歴史とドラマをめぐる冒険

大河ドラマ・歴史小説・歴史の本などを中心に、色々書きます。
ただの歴史ファンです。

「鎌倉殿の13人」・第4回「矢のゆくえ」・感想

2022-01-30 | 鎌倉殿の13人
・面白かった。
・当時の兵数がいかに「少ない」かをよく表現していた。史書に出てくる数字は10倍ほど嘘をついているらしい。2万とあれば2千。
・女性が歴史を動かす。女性主人公大河はどうやら終了のようだが、女性は大活躍である。素晴らしい。
・法皇が「俺だよ」と言っていた。
・山木は実は流人である。平氏であるが、親父に流された。目代というのは結構な権力者。流人がそういう位置についている。不思議な時代である。もと検非違使らしい。
・八重さんと同じことをする女性は、「草燃える」では松坂慶子さんで、大庭の娘設定だった。むろん義時の思い人である。まあ完全に同じ設定である。リスペクト。

ここからは「難しい、まあ、さして難しくはないが」という話になります。「武士とは何か」とかそういう話です。興味のない方はここで読むのをやめてください。(できれば読んでください)

今、歴史学者の多くが否定しようとしているのは「武士とは土地を開発した領主が武装した者たちであり、新しい時代を築いたヒーローである」という考え方です。「武士は京都で生まれた」という人もいます。なにより「武士は支配階級じゃないか」ということです。「民から税金を徴発する」という点で、公家と何が違うのか。同じではないかというわけです。

京都好きの学者さんは「何が腐敗した貴族を倒して、新しい時代を開いただ!野蛮な支配者じゃないか!民の味方なんかしてないぞ。」と激おこぷんぷん、です。本当に激オコなんです。かなりマジです。

「支配者じゃないか」は正しいと思います。だから今日ドラマに出てきたような「民との平和な関係はあったのか」と思いました。で、今わたしは土地制度、荘園とか国衙(こくが)と言った問題を勉強中です。

小四郎は今日「平家に坂東は支配されている。飢饉がきたら民が死ぬ」と言ってましたが、平家が支配してなくても飢饉がくれば民が死にます。この後、京都には大飢饉がきて、人口10万のうちの5万が死んだと考えられています。当時の京都とはそんな都市です。

武士とはの話はここで終わりです。

さらに京都好きの学者さんたちは「頼朝は法皇の命令で蜂起した」とか「その後も法皇と色々相談した」と言います。後者は事実ですが、前者は根拠ないと思います。当時の歴史書「愚管抄」は全くの同時代に書かれ、はっきりと法皇の関与はないとしています。とにかく京に結び付けたがる。「なんでもかんでも京都だなー、そうはいかないだろう」と私などは思います。

昨日読んだ本のなかに「なんでも京都の権威という学者がいたら、偽物と思ってください。読者の知識が深まってきて、おかしいなと思う人が増えれば、歴史学者はいまのようなふざけた態度を捨て、まじめに現実を見るはずです」と「京都学の専門家」の教授さんが書いていました。やっぱり分かっている学者さんは多くいるようです。以上です。

書評・呉座勇一氏「頼朝と義時ー武家政権の誕生」

2022-01-29 | 権門体制論
呉座勇一氏「頼朝と義時ー武家政権の誕生」

数年前に呉座氏の本は4冊ほど読んだ。逆に言えば4年ほど前に4冊読んだだけで、読み返しはしていない。「陰謀否定論」は二回読んだかも知れない。最新刊「頼朝と義時ー武家政権の誕生」は二度ほど読んだが、まだ熟読というほどは読みこなせていない。しかしこの先読み返すか分からないので、記憶のあるうちに書評を書いてみる。なお私は呉座氏のことはほとんど知らない。「騒動」は知っているが、触れる気もない。今回読んでみたのは「13人」関連であるし、「どんな歴史家か」確かめてみたいという気持ちもあったためである。

1,思考のベースには「権門体制論仮説」の「武家」「公家」「寺家」の相互補完仮説があるように読める。ただし「見える」だけでおそらく批判的である。「武家政権」の成立を明確に認めている。公武対立史観は明確に否定しているが、「公武政権」とは書かない。したがって権門体制論のキーワードである「相互補完」という言葉は、たぶん一回も使用していない。「王家」は使用しているが、権門体制論的王家かは分からない。東国独立論は淡々と否定しているように見えるが、裏読みは可能かも知れない。

2,そうした理論的仮説よりも、「通説」(その時の多数派説)を重視し、肯定する傾向が強い。「定説」は否定したりしなかったりする。佐藤進一さんが源流となった「定説=古典的学説」には基本的に反対する。「通俗説」には基本反対だが、たまに取り入れる。一次史料は重視するが、原理主義的に重視はしていない。「通説」「自説」の補強となるならば、軍記物も肯定する。ただし「平家物語史観」は否定している。だから義経に対して厳しい。

4、頼朝の敵は平家でもあったが、同時に敵は有力源氏であることを「強調」している。頼朝は源氏の棟梁ではなく、したがって「源氏の棟梁となる」ことが悲願であり、そのためには平家と共存しても仕方ないと考えていたとしている。頼朝を「現実的でしたたかな政治家」として評価している。義経の壇ノ浦での勝利は頼朝にとって誤算である。東国武士中心の軍団である範頼軍が勝つことが重要であった。さらに三種の神器を手にいれて「朝廷と有利に交渉する」ことが目的であったとしている。西国武士中心の義経軍の勝利は頼朝にとって好ましくない。三種の神器のうちの「剣」を失ったことは、朝廷との有利な交渉カードを失ったことであり、むろん好ましくない、としている。

