりの対象とすべき行為です(笑)。これはオリジナル権門体制論から見た場合、完全にアウトです。

5,江戸時代になっても権門体制は維持された。寺家は存在したし、公家も天皇も存在した。天皇は将軍を任命する立場であった。これはどうでしょう。「朝廷が将軍を任命する立場にあった」ことは事実です。しかしこの考え全体は全く不正確です。黒田氏は江戸期まで権門が存在したとは寸分も考えていません。「完全に克服され、将軍が王になった」と書いています。

6,天皇が王として権門の中心にいたのは、実質権力を失っても「権威」を持っていたからだ。これも不正確です。全く逆という言い方も可能でしょう。「権威があったから中心となった」のではありません。「私的勢力に過ぎない権門が、公的政治に関与するため、公的なみかけを獲得するため、天皇に権威を与えた」のです。ただしこれについては、かなり「長文の説明」が必要となるので、今は書く気がありません。

7,当時の支配層は権門体制を維持することを前提とした。したがってどんなに対立しても、相手を完全に滅ぼす、公家をなくす、寺家をなくすことなどはなかった。
これまた不正確です。黒田氏の考えでは権門は私的勢力として「絶えず相手を完全に滅ぼしたいという欲望を持っていたが、力不足でできなかっただけ」です。
「織田信長は中世人であり、当時は権門体制であったので、信長は幕府と対立しても、それを完全に滅ぼすことはしなかった」。まあ史実としても間違いですが、権門体制論に立った場合でも間違いです。
そもそも権門体制ではなかった事実は無視できるとしても、これは黒田氏の考えに見事なほど反した考え方です。黒田氏は「教祖様」じゃないので、反してもいいのですが、考え方としては「権門体制論とは違ったなにか別の史観」です。

まとめ

オリジナル権門体制論には継承すべき知見が大いにあるが、継承するにしても、黒田氏の考えをよく理解し、批判的に継承しないといけない。とこうなります。

私は黒田史観の信徒ではないので、「教祖はそう言っていない」などいう気でこの文章を書いているわけではありません。むしろ私は権門体制論を批判したい。そのためにオリジナル権門体制論について考えています。「聖書を読んだから、イエスは私のものだ」的な志向はありませんが、教祖の言葉を適当に改変して便利遣いする徒が多すぎるので「それは違う。それはあなたの考えだ。権門体制論ではない。」と言いたい気持ちはあります。

蛇足

黒田俊雄氏は後醍醐政権をどう見ていたか。

「権門体制の克服の試み」と考えていました。古代王権の復活ではなく「封建王政」(天皇を首班とする江戸幕府を想像してください)を目指していたと。
しかしそのどうしようもない「反動的性格」(目的は自らが属する大覚寺統を中心とした一部の公家の勢力回復ためであり、国家天下を思ったものでもなければ、広範な支配勢力の支持を得られるようなものでもなかった)、為に各権門の支持を得て、京都政権における大覚寺統の勢力を「認めさせる」以外方法がなかった。結果として後醍醐は既存の「権門」を「安堵」した。
つまり権門体制の克服(天皇のみが最終決裁者である社会体制)を「看板」として掲げながら、現実には全く別の方向に行くしかなかった。最後には権門の支持さえ失い、あっという間に瓦解した。
最後に黒田氏はこう書いている。(中世の国家と天皇)

後醍醐天皇は、封建王政を組織することに失敗しただけでなく、現実の政治に登場しただけに(形式的権威という姿勢を捨てただけに、リアルな政争に巻き込まれることとなり、これは私の注です)、権門としての私的権威自体もまでも根底から失い、ひいては天皇一般にまつわる「古代的」な形式的・観念的権威までも著しく失墜させる結果を招いたのである。以上引用終わり。

なぜ天皇に対して「私的権威」という言葉を使うのか。それは後醍醐天皇が「実際の政治家」としては「権門として振舞っている」からです。つまり私的勢力、王家という権門の長です。権門は国家から公認を受けても、たとえ天皇が家長であっても、その「私的勢力であるという性格」自体が消滅するのではありません。公的なみかけ、を獲得し、国政に関与できるようになるだけです。荘園を「私的家産」ではなく、「一種の公領」と考えるようなあり方は、黒田氏の所論を見る限り、到底容認できない、最も「反権門体制論的」な思考です。
荘園公領制は今は歴史学の通説どころとか「定説」でしょう。私はそれに疑問を呈している。ドン・キホーテ的暴論ということになりましょう。しかしおかしいものはおかしい。

