歴史とドラマをめぐる冒険

大河ドラマ・歴史小説・歴史の本などを中心に、色々書きます。
ただの歴史ファンです。

織田信長が足利義昭に送った「17カ条の異見書」。短くて超かんたんな訳。

2023-04-20 | 織田信長
織田信長の17カ条の意見書。超かんたん訳です。むろん原文は「ですます体」。1572年、元亀3年9月です。

1、参内しろよ。義輝さんは参内しないからあの運命なんだ。
2、馬とか欲しいなら用意する。他にねだるな。みっともない。
3、「ひいき」してるよな。
4、宝物をどっかに移すなよ。
5、岩成友通に土地をやるふりして、実際はやってないだろ。
6、オレと親しい人間にわざとパワハラしてるだろ。
7、ブラック企業か!待遇悪いってオレに言ってきてるぞ。
8、若狭の代官の件。早く訴えを処理しろよ。
9、小泉の女房が質屋に預けたものまで没収したろ。夫が喧嘩で死んだだけで。
10、元亀の年号、不吉なんだよ。変えろよ。
11、公家の烏丸。勘当したのに、ワイロもらって許したろ。
12、地方からお礼で貰った金。有効利用しないで隠してるだろ。何の為?
13、明智光秀が集めた税金。なんだかんだ言って「くすねた」だろ。
14、蔵の米売ってるだろ!商人かよ!
15、自分の若い側近に高給の役職を斡旋してるだろ。自腹で金やれよ。
16、将軍が貯金してるのは京を捨てるためだと、みんな言ってるぜ。
17、恥も外聞もない強欲人間なんだよ。悪しき将軍とみんな言ってるぜ。

「公平公正じゃない、ひいきしている」「金に汚い」「恥も外聞もない」の3つを主に指摘しています。特に多いのが「金、財産」ですね。

13の明智光秀。正確な訳を考えている最中ですが、うまく話が繋がりません。

「 明智地子銭を納め置き、買物のかはりに渡し遣はし侯を、山門領の由仰せ懸げられ、預ケ置き侯者の御押への事。」

明智が税金として徴収した金を、買い物の代金として誰かに渡しましたところ、山門領からの税収だとおっしゃって、受け取った者の金を差し押さえられましたね。

一応こうなりますが、これだけでは意味が分かりません。「なんだかんだ言って、くすねた」と訳しました。正確な訳も作成中ですが、今は以上です。

大河ドラマ「どうする織田信長!」が製作される可能性・「天下静謐」とは何か。

2022-01-21 | 織田信長
「鎌倉殿の13人」、どうやらすでに「どうする義時」じゃないかという声が出ています。義時はやがて「天下をとったような」感じになりますが、それは最初から狙っていたわけでなく、自分と自分の家族や仲間、誇りを守ろうと、その時々で判断していたら、「いつのまにか天下をとったような感じ」になってしまった。こうなる可能性が大です。

そして次の大河は「どうする家康」です。家康は信長が生きている時代、三河、遠江を支配する「信長配下の大名」でした。すでに対等ではなかったのです。武田滅亡後、駿河をもらいますが、それでも信長の支配領土とは格段の差があります。「天下を狙っている」とはどうしても思えない。本能寺の後、秀吉と対立します。この段階の家康の意識は分かりません。やったことは旧武田領土の奪い合いです。しかし結局は秀吉に臣従します。北条が滅んだ後、江戸に移される。自由に領土を移せる、これが天下人の大きな条件で、この時、秀吉は絶対的な力を誇示しました。家康は秀吉が「日本統一」にまい進し、それを実現した姿を見て、「こんなことが可能なんだ」「だったら僕にもできるかも知れない」と考えたかも知れません。

だから「どうする家康」は大河として成立可能です。最初から天下統一を狙っていたわけではないからです。

一方織田信長はどうでしょう。これがいかにも「分からない」のです。最近は「最初は全く日本統一など狙っていなかった。領土が拡大するにつれ、欲が出てきた」という説がよく言われますが、学説は変化しますから、まだ固まったわけではありません。

信長は日本統一など狙っていなかった説を、史料批判に基づいて唱えるのが東大の金子拓さんです。「もし狙ったとしても、四国攻め、つまり本能寺の変段階じゃないか」ということです。金子さんは「奇説を持ち出して注目をひこう」という方ではなく、その研究態度は堅実そのものです。金子説では「信長は天下静謐を考えていた」「天下である畿内と美濃、尾張ぐらいが静謐な状態ならいい」と考えていた。ところが周りの大名が信長を恐れ、火の粉が降りかかってきた。防衛と「静謐」の為に戦っていたら、いつの間にか領土が拡大していった。そこで本能寺の年ぐらいに初めて「あれ、日本統一可能かな」と考えた、となります。