4,鎌倉幕府は基本朝廷との共存姿勢を持っていたとする。(呉座氏の論調からすれば、現実的にみてその方が有利だから共存したということか)。幕府自体は御家人の利益団体だから、あくまで幕府の利益を優先する。幕府は朝廷の権威の庇護を必要としていたが、摂家将軍(やがて親王将軍)を迎えたことによりその必要はなくなった。もはや「譲歩」の必要はなくなり、「武家優先の公武体制」が構築されたとしている。承久の乱は「革命ではなく」、荘園制も院政も残った。ただし現実としては幕府が圧倒的に有利であり、それは「武家政治」と呼べるものとしている。

5,「武家政治」は幕府にとっては困った問題でもあった。「朝廷の上に立った」(形式上は朝廷が上)ことによって、幕府は公儀的責任を帯び、東国武士の利益のみを考えているわけにはいかなくなった。幕府は変革を迫られた。具体的には「撫民政治」「公家、寺社、西国武士等との利害調整」を行う必要がでてきた。そうした中で「武家政治」は成熟していった、としている。つまり「武家政権」の成立を明確に認めている。(何を当たり前な、、、とはならない。ここは注目すべき点だと思う。)

感想
本を読んで全面賛成することなどありえないので、「そうかな?」と思う部分は多々ありました。しかしそれが「本を読む」ということなので、別に批判してるわけじゃありません。むしろ多くの「論点」を提供していただいてありがたいと思うほどです。落ち着いた書きぶりで、これなら呉座氏の説を批判しても「落ち着いた論議ができるかも」と思いました。あっ、論議するのは私ではなく、学者さんですよ。
野口実さん、元木泰雄さんの説を遡上に挙げることが「突出して」多いように感じました。「批判的引用」「肯定的引用」、半々ぐらいでしょうか。結構批判もしています。ちなみに北条氏家格高かった説は、明確に否定しています。

歴史家が記述をする時「定説である」「通説である」「俗説である」「通説であるが疑わしい」などという言葉が頻出します。呉座さんの本を読むのは久しぶりですが、ネットでコラムなどを読んだ時、「今の通説である」と書く傾向が強いことが気になっていました。「通説」とは「定説ではないが今の多数派の説、将来定説になる可能性がある説」です。ただ可能性であって、定説にならない通説(一時の流行)も多くあります。それは十分ご理解しているはずなのに、「通説である」をちょっと強く言いすぎではないかと思っていたのです。その傾向はこの本でも感じました。しかし「通説らしきもの」を強く批判している文章もあり、そういう私の誤解は修正しないといけないかも知れません。

後鳥羽蜂起の際の「大内裏焼失事件」に言及していて、ここは面白いと思いました。というのも桃崎有一郎さんという通説(多数派説)批判をする傾向が強い武蔵野大学の教授さんがいて、この焼失事件に関していろいろと興味深い説を展開しているからです。明らかに意識していると思いますが、参考文献にはありませんでした。桃崎説への評価も聞いてみたいと思います。以上です。

「権門体制論」「東国国家論」を学ぶ①・「王家」と「天皇」

2022-01-25 | 権門体制論
「武家と公家は対立せず相互補完」していた。現代の学者さんがよく使われる言葉ですが、これは昭和38年に黒田敏雄氏によって提唱された「権門体制論」を基にしています。支配階層=権門の「相互補完と対立」は権門体制論のキーワードです。私は「権門体制論」も「東国国家論」も学ぶべき偉大な概念だと思います。どっちを支持するという問題ではないと考えています。権門体制論はさまざまに解釈されていますが、ここでは黒田氏の「オリジナル権門体制論」のみを「権門体制論」と呼びます。

今回は「王家」と「天皇」の「オリジナル権門体制論」における位置づけを考えます。資料は黒田敏雄氏の「中世の国家と天皇」1963年、「中世天皇制の基本的性格」1977年です。

黒田氏によれば

1,権門とは権門体制期(院政から応仁の乱までの時期)における支配層であり、「私的領地である荘園に権力の源をもつ私的な組織」である。具体的には有力な公家、武家、寺家、王家である。この4つは対立と補完をしながら権門支配体制を構成する。王家は大きく捉えるなら公家権門に属する。従って権門とは公家、武家、寺家の3つである。

2,王家は治天の君、院宮、親王家、内親王家等の複合体である。王家は私的な組織である。したがって「権門」である。天皇のみが公的存在である。

(解説)
権門が荘園領主(私的領地の権利者)であり、従って権門の権力は「本質的に私的権力」だというのが黒田氏の考えと読み取れます。ここは極めて重要です。「王家」は正確には「権門体制論の考えに基づく王家」です。一般に使われる王家とは違います。史料に登場する「王家」とも違います。近代天皇制の「天皇家」「皇室」とも違います。

3,天皇は3つの側面を持つ。それは「権門」「国王」「帝王」である。権門としての天皇は私的存在と言っていい。公的権力の行使者として天皇を考える場合「国王」「帝王」となる。国王と帝王は同一人物の二つの側面。「公的権力者としての側面」「権威者としての側面」を指す。天皇は「制度上の代表者」であり、「国家権力と国政の実際上の掌握者」を意味しない。実際上の掌握者は権門である。

