1,本郷氏の本当の偉大さは、こういう文章を書いても怒らないだろうことである。
他の「生きている歴史学者」だと、そうはいきません。本人が許しても、お弟子さんたちが許しません。介護のために早期リタイアして、そもそも非史学科で、2年半前から学者の本を趣味で読み始めた僕みたいな人間が、「論」とか言いだしたら嘲笑されます。または単純に怒られます。
でもそうすると、コミュニケーションは遮断されてしまうわけです。私は教育学をやってきて、コミュニケーションが教育の基盤であることは明確だと思っているわけです。そういう「教師論」を勉強した人間からすると、一番いけないのが「教祖のように構えている学者」というか簡単に言うと「とっつきにくいやつ」なんですね。対話が成立しない。「黙っておれの言うことを聞いていればいい」というタイプ。これは教師としては失格です。学者としては分かりません。とにかく教師論の立場からすると、「対話になる」という点で本郷氏は実に偉いな、と考えます。
2,先生は間違ったほうがいい時もある
中学ぐらいになると、先生の説明がおかしいと思うことがあるのですね。で私が指摘すると、譲らない。で、色々調べて「どうだ」と見せると、やっと「うーん」って考える。その間私は猛勉強するわけです。つまり先生は間違っていいのです。実際、私は本郷さんの本を多く読んでますが、「本当かな」と思うことが時々あるわけです。これは本郷さんだけでなく、すべての学者の説がそうです。一応全部疑ってます。で、ほとんどは私の誤解です。
で調べてみるとこうです。この「自分で調べ考える」という時間が本当の勉強の時間です。で、こう思う。「厳密に言うと間違いである可能性は少し残るが、本質的部分だけ考えるなら、本郷さんの説明は間違っていない。学術論文じゃないのだから、分かりやすさ優先でかまわない」となります。分かりやすい言葉で書けるならそうすべきです。私のような素人は、重箱の隅をつつくような「細かい史実に関する」学術議論をいきなりふっかけられても困ります。本郷さんは言ってます。「恐ろしいほど日本史に興味がない学生が多い。竜馬が何をしたかも知らないし、興味もない。そういう学生へ、歴史の面白さを伝えたい。細かな議論は学者が専門誌でしていればいい」と。
これは蛇足ですが、そもそも私の関心は次に述べる国家論に向いているので、「細かい学術論争」はあまり興味が持てない。歴史学者じゃないし、歴史学者になりたいとも思わない。歴史学における国家論が主要な興味です。数学論にも宇宙論にも興味がある。歴史は興味分野の一つに過ぎません。
3,権門体制論と東国国家論を考える機会を与える
私、そこそこ黒田俊雄氏を読んでいて、素人にしては権門体制論に詳しいのです。その勉強のきっかけが本郷さんです。偉大ですよね。
で本郷さんはこう言うわけです。「東国国家論と権門体制論、どっちが正しいでしょう。学会では権門が多数派、僕は東国で少数派。歴史学って多数決でしょうか。どう思います」ってね。
で私が今出している答えが「ふたつは同じもの」ということなんです。最近、立命館大学教授の東島誠さんがそう書いているので驚きました。でも「現代文読み」の立場から解読すると、同じものなんです。
東島さんは本郷さんの権門体制論の説明は違うと書いてます。厳密に言うとそうです。でも「正しい」のです。これは東島さんも十分わかっています。東島さんのいう「亜流権門体制論」のほうの説明になっているのです。本郷さんのは。、、、そして「今は亜流が主流」なんです。だから「今の権門体制論」の説明としては「正しい」のです。
まあ以上です。色々詳しく書く学者はいくらでもいます。でも本郷氏みたいな「問いかけ型」は珍しい。これこそ教師のあるべき姿なんです。先生は「どうだろうね」という態度が大切。こうである、まで言わない自制心があってもいい。先生が強すぎると、生徒は思考しなくなります。
