歴史とドラマをめぐる冒険

大河ドラマ・歴史小説・歴史の本などを中心に、色々書きます。
ただの歴史ファンです。

映画「空海」と「Karaの復活」

2022-11-30 | ジェンダー論
映画「空海」、は1984年、北大路欣也主演のドラマで、最澄は加藤剛さんが演じました。
印象的な言葉が三つある。

1,妙適淸淨句是菩薩位 - 男女交合の妙なる恍惚は、清浄なる菩薩の境地である

これは密教の理趣経に書かれており、空海は東大寺の別当でもあったから、東大寺では理趣経は今も大事な経典らしい。むろん密教系にとって最高の経典の一つであることは言うまでもありません。
性交は仏の境地、性欲は仏の境地
無軌道な性欲の発動は社会の秩序を乱すから、この理趣経の考えは「小難しい哲学的解釈をもって改変」されてきました。道徳的になるように。
しかし私は素直に読むべきだと思います。「男女の合意さえあれば、性欲の発動は生きる活力であり、つまりは元気の源である」ということです。
「男女の合意」というのは「現代風の私の解釈」だが、空海においても強姦が許容されるはずもなく、さして間違ってはいないでしょう。もちろん私は現代人なので「合意でも未成年はダメ」は言うまでもありません。未成年同士の場合は妊娠の問題が気になります。「おじさんと未成年女性」は合意そのものが成り立つ気がしません。「成人で、きちんとした合意さえあれば」ということです。「交合」とは「合意を含む」と思います。

2,マンダラの世界が文字によって表現できますか。日本は文字によって文化を学んできた。だから空海に言わせれば「日本は貧しい風景に中にたたずんで」いる。

文字至上主義。理性至上主義の相対化ですね。マンダラの世界は私には分かりませんが、言葉としては好きです。

そして「3」、橘逸勢(たちばなのはやなり、)石橋蓮司の次の言葉です。中国でイランの踊りを見て言います。

☆なぜだ、なぜだ空海。日本のおなごたちは、なぜこのように体ごと飛び跳ねて踊らないのだ。

ここでkaraにつながります。ちょっと前の韓国の女性ユニットで、日本でも人気がありました。「体をくねくねさせてセクシーに」踊ります。韓国国内では「未成年にみだらな踊りを強要している」と問題になったこともあるようです。日本で一回限りかも知れませんが復活するようです。

Karaの全盛期。私はさほど興味がなく、ちょっと品がないとまで考えていました。しかし今になってユーチューブでよく「ミスター」を見ます。元気よく踊っていて、下品な感じは全くしません。
「元気があって、明るくて、活力があって、とっても結構」だと思います。

では「女性が体ごと飛び跳ねて踊っていればいいか」というと、それも違っていて、不思議なのですが、TikTokで踊っている「女子中学性や女子高生」は「何やっているのだろう」と思ってしまいます。
たぶん制服を着ているからでしょう。AKBでもなんでも「制服を着て踊る女子高生みたいの」が苦手です。
昔高校の教師をしていて、女子高生とは本当によく話をしました。いい子が多くて、基本的には「何でも話して」くれました。彼女たちの心は「いろいろ難しく複雑な」のです。それが分かっているので、どうも「明るいだけの女子高生」という虚像が苦手です。

「鎌倉殿の13人」スピンオフ小説・「比奈の乱」(仮)序章

2022-11-29 | 鎌倉殿の13人
比奈・・義時の正妻であった「姫の前」のこと。本名は不明だが、ここでは「鎌倉殿の13人」にリスペクトを込めて「比奈」とする。太郎泰時は実子ではない。実子に北条朝時、後の幕府連署、北条重時がいる。

「全く失礼な話だわ」と比奈は憤慨している。それにこの屋敷の様子はどうであろう。手はかけられているがどこか人間の生活感がない。
「それでも左近衛権中将様が会ってくれるのですから」と侍女の「お駒」は比奈を慰めた。
「あたり前です。勝手に人を死んだことにしたのですから、抗議しなくてはなりません」比奈の憤りは収まらない。
やがて一人の公家がしずしずと現れ着座した。どこか貧弱で体の線が細い。
男は黙って比奈を見ている。何も言わない。比奈も何も言わない。慌ててお駒が挨拶した。
「こちらは鎌倉の北条義時殿の前室であるお比奈さまでございます、この度は無理を申しまして」
「おひな様」という音を聞いて、男は少しうなづいた。比奈の顔をじっと見ている。
「少しお年は召しておられるが、なるほど雛のように可愛い方ですな」声にどこか落ち着きがない。気分の上り下がりが激しい人間のように比奈は感じた。
「そんなお世辞はいいのです。この文をご覧ください。わが子太郎泰時のものですが、私が死んだと貴方様が鎌倉のどなたかに文を書いたという内容です。日記にも記したとのこと。」
「ふむふむ」
「この通り、私は生きております。亡くなったのはお世話になっていた源具親様の正妻、波奈様です。お子を産んで亡くなりました。比奈と波奈は似ておりますから、あなた様の勘違いでございます」
「ふむふむ、しかるに、その侍女のお方、お名前は」
「えっ。駒でございます」
「駒、駒、駒、、、ところで近頃旅はなさいましたかな。どこかに美しい景色はございましたか」
「ええ、比奈様と共に、冬、大和のサノのあたりに参りました。でも雪が降って寒くて寒くて」
「ふむふむ」と言いながら男は泰時の手紙を手にした。
しばらく文を見るともなく眺めていたが、急に大声を出した。
「できた!」
わっと比奈も駒も驚いた。男は意にも介さない。
「駒とめてー 袖うちはらふ人もなしー 佐野のわたりの冬の夕暮れ、これはいいぞ。これはいい。」
「藤原定家様!あなた、人と話すことができますか」
「なるほど、冬はだめですな。冬の夕暮れではなく、雪の夕暮れ、これはますます良くなった」
完全に自分の世界に浸っている。およそ会話をする気はないらしい。比奈は「だめだこりゃ」と思った。
「もう結構です。とにかく私が死んだという日記は訂正しておいてくださいね」
比奈は泰時の文を定家からもぎ取って席を立った。それでも藤原定家は一人で話している。
「なるほど、人もなし、もだめだ。かげもなし、、、うん、、、これだ、、、できた、できた」

帰り道である。
「定家様は訂正してくださるでしょうか」
「訂正するわけないでしょ、変な人にもほどがあります。あーだめだ。あの方は有名人だから日記は歴史に残るでしょう。私は今年死んだことにされるのだわ」
「比奈様も対抗して日記を残したらいいじゃないですか」
「そんなもの、百年後に残るわけないでしょ。」
この年、承元元年(1207)である。比企の乱から既に4年が経っている。

比奈は屋敷に戻った。少し前まで源具親の世話になっていたが、死んだと不吉な噂が立ったので、方忌みの意味を込めて引っ越した。今は守貞親王という皇族のもとに身を寄せている。義時は、後鳥羽上皇の乳母である藤原兼子の元へ行けと言ったが、政治に巻き込まれたくはないと比奈は断った。すると義時は守貞親王を紹介してくれた。大金を払って依頼したのかと思ったが、守貞親王はどこか世離れした男で、義時の申し出を断ったらしい。
後鳥羽上皇の異母兄に当たる。回りに集まる公家たちは、守貞親王を天皇にとも思っているらしいが、守貞にその気はまるでない、と比奈は感じている。
「どうです。定家さんは、会ってくれましたか」親王の声は柔和である。およそ怒る顔を見たことがない。
「そりゃ、殿下の紹介ですから、会ってはいただけましたが」
「変なお方だったでしょ」
「お駒の名を聞いて、急に和歌を思いついたらしく、もうそればかりに熱中なさって」
お駒が和歌を暗唱する。「駒とめてー」
「なるほど、それはいいお歌ですな。で肝心のお話は」
「およそ人と会話のできない方です。諦めました。」
「まあいいではありませんか。私なぞ4つの時から、死んだような扱いを受けておりましたよ」
彼の幼少期は数奇である。四歳の時に平家に連れられて都落ちした。異母兄は安徳天皇である。壇ノ浦では女房に抱かれて海に沈んだが、幼いながら泳ぎができた為、すぐに義経の兵に助けられた。その時彼は皇太子であった。しかし京に戻ると、既に異母弟の後鳥羽天皇が即位していた。その後、帝位を目指したこともあったが、今は諦めて静かに暮らしている。少なくとも比奈にはそう見える。