解説
「国王」「帝王」も権門体制論特有の意味で使われています。正確には「権門体制論の考えに基づく国王、帝王」です。ただし国王については、一般的意味に近い。つまり古今東西の国王のほとんどが「実際上の掌握者とはいえない」と黒田氏は考えています。

4,中世国家はその「国家的性格」が捉えにくい。権門体制論では権門体制が成立していた院政から応仁の乱までの、権門が支配した領域とそのシステムを「中世国家」と考える。

解説
中世に国家があったのかという認識は黒田氏も持っています。ただそれでは「中世国家」の解明ができない。そこで黒田氏は権門が支配する領域とシステムを中世国家としたのです。従って「中世国家」とは正確には「権門体制論の考えに基づく中世国家」です。

5,天皇は「中世の天皇」であって「古代の天皇」「近世の天皇」とは区別して考える必要がある。

6,天皇は私的権力である権門に、公的権威を与える。しかし権門はそれによって公的存在とはならない。権門は私的権力を公的に行使する。

7,権門体制は一様ではない。院政期に生まれ、室町期に衰弱していった。最終的には応仁の乱をもって権門体制は終わる。

8、私的権力である権門にとって、天皇は自らに公的な権威を与える存在である。従って、権門は天皇を支えた。公家は政治力で支えた。寺家は宗教的権威を与え帝王化した。武家は武力で支えた。それでも天皇自体に実質的な権力があったわけではない。公家権門の頂点である「治天の君」は意に添わぬ天皇を他の皇族に変えることができた。しかしこれは「治天の君」がただ一人の最高権力者であったことを意味しない。「治天の君」の権力は、寺家権力、そして武家権力によって掣肘されていたからである。


9,天皇は天皇である時は、国家権力と国政の実際上の掌握者ではない。制度に拘束される不自由で無力とも言える存在である。天皇を退位し、治天の君になれば公家権門の頂点に立つ。上皇となれば権門となる。

解説
武家は鎌倉期以降は政治力でも支えたと考えていいかも知れません。「6」の「私的権力を公的に行使」は私の用語です。「8」の治天の君に対する記述も私の解釈です。
黒田氏の言う「私的」「公的」の読み取りが難しいのは、黒田氏も言うように公私混交していたからです。しかしあえて黒田氏はそれを分けました。その意図を理解することが権門体制論を理解する「要」だと思われます。以上は「オリジナル権門体制論」の考え方であり、現代の学者が理解する権門体制論とは違う可能性があります。

蛇足
権門体制論につき以下のような説明があります。

「武家・公家・寺家の類似性に着目し、それら諸権門によって構成される秩序を天皇が総括するシステムを中世の支配体制と捉えた」

これは多少訂正が必要です。オリジナル権門体制論の考えによって訂正すると

「武家・公家・寺家の荘園領主(私的支配層)としての類似性に着目し、それら諸権門によって構成される支配(政治的・武力的・宗教的支配)を天皇が公的に代表するシステムを中世の支配体制と捉えた」

さらに蛇足

オリジナル権門体制論の考えで説明すれば、白河上皇は公家権門の頂点でした。多くの私的領地を寄進され(現代の研究によれば自ら荘園を構築し)広大な荘園をもち、それが白河院の私的権力の源でした。武家はまだ権門ではありません。寺家権門は存在します。権門の中では、白河院は最有力でしたが、寺家権門は公家権門とは「対立・相互補完」する存在でした。だから「山法師、比叡山はだけは手に負えぬ」と言ったのです。比叡山は寺家権門です。寺家権門は天皇を宗教的に権威づける存在です。白河院は元天皇です。自己の権威が寺家権門によって支えられていることを白河院は悟っていたのでしょう。

やがて武家権門が台頭し、平清盛がその頂点に立ちます。清盛登場後、「後白河院」にとっては寺家・武家の二つが「対立・相互補完」する対象となります。

中世を説明するとき「オリジナル権門体制論の用語」がいかに「便利」で「有能」か。驚くほどです。便利すぎるため、その思想的政治的性格を嫌う人間もツールとしては利用します。しかしどうしても「予定調和的権門体制論」になる傾向があります、オリジナルの権門体制論は、階級闘争は強調しませんが、権門間の闘争(支配層の権力闘争)は重視します。あの混乱と戦闘の時代である中世を「予定調和的権門体制論」では語れないと私は考えて、「オリジナルの権門体制論」を学んでいます。なお再び強調しますが、私は東国国家論も権門体制論も二つとも「学ぶべき偉大な論理」だと思います。

本日は以上です。

日本で10番目にわかりやすい「権門体制論」の説明

2022-01-23 | 権門体制論
権門体制論の提唱者は黒田俊雄さんで京都大学出身、大阪大学教授です。提唱した年は1963年。昭和38年です。40歳ぐらいでした。終戦時に22歳だった方です。戦前に教育を受けました。黒田氏の思想を知るために重要なので以下だけは、ウィキペディアからコピーします。

黒田氏は、戦後の良心的歴史学者の天皇制解明の重点は、天皇の神性の否定や、社会構成史の観点からの天皇権力の断絶の説明であったとし、しかしそれだけでは彼等(天皇)の詐術を断ち切ることはできないと主張。そして「歴史上の天皇は、ときに生身の実権者であり、ときに権力編成の頂点であり、ときに精神的呪縛の装置であった。」とし、この三つの諸側面を適宜入れ替え組み合わせてきたことが、天皇制を操作してきた権力の真実であり、現代でも詐術師たちは、自分ではこれを使い分けながら、あえて混同させて人々を欺いていると日本共産党の機関紙『赤旗』にて主張した。(コピー終わり)