最後に権門体制論について、ですますを使わず。自説です。間違いは多々あっても、今の段階ではこれが限界です。論理の強引さ、おかしさがちょこちょこ見えます。まあ「殴り書き」ということで大目に見てください。
戦後史学は皇国史観への深い反省から始まった。しかしそれは「天皇を無視する歴史」という形で表れてくる傾向にあった。天皇の時代は桓武あたりで終わり、あとは摂関政治になり、院政と同時に武士が登場し、それからずーと武士の歴史が日本の歴史である。天皇は重要ではない。、、、武士(鎌倉幕府)が天皇に勝ったということで、皇国史観の否定になると考える学者もいたようだ。
それに対して黒田俊雄は異論を唱えた。それが皇国史観の完全な否定と言えるのか。もっと科学的に天皇権力システムの実相(具体的にはそのシステムを支えている公家・王家・寺社・武家)を解明しないといけない。幕府が強いか朝廷が強いか、どちらが上か下かは、一応論じる必要はあるとしても、本質的には問題ではない。武士は新時代のヒーローだろうか。彼らは所詮支配階級。権力者。天皇と同じ権力者で天皇を支えた。皇国史観を乗り越えるなら、肝心の天皇、その本当の姿、権力構造を明らかにしないと意味はない。武士は所詮最高権力機関・天皇システムの一員である。天皇・上皇・公家・武家・寺社、これらは「荘園を基盤にしているという意味で仲間」であろう。武士は「所詮は天皇の侍大将」だが、天皇も上皇も「武家と変わらない」のだ。みんな同じ基盤をもつ同質の者なのだ。これら全体が天皇システムを形成するが、この天皇システムにつき、極めて非科学的な観点からそれを絶対視したのが皇国史観であり、それは多くの人命を奪う凶器となった。歴史学はその犯罪に加担した。二度とそのような犯罪行為を犯さないためには、天皇システムの実態を、史料に基づき、科学的に研究し、タブーなき形で「ありのまま」を明らかにしなくてはならない。これが黒田の考えと私は思っている。彼の本質はヒューマニズムである。
さて、ここで一つ注を加えておきたい。それは黒田が戦後歴史学の天皇制研究に関する課題について「皇国史観と戦うことのみを念頭においていては」と書いていることである。「天皇制研究の新しい課題」という文章。「皇国史観のみ批判するのでなく」とはどういうことか。実は黒田は象徴天皇制さえ射程に入れていたのである。天皇制打破ということではない、昭和の天皇制も歴史学は冷静で科学的な分析の対象としなくてはいけないと考えていたようだ。皇国史観はなるほど「みかけ上は」戦後否定されたように見えた。だが、それに代わって「古代からずっと象徴であった。天皇はずっと日本の中心で、権力はないが、権威はあった」といういわば「隠れ皇国史観」と呼ぶべきものが現れた。私は、今後も黒田が否定したかったのは「皇国史観」と書くが、それは当然、黒田の言う隠れた皇国史観のような認識も指していることはご了解いただきたい。
黒田は、公家や天皇・上皇が鎌倉時代においてまだ強い力を持っていることを強調した。また天皇を宗教的に補佐(補完)する「旧仏教」が強い力を持っていることを強調した。
そうしてできたのが、公家・寺社・武士を権門という支配層とする権門体制論および旧仏教を重んじる顕密体制論である。黒田はその中心に天皇を据えた。要するに黒田は天皇を歴史の舞台に再登場させ、その「ありのまま」を「史料分析を通じて科学的に」かつタブーなく描けと言ったのである。
これはなにも個々の天皇の伝記を書けというのではない。個々の生身の天皇は黒田の書き方だと「形式的存在」である。その実体は権門に支えられた天皇システムである。それが権門体制。権門体制を明らかにすることで、具体的にはその権力がどのような機関によって権力を行使できたかを実証することで、天皇システムの権力構造の「ありのまま」が明らかになると考えたのである。「朝廷の権威」なる曖昧なる概念が、どのような権力システムであるかが、明らかにできると考えたのである。そうすれば天皇権力システムの相対化が可能となる。