つづく

「権門体制論」の「正しい理解と批判」のための序論

2022-11-27 | 権門体制論
権門体制論には黒田俊雄氏の「オリジナル権門体制論」つまり「シン・権門体制論」と、そこから思想性とかいろんなものを抜いてしまった「現代風権門体制論」があります。
多くの学者が、今依拠しているのは単純化された「現代風権門体制論」です。
それは極めてシンプルな考えで、果たして「論」と呼ぶべきものなのかも分かりません。

A,中世(平安末期から室町中期または安土桃山時代まで)において日本を支配していたのは、公家、武家、寺家の3大勢力である。

終わり。基本的にはこれだけです。もうちょっとだけ複雑にすると

B,中世において日本を支配していたのは公家、武家、寺家の3大勢力である。彼らは天皇を中心にしてゆるく結合しながら、相互補完を行っていた。

これだけです。「現代権門体制論」は単純すぎて理論とは言い難い。図書検索をして「権門体制論」を調べてみてください。私の住む東京の某区には20以上の図書館がありますが、ヒットする本はわずか1冊です。
しかも黒田氏の著作ではありません。黒田氏には「権門体制論」という著作はありません。ただし永原氏らが編んだ著作集の一巻は「権門体制論」となっています。論文の題名ではありません。
権門体制論は1960年代に黒田氏が「中世の国家と天皇」という短い論文で主張しました。それは1970年代から唯物史観を凌駕する形で、日本歴史学の主流となりましたが。各々の学者は、自分なりに「権門体制論を理解し、または改変し」つつ使用しました。しかし黒田氏が亡くなった1993年までは、「新権門体制論」や「改変権門体制論」は出ませんでした。1993年以降、この考えはますます日本歴史学の「多数派」を形成しましたが、「権門体制論」という本は、皆無と言っていいほど書かれていません。「理論的な深化」はないのです。

しかも「B」は黒田氏の考えを正確に反映したものではありません。日本語としても極めて曖昧です。「3大勢力である」までに問題はないと仮定(実はあります)しても、「相互補完」とは何か。「天皇が中心」の「中心」とは言葉の厳密な意味においてどういうことか。「ゆるく結合」とは具体的にどういうことか。

説明は各学者によって微妙に、または全く違います。だから「相互補完」を「協調を過度に重視して」考えたり、「中心」を「天皇権威の高まり」として捉える「間違い」が生じます。

私が多少専門とするのは「現代文の読み方」です。歴史学者ではありません。しかし上記の「B」が説明になっていないことは、現代文読みの感覚で分かります。そこでこの半年、黒田氏の著作を「折に触れて」は勉強してきました。以下は私がその作業を通じて得た知識の披露ですが、むろん私が間違っている可能性はあります。でも結構「いい線いってる」のではないかと、私自身は思っています。

「オリジナル権門体制論」からみた場合、今よく言われていることは正確なのか不正確なのか。〇×形式で考えてみます。

1,権門とは荘園から税をとる権利をもった支配層のことであり、公家、武家(幕府)、寺家のことである。これはかなり正確です。

2,権門体制は中世を通じて維持された。これはかなり不正確です。黒田氏自身は、権門体制の始まりを平安末期、院政期が起点と考えています。しかし権門体制の終点については「足利義満の時代」「応仁の乱をもって終わる」とややぶれがあります。権門体制の終わりは「権門体制の克服」と表現されます。「江戸幕府が完全に克服した」ことは述べていますが、応仁の乱で「ほとんど消滅し」、戦国期に衰退を加速させ、秀吉期で「完全に終わる」と述べている、と考えるの妥当です。

3,権門体制が続くためには「荘園」が必須条件となる。これは正確です。だから現代の学者が、権門体制を江戸幕府開府の直前まで「延長」しようとすれば、「荘園」がその時代まで「命を保って活動していた」と言わなくてはならなくなります。かなりの無理をもってそういう言い方をする人がいるのはそのためです。

4,室町末期になっても権門体制は維持されたため、織田信長と幕府は「相互補完の関係」にあったし、織田信長と天皇も「相互補完の関係」にあった。これは完全な間違いです。
まず室町末期には権門=荘園体制は加速度的に崩れ、もはや機能不全の状態です。「幕府と大名の相互補完」というのは一応出てきます。しかし応仁の乱で終わったとしており、戦国大名には「適用できない」とはっきり書いています。さらに「天皇と信長の相互補完」もかなり支離滅裂です。天皇は権門という「私的勢力」に「公的なみかけ」を与える存在であり、権門ではないからです。ただし天皇自身が私的勢力の家長として権門になる場合はあります。いずれにせよ、信長の時代にまで「権門体制を適用」するのは、いわば「濫用」であり、「権門体制、相互補完濫用防止法」があれば、取り締まりの対象とすべき行為です(笑)。これはオリジナル権門体制論から見た場合、完全にアウトです。

5,江戸時代になっても権門体制は維持された。寺家は存在したし、公家も天皇も存在した。天皇は将軍を任命する立場であった。これはどうでしょう。「朝廷が将軍を任命する立場にあった」ことは事実です。しかしこの考え全体は全く不正確です。黒田氏は江戸期まで権門が存在したとは寸分も考えていません。「完全に克服され、将軍が王になった」と書いています。

6,天皇が王として権門の中心にいたのは、実質権力を失っても「権威」を持っていたからだ。これも不正確です。全く逆という言い方も可能でしょう。「権威があったから中心となった」のではありません。「私的勢力に過ぎない権門が、公的政治に関与するため、公的なみかけを獲得するため、天皇に権威を与えた」のです。ただしこれについては、かなり「長文の説明」が必要となるので、今は書く気がありません。

7,当時の支配層は権門体制を維持することを前提とした。したがってどんなに対立しても、相手を完全に滅ぼす、公家をなくす、寺家をなくすことなどはなかった。
これまた不正確です。黒田氏の考えでは権門は私的勢力として「絶えず相手を完全に滅ぼしたいという欲望を持っていたが、力不足でできなかっただけ」です。
「織田信長は中世人であり、当時は権門体制であったので、信長は幕府と対立しても、それを完全に滅ぼすことはしなかった」。まあ史実としても間違いですが、権門体制論に立った場合でも間違いです。
そもそも権門体制ではなかった事実は無視できるとしても、これは黒田氏の考えに見事なほど反した考え方です。黒田氏は「教祖様」じゃないので、反してもいいのですが、考え方としては「権門体制論とは違ったなにか別の史観」です。

まとめ

オリジナル権門体制論には継承すべき知見が大いにあるが、継承するにしても、黒田氏の考えをよく理解し、批判的に継承しないといけない。とこうなります。

私は黒田史観の信徒ではないので、「教祖はそう言っていない」などいう気でこの文章を書いているわけではありません。むしろ私は権門体制論を批判したい。そのためにオリジナル権門体制論について考えています。「聖書を読んだから、イエスは私のものだ」的な志向はありませんが、教祖の言葉を適当に改変して便利遣いする徒が多すぎるので「それは違う。それはあなたの考えだ。権門体制論ではない。」と言いたい気持ちはあります。

蛇足

黒田俊雄氏は後醍醐政権をどう見ていたか。

「権門体制の克服の試み」と考えていました。古代王権の復活ではなく「封建王政」(天皇を首班とする江戸幕府を想像してください)を目指していたと。
しかしそのどうしようもない「反動的性格」(目的は自らが属する大覚寺統を中心とした一部の公家の勢力回復ためであり、国家天下を思ったものでもなければ、広範な支配勢力の支持を得られるようなものでもなかった)、為に各権門の支持を得て、京都政権における大覚寺統の勢力を「認めさせる」以外方法がなかった。結果として後醍醐は既存の「権門」を「安堵」した。
つまり権門体制の克服(天皇のみが最終決裁者である社会体制)を「看板」として掲げながら、現実には全く別の方向に行くしかなかった。最後には権門の支持さえ失い、あっという間に瓦解した。
最後に黒田氏はこう書いている。(中世の国家と天皇)

後醍醐天皇は、封建王政を組織することに失敗しただけでなく、現実の政治に登場しただけに(形式的権威という姿勢を捨てただけに、リアルな政争に巻き込まれることとなり、これは私の注です)、権門としての私的権威自体もまでも根底から失い、ひいては天皇一般にまつわる「古代的」な形式的・観念的権威までも著しく失墜させる結果を招いたのである。以上引用終わり。