荘園は私領的なものではあるが、公的国家的性格を有している。寄進によって成り立つというより、上皇の「計画」によって上から形成されることが多かった。

上皇が計画しても「公的でない」ことは、オリジナル権門体制論の立場からは明確です。むしろ「公領と言われているものは、その実質を考えるなら私領ではないか」という疑いを持つ必要を感じます。

加筆する必要を感じますが、一応以上です。

「オリジナル権門体制論」と「象徴天皇制的権門体制論」

2022-11-26 | 権門体制論
黒田俊雄氏のオリジナル権門体制論はきわめてシンプルな考え方である。

中世(平安末期から室町中期まで)において国家を支配したのは公家・武家・寺家の3大勢力である。以上。

これで「終わり」である。つけ足すとすれば「天皇の位置」だが、「天皇の位置」まで言及するとなると「シンプル」にはいかなくなる。「天皇を中心としてゆるく結合」は実は間違っている。そんな粗雑な分析で「こと足れり」とはならない。黒田俊雄氏は1960年代、「天皇制の権力構造の解明」の為に「オリジナル権門体制論」を提唱した。そして天皇制の分析に多くの労力を費やした。それを「ゆるく統合」などという粗雑な言葉で表現することは不可能である。「ゆるく統合」は現代の「象徴天皇制を過去に投影した権門体制論」の産物である。

ちなみに黒田氏の難渋さの断片だけを紹介するなら、

天皇は「王家の一員ではない」、王家は「王=天皇を輩出する私的勢力」ではあるが、王=天皇は「王として公的に振る舞う」場合、王家の一員ではなく公的な存在である。しかし天皇が私的勢力(王家)の家長として振る舞う場合、彼は権門の長という私的存在である。公的存在である天皇が、私的存在である天皇に「公的承認」を与える場合がある。これは「同一人物」であっても成立する。しかし一般には中世において天皇が「公的存在」という「みかけ」を付与するのは、上皇に対してである。そのことは天皇権力が上皇の私的権力より大きいことは意味しない。天皇は極めて無力な形式的存在であり「公家、武家、寺家という私的勢力に対して公的なみかけ」を付与するための機関に過ぎない。ただし天皇親政の場合、天皇は私的存在である自分に、公的機関として「公的存在」であるという「みかけ」を付与することになる。

以上は黒田氏の著作の引用ではなく、「私のまとめ」であるが、我ながら難渋である。この「複雑さ、難渋さ」についていけないと、オリジナル権門体制論の「天皇」「国王」は理解できない。
もっとも理解することは必須ではない。中世は上記の3大(私的)勢力が社会を支配した、で十分とも言える。天皇や国王の説明は国家論的課題である。大切なのは公家、寺家、武家の「具体的統治機構の理解」であって、天皇の位置は副次的問題である。とはいうものの「私的」の意味を理解するためには、多少は国家論に踏み込まないと無理である。

もっとも黒田氏の「思いなら」、もっと「シンプルに言う」ことは可能である。

武家(幕府)だって支配者じゃないか。天皇制下における「権力者」ではないか。武士は貴族階級を打倒した「英雄」ではない。

これだけである。戦後、皇国史観(今も実は健在であるが)に代わってマルクス史観が隆盛を極めた。実は多くの学者は「マルクス主義者ではなく」、単に「非皇国史観を基調とし、学問的にできるだけ中立で科学的な」立場を「とろうとした」に過ぎない。その時、「階級闘争」と「下部構造の解明」を重視するマルクス史観は、歴史分析のツールとして「ある程度有効で」科学的に見えた。世界の基調もそうであった。いわゆるグランドセオリーである。この「ある程度有効」という事実は、実は今も変わっていない。「武士の家計簿」を分析したり、「信長の天才性より経済力の源泉」を解明しようという姿勢は、「下部構造の分析」である。しかしそれを行っている学者は、マルクス主義者ではない。それは1960年代も違わない。彼らにマルクスに関する著作はほぼなく、おそらく19世紀のドイツ語も理解できなかったであろう。唯物史観をツールとして使うことと「マルクス主義者であること」は全く別の問題である。「下部構造」の代表選手は、中世においては「荘園」であり、「荘園研究」が歴史学の王道であった。優れた成果が多く生み出されたが、「武家の荘園、武家の権力の下部構造」の分析に重きをおくものが多かった。