武家研究一辺倒の歴史学はやめよ。公家天皇・寺社を研究の対象にせよ。天皇中心主義とは真逆の位置にいる彼がこれを唱えたことの意味を考えることが重要である。彼は「科学的方法によって、タブーなく、天皇・公家・寺社の実態を明らかにし、もって非科学的歴史学である皇国史観とその「亜流」(戦後においてはこの亜流の方が重要と黒田は考えた)、いわば「隠れ皇国史観」を歴史科学から放逐しようとしたのである。むろん、それによって得られる「史実の解明」が重要であることは、いうまでもないことである。
黒田は「中世国家はこうなっている」と説明したわけではない。「中世国家をこういうものだと仮定すれば、天皇システムの解明ができるのだ」と主張したのである。だから石井進の「中世に国家はあったか」という質問は、彼の真意を誤解した結果か、分かっていてわざと誤解したふりをした結果である。石井氏は学究肌で、黒田氏の「政治」に巻き込まれたくなかったのだろう。それがおかしいとは思わない。黒田は政治を仕掛けていたが、歴史学を政治のために利用したともいえないだろう。「こうなっていると仮定すれば皇国史観や現代の皇国史観(天皇は古代より象徴であり、権力はないが権威を持っていた)が相対化できるはずだ」と考えたのである。本郷和人氏がぐちを書いている。「僕の師匠の石井先生が権門体制論ともっと真剣に戦っていれば、佐藤先生の東国国家論は今よりもっと支持者を増やしただろう。石井先生は尊敬するけど、権門体制論との戦いを避けた。中世に国家はないよね、で否定完了としてしまった。」。しかし、黒田には国家があったと主張しなくてはいけない切実な理由があったのである。皇国史観、および戦後の隠れ皇国史観の徹底的な批判と止揚のことを私は言っている。これは思想の問題ではない。黒田には強烈な思想があったが、それを歴史論文に持ち込むことには慎重だった。皇国史観は科学ではない。科学的な歴史学で、皇国史観を乗り越える必要があると論じたのである。彼は天皇制に対する嫌悪を表明したが、「思想で歴史をねじまげよう」としたわけではない。ただし歴史学の政治的中立性という言葉は虚妄である。だからと言って露骨な形で政治信条を歴史に反映していいかとそれも違っていて、要は「科学を目指す」ということに尽きる気がする。
あの長い歴史を持つ強烈な皇国史観(その亜流、天皇は古代から象徴だった、ずっと権力はなかったが、権威はあった、も含む)が、民主国家になったぐらいで消滅するわけない。消滅をしたように見えても、地下でしたたかに生き残っているではないか。隠れ皇国史観がいくらでもあるではないか。しかし権門体制仮説を検証していけば、その仮説の実証の過程で、「天皇・天皇システムの実態がタブーなくありのまま明らかになり」皇国史観およびその亜流は真に相対化されるはずだ。そう黒田は考えたのである。ただ現状の「亜流権門体制論」が、黒田の言う通りになっているかは、難しいところである。黒島誠さんは「なっていない」と書いているが、なっている人もいる気がするのである。また黒田の考えとは真逆に「隠れ皇国史観」になっているのもありそうである。隠れ皇室史観になってしまうのは、権門体制論がもつ危険性である。「理趣経」と同じだろう。解釈を間違えると大変な事態になるのである。では天皇の煩雑な儀礼を分析する仕事をどう評価すべきか。文化史としての意味はある。しかし権門体制論は権力の分析をその主眼とするものであるから、シン権門体制論(黒田俊雄の権門体制論)から見れば、権力論を考えず、ただ儀礼の様子を長々と再現するような研究は、おそらく「興味のらちがい」であろう。それはそれ単独で意味を持つもので、それが「天皇の歴史の解明」かといえば、シン権門体制論の立場のみから見るならば、意味はない。しかし文化史としての意味は多いにある。とでもなるのだろうか。