なぜ天皇に対して「私的権威」という言葉を使うのか。それは後醍醐天皇が「実際の政治家」としては「権門として振舞っている」からです。つまり私的勢力、王家という権門の長です。権門は国家から公認を受けても、たとえ天皇が家長であっても、その「私的勢力であるという性格」自体が消滅するのではありません。公的なみかけ、を獲得し、国政に関与できるようになるだけです。荘園を「私的家産」ではなく、「一種の公領」と考えるようなあり方は、黒田氏の所論を見る限り、到底容認できない、最も「反権門体制論的」な思考です。
荘園公領制は今は歴史学の通説どころとか「定説」でしょう。私はそれに疑問を呈している。ドン・キホーテ的暴論ということになりましょう。しかしおかしいものはおかしい。

荘園は私領的なものではあるが、公的国家的性格を有している。寄進によって成り立つというより、上皇の「計画」によって上から形成されることが多かった。

上皇が計画しても「公的でない」ことは、オリジナル権門体制論の立場からは明確です。むしろ「公領と言われているものは、その実質を考えるなら私領ではないか」という疑いを持つ必要を感じます。

加筆する必要を感じますが、一応以上です。

「オリジナル権門体制論」と「象徴天皇制的権門体制論」

2022-11-26 | 権門体制論
黒田俊雄氏のオリジナル権門体制論はきわめてシンプルな考え方である。

中世(平安末期から室町中期まで)において国家を支配したのは公家・武家・寺家の3大勢力である。以上。

これで「終わり」である。つけ足すとすれば「天皇の位置」だが、「天皇の位置」まで言及するとなると「シンプル」にはいかなくなる。「天皇を中心としてゆるく結合」は実は間違っている。そんな粗雑な分析で「こと足れり」とはならない。黒田俊雄氏は1960年代、「天皇制の権力構造の解明」の為に「オリジナル権門体制論」を提唱した。そして天皇制の分析に多くの労力を費やした。それを「ゆるく統合」などという粗雑な言葉で表現することは不可能である。「ゆるく統合」は現代の「象徴天皇制を過去に投影した権門体制論」の産物である。

ちなみに黒田氏の難渋さの断片だけを紹介するなら、

天皇は「王家の一員ではない」、王家は「王=天皇を輩出する私的勢力」ではあるが、王=天皇は「王として公的に振る舞う」場合、王家の一員ではなく公的な存在である。しかし天皇が私的勢力(王家)の家長として振る舞う場合、彼は権門の長という私的存在である。公的存在である天皇が、私的存在である天皇に「公的承認」を与える場合がある。これは「同一人物」であっても成立する。しかし一般には中世において天皇が「公的存在」という「みかけ」を付与するのは、上皇に対してである。そのことは天皇権力が上皇の私的権力より大きいことは意味しない。天皇は極めて無力な形式的存在であり「公家、武家、寺家という私的勢力に対して公的なみかけ」を付与するための機関に過ぎない。ただし天皇親政の場合、天皇は私的存在である自分に、公的機関として「公的存在」であるという「みかけ」を付与することになる。

以上は黒田氏の著作の引用ではなく、「私のまとめ」であるが、我ながら難渋である。この「複雑さ、難渋さ」についていけないと、オリジナル権門体制論の「天皇」「国王」は理解できない。
もっとも理解することは必須ではない。中世は上記の3大(私的)勢力が社会を支配した、で十分とも言える。天皇や国王の説明は国家論的課題である。大切なのは公家、寺家、武家の「具体的統治機構の理解」であって、天皇の位置は副次的問題である。とはいうものの「私的」の意味を理解するためには、多少は国家論に踏み込まないと無理である。

もっとも黒田氏の「思いなら」、もっと「シンプルに言う」ことは可能である。

武家(幕府)だって支配者じゃないか。天皇制下における「権力者」ではないか。武士は貴族階級を打倒した「英雄」ではない。

これだけである。戦後、皇国史観(今も実は健在であるが)に代わってマルクス史観が隆盛を極めた。実は多くの学者は「マルクス主義者ではなく」、単に「非皇国史観を基調とし、学問的にできるだけ中立で科学的な」立場を「とろうとした」に過ぎない。その時、「階級闘争」と「下部構造の解明」を重視するマルクス史観は、歴史分析のツールとして「ある程度有効で」科学的に見えた。世界の基調もそうであった。いわゆるグランドセオリーである。この「ある程度有効」という事実は、実は今も変わっていない。「武士の家計簿」を分析したり、「信長の天才性より経済力の源泉」を解明しようという姿勢は、「下部構造の分析」である。しかしそれを行っている学者は、マルクス主義者ではない。それは1960年代も違わない。彼らにマルクスに関する著作はほぼなく、おそらく19世紀のドイツ語も理解できなかったであろう。唯物史観をツールとして使うことと「マルクス主義者であること」は全く別の問題である。「下部構造」の代表選手は、中世においては「荘園」であり、「荘園研究」が歴史学の王道であった。優れた成果が多く生み出されたが、「武家の荘園、武家の権力の下部構造」の分析に重きをおくものが多かった。

1960年代以降、「国家史、政治史」とはつまり「鎌倉・室町幕府の歴史」であった。

それに対し黒田は「天皇の歴史、公家の歴史、寺家の歴史」の解明も必要だと訴えた。理由はシンプルである。中世国家が存在したとすれば、それを支配しているのは公家、寺家、武家の3大勢力であるから、武家=幕府の分析だけでは「片手落ち」であり、「すべての権力の構造」を解明することはできないからである。京大出身の黒田氏にも多少の「京都愛」はあったが、現代の一部の学者のように、臆面もなくその「郷土愛」を表明することはなく、天皇に関しては一貫して「知的分析の対象」として「突き放して」いた。

「中世においても天皇に権威があった」などとは書かない。「天皇に権威があるように見えるのは、また実際権威が機能することもあるのは」どのような具体的機構(政治機関、武力機関、なかんずく仏教と儒教、寺家を代表とするイデオロギー機関)によるのか、それを黒田氏は「解明」したかったのである。

黒田氏は書く。

国家における全人民に対する「全支配階級」の「総体」を分析するためには、幕府の分析だけでは不十分である。

そして「全支配階級の総体」を分析するためには、それぞれの権門の持つ「機構」=役所、暴力機構=武力、経済機構(税の徴収の機構、流通への関与)、思想機構=正当化のイデオロギーを分析しないといけない。「機構分析」が歴史学の王道となるべきなのではないか。

マルクスは時代のイデオロギーを「経済構造が決定する上部構造とみなした」(私はマルクスを勉強していないので、おそらく)と思われるが、黒田はイデオロギー装置(寺家が代表であるが、儀礼や様々な行事を通じてなされる民衆の価値観の誘導)を「下部構造」とみなした。

蛇足であるが、私でも「史学」を志すなら、権門体制論にとびつくだろう。「公家の研究」にはまだ「はいりこむ余地」がいくらでもある。また「寺家の研究」に至っては「まだ始まったばかり」であるからである。

しかしここに一つの困った問題が生じる。それは黒田氏が「武家の権力の分析だけでは、皇国史観の真の克服にはならない」と主張したことである。黒田氏が政治信条としては「反権力思想に親和感を持っており、共産党の機関紙にも寄稿し、象徴天皇制を天皇制美化の洗練された形態として批判した」ことは、そしてその為に多くの論文を書いたことは、自明の事実であった。

あまりにイデオロギー色が強いのではないか。3大勢力の分析を行えという主張は「正しく、また研究者としてはありがたい」が、このままでは「使えない」。「政治的に中立な立場」を「仮装」しなくては使えない。歴史学は所詮はイデオロギーの産物であるが、それでもここまで「露骨」では困る。

そこで黒田以降の学者は、黒田の理論から、政治性や思想性を「抜いて」(抜くという行為自体が極めて政治的な行為なのだが)、難解さが一切ない「馬鹿らしい」とも評される単純な「象徴天皇制を過去に投影した権門体制論」を生み出した。現代われわれが目にする「現代権門体制論」はこれであり「象徴天皇制的権門体制論」と呼ぶべきものである。イデオロギーとしては全く別の方向を向いていると言ってもいい。

一方黒田氏はどうなったか。その著作のうち、現代でも比較的容易に手にはいるのは、「寺社勢力」「王法と仏法」の二冊である。黒田氏のよきライバルであった永原慶二氏らが編集した「黒田俊雄著作集」は絶版となり、今は受注生産でかろうじて入手できるだけである。私の自治体東京某区には20以上の図書館があり、かなりの専門書でも入手可能だが、黒田俊雄著作集はない。東京23区では「中野区」もしくは「千代田区」に存在している。「権門体制論を黒田氏の原著に遡って研究しようとする学者」もほとんどみたことはない。