1960年代以降、「国家史、政治史」とはつまり「鎌倉・室町幕府の歴史」であった。

それに対し黒田は「天皇の歴史、公家の歴史、寺家の歴史」の解明も必要だと訴えた。理由はシンプルである。中世国家が存在したとすれば、それを支配しているのは公家、寺家、武家の3大勢力であるから、武家=幕府の分析だけでは「片手落ち」であり、「すべての権力の構造」を解明することはできないからである。京大出身の黒田氏にも多少の「京都愛」はあったが、現代の一部の学者のように、臆面もなくその「郷土愛」を表明することはなく、天皇に関しては一貫して「知的分析の対象」として「突き放して」いた。

「中世においても天皇に権威があった」などとは書かない。「天皇に権威があるように見えるのは、また実際権威が機能することもあるのは」どのような具体的機構(政治機関、武力機関、なかんずく仏教と儒教、寺家を代表とするイデオロギー機関)によるのか、それを黒田氏は「解明」したかったのである。

黒田氏は書く。

国家における全人民に対する「全支配階級」の「総体」を分析するためには、幕府の分析だけでは不十分である。

そして「全支配階級の総体」を分析するためには、それぞれの権門の持つ「機構」=役所、暴力機構=武力、経済機構(税の徴収の機構、流通への関与)、思想機構=正当化のイデオロギーを分析しないといけない。「機構分析」が歴史学の王道となるべきなのではないか。

マルクスは時代のイデオロギーを「経済構造が決定する上部構造とみなした」(私はマルクスを勉強していないので、おそらく)と思われるが、黒田はイデオロギー装置(寺家が代表であるが、儀礼や様々な行事を通じてなされる民衆の価値観の誘導)を「下部構造」とみなした。

蛇足であるが、私でも「史学」を志すなら、権門体制論にとびつくだろう。「公家の研究」にはまだ「はいりこむ余地」がいくらでもある。また「寺家の研究」に至っては「まだ始まったばかり」であるからである。

しかしここに一つの困った問題が生じる。それは黒田氏が「武家の権力の分析だけでは、皇国史観の真の克服にはならない」と主張したことである。黒田氏が政治信条としては「反権力思想に親和感を持っており、共産党の機関紙にも寄稿し、象徴天皇制を天皇制美化の洗練された形態として批判した」ことは、そしてその為に多くの論文を書いたことは、自明の事実であった。

あまりにイデオロギー色が強いのではないか。3大勢力の分析を行えという主張は「正しく、また研究者としてはありがたい」が、このままでは「使えない」。「政治的に中立な立場」を「仮装」しなくては使えない。歴史学は所詮はイデオロギーの産物であるが、それでもここまで「露骨」では困る。

そこで黒田以降の学者は、黒田の理論から、政治性や思想性を「抜いて」(抜くという行為自体が極めて政治的な行為なのだが)、難解さが一切ない「馬鹿らしい」とも評される単純な「象徴天皇制を過去に投影した権門体制論」を生み出した。現代われわれが目にする「現代権門体制論」はこれであり「象徴天皇制的権門体制論」と呼ぶべきものである。イデオロギーとしては全く別の方向を向いていると言ってもいい。

一方黒田氏はどうなったか。その著作のうち、現代でも比較的容易に手にはいるのは、「寺社勢力」「王法と仏法」の二冊である。黒田氏のよきライバルであった永原慶二氏らが編集した「黒田俊雄著作集」は絶版となり、今は受注生産でかろうじて入手できるだけである。私の自治体東京某区には20以上の図書館があり、かなりの専門書でも入手可能だが、黒田俊雄著作集はない。東京23区では「中野区」もしくは「千代田区」に存在している。「権門体制論を黒田氏の原著に遡って研究しようとする学者」もほとんどみたことはない。

オリジナル権門体制論の復元と、それに対する静かな批判(継承を含む)が必要である所以である。

秋篠宮邸のリフォームと礼の思想

2022-11-23 | 権門体制論
このブログは、「露骨に政治的なこと」は書かないし、他にブログもやっていないので、政治的意見の表明は「面倒なので避けている」わけです。ただ私は歴史学者と同じように、「後鳥羽上皇」を基本「後鳥羽」と書きます。「冷静な分析の対象」として「実朝」「後鳥羽」であるべきだと思っているのです。信長は信長です。「信長公」とは書きません。信長は多少好きですが、それでも分析の対象であることには変わりありません。実際、熱烈なファンでもありません。信長関係の本をよく読むというだけです。