儀礼の分析ではなく、権力論として分析に「なっている」代表例は東大准教授の金子拓さんである。「天下静謐」を一部の学者が単純素朴に「天皇の平和」としてたのに対し、金子氏は「まあ見方によってはそうだけど、天下静謐って将軍や天皇をはるかにこえた徳目、そう信長は信じていたでしょ」と「やんわりと反論」する。氏などは、「タブーなく天皇の姿を厳密な史料解析によって解明している」から「なっている例」と私は考えている。
金子氏は書く。信長の時代、天皇・朝廷には公平な裁判という観念がなくなっていた。利害や人間関係で判断を下し、しかもそうした姿勢に問題あるとすら思っていなかった。信長は何度か天皇を叱責した。天皇は始め、何を注意されているのか分からなかった。やがて分かるとパニック状態になった。正親町天皇は息子を前に出し、自分は隠れるようにして信長に謝罪した。もちろん厳密な史料分析に基盤をおいています。おそらく金子氏は最も「篤実な」研究者の一人です。(織田信長・天下人の実像)
これは信長が上か正親町が上かという幼稚な問題ではない。信長には天下静謐への強烈な使命感があり、そのためには現実の天皇は先例に対し公平でないといけないと考えたわけである。史料を読み込み、科学的に、タブーなく、天皇の実態をあきらかにする。金子氏は東大准教授で、おそらくバリバリの権門体制論ではないが、黒田や佐藤が目指したことを継承していると私は考えている。
あと桃崎有一郎氏も明らかに分かっているのだが、権門体制論、マルクス史観を「生きる言説にアップデートして継承する意図はない」ように見える。ただこうは言っている。
「天皇は絶対善であり、京都はそのような天皇が、1200年もの間、民のためを思って維持してきた賜物である。というまことしやかな神話に退場してもらわなければならない。」
この神話は思想というより、観光宣伝の「1200年のミヤコ」というイメージ作りを想定しているようだが、いずれにせよ現在の神話である。現在も「神話」があることを明示している。(京都を壊した天皇、護った武士)
さて本題に戻って黒田俊雄の言葉を紹介しよう
全人民を覆っている、全支配階級の、全権力機構を明らかにしろ、、、、これが黒田の主張であった。これがオリジナルの権門体制論である。
朝廷は鎌倉幕府よりエラいぞ、とか、そんな次元の話ではないのだ。なお私が天皇の敵だと考えたら間違いである。私見では平成の上皇こそ伝統的天皇像と戦いつづけたのであり、そのイズムは秋篠宮に継承されている。それに今の日本が共和制=大統領制に耐えられるだろうか。衆愚政治の問題をクリアーできるだろうか。いささか心もとない。私は反天皇主義者などではない。反皇国史観、というより反・非科学的歴史観の徒である。あえて敵というなら、それは「全体主義」である。
東国国家論も皇国史観(おそらく戦後の亜流も含む)への反省とその乗り越えを目指して作られた。東国国家論は、日本の中心は複数あると主張した。しかし複数あるというためには、天皇の具体的政治機構の分析が必要である。だから佐藤進一は「日本の中世国家」を「王朝国家の政治機構の分析」から始めたのである。
権門体制論はそのオリジナルの姿においては、東国国家論と対立するものではなく、同じ問題意識を共有する「兄弟理論」だったのである。私はひそかに「東国・権門体制国家論」と名付けている。
本郷さんに望むこと、ぜひ東島誠さんが「幕府とは何か」で提起した「二つは同じもの問題」を「検討」してください。この二つを融合させた「東国・権門体制国家論」に問題ありというのなら、それでもいい。またご本を読んで勉強します。そんなこんなで、心より、本当に社交辞令ではなく、応援いたしております。