なお「天下静謐」を「天皇の平和」などと読み替える人がいますが、それは誤読でしょう。金子説では「天下静謐」はもっと大きな理念で、「天皇・朝廷さえもその理念の下にいる」となるのです。これは相論における寺社に対する天皇の判断について「定見を欠く」と抗議して修正させていること。さらにこの時代の朝廷や天皇の判断が基本的に定見を欠き、自分たちの都合によって判断し「しかもそれをおかしいとも思っていなかった」とする金子さんの「資料に基づく認識」のゆえです。「天下静謐に反するとすれば天皇とて容赦しなかった」というように説明なさっています。おそらく天皇個人を容赦しないという意味で、システムとしての天皇制を容赦しないという意味ではないと思います。

以下は私の平凡極まる意見ですが、信長は「天下静謐」にしろ「天下布武」にせよ、なにか目的は設定していたと思います。その目的を達成するために「朝廷」「天皇」は必要だと考えた。例えば幕府構想を持っていたと仮定しても、「権威、正統性付与の機関」として「天皇」は必要だった。だから残す必要を感じていたと思います。しかし信長の最終目標について歴史学の定説はありません。

さて、この金子説を採用するなら、大河「どうする信長」は可能となります。信長だって「その時その時で判断した。結果領土が天下人並みになってしまった」というわけです。そしてNHKは、最近この金子説を「推して」います。いままでさんざん魔王にしてきたのに(笑)

私は「どうする信長」作成を期待しています。なぜって金子説が「検証される」ことになるからです。実は私は色々疑問はあるのです。歴史学者さんに検証してもらいたい説の第一が金子説です。最後になりますが、私は金子氏の仕事に対し、大きなリスペクトを感じています。

金子拓さん著作「戦国おもてなし時代」・「御成記」がない織田信長

2021-03-31 | 織田信長
金子拓さんは東大史料編纂所の学者さんです。「麒麟がくる」の影の時代考証家と私は考えています。ただし朝廷の描き方などは金子説とはまるで違います。真逆。歴史秘話ヒストリア「世にもマジメな魔王、信長」を担当した方でもあります。ヒストリアは最終回でこの「信長像」を「推して」ました。論理構成力が極めて高い方。でも「戦国おもてなし時代」は肩のこらない一般本です。

この中で面白いことを紹介しています。織田信長が食文化を変えたのでは、という考えです。「膳の文化」です。食器が変わったという指摘があります。また「暖かくて十分に調理された料理が、適当な時に食台に出されるように」なったそうです。全体として虚飾性や無駄を省き、「おいしく味わうための宴会」に「膳の文化」が変化したそうです。

この時代、織田信長のような人物が「おもてなしを受ける」と、「御成記」という記録文が書かれたそうです。「我が家」に信長がくるのは栄誉ですから記録に残す。そもそも「先例主義」なので、天下人が家にくる=「おなり」の時には、御成記が書かれるのは通常だったとのことです。

ところが織田信長の「御成記」はない。現存していない。織田信長が誰かを「もてなした記録」はあるのに、御成記以外でも「信長がもてなされた記録」はほとんどないのです。

どうも織田信長は「もてなされる」ことが嫌いだったらしい。御成は、身分の上下関係を再確認する政治性を持っていたのですが、そういうやり口の政治に信長は興味がないらしい。そして「くたびれた」「面倒くさい」という理由で断っていたらしい、、、とのことです。

ここからは私の見方です。

この時代に私が生きていて「もてなされる」としたら行くか。行きません。なぜなら「作法が分からない。習えば分かるが面倒くさい。」からです。「儀式のような食事」なんて何が楽しいのか。どうやら「楽しい」ものではなく「政治」らしいのだが、そんな「政治」はしたくない、、からです。

信長は尾張の田舎者です。中世人ですから作法は私よりはるかに高いレベルで知っていたでしょう。しかし「御成」の作法なんて知るわけない。生まれながらの天下人じゃありません。そこで「面倒くさい」という言葉が出てくるのではないかと思います。思っただけです。正しいとは強弁しません。

織田信長はその晩年、「左大臣就任」も「なんやかんや」と理由をつけて断ります。「左大臣」になっても別に朝廷で朝議を主催したりはしません。右大臣の時も実質的な仕事はしていません。だからなっても別に「面倒くさい」ということはないのです。

しかし困ったことに「左大臣」というのは「儀式を熟知した人間」がつく役職だそうです。朝廷の仕事はしませんが、儀式はあるわけです。そこに左大臣として参加したら、周りは当然「高い儀式知識」を多少は期待するでしょう。それはいかにも「面倒くさい」と思います。秀吉なら「そつなく」習うか、間違ってもへらへら笑いそうですが、信長は秀吉よりは多少真面目な感じの人です。

三代足利義満ならなんなくこなしたでしょうし、実際こなしているようです。子供の頃から武家かつ公家として育てられたからです。しかし信長は田舎の武士です。しかもどうやら「人が主催する儀式」が嫌いのようです。自分は主催するのです。主催者ならある程度の自由があるからでしょうか。