「秋篠宮」は「秋篠宮さま」と書くべきなんでしょうか。よく分かりません。「宮」は敬称でしょうか。これは「辞書的問題」ではなく、「今の日本人が秋篠宮の宮を敬称ととらえるか」ということです。本当は秋篠宮さんと書きたいのです。「宮さん」という言葉は、時代劇によく出てきます。でも「秋篠宮さん」では「馬鹿にしている」と怒る人もいそうなので、「秋篠宮」と書きます。あーめんどくさい。

ちなみに「天皇」は明確な敬称なので、「昭和天皇」「現上皇」「今上天皇」です。

本音を書くと、30億のリフォーム代は実はどうでもいい。「警護のための仕組み」が必要ですから、それぐらいかかるでしょう。

私にとって不可解なのは「一体、日本人は天皇や皇族を敬っているのか、いないのか」です。これ「本音を言う人」めったにいません。ヤフコメの「暗黙のルール」では、天皇の悪口は言わない。天皇一家の悪口は言わない。その代わり秋篠宮一家のの悪口はクソみそに言っても構わない、ようです。秋篠宮という尊厳ある個人に対し、実に「失礼」だと思います。悪口言ってもいいのは、政治家だけ、または政治的影響力を持つインフルエンサー(TVコメンテーターとか、学者とか)だけ、が個人的感覚です。秋篠宮は政治的発言は「できない」ので、私は悪口は言いません。そもそも彼の孤高感が好きです。

私の現天皇、皇族観としては、「天皇は象徴として憲法に規定されているから、その規定通りに扱うべきだ」というところでしょうか。人間に貴賤なし、と結構本気で思っているので、貴賤は考えません。人間は基本的にみんな敬うべきだから、人としての天皇、皇族を、他のすべての人間と同じように敬うということです。

生臭い問題はこれぐらいにします。

歴史学者の桃崎有一郎さんが「天皇の敵は社会の敵となる。平清盛や木曽義仲はそれに気が付かなった。源頼朝は気が付いていたので、社交的辞令を散りばめながら、上手にふるまった」というようなことを書いていて、それが気になっているのです。

そこで私は「北条泰時の野望」という「小説みたいな駄文」で、「後鳥羽上皇をうまくあしらう、社交辞令ができる源実朝」を描いてみました。「頼朝と同じように、本音を隠して、うまく上皇を懐柔できるか」を考えてみたかったのです。

桃崎さんは「皇国史観の徒」じゃないですよ。京都学の教授です。たまにTVに出ます。「天皇みんないい人である神話を解体せずに京都の明日はない」と書いていますが、TVでは「天皇陛下さま」と言いそうな勢いで、敬称を使います。「天皇の敵は社会の敵」なので、炎上に気を付けているようです(笑)。著作では後鳥羽も後醍醐も「ぼろくそ」です。

桃崎さんの文章はちょっと「過激に過ぎる」ところがありますし、独断も甚だしいのですが、「礼思想の専門家」であるので、「読まずにはいられない」のです。

朝廷は「儒教の礼の思想に基づいて設計され、礼の思想に基づいて運営されてきた」、これ私にとっては目からウロコです。いろんなことが「すんなりわかる」のです。

人々が飢えて死んでいるのに何もしない後白河法皇を見ると、「なんで何もしないのだ」と腹が立ちます。しかし「やってる」のです。「儀礼と儀礼のための内裏の修築」をやっているのです。「和歌の会」だって開いているのです。人々を救うには儀礼を高め、天皇の徳を高め、徳治を徹底する。そして文章経国の思想に基づいて「和歌、もしくは漢文の隆盛」をはかり、言葉の力で天を動かし、そして人を救うのです。

そのためにはお金が必要ですから、税をとります。ただでさえ飢饉なのですから、人々はばたばた死んでいきますが、儀礼と文章経国の(宴会)の方が大事なので、やっぱり税金が必要なわけです。そして飢饉で人が死にます。