他の「生きている歴史学者」だと、そうはいきません。本人が許しても、お弟子さんたちが許しません。介護のために早期リタイアして、そもそも非史学科で、2年半前から学者の本を趣味で読み始めた僕みたいな人間が、「論」とか言いだしたら嘲笑されます。または単純に怒られます。
でもそうすると、コミュニケーションは遮断されてしまうわけです。私は教育学をやってきて、コミュニケーションが教育の基盤であることは明確だと思っているわけです。そういう「教師論」を勉強した人間からすると、一番いけないのが「教祖のように構えている学者」というか簡単に言うと「とっつきにくいやつ」なんですね。対話が成立しない。「黙っておれの言うことを聞いていればいい」というタイプ。これは教師としては失格です。学者としては分かりません。とにかく教師論の立場からすると、「対話になる」という点で本郷氏は実に偉いな、と考えます。
2,先生は間違ったほうがいい時もある
中学ぐらいになると、先生の説明がおかしいと思うことがあるのですね。で私が指摘すると、譲らない。で、色々調べて「どうだ」と見せると、やっと「うーん」って考える。その間私は猛勉強するわけです。つまり先生は間違っていいのです。実際、私は本郷さんの本を多く読んでますが、「本当かな」と思うことが時々あるわけです。これは本郷さんだけでなく、すべての学者の説がそうです。一応全部疑ってます。で、ほとんどは私の誤解です。
で調べてみるとこうです。この「自分で調べ考える」という時間が本当の勉強の時間です。で、こう思う。「厳密に言うと間違いである可能性は少し残るが、本質的部分だけ考えるなら、本郷さんの説明は間違っていない。学術論文じゃないのだから、分かりやすさ優先でかまわない」となります。分かりやすい言葉で書けるならそうすべきです。私のような素人は、重箱の隅をつつくような「細かい史実に関する」学術議論をいきなりふっかけられても困ります。本郷さんは言ってます。「恐ろしいほど日本史に興味がない学生が多い。竜馬が何をしたかも知らないし、興味もない。そういう学生へ、歴史の面白さを伝えたい。細かな議論は学者が専門誌でしていればいい」と。
これは蛇足ですが、そもそも私の関心は次に述べる国家論に向いているので、「細かい学術論争」はあまり興味が持てない。歴史学者じゃないし、歴史学者になりたいとも思わない。歴史学における国家論が主要な興味です。数学論にも宇宙論にも興味がある。歴史は興味分野の一つに過ぎません。
3,権門体制論と東国国家論を考える機会を与える
私、そこそこ黒田俊雄氏を読んでいて、素人にしては権門体制論に詳しいのです。その勉強のきっかけが本郷さんです。偉大ですよね。
で本郷さんはこう言うわけです。「東国国家論と権門体制論、どっちが正しいでしょう。学会では権門が多数派、僕は東国で少数派。歴史学って多数決でしょうか。どう思います」ってね。
で私が今出している答えが「ふたつは同じもの」ということなんです。最近、立命館大学教授の東島誠さんがそう書いているので驚きました。でも「現代文読み」の立場から解読すると、同じものなんです。
東島さんは本郷さんの権門体制論の説明は違うと書いてます。厳密に言うとそうです。でも「正しい」のです。これは東島さんも十分わかっています。東島さんのいう「亜流権門体制論」のほうの説明になっているのです。本郷さんのは。、、、そして「今は亜流が主流」なんです。だから「今の権門体制論」の説明としては「正しい」のです。
まあ以上です。色々詳しく書く学者はいくらでもいます。でも本郷氏みたいな「問いかけ型」は珍しい。これこそ教師のあるべき姿なんです。先生は「どうだろうね」という態度が大切。こうである、まで言わない自制心があってもいい。先生が強すぎると、生徒は思考しなくなります。