まあそんなこんなで信長の行動を説明するときに「面倒だから」という説明は結構成り立つのではないかと思った次第です。

本能寺の変・もし織田信忠が生き残っていたら。

2021-03-31 | 織田信長
織田信忠は織田信長の嫡男で「本能寺の変」で亡くなりました。25歳でした。母は生駒吉乃とされてきましたが、異説もあるようです。

彼は既に織田家の家督を譲られていました。岐阜城主です。天下人としては織田信長が権力を握っていましたが、岐阜城主としての織田家は既に信忠のものでした。

「愚か者」という逸話はありません。それどころか武田家を滅ぼしたのは彼です。武田は裏切りによって自壊していった感もありますが、とにかくその時の大将は信忠です。普通以上の才能を持っていたと考えていいと思います。

そこで「織田信忠が生き残っていたら織田家の天下は続いていた」という説になっていきます。織田家は、まだ「全国制覇」はしていませんが。

本能寺「光秀突発的単独犯行説」が出るのは「たまたま織田信忠が京都にいた」からです。この時の京都滞在は比較的急な決定でした。だから「信長を殺すだけではだめだ。信忠も殺さないといけない。しかし信忠の京都滞在を予想はできなかったはずだ。たまたま信忠が京都にいたから、光秀は突発的に行動したのだろう」となります。目の前に「天下人と後継者が無防備でいる」ことが、光秀の心を動かしたというわけです。

「単独犯行」に異を唱える気はありません。しかし「信忠死亡が必須」だったかについては多少意見が分かれるところです。

例えば池上裕子さんは2012年の信長伝記(大変話題となり、支持者が多い本です)で、信長の欠点を中心にして伝記を書きました。伝記なのに容赦なしです。その中で信長はあまりに自分に決定権を集中しすぎた。ワンマンにも限度があるだろというようなことを書いています。そして「信忠では難しい」とします。政治システムを整えなかった信長は、絶対的な力で家臣を統率した。しかし信忠にその絶対的な力は期待できない。と、していたと思います(ややうろ覚えです)

その他にも多くはないですが「信忠が生きていても重臣を統率できない」と指摘する方は何人かいます。

徳川秀忠は徳川の「二代目」です。優秀な人ですが、それでも徳川家康は「誰が継いでも成り立つシステム」を考えました、重臣らによる集団運営システムです。それに対して、豊臣秀吉は「なんらかの理由」で、システムを構築できませんでした。二代目の秀頼はシステムの上に座ることはできなかったのです。信忠もシステムの上に乗ることは難しかったと考えられています。システムがないのか、本能寺の変で多くが死んだためシステムが崩壊したのか、それは考えるべき点ではありますが。

明智光秀も「信忠死亡が必須」とは考えていなかったのではないか。その傍証となるのは「信忠襲撃の遅れ」です。逃げられる可能性があったし、実際、現場にいた織田有楽は逃げ延びています。

信忠が京都を逃げ延びたとします。西に向かうと大坂です。そこには丹羽長秀と織田信孝の軍がいます。兵が逃げて兵数は減っていましたが、一応軍がいます。ここで兵を募ると、摂津の領主たちが参加する可能性があります。1万ぐらいには回復したかも知れません。東に向かうと伊勢、安土です。次男の信雄がいます。兵はあまり持っていなかったようで、信雄は光秀討伐軍に参加していません。そのまま岐阜に向かうということになるのでしょうか。

摂津に行き、兵を募っているうちに羽柴秀吉が到着する。すると自然と大将は信忠になります。史実として三男信孝は大将になれませんでしたが、信忠は織田家当主ですから格が違います。

そのまま織田権力の継続。とりあえずはそうなるでしょう。しかし強大な主君におさえつけれていた柴田勝家、羽柴秀吉、丹羽長秀、滝川一益、これらの「くせ者」を信忠が信長なしに統率できるのか。少なくとも、織田家の家督を実質的に継いだ織田信雄は統率できませんでした。といって殺されることもなく、大名を続けますが、小田原攻めのあと改易です。ただししぶとく織田の血脈は残します。

「織田信忠が生き残っていたら豊臣政権はなかった」、、、一概にそうは言えないと考える学者さん。多くはないが存在します。

織田信長と正親町天皇(朝廷)の関係・公武結合王権論について

2021-03-31 | 織田信長
織田信長と正親町天皇が「対立していた」という考えが「一種のブーム」になったのは1990年代のようです。私が知らないわけです。仕事が一番忙しい時期で、歴史の本を読んでいる時間はありませんでした。「麒麟がくる」の信長も、最初は大層天皇好きだったのですが、「蘭奢待の一件」で急に天皇との関係が冷めたと描かれました。「対立的」に描かれていたとして良いでしょう。

・蘭奢待切り取り、、、正親町帝は信長からおすそ分けされた蘭奢待を公家に配り「香りをお楽しみあれ」と書いている。少しも対立していない。毛利に送ったとして、当時の毛利は信長と敵対していないので「敵に送った」ことにならない。

・信長が譲位を迫った、、、「譲位ができるのはうれしい限り」という正親町帝の「自筆の手紙」が残っている(一回目の譲位問題の時)。譲位は朝廷の「悲願」であったが、儀式に莫大な費用がかかるため、武家(援助者)の支援がなければできなかった。

ということでこの二件で「対立があった」というのは無理です。なら全く対立がなく「どこまでも仲良し」かというと違います。寺社関係で天皇が下した裁断について、信長が苦情を言った事実があります。(絹衣相論、興福寺別当職相論)また土地問題で天皇が信長に「どうにかしてくれ」と言った事実もあります。信長の家臣が土地を横領したという苦情です。