えっ、そういう思想を持った人が、一見すると「天皇が日本の中心だった」ともとれる「権門体制論」を主張したのかと驚く方もいると思います。私が黒田氏を知ろうと思ったきっかけも、「なぜ」という驚きでした。ただし上記の説明は一部間違っています。が、難しくなるのでそれは述べません。

なお私は歴史学のド素人で、これはあくまで黒田氏の1963年の「日本中世の国家と宗教」という「論文のまとめ+多少の私の意見」に過ぎないものです。実際はこの論文を読んでご確認ください。さらにこの論文が正しいか否かは「歴史学者」以外に判定することは不可能ですが、私たち素人が、自らの限界を知りつつ意見を持つこと。それは自由だし大切だと思います。

権門とは「中世の有力な、公家・寺社・武家」です。権門の力の源は「荘園」です。荘園を持っていないと権門ではありません。したがって荘園制の終わりと共に日本には権門はいなくなります。
徳川家康は権門より強大な力を持っていましたが、すでに荘園制がほぼオワコン(衰弱)なので、権門ではなく、権力者、支配者です。ここは厳密に区別しないとならないと私は思います。ここを混同して織田信長にまで「あてはめて」叙述する歴史学者が「一部」いるので「わけがわからなく」なるのです。権門体制は黒田氏の考えでは院政期、12世紀にはじまり、荘園制の「衰退」で終わります。黒田氏の考えでは、終わりは「応仁の乱終了時」です。荘園はまだ残っていましたが、衰退し、もはや権門の力の源になることはできなかったのです。権門は喧嘩したり協調したりしながら、政治、宗教、武力という自分たちの得意分野を駆使して「相互補完」(おぎないあい)しながら権力を行使しました。現在の歴史学者が極めてよく使う「相互補完」という言葉は「権門体制論」の用語です。「相互補完」したのは、黒田氏の考えでは、3つの権門は不得意分野があり、他の権門を完全に滅ぼすわけにはいかず、実際それほどの力も1つの権門だけでは持てなかったからです。こっから私見ですが、彼らは別に「権門体制を作ろう!」とか思って行動したわけではないので、滅ぼせるなら滅ぼしたい(黒田氏も専断することは不可能とした上で、専断したいという気持ちを持つ可能性自体は否定していないように読めます)わけですが、できないわけです。「相互補完していた」のではなく、「相互補完するしかなかった」のです。

天皇や院政を行った上皇は、荘園領主(権利者)ですから「権門」です。公家権門です。ただし天皇は、ここがすごーく難しいのですが、現実的な力を持っていないことによって、権門たちの「調整役」を担っていました。「表看板」「かつがれた神輿」「権威ある審判」、どう表現しても説明できません。もっとも黒田氏の考えに近いのは「無力で透明な公として私的集団である権門に公の御旗をさずける存在、しかし実際に彼らが公になるわけではない」「そして利害の調整役、ただし調整は権門が調整しろと申請することによってのみ可能となる」です。よく「権門の頂点」と説明されますが、違います。それでは天皇が現実的な力を持っていたと誤解されてしまう。たしかに「頂点」という言葉を使っているのですが、違うのです。天皇は形式的存在で無力。それを黒田氏はくどいほど強調しています。「頂点」という言葉だけを切り取ってしまうと、黒田氏の認識は到底理解不可能となります。

あえて単純化すると「現在の日本」を考えればわかるかも知れません。「現実的な力がないから権威が持てて、権力者を公認できる」のです。天皇の「みかけの力」の源泉は権門でした。実際に政治を動かしていたのは上皇、摂関家、幕府などの権門ですが、「自分たちの命令は天皇の意思である」という形で命令しました。幕府の場合は天皇の代理人である将軍の意思であると説明しました。いや、天皇が実際の力を持ったこともあるではないか、という質問には、今の私の力では回答できません。黒田氏は「中世にはない、それはみかけの力だ」と考えたと思います。ただし天皇も荘園を持っていましたから、私人としては権門です。一権門の力程度は持っていたと書いてあるように読めます。天皇は「王家」から輩出されて「公的存在」となります。しかし、王家は公的存在ではない。武家も寺社も公家も公的存在ではない。公家から摂政が出ても、摂政は摂政であろうと公的存在ではない。その本質は権門で、摂政をやめても権門です。私的権力は保ち続けます。権門は私的組織。摂政や将軍になろうと実質はあくまで私的な権門である。この多少込み入った論理を読み取れないと、この論文を理解することは不可能です。そして私自身も、半分ぐらいしか理解できていないのです。

ああ、あまりに「説明不足」です。この天皇の位置についてさえ「わかりやすく」説明することは今はできません。もっと勉強します。

権門は律令制の外の公的ではない、私的な集団です。(黒田氏は私的な組織と書いています)荘園という(公認されたと見せかけている)私有地の領主です。黒田氏の考えでは公家もそうです。上皇もそうです。しかし権力を行使して政治を行う場合には「公的な性格」を持っているかのように思わせなくてはなりません。そう思わせるが「天皇のお墨付き」なのです。ただし天皇は権門の意見に逆らうことはできません。できますが、そうすると天皇を別の皇族に変えられてしまいます。平清盛のこと?と言われそうですが、おもに上皇のことです。摂関家も天皇を変える力を有したことがあります。「愚管抄」でも慈円は「変えた」と書いています。寺社はちょっと特別なので、ここでは説明しません。寺社の力の説明こそ、黒田氏の真骨頂で、とても長く、解読できていません。