最後に権門体制論について、ですますを使わず。自説です。間違いは多々あっても、今の段階ではこれが限界です。論理の強引さ、おかしさがちょこちょこ見えます。まあ「殴り書き」ということで大目に見てください。
戦後史学は皇国史観への深い反省から始まった。しかしそれは「天皇を無視する歴史」という形で表れてくる傾向にあった。天皇の時代は桓武あたりで終わり、あとは摂関政治になり、院政と同時に武士が登場し、それからずーと武士の歴史が日本の歴史である。天皇は重要ではない。、、、武士(鎌倉幕府)が天皇に勝ったということで、皇国史観の否定になると考える学者もいたようだ。
それに対して黒田俊雄は異論を唱えた。それが皇国史観の完全な否定と言えるのか。もっと科学的に天皇権力システムの実相(具体的にはそのシステムを支えている公家・王家・寺社・武家)を解明しないといけない。幕府が強いか朝廷が強いか、どちらが上か下かは、一応論じる必要はあるとしても、本質的には問題ではない。武士は新時代のヒーローだろうか。彼らは所詮支配階級。権力者。天皇と同じ権力者で天皇を支えた。皇国史観を乗り越えるなら、肝心の天皇、その本当の姿、権力構造を明らかにしないと意味はない。武士は所詮最高権力機関・天皇システムの一員である。天皇・上皇・公家・武家・寺社、これらは「荘園を基盤にしているという意味で仲間」であろう。武士は「所詮は天皇の侍大将」だが、天皇も上皇も「武家と変わらない」のだ。みんな同じ基盤をもつ同質の者なのだ。これら全体が天皇システムを形成するが、この天皇システムにつき、極めて非科学的な観点からそれを絶対視したのが皇国史観であり、それは多くの人命を奪う凶器となった。歴史学はその犯罪に加担した。二度とそのような犯罪行為を犯さないためには、天皇システムの実態を、史料に基づき、科学的に研究し、タブーなき形で「ありのまま」を明らかにしなくてはならない。これが黒田の考えと私は思っている。彼の本質はヒューマニズムである。
さて、ここで一つ注を加えておきたい。それは黒田が戦後歴史学の天皇制研究に関する課題について「皇国史観と戦うことのみを念頭においていては」と書いていることである。「天皇制研究の新しい課題」という文章。「皇国史観のみ批判するのでなく」とはどういうことか。実は黒田は象徴天皇制さえ射程に入れていたのである。天皇制打破ということではない、昭和の天皇制も歴史学は冷静で科学的な分析の対象としなくてはいけないと考えていたようだ。皇国史観はなるほど「みかけ上は」戦後否定されたように見えた。だが、それに代わって「古代からずっと象徴であった。天皇はずっと日本の中心で、権力はないが、権威はあった」といういわば「隠れ皇国史観」と呼ぶべきものが現れた。私は、今後も黒田が否定したかったのは「皇国史観」と書くが、それは当然、黒田の言う隠れた皇国史観のような認識も指していることはご了解いただきたい。
黒田は、公家や天皇・上皇が鎌倉時代においてまだ強い力を持っていることを強調した。また天皇を宗教的に補佐(補完)する「旧仏教」が強い力を持っていることを強調した。
そうしてできたのが、公家・寺社・武士を権門という支配層とする権門体制論および旧仏教を重んじる顕密体制論である。黒田はその中心に天皇を据えた。要するに黒田は天皇を歴史の舞台に再登場させ、その「ありのまま」を「史料分析を通じて科学的に」かつタブーなく描けと言ったのである。
これはなにも個々の天皇の伝記を書けというのではない。個々の生身の天皇は黒田の書き方だと「形式的存在」である。その実体は権門に支えられた天皇システムである。それが権門体制。権門体制を明らかにすることで、具体的にはその権力がどのような機関によって権力を行使できたかを実証することで、天皇システムの権力構造の「ありのまま」が明らかになると考えたのである。「朝廷の権威」なる曖昧なる概念が、どのような権力システムであるかが、明らかにできると考えたのである。そうすれば天皇権力システムの相対化が可能となる。