北条泰時が「立ち向かった」のはこういう「異常な現実」です。それを「撫民」と今日ではいいます。私が北条や鎌倉幕府を高く評価するのは、この「礼思想の悪害と戦う姿勢があったからだ」と、実は最近になって認識しています。前から好きだったのですが、好きな理由がよく分からなかったのです。なんとなく「泰時が民を救ったから」というだけでした。しかし朝廷が儒教の礼の思想に基づいて動いている、とわかると、いろんな疑問が解けていきました。思えば、悪左府頼長も、信西も、みんな「儒教の学者」です。

もっとも私の中ではまだ「仮説」です。礼の思想をそんなに学んだわけでもなく、消化しきれていないからです。「秋篠宮のリフォーム」は実はどうでもいいのですが、彼らが「あまり必要もない儀式を毎日やって疲れている」のは確かでしょう。私なぞ結婚式だって疲れるのでなるべく行きません。儀礼、大嫌いです。諸事、儀礼的空間は疲れます。秋篠宮さん、お疲れ様です。

書評・呉座勇一氏「頼朝と義時ー武家政権の誕生」

2022-01-29 | 権門体制論
呉座勇一氏「頼朝と義時ー武家政権の誕生」

数年前に呉座氏の本は4冊ほど読んだ。逆に言えば4年ほど前に4冊読んだだけで、読み返しはしていない。「陰謀否定論」は二回読んだかも知れない。最新刊「頼朝と義時ー武家政権の誕生」は二度ほど読んだが、まだ熟読というほどは読みこなせていない。しかしこの先読み返すか分からないので、記憶のあるうちに書評を書いてみる。なお私は呉座氏のことはほとんど知らない。「騒動」は知っているが、触れる気もない。今回読んでみたのは「13人」関連であるし、「どんな歴史家か」確かめてみたいという気持ちもあったためである。

1,思考のベースには「権門体制論仮説」の「武家」「公家」「寺家」の相互補完仮説があるように読める。ただし「見える」だけでおそらく批判的である。「武家政権」の成立を明確に認めている。公武対立史観は明確に否定しているが、「公武政権」とは書かない。したがって権門体制論のキーワードである「相互補完」という言葉は、たぶん一回も使用していない。「王家」は使用しているが、権門体制論的王家かは分からない。東国独立論は淡々と否定しているように見えるが、裏読みは可能かも知れない。

2,そうした理論的仮説よりも、「通説」(その時の多数派説)を重視し、肯定する傾向が強い。「定説」は否定したりしなかったりする。佐藤進一さんが源流となった「定説=古典的学説」には基本的に反対する。「通俗説」には基本反対だが、たまに取り入れる。一次史料は重視するが、原理主義的に重視はしていない。「通説」「自説」の補強となるならば、軍記物も肯定する。ただし「平家物語史観」は否定している。だから義経に対して厳しい。

4、頼朝の敵は平家でもあったが、同時に敵は有力源氏であることを「強調」している。頼朝は源氏の棟梁ではなく、したがって「源氏の棟梁となる」ことが悲願であり、そのためには平家と共存しても仕方ないと考えていたとしている。頼朝を「現実的でしたたかな政治家」として評価している。義経の壇ノ浦での勝利は頼朝にとって誤算である。東国武士中心の軍団である範頼軍が勝つことが重要であった。さらに三種の神器を手にいれて「朝廷と有利に交渉する」ことが目的であったとしている。西国武士中心の義経軍の勝利は頼朝にとって好ましくない。三種の神器のうちの「剣」を失ったことは、朝廷との有利な交渉カードを失ったことであり、むろん好ましくない、としている。

4,鎌倉幕府は基本朝廷との共存姿勢を持っていたとする。(呉座氏の論調からすれば、現実的にみてその方が有利だから共存したということか)。幕府自体は御家人の利益団体だから、あくまで幕府の利益を優先する。幕府は朝廷の権威の庇護を必要としていたが、摂家将軍(やがて親王将軍)を迎えたことによりその必要はなくなった。もはや「譲歩」の必要はなくなり、「武家優先の公武体制」が構築されたとしている。承久の乱は「革命ではなく」、荘園制も院政も残った。ただし現実としては幕府が圧倒的に有利であり、それは「武家政治」と呼べるものとしている。

5,「武家政治」は幕府にとっては困った問題でもあった。「朝廷の上に立った」(形式上は朝廷が上)ことによって、幕府は公儀的責任を帯び、東国武士の利益のみを考えているわけにはいかなくなった。幕府は変革を迫られた。具体的には「撫民政治」「公家、寺社、西国武士等との利害調整」を行う必要がでてきた。そうした中で「武家政治」は成熟していった、としている。つまり「武家政権」の成立を明確に認めている。(何を当たり前な、、、とはならない。ここは注目すべき点だと思う。)