今日はここまです。やはりまだ十分に「わかりやすく正確に」説明することはできません。「権威」「荘園」の使い方もこれじゃあだめ。もっと勉強します。

大河ドラマ「どうする織田信長!」が製作される可能性・「天下静謐」とは何か。

2022-01-21 | 織田信長
「鎌倉殿の13人」、どうやらすでに「どうする義時」じゃないかという声が出ています。義時はやがて「天下をとったような」感じになりますが、それは最初から狙っていたわけでなく、自分と自分の家族や仲間、誇りを守ろうと、その時々で判断していたら、「いつのまにか天下をとったような感じ」になってしまった。こうなる可能性が大です。

そして次の大河は「どうする家康」です。家康は信長が生きている時代、三河、遠江を支配する「信長配下の大名」でした。すでに対等ではなかったのです。武田滅亡後、駿河をもらいますが、それでも信長の支配領土とは格段の差があります。「天下を狙っている」とはどうしても思えない。本能寺の後、秀吉と対立します。この段階の家康の意識は分かりません。やったことは旧武田領土の奪い合いです。しかし結局は秀吉に臣従します。北条が滅んだ後、江戸に移される。自由に領土を移せる、これが天下人の大きな条件で、この時、秀吉は絶対的な力を誇示しました。家康は秀吉が「日本統一」にまい進し、それを実現した姿を見て、「こんなことが可能なんだ」「だったら僕にもできるかも知れない」と考えたかも知れません。

だから「どうする家康」は大河として成立可能です。最初から天下統一を狙っていたわけではないからです。

一方織田信長はどうでしょう。これがいかにも「分からない」のです。最近は「最初は全く日本統一など狙っていなかった。領土が拡大するにつれ、欲が出てきた」という説がよく言われますが、学説は変化しますから、まだ固まったわけではありません。

信長は日本統一など狙っていなかった説を、史料批判に基づいて唱えるのが東大の金子拓さんです。「もし狙ったとしても、四国攻め、つまり本能寺の変段階じゃないか」ということです。金子さんは「奇説を持ち出して注目をひこう」という方ではなく、その研究態度は堅実そのものです。金子説では「信長は天下静謐を考えていた」「天下である畿内と美濃、尾張ぐらいが静謐な状態ならいい」と考えていた。ところが周りの大名が信長を恐れ、火の粉が降りかかってきた。防衛と「静謐」の為に戦っていたら、いつの間にか領土が拡大していった。そこで本能寺の年ぐらいに初めて「あれ、日本統一可能かな」と考えた、となります。

なお「天下静謐」を「天皇の平和」などと読み替える人がいますが、それは誤読でしょう。金子説では「天下静謐」はもっと大きな理念で、「天皇・朝廷さえもその理念の下にいる」となるのです。これは相論における寺社に対する天皇の判断について「定見を欠く」と抗議して修正させていること。さらにこの時代の朝廷や天皇の判断が基本的に定見を欠き、自分たちの都合によって判断し「しかもそれをおかしいとも思っていなかった」とする金子さんの「資料に基づく認識」のゆえです。「天下静謐に反するとすれば天皇とて容赦しなかった」というように説明なさっています。おそらく天皇個人を容赦しないという意味で、システムとしての天皇制を容赦しないという意味ではないと思います。

以下は私の平凡極まる意見ですが、信長は「天下静謐」にしろ「天下布武」にせよ、なにか目的は設定していたと思います。その目的を達成するために「朝廷」「天皇」は必要だと考えた。例えば幕府構想を持っていたと仮定しても、「権威、正統性付与の機関」として「天皇」は必要だった。だから残す必要を感じていたと思います。しかし信長の最終目標について歴史学の定説はありません。

さて、この金子説を採用するなら、大河「どうする信長」は可能となります。信長だって「その時その時で判断した。結果領土が天下人並みになってしまった」というわけです。そしてNHKは、最近この金子説を「推して」います。いままでさんざん魔王にしてきたのに(笑)

私は「どうする信長」作成を期待しています。なぜって金子説が「検証される」ことになるからです。実は私は色々疑問はあるのです。歴史学者さんに検証してもらいたい説の第一が金子説です。最後になりますが、私は金子氏の仕事に対し、大きなリスペクトを感じています。

「承久の乱」をゆっくりと考えてみる。北条政子の演説と大江広元の野望。「鎌倉殿の13人関連」

2022-01-13 | 鎌倉殿の13人
承久の乱における幕府の勝利、1221年をもって「鎌倉幕府の真の成立」とする。なかなかに魅力的な考えです。まあ「鎌倉幕府の成立」は、「こう考えるとこの年になる」というだけで、「正解を求める必要はない」命題でしょう。ただし、これは歴史学者さんが「説」を出すのを無駄だと言っているわけではありません。むしろ「何年と考えるか」によって、その人の史観や歴史の見方がはっきりするので、「静かに論争して」ほしいなと思います。今は1185年と教科書にあります。これは「諸国に守護、地頭を設置することを朝廷が認めた年」ですが、さっそく「そんなこと認めていない」「いや守護そのものがこの年にはいなかった」等の意見が出てきています。「静かに論争」するなら、どんどんやってほしいものです。