これらを「苦情ではなく対立だ」とするなら対立ですが、根本的な対立とはほど遠いものです。信長の苦情は誠仁親王が間に立って解決します。天皇の苦情は信長がしかるべき処理をしました。

このあたりの書き方が実に難しいところで、「対立していた」と考える方にとっては、「苦情」も対立を補強する「史実」となります。

1990年代の「対立説」はさらに「対立があった。信長は将軍位を望んだが拒否された。正親町天皇は信長に勝利した」と続きます。「天皇権威の浮上」を言いたかったわけですが、その後の実証的な研究によって今の歴史学者は「ほぼ」否定しています。

堀新さんは「公武結合王権論」を唱えていて、これが日本史学のスタンダードになりつつあるようです。もちろん仮説ですから全面賛成ではなく「おおむね正しい」と書く学者が多いように感じます。

それでも「残された疑問」はあります。信長は官を辞退したあと、二位という「位」は維持するものの、官につきません。朝廷とは距離をとっているように見えます。これは「距離」であって対立とは言えないものの、どう考えたらいいのかとなります。「信長の政権構想」が分かりにくいのです。

私の意見
私も天皇朝廷との「根本的な対立」はなかったと考えています。「根本的な対立」とは「足利義昭のように武力を持って争う」「根にもって非難の応酬をする」「陰で積極的に足を引っ張る」と言った関係です。「非難の応酬」、信長と信玄の間に交わされた「文句の言い合い」を想定しています。

そもそも「天皇、朝廷に対立するほどの実力」はありませんでした。儀式や寺社関係の裁判は行うものの、いわゆる政治は行いません。行う経済力、従わせる武力がありません。天皇領ですら横領されていた時代です。また寺社関係の裁定においてはしばしば不公平な結論が出て、それが信長の苦情のもとになるのです。「公正」という姿勢自体、天皇にも公家にもなかったようです。さらに公家が京都から避難して京にいないこともしばしばです。麒麟がくる、に出てきた三条西さんなどは、晩年のほとんどの時期を今川のもとで暮らしていました。

東大の金子拓さんは「史料の専門家」ですが、本の中でこう書いています。「織田信長・天下人の実像」
「すでに戦国時代において、朝廷の政治判断能力は目に見えて低下しており、天皇や関白・公家衆など複数の判断主体が併存し、それぞれ自分の利益にかなった方向にみちびこうとして統制がとれていなかった。しかも彼らはこのあり方がおかしいものだとは感じていなかった」

上記の本は信長論としてもおもしろいのですが、「当時の天皇の実態」を知るにも大変参考になる本です。

政治をする実力は「公儀力」とでも言うべきものです。土地や利権を調整分配し、その裁定に従わせる力です。これは朝廷単独では武力がないのでむろん持ちえません。しかし武家単独でも持ちえない、そう考えるのが「公武結合王権論」です。では何故持ちえないのか。そこが実は私にはどうも分かりません。分からないので、考えています。

織田信長はいつ「第六天の魔王」になったのか。

2021-03-30 | 織田信長
信長の「魔王色」を最も強くデフォルメして描いたのは「おんな城主直虎」です。その後NHKは歴史秘話ヒストリアで金子拓氏の説を紹介し「世にもマジメな魔王」と名付けました。このあたりの経緯は知りませんが、流石に「デフォルメし過ぎた。もうこれ以上魔王としては描けない。」とでもなったのでしょうか。

そもそも信長を「魔王として描いた」作品は少ないのですが、近年に集中しているため、大河では「魔王として描いてきた」ことになってしまっているようです。

1973年「国盗り物語」
総集編しか残っていない。魔王色は薄い。叡山焼き討ちの時、光秀が「信長は魔神か」と考える。そもそも司馬さんの原作小説には「魔王として描こう」という意図はみじんもない。司馬さんは信長が好きではなかった。特に残虐性が嫌いだったようである。国盗り物語信長編は編集者の意向で「仕方なく」書いた。残虐性に「意味」を与えるため「中世を破壊し、近世を拓いた天才」という設定にした。後年の随筆では「信長のような男は日本社会に受け付けられない」としている。

1978年「黄金の日日」
魔王色はないが、高橋幸治さんという役者がそもそも魔王みたいな顔をしている。よく勉強しているなと思わせる信長。信長は「近世を拓いた」とした。しかしこの近世は「検地」でも「伝統勢力の掃討」でもない。ただ一点「商品経済=堺への着目」である。主人公が商人であり、「堺が生み出した子」であることがそうした信長像を形成した要因であろう。「中世の断末魔と近世のうぶ声が同時に存在した時代」に「近世の子」として歩み始めた主人公と秀吉の愛憎。そして主人公の「あるじ」である今井宗久が「信長と安土の城にかけた夢」が描かれる。楽市楽座が描かれないのは、たまたまであろうか。それとも楽市楽座は信長の主たる政策ではないと知っていたのか。分からない。
信長は秀吉を「筑前」と呼び、仲間のように会話している。激することもほとんどない。ただ「冷徹」である。人々とも普通に話をしている。魔王色はない。