オリジナル権門体制論の復元と、それに対する静かな批判(継承を含む)が必要である所以である。

鎌倉殿の13人、スピンオフ「北条泰時の野望・鶴岡八幡宮の雪」

2022-11-23 | 鎌倉殿の13人
石段に差し掛かると、源実朝は北条義時の目を見てこう言った。
「叔父上、腰を痛めていると聞きました。この寒さはこたえましょう。ここで結構です。もうお帰りください」
それを聞いていた源仲章は得意満面の笑みを浮かべた。
「執権殿、ご老体にはこたえましょう。ささ、その太刀は私が持ちますゆえに」
「おお仲章、気が利くな。叔父上に代わり、太刀持ちをお願いしよう」
それにしてもこの太刀は、と仲章は思った。ずしりと重い。どうやら本身の刀である。
「ここは武家の都、武家には武家の作法があります」と義時は笑った。
実朝は何も言わない。仲章は黙って太刀を受け取った。義時と実朝は目で合図を送りあった。

拝賀は終わった。しばし休息。実朝は雑色頭の重蔵を呼んだ。
「仲章様の様子はしかと見ました。束帯の下に着込みをしておりまする」
「これと同じか」と実朝は、自らの着込みを重蔵に見せた。
「弓を使うでしょう。十分にお気をつけを」と重蔵は言った。
「かねてからの打ち合わせ通りに。お前の配下も命を落とさぬよう、注意せよ」
「われわれの命など、御所の命の代わりとなるなら」
「それはいかん。生きとし生けるもの、みな同じぞ。それに私は今日、一人の男を斬る。殺生はそれだけよい」
「はっ」重蔵は闇に消えた。

実朝たちは石段を下りていく。仲章がふと気が付くと、松明を持つ雑色の数が異常に増えている。篝火もたかれ、鎌倉の漆黒の闇は消え、薄明りに満ちている。
雑色たちは自分たちの行列を二重に取り囲んでいる。実朝の前方は特に厳重で、屈強で背の高い男がまるで壁のように実朝の前を歩いている。
一行は公暁が潜む大銀杏に近づいた。
「気が付かれている」と仲章は悟った。「とすれば自分の命が危ない。逃げなければ」と仲章は思う。
「あっ、足が」と言って仲章が立ち止まった。逃げるつもりである。
「それはいかんな、重蔵、介助さしあげろ」
実朝の命で重蔵が仲章をいだいた。「いだく」というより、羽交い絞めである。
「い、息が」と仲章はうめいた。

同時に、大銀杏の向こうで「おう」とか「うっ」という声が上がった。重蔵の配下が公暁の仲間を襲ったらしい。やがて静まった。
「公暁、出てこい。命はとらん。陸奥がいいか。どこぞの島か」と遠流の場所を尋ねている。
やがて大銀杏の向こうから公暁が現れた。利き手の右腕から血が流れている。これでは弓は使えない。左手に太刀を持っている。片手で使うには重いであろう。
実朝は仲章が手放した剣を、重蔵の配下から受け取った。
「公暁、何がしたい。俺を殺しても鎌倉殿になれるわけがなかろう」
「うるさい、実朝。おれは父の仇が討てればそれでよい。しかしそれだけでないぞ。おれは武家の棟梁になる。こんな田舎の鎌倉ではない。京の都で棟梁となるのだ。」
「ほほう、仲章がそう約束してくれたか」
「仲章などではない。もっともっとずっと尊いお方だ」
「だれだそりゃ、不動明王か誰かか」、実朝は会話を楽しんでいる。
仲章を羽交い絞めしていた重蔵の手が緩んだ。都の公卿はとっくに逃げている。仲章の背後には雑色が満ちている。
仕方なく仲章は公暁のほうへ走り出した。
「仲章」と叫ぶと、実朝はその背を袈裟に斬った。
「親の仇はかく討つぞ」と実朝は大声で叫ぶ。逃げる公卿たちは、背にはっきりその声を聴いた。この言葉は公暁の言葉として、長く日本史に記録されることとなる。

「な、なにをする実朝。仲章は上皇様の近臣ぞ」
「ほほう、そうか、ならお前はその近臣を斬ったことになる」
「な、なにを言う。お前が斬ったのではないか」
「いや、お前が斬ったのだ。上皇様は怒るであろうな」
雑色たちが実朝に向って走ろうとする公暁の前を幾重にも遮った。
「公暁よ。私はお前がかわいいのだ。哀れでもある。この鎌倉は私たち源氏の物ではない。坂東武者の都だ。われわれは所詮、まろうど(客人)に過ぎぬのだ。」
「うるさい」と剣を振りかざしたその腕を、重蔵がしたたかに棒で打った。剣は石段に落ちる。
「仲章を斬ったお前はもはや京にも居場所がない。俺を殺したのだから、むろん鎌倉にも居場所はない。どこぞの島で20年我慢しろ。呼び返してやる。おれは鎌倉を去るが、それは約束しよう」
「鎌倉を去るのか」公暁の声だけがした。実朝は雑色たちを下がらせる。
「ここは源氏の都ではないからな。実際疲れるのよ。あっちこっちに気を配り、儀式儀式の毎日だ。鎌倉殿なんて、そりゃ疲れるだけで、何のいいこともないんだぞ」
実朝はにっこりと笑った。
公暁は背後に向って逃げ出した。その背に向って実朝は叫んだ。
「三浦には行くな。殺されるぞ」
「実朝、お前が許しても、お前の主人である義時は許すまい。お前は犬だ。所詮は義時の犬だ」叫びながら去っていく。
「止めますか」と重蔵が言う。
「いいさ。死なせてやろう。島で20年、あの男にとっては地獄であろう。それになるほど義時は許すまい。あの男は怖い男だ。」
重蔵の配下が軽口をきく。
「御所様にとって執権様が邪魔なら、執権様をやっちまえばいいの、、、」
と言葉が終わらぬうちに、重蔵は男の顔を張り飛ばした。男はごろごろと石段を落ちていく。
「重蔵、義時に絶対手を出すなと配下に伝えよ。おれが死んでも鎌倉は大丈夫だが、義時が死ねば鎌倉はつぶれる」
「さほどのお方で」
「ああ、あの非情さはまさに父上の継承者にふさわしい。おれは優しいからな。あそこまで非情にはなれん。今はまだ鎌倉は開府したばかり、非情さが必要だ。」
「それに義時が今死ねば」
「執権様が今お亡くなりになると?」
「太郎泰時の時代が来ない。おれは義時死後の太郎の時代を見据えている。しかし太郎にはまだそこまでの覚悟がない。あと数年、そう5年は義時に生きてもらわねば」
「太郎様は御所と同様、お優しい方と存じますが」
「なに、あれはあれで非情になれる男よ。しかも太郎の時代は鎌倉は成熟期に入っていく。非情さと優しさ、二つながら必要だ。」
「それにしても御所は本当に鎌倉を離れるので」
「ああ、京に行く。死んだからな。太郎の為に、京の大掃除をすることにした。それに田舎暮らしは飽き飽きだ。京が好きなのさ。和歌も詠みたい。あの寺にもこの場所にも行きたい。」
とおどけた後、真剣な表情となった。
「京で遊んで、それからあの男にも会う。あの男には会わねばならん。」
「その男に会ってどうなさるので」
「𠮟り飛ばしてやるのよ。下らんハカリゴトはいい加減にしろとな。刀が打てるからといって、武士の心が分かってたまるものか。」
「刀を打つ、刀匠なのですか」重蔵は誰とわかっているが、わざととぼけている。
実朝は笑った。
「いずれ話してやる。とにかく太郎泰時の時代を招きいれるのが、この実朝の大仕事よ。その為に京に行く」
重蔵はそれ以上はきかない。
「金はあるぞ。ついてくるか重蔵。京の酒はうまいらしいぞ。」
「むろんのこと、地獄の果てまで」
「地獄とは、いちいち暗いのだよ、お前は。それに俺は極楽に行くつもりだ。12歳の年から苦労してきた。お釈迦様は見てくれているさ。地獄では俺に会えないぞ」
「ではこの重蔵も極楽に参りまする」
「そうか。いけるさ。人は殺すが民のためだ。それにお前には悪人の、罪人の自覚がある。自分を善人だと思っているやつらさえ極楽に行けるのだ。いわんや悪人が行けないことがあろうか」
あとは自分に言い聞かせるような一人語りになった。
「親父の頼朝には悪人の自覚があったのだろうか。父上は地獄に行ったのか。極楽か。義時は自分の罪が分かっている。叔父上は極楽に行くだろう。そうでなくてはならん。」
重蔵は黙って実朝の傍に控え、口を挟まない。