武家研究一辺倒の歴史学はやめよ。公家天皇・寺社を研究の対象にせよ。天皇中心主義とは真逆の位置にいる彼がこれを唱えたことの意味を考えることが重要である。彼は「科学的方法によって、タブーなく、天皇・公家・寺社の実態を明らかにし、もって非科学的歴史学である皇国史観とその「亜流」(戦後においてはこの亜流の方が重要と黒田は考えた)、いわば「隠れ皇国史観」を歴史科学から放逐しようとしたのである。むろん、それによって得られる「史実の解明」が重要であることは、いうまでもないことである。
黒田は「中世国家はこうなっている」と説明したわけではない。「中世国家をこういうものだと仮定すれば、天皇システムの解明ができるのだ」と主張したのである。だから石井進の「中世に国家はあったか」という質問は、彼の真意を誤解した結果か、分かっていてわざと誤解したふりをした結果である。石井氏は学究肌で、黒田氏の「政治」に巻き込まれたくなかったのだろう。それがおかしいとは思わない。黒田は政治を仕掛けていたが、歴史学を政治のために利用したともいえないだろう。「こうなっていると仮定すれば皇国史観や現代の皇国史観(天皇は古代より象徴であり、権力はないが権威を持っていた)が相対化できるはずだ」と考えたのである。本郷和人氏がぐちを書いている。「僕の師匠の石井先生が権門体制論ともっと真剣に戦っていれば、佐藤先生の東国国家論は今よりもっと支持者を増やしただろう。石井先生は尊敬するけど、権門体制論との戦いを避けた。中世に国家はないよね、で否定完了としてしまった。」。しかし、黒田には国家があったと主張しなくてはいけない切実な理由があったのである。皇国史観、および戦後の隠れ皇国史観の徹底的な批判と止揚のことを私は言っている。これは思想の問題ではない。黒田には強烈な思想があったが、それを歴史論文に持ち込むことには慎重だった。皇国史観は科学ではない。科学的な歴史学で、皇国史観を乗り越える必要があると論じたのである。彼は天皇制に対する嫌悪を表明したが、「思想で歴史をねじまげよう」としたわけではない。ただし歴史学の政治的中立性という言葉は虚妄である。だからと言って露骨な形で政治信条を歴史に反映していいかとそれも違っていて、要は「科学を目指す」ということに尽きる気がする。
あの長い歴史を持つ強烈な皇国史観(その亜流、天皇は古代から象徴だった、ずっと権力はなかったが、権威はあった、も含む)が、民主国家になったぐらいで消滅するわけない。消滅をしたように見えても、地下でしたたかに生き残っているではないか。隠れ皇国史観がいくらでもあるではないか。しかし権門体制仮説を検証していけば、その仮説の実証の過程で、「天皇・天皇システムの実態がタブーなくありのまま明らかになり」皇国史観およびその亜流は真に相対化されるはずだ。そう黒田は考えたのである。ただ現状の「亜流権門体制論」が、黒田の言う通りになっているかは、難しいところである。黒島誠さんは「なっていない」と書いているが、なっている人もいる気がするのである。また黒田の考えとは真逆に「隠れ皇国史観」になっているのもありそうである。隠れ皇室史観になってしまうのは、権門体制論がもつ危険性である。「理趣経」と同じだろう。解釈を間違えると大変な事態になるのである。では天皇の煩雑な儀礼を分析する仕事をどう評価すべきか。文化史としての意味はある。しかし権門体制論は権力の分析をその主眼とするものであるから、シン権門体制論(黒田俊雄の権門体制論)から見れば、権力論を考えず、ただ儀礼の様子を長々と再現するような研究は、おそらく「興味のらちがい」であろう。それはそれ単独で意味を持つもので、それが「天皇の歴史の解明」かといえば、シン権門体制論の立場のみから見るならば、意味はない。しかし文化史としての意味は多いにある。とでもなるのだろうか。