1983年「徳川家康」
「国盗り物語」の信長に近いが、若い頃の役所広司さんが演じ、元気がいい。徳川家康の方が織田信長より優れていたという設定のため、信長は万能の天才では全くない。金ケ崎でも信長はうろたえるが、家康が諭して撤退させたとされる。本能寺での信長もやや未練がましい。「ああ生きたい」とか言ったりする。魔王ではない。

1988年「武田信玄」
脇役である。桶狭間も「信玄の計画」とされた。最後は上杉謙信に打ちのめされて逃げていく。たぶん手取川の戦い。史実としては信長は手取川にはいない。とにかく魔王ではない。

1992年「信長キングオブジバング」
再現フィルムのような信長もの。若い頃は朝廷も幕府にも敬意を持っている。だんだん傲慢にはなっていく。ただデフォルメはほとんどない。最後の最後に自己神格化が出ている。デフォルメもしないし、サービス精神もない作品だった。信長VS天道が描かれる。信長は天道を恐れている。恐れつつ天の意志に立ち向かっていく。神になろうとして挫折するが魔王ではない。

「秀吉」「利家とまつ」、、、分析できるほどきちんと見ていません。ただし信長が圧倒的な「強者」として描かれたことは覚えています。

2006年「功名が辻」
私の考えでは、この作品で「魔王化はやや顕著」になります。司馬さんの原作ですが「原作には全く登場しない信長」を「国盗り物語」風に描きました。「風」なのですが、そこにデフォルメを入れてしまった。「もはや幕府も天皇もいらぬ。わしこそが日本の王なのだ」と自らを誇ります。

2011年「江」、、、わしは魔王ではない、、と言い訳をする信長だったような気がします。

2014年「軍師官兵衛」、、魔王性は薄い。しかし「日本に二人の王はいらぬ」といい、それが本能寺の変の原因となる。

2017年「おんな城主直虎」、、、魔王化の完成形態です。完全な「第六天魔王」でした。

2020年「麒麟がくる」、、、よくよく考えると、やってることは今までの信長と同じという気もします。

後半疲れて、書き方がいい加減になりました。





ドラマ「織田信長・桶狭間・覇王の誕生」の感想・「くわ」と「であるか」は採用されず

2021-03-27 | 織田信長
歌舞伎色の強い「ご存じ・織田信長」でした。「歌舞伎を見ているのだ」と思えばいいのだと思います。しいて言えば今川義元がやたらと天道を言い出すのが新しい。でも最後に「われこそは正統な天下人じゃ」というのですね。一気に昔の「義元上洛説」にもどっていました。これも「ご存知上洛説」ということになります。

多くの「ご存じエピソード」が詰め込まれていました。全体にじめっとした感じがしたのは歌舞伎の「人情もの」の要素が強いからでしょう。他の人は棒読みみたいなセリフ回しをする場合があるのに(松田さん)、海老蔵さんだけが強い歌舞伎調で、全体が歌舞伎調に見えるのはそのせいもあると思います。

「子を産まぬ正室であるうえに、敵の妹になりました」と「濃姫」がのどを突こうとします。「子を産まぬ」、、、、大丈夫かなと心配になります。「当時の価値観なんだ」という主張は無理でしょうね。子を産まぬからのどを突いた戦国女性、、、いるかも知れませんが、私は知りません。「敵の妹」って、最初から敵じゃないわけで、これまた濃姫とは何の関係もないことです。たいした問題じゃないのでしょうが「ひっかかる表現だな」とは思います。わたくしは男性です。ちなみに「子を産まぬ代表」は北政所ねねですが、いたって元気で、天寿を全うします。最近の研究では名は「ねね」なんです。たぶん。

歌舞伎的がキーワードかなと思います。歌舞伎ですから、儒教的な考えが作品から滲み出してきます。「仁義礼智忠信孝悌」そして恕。「悌」とは兄弟間の秩序です。兄を敬えということです。

なんで儒教なんて言い出したかというと、「信長が親父の葬式でくわと抹香を仏前に投げつけた」というエピソードと斎藤道三との対面シーンの「であるか」というエピソードが採用されなかったからです。儒教的道徳観念からしても、今回の信長の造形からしても、仏前に抹香を投げつけては「まずい」のでしょう。

この抹香のエピソードは「信長公記」に明記されていて「創作だ」とする人はほとんどいません。過去の回想だから太田牛一の「創作かも知れない」という人はいます。しかし何で創作するのか。太田牛一は信長を「ちょっとだけ英雄」として描こうという考えは一応持っていますが、創作に創作を重ねたわけではありません。信長公記は一次史料ではないですが、一級史料です。「さほど嘘はついていない」が多くの人の評価です。