実朝は公暁が去った大銀杏を悲しげに眺めた。

すると「この泰時を少し買いかぶってはおらんか。それに親父は地獄行きだよ。その覚悟がなければ、鎌倉の執権などできぬ。」と雑色の一人が立ち上がった。
「おお太郎泰時か。俺が殺されるのを黙ってみていたのだな。冷たい男だ」
「俺が刀を抜くこともあるまい。公暁にはもう戦う力はなかった」
「公暁にはかわいそうなこととなった。事前に捕まえてやっても良かった。しかし俺は死ななくてはならなかった。それ以外、この鎌倉を離れる術はないからな」
「西国行きか。親父はだいぶ反対したようだな」
「ああ、西国に行くと言ったら義時は無責任だと怒り狂っていたよ。母上には頭をはたかれた。しかしこれでいい。鎌倉に源氏の棟梁はいらない」
「しかし、この太郎泰時。さほどの器であろうか。真面目なだけの男だ」
「子供の頃からマツリゴトの本ばかり読んでいた。民を本気で救いたいと思っている。俺にはそこまでの情熱はない。義時もいつの間にか初心を忘れたと言っていた」
「父上が」
「ああそうさ。叔父上も若い頃は民を救いたかったらしい。正しいことをしたかったらしい。それが気が付いたら修羅道を歩み、抜け出せなくなっていた、と言っていたよ」
泰時は黙った。
「俺に言わせれば、義時はよくやった。鎌倉には今でも秩序がない。今は覇道政治をなすしかない。王道政治はまだ無理だ。それに和田を討ってからは、評定も開いて御家人たちの意見にもよく耳を傾けている」
実朝の一人語りは続く。
「西はまかせろ。朝廷はおれたちが黙らせる。使ってもいない内裏を建てるために、民を餓死させるような真似はさせない。」
「朝廷は、おれたちと同じく田畑と民に支えられて生きている。本来は同じ船に乗っているのにな。争っている場合ではない。」と泰時がつぶやく。
「それを分からせてやるのさ。本当の意味で、朝廷と鎌倉は協力していく。それが民を救う道だ。そのためには、かのお方には退いていただくほかない。」
「撫民」
「そう、撫民。おれたち武士にとっても、それが良いことなのだと、地頭たちにも分からせねばならん。朝廷ばかりを悪党だと言うわけにもいかんだろう。鎌倉だって朝廷に劣らぬほどの悪党だ。次の執権、北条泰時、やることは山ほどあるぞ」
「千幡、お前が鎌倉に残ってそれをやったらどうだ」
「源氏の棟梁だから無理だ。坂東武者にとっては永久によそものだからな。まあ実際、できねえんだよ。人には得手不得手があるのだ。おれは趣味人だ。趣味が多い。お前は趣味もなんにもないつまらない男だ。だからマツリゴトに向いている。」
「千幡、てめー、結構人を傷つける男だな」
と実朝を見ると、実朝は泣いている。なぜ泣いているのか分からない。そして、
「太郎よ、聖君になってくれ」とつぶやいた。
泰時は無言でうなづいた。

つづく。

秋篠宮邸のリフォームと礼の思想

2022-11-23 | 権門体制論
このブログは、「露骨に政治的なこと」は書かないし、他にブログもやっていないので、政治的意見の表明は「面倒なので避けている」わけです。ただ私は歴史学者と同じように、「後鳥羽上皇」を基本「後鳥羽」と書きます。「冷静な分析の対象」として「実朝」「後鳥羽」であるべきだと思っているのです。信長は信長です。「信長公」とは書きません。信長は多少好きですが、それでも分析の対象であることには変わりありません。実際、熱烈なファンでもありません。信長関係の本をよく読むというだけです。

「秋篠宮」は「秋篠宮さま」と書くべきなんでしょうか。よく分かりません。「宮」は敬称でしょうか。これは「辞書的問題」ではなく、「今の日本人が秋篠宮の宮を敬称ととらえるか」ということです。本当は秋篠宮さんと書きたいのです。「宮さん」という言葉は、時代劇によく出てきます。でも「秋篠宮さん」では「馬鹿にしている」と怒る人もいそうなので、「秋篠宮」と書きます。あーめんどくさい。

ちなみに「天皇」は明確な敬称なので、「昭和天皇」「現上皇」「今上天皇」です。

本音を書くと、30億のリフォーム代は実はどうでもいい。「警護のための仕組み」が必要ですから、それぐらいかかるでしょう。

私にとって不可解なのは「一体、日本人は天皇や皇族を敬っているのか、いないのか」です。これ「本音を言う人」めったにいません。ヤフコメの「暗黙のルール」では、天皇の悪口は言わない。天皇一家の悪口は言わない。その代わり秋篠宮一家のの悪口はクソみそに言っても構わない、ようです。秋篠宮という尊厳ある個人に対し、実に「失礼」だと思います。悪口言ってもいいのは、政治家だけ、または政治的影響力を持つインフルエンサー(TVコメンテーターとか、学者とか)だけ、が個人的感覚です。秋篠宮は政治的発言は「できない」ので、私は悪口は言いません。そもそも彼の孤高感が好きです。

私の現天皇、皇族観としては、「天皇は象徴として憲法に規定されているから、その規定通りに扱うべきだ」というところでしょうか。人間に貴賤なし、と結構本気で思っているので、貴賤は考えません。人間は基本的にみんな敬うべきだから、人としての天皇、皇族を、他のすべての人間と同じように敬うということです。

生臭い問題はこれぐらいにします。

歴史学者の桃崎有一郎さんが「天皇の敵は社会の敵となる。平清盛や木曽義仲はそれに気が付かなった。源頼朝は気が付いていたので、社交的辞令を散りばめながら、上手にふるまった」というようなことを書いていて、それが気になっているのです。

そこで私は「北条泰時の野望」という「小説みたいな駄文」で、「後鳥羽上皇をうまくあしらう、社交辞令ができる源実朝」を描いてみました。「頼朝と同じように、本音を隠して、うまく上皇を懐柔できるか」を考えてみたかったのです。

桃崎さんは「皇国史観の徒」じゃないですよ。京都学の教授です。たまにTVに出ます。「天皇みんないい人である神話を解体せずに京都の明日はない」と書いていますが、TVでは「天皇陛下さま」と言いそうな勢いで、敬称を使います。「天皇の敵は社会の敵」なので、炎上に気を付けているようです(笑)。著作では後鳥羽も後醍醐も「ぼろくそ」です。

桃崎さんの文章はちょっと「過激に過ぎる」ところがありますし、独断も甚だしいのですが、「礼思想の専門家」であるので、「読まずにはいられない」のです。

朝廷は「儒教の礼の思想に基づいて設計され、礼の思想に基づいて運営されてきた」、これ私にとっては目からウロコです。いろんなことが「すんなりわかる」のです。

人々が飢えて死んでいるのに何もしない後白河法皇を見ると、「なんで何もしないのだ」と腹が立ちます。しかし「やってる」のです。「儀礼と儀礼のための内裏の修築」をやっているのです。「和歌の会」だって開いているのです。人々を救うには儀礼を高め、天皇の徳を高め、徳治を徹底する。そして文章経国の思想に基づいて「和歌、もしくは漢文の隆盛」をはかり、言葉の力で天を動かし、そして人を救うのです。

そのためにはお金が必要ですから、税をとります。ただでさえ飢饉なのですから、人々はばたばた死んでいきますが、儀礼と文章経国の(宴会)の方が大事なので、やっぱり税金が必要なわけです。そして飢饉で人が死にます。

北条泰時が「立ち向かった」のはこういう「異常な現実」です。それを「撫民」と今日ではいいます。私が北条や鎌倉幕府を高く評価するのは、この「礼思想の悪害と戦う姿勢があったからだ」と、実は最近になって認識しています。前から好きだったのですが、好きな理由がよく分からなかったのです。なんとなく「泰時が民を救ったから」というだけでした。しかし朝廷が儒教の礼の思想に基づいて動いている、とわかると、いろんな疑問が解けていきました。思えば、悪左府頼長も、信西も、みんな「儒教の学者」です。