儀礼の分析ではなく、権力論として分析に「なっている」代表例は東大准教授の金子拓さんである。「天下静謐」を一部の学者が単純素朴に「天皇の平和」としてたのに対し、金子氏は「まあ見方によってはそうだけど、天下静謐って将軍や天皇をはるかにこえた徳目、そう信長は信じていたでしょ」と「やんわりと反論」する。氏などは、「タブーなく天皇の姿を厳密な史料解析によって解明している」から「なっている例」と私は考えている。
金子氏は書く。信長の時代、天皇・朝廷には公平な裁判という観念がなくなっていた。利害や人間関係で判断を下し、しかもそうした姿勢に問題あるとすら思っていなかった。信長は何度か天皇を叱責した。天皇は始め、何を注意されているのか分からなかった。やがて分かるとパニック状態になった。正親町天皇は息子を前に出し、自分は隠れるようにして信長に謝罪した。もちろん厳密な史料分析に基盤をおいています。おそらく金子氏は最も「篤実な」研究者の一人です。(織田信長・天下人の実像)
これは信長が上か正親町が上かという幼稚な問題ではない。信長には天下静謐への強烈な使命感があり、そのためには現実の天皇は先例に対し公平でないといけないと考えたわけである。史料を読み込み、科学的に、タブーなく、天皇の実態をあきらかにする。金子氏は東大准教授で、おそらくバリバリの権門体制論ではないが、黒田や佐藤が目指したことを継承していると私は考えている。
あと桃崎有一郎氏も明らかに分かっているのだが、権門体制論、マルクス史観を「生きる言説にアップデートして継承する意図はない」ように見える。ただこうは言っている。
「天皇は絶対善であり、京都はそのような天皇が、1200年もの間、民のためを思って維持してきた賜物である。というまことしやかな神話に退場してもらわなければならない。」
この神話は思想というより、観光宣伝の「1200年のミヤコ」というイメージ作りを想定しているようだが、いずれにせよ現在の神話である。現在も「神話」があることを明示している。(京都を壊した天皇、護った武士)
さて本題に戻って黒田俊雄の言葉を紹介しよう
全人民を覆っている、全支配階級の、全権力機構を明らかにしろ、、、、これが黒田の主張であった。これがオリジナルの権門体制論である。
朝廷は鎌倉幕府よりエラいぞ、とか、そんな次元の話ではないのだ。なお私が天皇の敵だと考えたら間違いである。私見では平成の上皇こそ伝統的天皇像と戦いつづけたのであり、そのイズムは秋篠宮に継承されている。それに今の日本が共和制=大統領制に耐えられるだろうか。衆愚政治の問題をクリアーできるだろうか。いささか心もとない。私は反天皇主義者などではない。反皇国史観、というより反・非科学的歴史観の徒である。あえて敵というなら、それは「全体主義」である。
東国国家論も皇国史観(おそらく戦後の亜流も含む)への反省とその乗り越えを目指して作られた。東国国家論は、日本の中心は複数あると主張した。しかし複数あるというためには、天皇の具体的政治機構の分析が必要である。だから佐藤進一は「日本の中世国家」を「王朝国家の政治機構の分析」から始めたのである。
権門体制論はそのオリジナルの姿においては、東国国家論と対立するものではなく、同じ問題意識を共有する「兄弟理論」だったのである。私はひそかに「東国・権門体制国家論」と名付けている。
本郷さんに望むこと、ぜひ東島誠さんが「幕府とは何か」で提起した「二つは同じもの問題」を「検討」してください。この二つを融合させた「東国・権門体制国家論」に問題ありというのなら、それでもいい。またご本を読んで勉強します。そんなこんなで、心より、本当に社交辞令ではなく、応援いたしております。