感想
本を読んで全面賛成することなどありえないので、「そうかな?」と思う部分は多々ありました。しかしそれが「本を読む」ということなので、別に批判してるわけじゃありません。むしろ多くの「論点」を提供していただいてありがたいと思うほどです。落ち着いた書きぶりで、これなら呉座氏の説を批判しても「落ち着いた論議ができるかも」と思いました。あっ、論議するのは私ではなく、学者さんですよ。
野口実さん、元木泰雄さんの説を遡上に挙げることが「突出して」多いように感じました。「批判的引用」「肯定的引用」、半々ぐらいでしょうか。結構批判もしています。ちなみに北条氏家格高かった説は、明確に否定しています。

歴史家が記述をする時「定説である」「通説である」「俗説である」「通説であるが疑わしい」などという言葉が頻出します。呉座さんの本を読むのは久しぶりですが、ネットでコラムなどを読んだ時、「今の通説である」と書く傾向が強いことが気になっていました。「通説」とは「定説ではないが今の多数派の説、将来定説になる可能性がある説」です。ただ可能性であって、定説にならない通説(一時の流行)も多くあります。それは十分ご理解しているはずなのに、「通説である」をちょっと強く言いすぎではないかと思っていたのです。その傾向はこの本でも感じました。しかし「通説らしきもの」を強く批判している文章もあり、そういう私の誤解は修正しないといけないかも知れません。

後鳥羽蜂起の際の「大内裏焼失事件」に言及していて、ここは面白いと思いました。というのも桃崎有一郎さんという通説(多数派説)批判をする傾向が強い武蔵野大学の教授さんがいて、この焼失事件に関していろいろと興味深い説を展開しているからです。明らかに意識していると思いますが、参考文献にはありませんでした。桃崎説への評価も聞いてみたいと思います。以上です。

「権門体制論」「東国国家論」を学ぶ①・「王家」と「天皇」

2022-01-25 | 権門体制論
「武家と公家は対立せず相互補完」していた。現代の学者さんがよく使われる言葉ですが、これは昭和38年に黒田敏雄氏によって提唱された「権門体制論」を基にしています。支配階層=権門の「相互補完と対立」は権門体制論のキーワードです。私は「権門体制論」も「東国国家論」も学ぶべき偉大な概念だと思います。どっちを支持するという問題ではないと考えています。権門体制論はさまざまに解釈されていますが、ここでは黒田氏の「オリジナル権門体制論」のみを「権門体制論」と呼びます。

今回は「王家」と「天皇」の「オリジナル権門体制論」における位置づけを考えます。資料は黒田敏雄氏の「中世の国家と天皇」1963年、「中世天皇制の基本的性格」1977年です。

黒田氏によれば

1,権門とは権門体制期(院政から応仁の乱までの時期)における支配層であり、「私的領地である荘園に権力の源をもつ私的な組織」である。具体的には有力な公家、武家、寺家、王家である。この4つは対立と補完をしながら権門支配体制を構成する。王家は大きく捉えるなら公家権門に属する。従って権門とは公家、武家、寺家の3つである。

2,王家は治天の君、院宮、親王家、内親王家等の複合体である。王家は私的な組織である。したがって「権門」である。天皇のみが公的存在である。

(解説)
権門が荘園領主(私的領地の権利者)であり、従って権門の権力は「本質的に私的権力」だというのが黒田氏の考えと読み取れます。ここは極めて重要です。「王家」は正確には「権門体制論の考えに基づく王家」です。一般に使われる王家とは違います。史料に登場する「王家」とも違います。近代天皇制の「天皇家」「皇室」とも違います。

3,天皇は3つの側面を持つ。それは「権門」「国王」「帝王」である。権門としての天皇は私的存在と言っていい。公的権力の行使者として天皇を考える場合「国王」「帝王」となる。国王と帝王は同一人物の二つの側面。「公的権力者としての側面」「権威者としての側面」を指す。天皇は「制度上の代表者」であり、「国家権力と国政の実際上の掌握者」を意味しない。実際上の掌握者は権門である。

解説
「国王」「帝王」も権門体制論特有の意味で使われています。正確には「権門体制論の考えに基づく国王、帝王」です。ただし国王については、一般的意味に近い。つまり古今東西の国王のほとんどが「実際上の掌握者とはいえない」と黒田氏は考えています。