さて、承久の乱では有名な政子の演説が存在します。実際は御簾の内にいて代読とか吾妻鏡には書いてあります。でもドラマでは演説してくれないと絵になりません。
こんな感じですね。

最後の言葉だと思って聞いてください。御家人の皆さん。右大将軍頼朝が、幕府を開いていて以来、官位も俸禄もみーんな頼朝様のおかげでもらえたでしょ。その恩は山よりも高く、海よりも深いわよね。ところがね、京の後鳥羽院がね、三浦胤義とか藤原秀康にそそのかされて、とんでもない命令をくだしたの。名を惜しむ人はね、胤義たちを討ち取って、三代の将軍の遺業を全うしてね。もし京都に付きたいというのなら、ここで言ってね。

歴史学者さんの「一部は」いいます。「義時追討と後鳥羽は言っているが、幕府を倒せとは言っていない。政子は巧妙に後鳥羽が討幕を狙っているという風に読み替えをしている」と。

つまり討幕じゃない。あくまで義時追討だということですね。私はそうかなー、結局は幕府の解体になる、それは討幕だと思います。もちろん学者さんがほぼ共通していうように「武士の根絶を考えているわきゃない」わけで、要は後鳥羽上皇にとっては「武家がコントロール下」に入ればいいわけです。でも北条に代わって「上皇のお気に入り」が幕府の実権を握っても、また御家人抗争が始まるだけでしょう。それに「鎌倉」に幕府を置くとも思えない。上皇の武家機関は京に置こうとするでしょう。とりあえず鎌倉幕府は一旦解散、つまりは討幕状態です。(と素人の私は考えます。倒幕だと考える学者さんも結構いると思います。)ちなみに幕府側の意識は今の段階では私にはよく分かりません。幕府は「朝の大将軍」として、日本と朝廷の守護者を自負してきました。「朝廷を守る。その為に後鳥羽上皇を討つ」、この論理なのかも知れませんが、浅学にして今は分かりません。ゆっくり考えてみたいと思っています。

倒幕か。うーん。そもそも幕府という言葉が政権を指さない。倒幕なんて「文字」はたぶんない。だから後醍醐だって「幕府を倒せ」なんて言ってないそうです。あくまで「北条高時一派を排除せよ」。でも結局倒幕になってしまいます。(足利尊氏は自分が倒幕をしていると本当に気が付いていなかった。北条排除だと思っていたという説もあります)

話戻して、北条政子の凄いところはこっからあとです。義時たちは箱根あたりで迎え撃とうかと考えます。しかし大江広元一人が「それじゃあ、士気が緩んで負けますよ。すぐにでも京に向かいましょう」と主張するわけです。すげーな。大江広元。そして「大将軍である泰時殿一人でも出撃するのです」と言います。
やがて朝廷と幕府が戦いとなることは予想していた。その時「朝廷と戦え」というために、自分は鎌倉に来たのだと言いそうな感じです。(吾妻鏡では、そこまで言ってはいませんが)

二つの案がでたので、この二つの案を政子に持っていく。政子が最終決定権をもっていると吾妻鑑は記します。そして政子は言います。

「(馬鹿じゃないの)、京に行かないと、朝廷軍を破ることなんかできないじゃないの」(上洛せずんば、さらに官軍をやぶりがたからんか)

その通りです。もし本当にこれを政子が言ったなら、大江広元と示し合わせてのことかも知れません。さらに追討される本人である義時も、表面上は多少謹んで、迎撃戦に傾いたふりしてますが、政子にこれを言わせたかったのかも知れません。

政子や大江広元は全く朝廷や上皇や、上皇の恨み(怨霊)を恐れていないように私には読めるのですが、いかがでしょうか。

「当時の人は朝廷や上皇(やその怨霊)をこの上なく恐れていた」と「タイムスリップして鎌倉時代に行ってきたようなこと」をいう人がいます。あくまで方法的懐疑ですが、「本当かなー」と思います。本音が文字に残されることは少ないですからね。それに「頼朝時代からさんざん朝廷と渡り合ってきて、頼朝追討の宣旨なんか、鎌倉が勝ったらあっという間になかったことになっている」わけです。1180年から1221年の30年間は、武士の朝廷に対する意識を変えるには十分な時間です。「あれ、怖くないじゃん」と思う人間が出現しても、不自然ではないでしょう。

「当時の人はこうだった」と聞くと、「そうなのか、鎌倉時代に行ったのか。もしかして中世の人なの?」という疑問が、どうしても心に湧いてきてなりません(笑)。批判ではありません。どんな専門家のお言葉でも、納得できないものは納得しない。ただそれだけの話です。もちろんほぼすべての学者さんが「恐れていた」と言うのですから、この勝負は私の完敗です。でも完敗でも、自分で考えてみたいと思っています。「政子も広元も全く恐れていないじゃん」と最後に小声で言っておきます(笑)

「鎌倉殿の13人」・新垣結衣さん演じる「八重姫」の運命

2022-01-08 | 鎌倉殿の13人
ネタばれの「可能性」があります。NHKが発行する「あらすじ紹介ブック」は読んでいませんが、時代考証を担当する坂井孝一さんの「鎌倉殿と執権北条氏、義時はいかに朝廷を乗り越えたか」を読んで書いているからです。ネタバレする可能性が高いということになります。