そもそも「親父の仏前に抹香を投げつけた」ことは英雄につながりません。みんなが「やはり大うつけ」という中「旅の僧のみ」がそれを見て「大名の器だ」と言います。しかし旅の僧がなぜそう思ったのかは書かれていません。抹香を投げつけたは史実で、旅の僧のエピソードだけが太田牛一の「後付話」だと思います。
久々に「くわと投げつけ」のシーンが見られるかと思ったのですが、今回も採用NGでした。それにしても「くわと」ってどういう意味なのか。「くわ」というのは目を開く描写ですが、そうではないようです。

次に斎藤道三との対面シーン。やけに唐突に信長が人生観を語り出します。いろいろ言ってますが「一たび生をうけ、滅せぬもののあるべきか」という内容です。信長は今回も、するすると道三の前に登場しましたが、信長公記では道三を無視して柱に寄りかかって「しらん顔」をするのです。そこに堀田道空が「あれなるが斎藤山城守殿」と言います。

ここで有名な「であるか」という言葉が出てきます。これも今回は採用NGでした。一応道三は父ですから、儒教的にまずいのか、まあそこは断定はできないところです。

これだけ「ご存じエピソード満載」なのに、私の好きな二つのエピソードは採用NGで、「残念!」というところです。

本能寺の変の要因・織田家ブラック説の誘惑

2021-03-26 | 織田信長
最近「プラハのモーツァルト 誘惑のマスカレード」という映画を見ました。で「誘惑」という言葉を使いたくなったわけです。題名はふざけてますが、内容は「そこそこ真面目」です。

NHKの「光秀のスマホ」に「#織田家はブラックでした」という回があります。実は大河でも「織田家ブラック説」を採用した大河があります。大河「信長」です。当時の「研究成果を生かした」まるで信長の教科書のような作品なのですが、なぜか「画面が暗い」のです。よく見えない。戦闘シーンは壮大ですが、なぜか「もやばかり、煙ばかり」なんです。よく見えない。先端の研究成果を生かしたため、当時の多くの人には理解できなかった。画面がよく見えない。言葉遣いがみんな同じでしかも変。語りが宣教師であった。などマイナス面が多く、正当な評価は得ていません。私は「信長の教科書」として使っています。むろん史実じゃないこともありますが、描写が詳細です。なにしろ上洛時における六角氏との戦闘まで描かれているのです。

ほとんどの大河は本能寺の変の要因として「信長非道阻止説」を採用しています。しかし大河「信長」は「織田家ブラック説」です。光秀は「疲れて」います。動機は「ぐっすり眠りたい」というものでした。

本能寺の変の要因は、当時の光秀自身が語っています。有名な細川への手紙です。「自分の息子と細川忠興のために起こした」というものです。これ以外に一次史料はない。でも信用できないということになっています。となると、どうすれば動機が分かるのかという大問題が生じます。つまり「人間は自分の行動をすべて説明できるのか」という問題です。光秀が何を言っても「所詮は光秀の考え」です。人間は自分の行動を説明しつくすことはできません。私がこの文章を書いている動機は何か。実はよく分かりません。あえて言うことはできます。「気が向いたから」ですが、どうも自分でも嘘くさい説明だと思います。

やや哲学癖が出ました。しかし真面目に書いています。ということでいつもは本能寺の要因を考える前に「どうすれば動機が説明できるのか」という上記の課題を考えこんでしまうのですが、「気が向いたから」、ブラック説の説得力について書いてみたいと思います。ただし短く。

谷口克広さんに「織田信長合戦全録」という本があります。これを見ると信長がいかに「戦争ばかりしているか」が分かります。上洛以前から上洛戦は始まっています。上洛以降の15年間、戦争は連続し、拡大します。それ以前も、尾張統一戦、桶狭間の戦い、美濃攻略戦です。

信長自身もしばしば前線に立ちますが、「方面軍のような制度」になってからは、方面軍司令官は一時も休むひまがないほどです。しかも信長は「丸投げ的傾向」があります。土地の支配を任せるから、本願寺と戦え、毛利と戦え、丹波を攻略しろ。光秀などは攻略戦を行いながら、接待係にされたり、大和に行ったり、越前に行ったり。たまったものではありません。

大河「国盗り物語」のDVD未収録シーンが先日放映されました。「疲れ死にするやつはそれだけの器量よ。能力のある者は使われることで、力と夢を膨らませていく」と信長は言います。これはドラマですが、史実と照らしても説得力があります。過労死して当然の人づかいをしているのです。なお当時は「モーレツ社員」という言葉が流行った時代ですから、当時は誰も違和感を覚えなかったと思います。現代におけるSNSの反応は「ブラック過ぎるだろ」というものであったと記憶しています。

さて、当時光秀が55歳だったと仮定すると、すでに老人です。過労死を恐れて当然の年齢です。織田家がブラックだから本能寺の変を起こした。なんだか魅力的な説に思えてきます。ブラック説は何人もの方が指摘していますが、なかば冗談だと思っていました。でもあり得るなと「織田家ブラック説の誘惑」に負けそうな気がしています。