もっとも私の中ではまだ「仮説」です。礼の思想をそんなに学んだわけでもなく、消化しきれていないからです。「秋篠宮のリフォーム」は実はどうでもいいのですが、彼らが「あまり必要もない儀式を毎日やって疲れている」のは確かでしょう。私なぞ結婚式だって疲れるのでなるべく行きません。儀礼、大嫌いです。諸事、儀礼的空間は疲れます。秋篠宮さん、お疲れ様です。

「それでも実朝の右大臣昇進は官打ちである」説

2022-11-23 | 鎌倉殿の13人
身にそぐわない出世をした人間が、その為に不幸になる「状態」を「官打ち」という。

と辞書にありました。「状態をいう」ということは「実朝が死んだという状態」が「官打ち」なわけです。後鳥羽院が「殺してやろう」と思っていなくても、実際死んでしまえば「官打ち」「位打ち」なのです。まずこれが「日本語の字義にこだわった場合」、そうなるということです。しかし「辞書の説明は絶対」なわけはないので、誰かが誰かを「陥れるために位を上げること」とするなら、話は変わってきます。

承久記は「実朝の死は後鳥羽院による官打ち」であるとしています。後鳥羽院が実朝の不幸の為に、官打ちをしたのか。これを肯定する学者はほぼいません。なぜならオカルトめいた迷信だからです。
しかしそれでもずっと「官打ちじゃないのかな、官打ちは合理的説明になるな」と日本人は思ってきました。

日常でも出世した人間が「仕事の重圧に耐え切れず」、過労死したりうつになったするのは「よくあること」です。社長に「官打ち」をしようという意図はないでしょうが、「重要な位置につかせて自覚をうながそう」ぐらいの社長はいると思います。「出世したくない」という人もいます。私自身、仕事で「役職について」、健康を害したことがあるので、気持ちは分かります。

つまり「官打ち」「位打ち」(出世して重圧を背負って不幸になる状態)は「よくあること」であり、「合理的説明も明瞭につき」、別にオカルトでも迷信でもないのです。「打ち」が人間の意図を感じさせるので違和感があるだけで、「出世不幸」とでもすれば、すんなり理解できる考え方です。

しかし「誰かが目的をもって行うのが官打ちである」という方の定義を採用した場合は、「後鳥羽と実朝の関係」が問題となります。

最近は官打ちではないが通説である、というような叙述の場合、これは簡単に言えば「多数決の結果はそう」ということです。「通説」とは「今支持が多い説」です。

佐藤進一さんという中世史の偉人がいて、官打ちは別に主張してないでしょうが(調べてません)、「公武の対立と協力」を主張しました。どっちかというと「対立」に重きを置きました。
親王将軍問題については、幕府が公武融和の名のもとで、実は東西の分裂を狙っていることを「後鳥羽は鋭く看破した」と書いています。つまり「対立基調でとらえる」のです。

公武対立という立場からすると「官打ち」は「迷信であるが、やっていてもおかしくない」となり、公武協調という立場をとれば「やっていない」となります。
多数決の問題に過ぎません。今多数派は「やっていない」派です。蛇足ですが、佐藤進一さんの岩波文庫「日本の中世国家」、これは「しびれ」ます。美しい日本語です。非常に論理的であるのに、まるで「文学のよう」に私の言語中枢を刺激します。「知性とはこういうものか」と思ったりします。といって書かれている内容が全て正確か、はまた別問題です。

佐藤進一さんは「マルクス主義者ではないが、戦後の知識人としてマルクスの階級闘争の理論に影響を受けていた。だからだめだ。ソビエトが崩壊したんだから、階級闘争なんてないのだ、マルクス史観なんて終わっているのだ」てな感じで、マルクス史観憎しの一点から、否定的に捉える人が多くいます。特に「佐藤さんは東大なので京都大学系」や「40代以下の若手」はそういう傾向があります。大先生なのになー、否定だけじゃもったいない。全くマルクス主義者じゃないし。

佐藤さんの「孫弟子」である本郷和人さんは、それは違うという意図からなのか「京都大学系の古い先生ってマルクス主義者が多いのですよね」とか、チクリと皮肉を書いています。
「権門体制論の教祖である黒田俊雄さんは京大出身で大阪大学名誉教授の、バリバリのマルクス主義者じゃないか」とは言いません。さすがに露骨な学閥闘争をする気はない、のだと思います。黒田さんは象徴天皇制にすら牙をむくほどの「戦士」です。1973年の文章ですが、当時の世相も分かって、実に興味深い。権門体制論提唱の「意図」も明白に分かります。

さて私、本郷さんは少数派なので、結構好きです。本の内容はだいたい同じです。この間は「俺の先生の石井進が、中世には国家はなかったでしょの一言否定で権門体制論を放置したから、いけないのだ」とか書いてました。なんとか本郷さんに頑張ってほしい。権門体制論をこの半年ずっと読んでいる私としては、権門体制論の「あら」がよく見えてきましたので、そう願うばかりです。実際は本郷さんにそんな気はないから、東の40代の学者ですね。桃崎さんなども否定派ですから頑張ってほしい。ただ黒田俊雄さんの著作は読み物としては実に面白い。あれは歴史書というより思想書です。これまた私の言語中枢を刺激します。知識もあふれんばかりで、やっぱり大先生、巨匠でしょう。

とにかくアメリカのレッド・パージじゃあるまいし、マルクスに近いか遠いかでものを論じるとは、「児戯に等しい」と私は怒りを覚えます。そんなの学問ではない。いい加減にしろ、ってとこです。
私自身は「マルクス的進歩的知識人」に影響は受けたものの、マルクスなんて共産党宣言ぐらいしか読んだことがない。しかも日本語です。

「マルクス史観」は一度冷静に考えるべき問題ですね。「闘争」や「対立」が現実にあって、それが歴史を動かすのは歴然としています。ただし「階級闘争」でない場合が多い。武士も公家も「支配者という意味では同じ階級」です。でも階級闘争も全くないわけじゃない。。そして同じ経済的階層間の闘争もある。「資本家と労働者の区別」は今ははっきりしない。でも「貧乏人と富裕層、格差」は歴然としてあります。「闘争と協調」「対立と調和」が歴史を動かす以上、「マルクス史観だからダメ」という非論理的態度は捨て、何がダメなのか、どこを継承するべきか。「政治的立場にとらわれず」とかいう「ごたく」を言っている暇があったら、どうやっても政治性を帯びるのが言語の宿命なのだから、政治的中立という自分の立場に疑義を向け、真剣に考えるべきだと思います。ただしマルクスの名でものを語るのは個人的にはやめてほしい。「マルクスはこう書いている」とか。あれ、はもううんざりです。ちなみに黒田さんは一切そういう「マルクス引用」はしません。

今は「政治性がない感じにソフトに改変した権門体制論」が主流なので、「官打ちはない」とされていますが、それこそ歴史学は弁証法的に展開して「あーいえばこういう」ですから、「ない」が主流となれば「若手はあったとやがて主張する」ことになるはずです。20年後はどうなっているか分かりません。

20年後じゃなくても「あまりに公武協調を主張しすぎることは偏見」「権門体制論史観にとらわれてはならない、原理的思考に陥る」という態度も、すでに若い研究者の「研究の最前線」とかいう本を読むと出てきています。人間が二人よれば対立だって生じるわけで、「対立は基本的にない」なんて「調和した世界」が中世に(現代にも)存在するわけないのです。黒田さんのオリジナル権門体制論は、対立がないなどと全く言っていません。「あまりに対立がクローズアップされている。それはおかしい。公家と武家は一つの「機構」を通じて人民を支配したではないか。つまり対立しながらも相互に補完することも多かったのである。全支配階級の支配機構の総体を考えないといけない」と主張します。支配階級という点では公家も武家も同じということか。ちょっと何言ってるか分からない、のは、私の引用の仕方が粗雑だからです。読めば分かります。いや、私はまだちょっとわかっていない点もあります。でも世の中私より優れた読解力を持った方は多いでしょうし、難しい文章ですが、読めば(たぶん)分かります。「中世の国家と天皇」という比較的短い文章です。この文章が所収されている原著「日本中世の国家と宗教」は入手しにくいですが、岩波講座のどれかに転載されているので、そっちは図書館にあります。たぶん。

「実朝の右大臣昇進は官打ちじゃないかも知れないが(どっちでもいいが)、後鳥羽と実朝、後鳥羽と幕府に対立がない、なんてありえない。組織と組織の間には対立があって当然というか自然,
相互補完とは対立も包括する概念で、協調のことではない。また対立を競合と言い換えるのは姑息である」が私の立場です。