さて、新垣結衣さん演じる「伊東八重」は伊東祐親(すけちか)という平氏側の有力武士の「娘」です。八重さんは源頼朝の「最初の妻」で、子供も産みます。しかしそれを知って怒った伊東祐親は、生まれた子供を殺し、源頼朝とも敵対関係に入ります。八重さんは北条義時と似た名前をもつ「江間次郎」または「江間小四郎」のもとに嫁にいかされます。

「悲劇の人」らしいのですが、どうもそうでもないらしいのですね。なぜなら「北条義時の初恋の人」とも書いてあるからです。

ちょっと歴史に興味があって、ネット検索をよくする人間ならここで「あれ、おかしいな」となるはずです。なぜなら「北条義時の母は伊東祐親の長女」だからです。すると「伊東祐親の三女」である八重さんは「実のおばさん」です。年齢は近くても、血のつながった叔母さんです。「初恋の人」とはおかしな話です。もちろん「当時はありえた」(叔姪婚、しゅくてつこん)でもいいのですが、現代語で話しているし、全体に現代的ですから「見ている側」はいかにも気持ち悪い。「近親婚」は「当時はあった」としても、一応大河では描かない「お約束」があります。

この矛盾を回避するためには、①「北条義時は伊東祐親の娘の子ではない」とするか②「八重さんは伊東祐親の実子ではなく養女」とするしかありません。①は動かしがたい感じなので、容易なのは②です。

さて、八重さん。頼朝と引き離され、江間さんと結婚します。が、この江間さんも比較的早くに死んだようです。八重さんの運命は史実的には分かりません。

で、時代考証の坂井さんがどういう「大胆な仮説」を立てているかというと、八重さんは三浦に預けられ、その後、義時の最初の妻になったというものです。推論の上に推論という感じは否めないんですけどね。

最初の妻は公式的には「姫の前」で、義時は30歳ぐらいで初婚を迎えます。当時としては相当晩婚みたいです。その前に妻相当の八重がいて、その人が「北条泰時を生んだ」と坂井さんは仮説を立てています。

つまり全く詳細が分からない「泰時の母である阿波局」が八重ということです。ガッキーを起用して「早々に離婚で退場」ではおかしいので、私も前から「もっと長く出演するだろう」と予想していたのですが、「八重は義時の実の叔母さん」問題があって、「阿波局だ」とまで予想できなかったのです。叔母さんに憧れるの(初恋)はいいが、子供作ってはまずいでしょと思ったからです。伊東祐親の実子ではないとして「回避」するのでしょうか。いや義時の母の方の「伊東祐親の長女」を伊東祐親の実子ではないとするのか。そっちの方が簡単かも知れません。

前々からあれほど高名な「北条泰時」の母親が誰だかよく分からないのはおかしいなと思っていました。まあ史学的には今でも「誰だかよくわからない」わけですが、坂井さんは「八重だ」という考えを「仮説」として書いています。

ただし泰時を生んだ後の「その後」は「死んだ」とされています。死んだので「姫の前」と義時は「再婚?」したということです。

あれ死んでしまうのか。いやそれでは新垣結衣ファンが許さないのではないか。すると「死んだと思ったけど京都で生きていた。記憶をなくしていた」などの設定が考えられます。これ三谷さんは「真田丸」において「真田信繁の姉の設定」として採用しています。

ちなみに「八重に相当する人物」は43年前の大河「草燃える」にも登場します。北条義時の初恋の人です。「大庭景親」の娘、「茜」で、松坂慶子さんが演じました。やはり「泰時を生む」のだろう。あの赤ん坊は泰時なんだろうと思います。でも妊娠すると同時に、義時のもとを去り、京で平家の女房となります。なんで去るかというと、頼朝に夜這いされたから、です。泰時は頼朝の子という設定なのかも知れません。義時の子か頼朝の子か、わからない感じにドラマではなっています。とにかく京で生き、そして壇ノ浦で平氏と運命を共にします。さらに書けば、それでは松坂慶子さんの出番がなくなるということで、後に「そっくりな顔をした女性」として登場し、悪人となった北条義時の前に現れ、、、、という感じになります。妖艶な女性として再登場します。純情娘も妖艶な美女もできる点が松坂さんの強みでした。ガッキーも「そっくりな女性」として再登場するかも知れません。妖艶かどうかは分かりません。

史実的には「八重姫は本当にいたのかさえ分からない」人です。頼朝の流人時代のことは「頼朝説話」と言われます。作り話が非常に多いらしい。

三谷さんは「意外と史実の縛りを意識している」人なんで、他の人物はそれなりに史実風にふるまうでしょうが、「八重は比較的自由な駒」として利用できます。「泰時を生む」、、ここまでは確定的だと思います。その後は普通に考えれば病気で死にます。でもなぜか生きていた、、、そして年末になっても登場する。私は別にガッキーの熱烈なファンではありませんが、そう予想しておきます。

「鎌倉殿の13人」・北条義時の「復権」はありえるか。

2022-01-03 | 鎌倉殿の13人
北条義時、「鎌倉殿の13人」の主人公。鎌倉幕府の二代目執権で「北条執権」制を主導した人です。北条政子は姉です。源頼朝の「側近筆頭」で、どうやら「江間」という姓だったようです。承久の乱では「後鳥羽上皇」と戦い勝利します。そして上皇を3人も島流しにしています。上皇が3人もいたのです。