織田信長の二つの顔・革新性と伝統の重視

2021-03-26 | 織田信長
織田信長の「人間像」を構築するための最も良質な資料は「信長公記」なのですが、これは一級史料であっても、一次史料ではありません。信長公記なしに信長を語ることはほぼ不可能なのですが、「都合よく」利用されている感が最近はあります。例えば「常識人的な信長像」を描こうとすれば、信長公記にある信長の「異常性」や「非常識さ」は「一次史料じゃないから」と否定すればいいのです。同じくフロイスの「日本史」も一級史料なんですが、これも同じような使われ方をしています。

信長には「信長公記」のほかに「手紙」や「事務的文書」と言った史料があります。「事務的文書」とは「領地の安堵等」を約束した文章です。「事務的文章」を見てみると「寺社」とか「公家」といった「伝統的勢力」に土地を保証したようなものも多い。手紙も、手紙という文章の性格上、常識的なものが多い。誰だって手紙となれば形式ばるわけで、極端に非常識な手紙は書きません。そこから信長の人物像を構築すれば、当然ながら「ある程度の常識人」となっていきます。私も年賀状を書きますが、必ず「お世話になりました」と書きます。実際は20年以上会ってないから、お世話になりようもないわけです。でも手紙には「形式」がありますから、極めて常識的な文面になります。私には非常識な面も多々ありますが、年賀状にそんな面をにじませることはありません。

もっとも信長には「非常識」な手紙も多々あります。「武威」と言われる「おれは凄いんだぞ」を遠国の大名に知らせる手紙などです。「毛利も頭を下げてきた」とか平気で嘘を書いています。これについては東大の黒嶋敏さんの著作を見てください。「秀吉の武威、信長の武威:天下人はいかに服属を迫るのか」です。そうした「武威を誇る手紙だけから」信長像を構築すれば、非常識というより、「頭がおかしい」人間、平気で嘘をつける異常な人間、信長像はこうなります。

人間には建前と本音があります。しかも当人もどこまでが建前なのか、どこからが本音なのかが分からないこともしばしばです。それを踏まえると、当然ながら信長には「二つの面」があるわけです。一つの面は形式を重んじる建前の信長で、比較的常識的です。しかしその逆、本音というか「生の信長」は「革新的な人物」なのか。そこは非常に難しいところです。「常識的側面」の反対は、必ずしも「革新的側面」ではないからです。「戦争ばっかりやっていて、検地とかはしない。統治とか特に考えないいい加減な男」という像を浮かび上がらせることも可能です。黒嶋敏さんは上記の本の中で「信長のいう天下静謐には秀吉のような具体性はない」と論じ、「スローガンに過ぎない」と指摘しています。静謐に値する善政など少しも考えていないということです。

「信長には保守的な面もあった」という書き方なら特に異論はありません。人間の生活など90パーセントは保守的です。「コメかパンを食べて、日本語を話して、家で眠る」わけです。言語と食べ物はどうしても伝統重視にならざるを得ないわけで、およそ革新的人物と言っても、朝から晩まで非常識な行動をとり続けるわけはありません。もっとも信長は家で寝てません。晩年は天主で寝てました。さらに東大の金子拓さんの「戦国おもてなし時代」によれば、「膳のあり方」も信長は簡略化する方向に変えてしまったとこのことで、信長は実は食事の形態も変えてしまったようです。

「保守的側面もあったが、それに収まらない側面もあった」とこう論じるべきだと考えます。保守的という言葉が「政治性を帯びすぎる」のなら、常識的側面もあったが、非常識な側面もあったということです。「戦争ばかりしている」などはそういう非常識な側面でしょう。最近は「信長は革新的ではない。検地をしない。全部武将に丸投げだった」なんて論じ方をする人もいます。だとしたら、相当「非常識でいい加減な異常な人間」ということになります。義昭に言われて「はいそうですか」と京に上るのも異常ですし(そんな大名他にいない)、官位を辞退し、二位は保つものの、がんとして朝廷の官につかないのも異常です。信長はどの人間とも同じように、多くは伝統(言語とか食事とか所作とか)に基づいて生活していたと思います。しかし異常な面もあった。そしてその異常性こそ信長を読み解くキーになると考えています。同時代人の中に埋没できない過剰な何かが信長にはあるように思えます。そうした異常な側面と常識人としての側面を併せて勘案し、信長像を構築していく必要を感じます。それはおそらく「革新性」にはいきつきません。「非常識」「異常」といった面にいきつく可能性が高いと思います。

そうすると磯田道史さんが「英雄たちの選択」で言った「あいつはとんでもないサイコパスだ」という言葉が魅力的に思えてきます。信長は一向宗を皆殺しにしたあと、手紙を書きます。内容は「皆殺しにしてやったぜ。長年のうっぷんが晴れた。いい気分だ。」というもので「いい加減にしろよ」とも思えてきます。一向宗には「家族」も多く殺されていて、負けてばかりだったので、こうなるのですが、それにしても「なんだかな」です。サイコパスとすると「常識人に自分を偽装する」のも得意だったことになり、色々説明がつくような気もします。(むろんこれは半ば冗談で言っています)

私は織田信長を許さない・「織田信長論」の「面白さ」と「つまらなさ」

2021-02-07 | 織田信長

現在「軍事も内政も、なんでもできるスーパースター信長」といった「信長論」を展開する人はほとんどいません。それに代わり「室町幕府を尊重し、朝廷を尊重し、天下静謐の大義のもと、戦争状態の終結を目指す、そこそこ常識的な信長」が語られることが多くなっています。