4,中世国家はその「国家的性格」が捉えにくい。権門体制論では権門体制が成立していた院政から応仁の乱までの、権門が支配した領域とそのシステムを「中世国家」と考える。

解説
中世に国家があったのかという認識は黒田氏も持っています。ただそれでは「中世国家」の解明ができない。そこで黒田氏は権門が支配する領域とシステムを中世国家としたのです。従って「中世国家」とは正確には「権門体制論の考えに基づく中世国家」です。

5,天皇は「中世の天皇」であって「古代の天皇」「近世の天皇」とは区別して考える必要がある。

6,天皇は私的権力である権門に、公的権威を与える。しかし権門はそれによって公的存在とはならない。権門は私的権力を公的に行使する。

7,権門体制は一様ではない。院政期に生まれ、室町期に衰弱していった。最終的には応仁の乱をもって権門体制は終わる。

8、私的権力である権門にとって、天皇は自らに公的な権威を与える存在である。従って、権門は天皇を支えた。公家は政治力で支えた。寺家は宗教的権威を与え帝王化した。武家は武力で支えた。それでも天皇自体に実質的な権力があったわけではない。公家権門の頂点である「治天の君」は意に添わぬ天皇を他の皇族に変えることができた。しかしこれは「治天の君」がただ一人の最高権力者であったことを意味しない。「治天の君」の権力は、寺家権力、そして武家権力によって掣肘されていたからである。


9,天皇は天皇である時は、国家権力と国政の実際上の掌握者ではない。制度に拘束される不自由で無力とも言える存在である。天皇を退位し、治天の君になれば公家権門の頂点に立つ。上皇となれば権門となる。

解説
武家は鎌倉期以降は政治力でも支えたと考えていいかも知れません。「6」の「私的権力を公的に行使」は私の用語です。「8」の治天の君に対する記述も私の解釈です。
黒田氏の言う「私的」「公的」の読み取りが難しいのは、黒田氏も言うように公私混交していたからです。しかしあえて黒田氏はそれを分けました。その意図を理解することが権門体制論を理解する「要」だと思われます。以上は「オリジナル権門体制論」の考え方であり、現代の学者が理解する権門体制論とは違う可能性があります。

蛇足
権門体制論につき以下のような説明があります。

「武家・公家・寺家の類似性に着目し、それら諸権門によって構成される秩序を天皇が総括するシステムを中世の支配体制と捉えた」

これは多少訂正が必要です。オリジナル権門体制論の考えによって訂正すると

「武家・公家・寺家の荘園領主(私的支配層)としての類似性に着目し、それら諸権門によって構成される支配(政治的・武力的・宗教的支配)を天皇が公的に代表するシステムを中世の支配体制と捉えた」

さらに蛇足

オリジナル権門体制論の考えで説明すれば、白河上皇は公家権門の頂点でした。多くの私的領地を寄進され(現代の研究によれば自ら荘園を構築し)広大な荘園をもち、それが白河院の私的権力の源でした。武家はまだ権門ではありません。寺家権門は存在します。権門の中では、白河院は最有力でしたが、寺家権門は公家権門とは「対立・相互補完」する存在でした。だから「山法師、比叡山はだけは手に負えぬ」と言ったのです。比叡山は寺家権門です。寺家権門は天皇を宗教的に権威づける存在です。白河院は元天皇です。自己の権威が寺家権門によって支えられていることを白河院は悟っていたのでしょう。

やがて武家権門が台頭し、平清盛がその頂点に立ちます。清盛登場後、「後白河院」にとっては寺家・武家の二つが「対立・相互補完」する対象となります。

中世を説明するとき「オリジナル権門体制論の用語」がいかに「便利」で「有能」か。驚くほどです。便利すぎるため、その思想的政治的性格を嫌う人間もツールとしては利用します。しかしどうしても「予定調和的権門体制論」になる傾向があります、オリジナルの権門体制論は、階級闘争は強調しませんが、権門間の闘争(支配層の権力闘争)は重視します。あの混乱と戦闘の時代である中世を「予定調和的権門体制論」では語れないと私は考えて、「オリジナルの権門体制論」を学んでいます。なお再び強調しますが、私は東国国家論も権門体制論も二つとも「学ぶべき偉大な論理」だと思います。

本日は以上です。