北条義時ファンの私は非暴力主義者

2022-11-23 | 鎌倉殿の13人
「主義」とか「イデオロギー」というのは怖いものなので、なるべく持たないようにしていますが、非暴力だけはどうも「私の主義」のようです。

そもそも子供のころから、暴力が嫌いでしたし、人に振るった記憶がありません。「ブス」とかは言いました。自分が不細工であることに気づきもせず、女子に言いました。そういう言葉の暴力は、あると思いますが、人を殴ったことは人生で一度もありません。

兄貴は私より多少暴力的です。兄貴は私をよくいじめましたので、私の母は優しい人でしたが、小学校入学以前は「兄貴の頭をはたく」ぐらいはしたようです。つくづく教育に暴力は必要ないと思います。暴力で教育すると、だいたい子供も暴力的になってしまう。虐待と同じで、連鎖するのです。まあ兄の暴力も私が中学生になる頃にはだいぶ収まりました。殴りはしません。押さえつけて「参ったと言え」というのが兄の暴力の定番でした。

高校教師を10年ほどしたことがありますが、体罰をしたことは一度もありません。それが周りの先生方に「威圧」を与えていたようです。暴力的な教師は私を避けるか、疎ましく扱うことが多かったと思います。後輩の教師から「この学校の男性教師で体罰をしないのは貴方だけだ」と言われたこともあります。それが平成10年頃です。今、状況は多少改善したでしょうか。もう教育に関わっていないので、分かりません。

「体罰を振るわない」ためには、実は修行が必要です。私の場合、大学時代にガンジーを多少研究したり、体罰問題を考えたりしていたので、「体罰はだめだ」という「絶対の確信」がありました。しかし他の先生は、そういう修行をしないまま、ただ教員免許だけとって教師になるということが多かったようです。

「体罰はダメだ」を一番言っていたのは、体育科教育学の教師です。体育教師も捨てたもんじゃないと思いました。「競争スポーツは一部のエリートのものであり、そのエリートすら過度なトレーニングにより身体に障害を負うことが多い。体育の基本は楽しく健康、レクリエーションだ」とも教授は言いました。こりゃ立派な人だ、と感心しました。

ということで「北条義時ファン」であっても「人に暴力を振るうことはありませんし、まして殺人なんか一ミリも肯定しません」。大河は物語です。「物語と日常の現実」、「物語と史実」は違います。

鎌倉殿の13人・公暁くんは何がしたかったのだろう。

2022-11-21 | 鎌倉殿の13人
一応の区別として「公暁くん」「平六くん」「義時くん」は大河の物語の登場人物。「公暁」「平六」「義時」は歴史上の人物ということで書きます。途中で混交してしまったらすみません。

「公暁くん」(ドラマの)、を見て改めて思ったのですが、「何がしたいのか」が分からない。それは歴上の公暁も同じである。「実朝を討って、御家人に北条の犯罪を明かし、実朝に正統性が存在しないことを説けば、御家人は納得する」と「公暁くん」は言う。「平六くん」も「いい考えだ」とか言う。

そんなわけないじゃん。

誰が自分たちの棟梁を殺されて「ははー」と従うのだろう。北条義時が同時に死んだとすると、それをきっかけに御家人の主導権争い、また源氏系の「鎌倉殿の地位争奪戦」が起きるだけである。「三浦」が私たちが今日思っている以上に御家人への統制力を持っていたとすれば別だが、ドラマではそうはなっていない。また史実でもそこまでの力があった証拠はない。

そもそも「三浦」は公暁の「黒幕ではない」というのが学者の一般的見解である。

学者は「単独犯行」と言う言葉が好きである。本能寺の変も、今の通説は「明智光秀の単独犯行」である。へたに「黒幕」とか言い出すと、学者としての「品格」が問われるせいもあろうが、「黒幕は証明できないから黒幕」なのだから、学者が「黒幕は〇〇だ」に賛同するはずない。私は学者ではないので、黒幕探しをしてもいいのだが、あまり興味はない。

「公暁」(史実の)に関しては「実朝を殺しても鎌倉殿になれるわけない」と私は考えており、その観点からは黒幕に興味はない。しかし「実朝が死んで誰が得をするか」は「歴史的分析」としては面白い。黒幕は「いない」だろうが、「黒幕探し」そのものには「知的営為」としての意味はないわけではない。

話を戻して、公暁の犯行については「合理的説明」は無理であろう。鎌倉殿になりたくて殺した、は際立って無理である。「恨みをもっていたから殺した」なら成り立つ。「恨みで殺した」は一応「合理的説明」にも見えるが、「恨み」そのものは「非合理」である。

「頼家の霊が憑依して実朝を殺した」に比べれば多少合理的というだけである。

「中世人の考えていることは現代人には分からない」とよく学者は言うが、その学者は現代人である。私も現代人なので、そりゃ分からない。中世人に会ったことはない。会ったことがある現代人の気持ちだってほぼ分からない。それほどに人間は非合理な側面がある。

だから「公暁」「公暁くん」の気持ちは分からない。分かるのはそれが「現代人」である私からみて極めて「非合理」で「説明できない行動」であることだ。

鎌倉殿になりたいなら少なくとも「自分の手を汚す」べきではない。他者にやらせるべきである。「親の仇なら殺しも許される」なんてことはない。それは曽我兄弟の件でもはっきりしている。だが「実朝さえ殺せば、あとはどうでもいい」のなら自分の手で「うっぷん」を晴らすことになる。

では何が「うっぷん」だったのか。

実朝はどう考えても「親の仇」ではない。頼家が死んだとき、わずか12歳である。公暁は「親の仇はかく討つぞ」と叫ぶが、親の仇とは言い難い。
公暁と実朝の間に、記録には残っていない何かがあったのかも知れない。「実朝ぜってー俺の手で殺してやる」と考える強烈なパワハラとか何か。
しかしそれを証明することはできない。また「殺すこと」が今よりずっと「軽い行為」であったことも犯行を後押ししたかもしれない。しかし御家人クラスは上級者だからめったに殺されない。まして実朝をや、である。

「人間のすべての動機は説明できない」とまで不可知論を展開する気はない。特に「欲望によって殺した」というのなら、ある程度理解はできる。理解というのはもちろん共感ではない。

「金が欲しくて殺した」「恐喝されたので殺した」とかいう「自分の利益のため」ならある程度、理解はできる。繰り返すが共感でも肯定でもない。人を殺してはいけない。

だが公暁、公暁くんの行為は説明できない。間違っても「鎌倉殿」にはなれない。

とすると「ある強烈な恨みがあった」「鎌倉殿になれると何故か思い込んでいた」ということになる。私は「説明できない行為だ」というためにこれを書いている。

つまり私の動機は「公暁に関する学者の説をどんなに読んでも納得できないという、うっぷん」である。

例えば、ある実朝の専門家がいる。彼自身は多少粗忽なところがあって(テレビで拝見する限り)、愛すべき人である。パワハラ系の威張り癖のある学者、学閥を組んで徒党を組む学者、その親玉と追随者のような「品格のなさ」はない。サービス精神がある愛すべき人である。本郷和人さんとか細川重男さんの系統である。

氏は言う。中世国家は権門体制であった。公と武は互いに協調関係にあった。(少しは競合もしていた)。公武協調の象徴が「実朝と後鳥羽」であった。実朝は公武協調を進めるべく、親王を鎌倉殿に迎えようとした。ここに至って公暁の鎌倉殿継承の夢は完全に途絶えた。そこで犯行に及んだ。

だから「犯行」に及んでも「鎌倉殿になれないでしょ」と言いたい。今までの公武対立史観に代わって、公武協調を説明したいあまり、公暁の行為については分析が粗雑である。
「公武協調史観」(私は懐疑的だが)の立場ならより「そう」である。右大臣である実朝を殺して、後鳥羽の近臣でも源仲章まで殺している。それでも公暁が「鎌倉殿になれる」と幻想を抱いていたなら、西に住んでいたにもかかわらず、公暁は「公武協調」という時代の空気を全く吸っていなかったことになる。本当に公武協調の時代なら、そんなことはありえないことだ。公暁が幻想でも「なれる」と勘違いすることはありえない。
それとも公暁については公武協調史観の「例外」だとでもいうのだろうか。それはご都合主義すぎるであろう。

公暁には朝廷の意向など眼中になかった。征夷大将軍になる必要もないし、征夷大将軍は鎌倉殿の必要条件ではなかった。公暁は御家人の支持さえあれば鎌倉殿になれた。しかしその御家人の支持を得られると勘違いしたことが、公暁の間違いであった。もっともこれは鎌倉殿になりたいと公暁が思っていた場合の話で、私はそんな勘違いするわけないと思っている。つまり彼は「うっぷん晴らしたかった」だけである。そう考えないと説明がつかない。