「極端から極端へ」(堀新さん)と言われる現象です。こうした「極端な信長論」は、いずれ10年のうちに、少なくなっていくと思っています。革命児や保守的といった「レッテル貼り」は極めて非生産的です。こうしたレッテル貼りを乗り越えようという意図を宣伝した新著はありますが、いまだ乗り越えているとは思えません。

「天下静謐の信長」が大きく語られるようになったは2014年ごろからです。これは信長研究の泰斗である谷口克広さんの認識です。信長本があまりに多数出てきたことに「驚いた」と書いています。そのもとは2012年の池上裕子さんの「伝記」だと思います。その前から天下静謐を語る学者さんはいましたが、2014年の「現象」のみに限定するなら、この池上さんの信長論の影響が大きいといえるでしょう。

その「伝記」は「私は織田信長を許さない」という「今も信長を許さない人々の存在」から語られます。冒頭でそのような人々の意見に接し「安堵した」と書きます。この池上さんの「伝記」は、「信長の限界」に「強く」注目しながら、その「異端性」(絶対服従を求める。果てしなく分国拡大をしようとする)をも語っており「極端」なのものではありません。しかしこの本のあと、せきを切ったように「革命児信長への不満」が爆発し、極端な信長論が語れるようになりました。それは今も継続中です。昨日読んだある学者さんの新著もそのようなもので、まるで金太郎飴のように「同じ」です。繰り返しますが、池上さんの論述は違います。「信忠が生きていても信長の代わりはできない」「信長の戦争は天下静謐と分国拡大に分けられるが、信長の中ではやがて一つのものになっていく」「結局関所の撤廃をしたほか、内治面ではなにをしたんだ」などスリリングな論点に満ちています。

私は当初、東大の金子拓さんの「信長論」(織田信長天下人の実像、織田信長権力論)を「金太郎飴の一つ」だと思っていました。しかし金子さんは脇田さんの論考を参考にしながら「天」を「朝廷をも含め、天皇も従わねばならないと信長が認識していたもの」と考えており、決して「金太郎飴」ではありません。上記の新著の作者も金子さんを「引用」していますが、その点への言及がないため「劣化コピー」となってしまっています。

信長の「古さ」と「新しさ」をきちんと分ける必要があります。信長は多くの分国を持ちます。その原動力となった「信長の古さ」は何なのか。「信長の新しさ」は何なのかを考えることでしょう。「古さ」もまた勢力拡大には重要です。「古さ」は理解を得やすい。その古さを利用して勢力を拡大した局面もあります。なにより人々の理解を得やすいのが「古さ」です。

他の大名も「古さ」を持っていたし「新しさ」も持っていた。にもかかわらず、信長の分国のみがあれだけ急拡大したのはなぜか。毛利の急拡大をも考えにいれながら.
というのが私の今の関心の中心事項です。

信長論の論点は「例えば」以下のようなものでしょう。

・信長は検地をどう考えていたか。光秀らの検地は信長の意向とは全く違ったものだったのか。そのような「遅れた大名」が多くの分国を得たのはなぜか。
・信長は楽市楽座を「分国全体の政策としては」行わなかった。では楽市楽座とは何か。都市の直轄化など、信長のマネー戦略はどのようなものか。いくら収入があったのか。
・兵農分離とは何か。本当に兵農分離で「強く」なるのか。
・信長の技術改革として語られてきた「長槍」「鉄砲」等をどう再評価するか。特に鉄砲の場合、マネー戦術と濃厚に関わる。堺の直轄化などとも関わる。そこを「公正に評価する」必要がある。
・信長には分国法のようなものがないようにも見える。明智軍法は後世の偽作なのか。偽作ではないとして、どれだけ信長の意向と結びつけることができるのか。分国法すらない「遅れた大名」である織田権力に、なぜ多くの大名は勝てなかったのか。
・幕府や朝廷との関係、ただ「当時の考え方の範囲内で、幕府と朝廷を尊重し」という記述だけでいいのか。
・信長のその後の国家運営につき、中国皇帝を意識したという論者は少なからずいる。そうした論者と対話的に論争しないでいいのか。天下静謐と武威という言葉から「中国皇帝」が飛び出してくるように見えるのはなぜか。

池上裕子さんの「伝記」は実に面白い。また谷口克広さんの深い見識と洞察力も大事だと思います。谷口さんと対話しながらそれでも「違う説になってしまった」というまさに学者の鑑のような金子拓さんの信長論。そして堀新さんの公武結合王権論。加えて朝廷の「強い」主体性を訴える学者さん。

当面は「朝廷、天皇すら天のもとにあると信長が認識していた」という立場から語られる金子拓さんの「天下静謐の信長論」をいかに「創造的に乗り越えるか」だと私は思っています。「私が乗り越えられる」わけはありません。そこはプロの歴史学者に乗り越えてほしいと思っていますし、金子さん自身も「批判を望んいる」という認識を書いておられます。