「やってることは織田信長より凄い」のですが、「知名度は低く」、人気もありません。江戸期から不人気でした。「源氏の将軍を断絶させた悪いやつ」(徳川は最初は藤原氏だったが、最終的には源氏)、源氏将軍を圧迫したということで評判が悪かった。当然「物語」も作られないし、登場しても悪役です。明治期以後も「天皇家を圧迫した」ということで「悪人扱い」です。後醍醐天皇を圧迫した足利尊氏は「極悪人扱い」でしたが、「極悪人」だと知名度だけは高くなります。北条義時は「悪人」だったので、知名度も上がりません。一方織田信長はあまり朝廷を相手にせず(朝廷は弱かったので)、京都御所の修理などをしたので、戦前は尊王の人として評判は悪くありませんでした。徳川家康の協力者だったから、江戸時代も悪くなかったと思います。

皇国史観から見て「極悪人」の足利尊氏や「悪人」の北条義時は物語の主人公になりません。すると国民は彼らの物語に接する機会がなくなります。この状態は皇国史観が否定された「今も続いて」います。

「物語の集積」がないので読者に予備知識がなく、さらに義時に至っては知名度も低いから、皇国史観の悪弊がなくなった(正確には薄れた)戦後になっても「小説」になりにくいわけです。司馬遼太郎さんも小説化していません。「義経」には登場しますが、わきです。そもそも源頼朝は「悪人側」です。

ただ永井路子さんが姉の北条政子を熱心に小説化したので、その小説には登場します。大河では永井路子さん原作の「草燃える」(北条政子主人公)に登場します。北条義時が「主人公格」で登場したのは「草燃える」だけです。それが43年も前のこと。

三谷幸喜さんは「新選組」や「真田信繁」と言った知名度も高く、人気がある素材を使って大河を二作書いてきました。今度は「成功者だけど不人気、知名度が低い」人物が主人公です。そして「源頼朝」「源義経」といった知名度の高い人は、物語の前半で亡くなり、「北条政子」だけが残ります。

私は北条義時が好きです。「草燃える」の義時は、最後は本当に悪いやつになりますが、「悪には悪の魅力がある」のです。悪漢小説というジャンルすらあるほどです。

でも「鎌倉殿の13人」では悪に徹するということはないようです。さて北条義時の復権はあるのでしょうか。興味を持って見ていきたいと思っています。

「鎌倉殿の13人」・北条義時は過去に一度だけ主人公並みになっている。

2022-01-03 | 鎌倉殿の13人
1979年(43年前)の大河「草燃える」の主人公は、源頼朝と北条政子です。頼朝は途中で亡くなるので、後半は政子が主人公なのですが、この政子、さほど政治的ではありません。色々な歴史的事件(頼家殺害、実朝暗殺)については「政子は知らなかった」とされます。となると政子の名で幕府を動かしていた北条義時が「実質上の主人公」になっていきます。松平健さんが演じました。

1979年、私はまだ子供で、見てはいましたし、非常に強い関心を持ったのも覚えているのですが、内容をはっきりと理解したわけではなかったと思います。その後総集編がDVDになって、「なるほどこういう作品だったのか」と気が付きました。一言でいうと、単純ですが「素晴らしい作品」です。大河の中でも筆頭格の作品だと個人的には思います。

言葉遣いがとても平易です。現代語に近い。当時はそれで多少批判されたようです。でも「分かりやすい」わけです。さらに現代語を話すことによって、感情が豊かに表現できているとも感じます。最後の最後に北条政子はこう思います。「一生懸命やってきて、幕府も安定したけれど、気が付くと、夫もいない、子供も死んだ。孫もみんな死んだ。私は一人だ」(正確ではありません)。そして政子の「むなしげな顔のアップ」で「完」となります。平曲が流れています。「諸行無常」を平家だけでなく、頂点を極めた北条政子にも当てはめているのです。

ただなんといっても絶妙なのは「北条義時の変化」です。登場時はまさに「好青年の典型」なのです。虫も殺せないような男です。優しいし、賢くもある。松坂慶子さん演じる「初恋の人」をひたすら慕う純粋な男でもあります。それが最後は権力の権化となります。そしてこういう認識を語ります。

「おれは今になって、俺の兄貴が考えていたことが分かってきた。源氏の旗揚げ、あれは源氏の旗揚げではなかった。俺たち坂東武者の旗揚げだったのだ。あくまで源氏は借り物。となれば、俺たち坂東の武者の中で、一番強い者が権力を握る。それは当然のことなのだ。俺はよくやっている。十郎、誉めてくれないか」

この「十郎」というのは源氏に恨みをもつ伊東家の侍で、第四の主人公と言える人物です。若い頃は荒んでいて、平氏について敗れ、とうとう強盗でも殺人でも強姦でもなんでもありの悪となります。が、北条義時の変化とクロスするように更生していき、最後は平曲を語る琵琶法師となります。

話を戻すと、子供の私が一番衝撃を受けたのが「源氏の旗揚げではない」というセリフでした。「鎌倉幕府を作ったのは源氏でも、源頼朝でもなく、坂東の武者たちである」、こう考えると、源氏将軍がすぐに死に絶えても、鎌倉幕府が存続した理由が、合理的に説明できるような気がしました。「歴史の解釈」というものに生まれて初めて興味をもったわけです。

現在、歴史家の中には「歴史は解釈不要であり、偶然の集積である」という人もいます。でもそれじゃあ「つまらないし、学ぶ気にもなれないな」というのが素人である私の感想です。「歴史の解釈」は面白いし、必要だと私は思います。同時に「私の解釈は絶対的に正しい」と思わないことも、また必要だと思います。