実態としては幕府は朝廷がなんと言おうと、自分の意思を貫くことができたのである。頼朝がそうだったではないか。そもそも「反乱軍」である。幕府という用語は一般的ではなかったが、「陣中にいる」という意味である。常時戦場、それが字義からみた「幕府」の意味で、坂東武者はそういう精神的雰囲気の中で生きていた。「戦場においては朝廷の意向は無視していい」、それが幕府の出発点で、その後頼朝の路線変更があって、頼朝自身は朝廷と政治的妥協を図ったが、御家人がそれを強く支持することはなかった。

幕府は、ただ礼儀として一応朝廷に「うかがい」をたてて「朝廷の顔を立ててあげた」だけである。現代の歴史家の一部は、そういう幕府の社交辞令を、「朝廷の権威はまだまだ強い」とか勘違いしているのである。さらに言えば「勘違いしたい」のである。朝廷の権威は強かったと思いたい、のである。「京武者がいた」という幻想(願望)と同じ構造である。

黒田俊雄のオリジナル権門体制論は「対立と相互補完」は協調するが、「相互補完原理主義」ではない。「相互補完などというために構築した理論でない」という趣旨のことも書いている。権門体制論は「オリジナルじゃなくてはいけない」道理はないが、現代の権門体制論は黒田の論理をあまりに矮小化し、黒田が提起した「天皇制のメカニズムの明確化」という問題を避けている。あまりに単純化され、稚拙と言ってもいい「便利な説明法に過ぎないもの」に堕している。

公暁くん、公暁の行為は説明できない。またそれを「現代の権門体制論」や「公武協調説」の流布のために行うのは、間違っている。要するに私の「うっぷん」はそこにあるらしい。


「鎌倉殿の13人」と「公武協調または公武対立史観」・そして権門体制論

2022-11-18 | 鎌倉殿の13人
「鎌倉殿の13人」のオープニング映像。最後は兵馬俑の像のような「武士」が「貴族に挑んでいる、刀を抜こうとしている」シーンで終わります。

明らかに昔ながらの「公武対立史観」を採用しています。「昔ながら」に批判の意識はありません。私は基本的に公武対立史観を支持しているからです。

源実朝は「上皇」と強く協力していこうとしますが、北条義時も三浦義村も「表面上は上皇を敬いながらも」、何度も「西のやつら」の「好きにされてたまるか」という言葉を口にしています。
そもそも北条義時の兄である北条宗時の「遺志」が「源氏も平家のいらない。西のやつらに指示されたくない。俺たちの坂東を作る。そこで北条が頂上に立つ、というもので、その遺志を北条義時は「継いで」いるのです。もっとも三谷さんは「王家の犬になりたくない」とか登場人物に言わせません。上皇をユーモラスに描くことで、政治問題化する危険を回避しています。

これが三谷さんの「史観」だとは思いません。大河は物語です。物語は「対立があったほうが面白い」場合が多いのです。「みんな仲良し」だったり、「上皇が出てきてははーとなって、すべてが丸く収まる」ようでは「時代劇は」成立しません。大河では「戦国もの」と「幕末もの」が好まれますが、それはまさにその時代が「対立の時代」だからでしょう。三谷さんは「物語作家として対立構造の方が面白い」と考えたことは確かです。がそれ以上は分かりません。年代的には「公武対立史観」で育ちましたからより「親しみを持っている」のは確かでしょう。さらにリメイクの元作品である「草燃える」は明確に公武対立です。最後に北条義時はこう言うのです・

「これは謀反ではない。ムホンというなら、上皇こそ謀反を起こされたのだ。謀反者は上皇なのだ」

私は若く「天皇、上皇のムホン」という概念を知りませんでした。しかし歴史を勉強してみると「帝ごムホン」と言う言葉は存在します。特に後醍醐関連ではしばしば登場するようです。
幼い私はこのセリフに驚いたのですが、同時に「興味深い」とも考えました。

「草燃える」が放送された1970年代後半を「革命の時代」みたいに思っている方がいますが、全く違います。日本では高度成長が1960年ごろ始まり、70年代後半には頂点に達します。それから徐々に「低成長」の時代にはいります。バブルというのは「あだ花」です。高度成長で多くの日本人が「浮かれている」のに、「その社会を根本的に壊そう」なんて勢力が広く支持されるわけはありません。自民党は今よりずっと支持されていましたし、共産党は今よりずっと嫌われていました。共産党支持と言っただけで「TV界から追放された大物司会者」もいたのです。

少しも「革命の時代」ではありません。ただし「反権力的な考え」は今より強かった。また知識人の多くがマルクス主義に親和感を持っていました。ただし大学では既に「マルクス経済学」は主流ではなく、「近代経済学」が主流でした。

要するに革命的なものに「多少のあこがれ」を持っていたのは「知識人」であり、それも「資本主義を改善するため必要」と考えただけであり、「革命を起こそう」なんて言っている人間は、極めて少数というか、私自身は東京に住んでいましたが、見たこともありません。

「公武対立史観」は確かに「マルクス史観の影響」を受けていますが、知識人、庶民含めて「基本的にはマルクスなんて原著を読めないし、理解していたわけでもない」ので、「古いマルクス史観の残滓」などという指摘も違います。史学者がきちんと分かっていたかも怪しいもので、せいぜい階級闘争史観を「便利なツール」として使った程度でしょう。

若い(40代ぐらいの)研究者や「西の研究者」が、「公武対立史観は間違いだ。あれはマルクス主義史観の古い残滓だ。公武は協調していたのだ」と叫びたくなる気持ちは理解できます。
しかし「その声があまりに大きすぎて」、なんだが「引いてしまうな」というが実感です。「大いなる間違い」だと思います。20年もたてば大きく修正されるでしょう。「一過性の流行」に過ぎないからです。

あらゆる場面において「公武」が「協調していきましょう」と思って行動していたとは到底思えない。実際は「対立もあったし」「協調もあったし」「妥協もあった」わけです。そういう「具体的な現実を」、公武協調史観という「原理」によって「言葉遊びのように塗り替える」のは、知性的態度とは思えません。

たとえばこういう極論をいう西の学者がいます。

「承久の乱こそ公武協調の現れだ。幕府は結局朝廷を尊重し温存した。いや朝廷の在り方を正常にし、朝廷を盛り立てるために承久の乱を起こしたのだ」

ここまでくると失礼ながら「頭がどうかしてしまったのだ」というよりありません。

公武対立が「あらゆる場面で当てはまる」ことはないですからそれも「原理としてはいけない」わけですが、「協調」も原理にしてはならないのです。「対立や協力していた」というだけです。「対立」という言葉を使うのが「生理的にいや」らしくて「競合」という人もいます。どうしても「対立」というワードを抹殺したいようです。

公武協調史観のモト原理は黒田俊雄氏の「権門体制論」です。黒田氏は学者にしては「珍しく」、生粋のマルクス主義者で政治的発言も「反権力的」なものが多い。そもそも「権門体制論」自体が、極めて反権力的な原理です。それはつまり「天皇制を支えている権力とは何か。貴族ばかりを見てはいけない。武士も支配者だし、寺社も支配者だ」と訴えているのです。

ところがそれを「読み変えてしまう」わけです。日本は天皇を中心に貴族、武家、寺社が相互補完しながら運営してきた、と。そして権門体制論については「まともな批判をしないまま、便利なツールとして利用」することになります。

こういう「おめでたい」読み替えを誰がしたのか。具体的な学者名を挙げることもできますが、別に「喧嘩するつもり」はないので、挙げません。ただ「もうちょっと冷静に考え、原理的思考を捨ててほしい」と思うのみです。

私は個人的に「権門体制論の検討」をしていますが、日本には「権門体制論」と名のついた本はほぼ皆無です。せいぜい数冊です。しかも「読み替え権門体制論」であることがほとんど。ちなみに権門体制論に批判的な本郷和人さんは時に触れて言及しますが、彼が言及しているのは「読み替えられた権門体制論」であって、黒田氏のオリジナルではありません。

ただ中には「まともな批判」をする学者もいるにはいるのです。ただ非常に少ない。

公武協調史観のモト理論は権門体制論です。しかしその権門体制論をまともに検討している学者は少ない。検討なきまま、便利なツールとしてのみ流布して、多くの学者が「乗っかって」いる。

これは憂慮すべき現状でありましょう。