歴史とドラマをめぐる冒険

大河ドラマ・歴史小説・歴史の本などを中心に、色々書きます。
ただの歴史ファンです。

本郷和人論・リスペクトを込めて

2023-04-26 | 権門体制論
1,本郷氏の本当の偉大さは、こういう文章を書いても怒らないだろうことである。

他の「生きている歴史学者」だと、そうはいきません。本人が許しても、お弟子さんたちが許しません。介護のために早期リタイアして、そもそも非史学科で、2年半前から学者の本を趣味で読み始めた僕みたいな人間が、「論」とか言いだしたら嘲笑されます。または単純に怒られます。

でもそうすると、コミュニケーションは遮断されてしまうわけです。私は教育学をやってきて、コミュニケーションが教育の基盤であることは明確だと思っているわけです。そういう「教師論」を勉強した人間からすると、一番いけないのが「教祖のように構えている学者」というか簡単に言うと「とっつきにくいやつ」なんですね。対話が成立しない。「黙っておれの言うことを聞いていればいい」というタイプ。これは教師としては失格です。学者としては分かりません。とにかく教師論の立場からすると、「対話になる」という点で本郷氏は実に偉いな、と考えます。

2,先生は間違ったほうがいい時もある

中学ぐらいになると、先生の説明がおかしいと思うことがあるのですね。で私が指摘すると、譲らない。で、色々調べて「どうだ」と見せると、やっと「うーん」って考える。その間私は猛勉強するわけです。つまり先生は間違っていいのです。実際、私は本郷さんの本を多く読んでますが、「本当かな」と思うことが時々あるわけです。これは本郷さんだけでなく、すべての学者の説がそうです。一応全部疑ってます。で、ほとんどは私の誤解です。
で調べてみるとこうです。この「自分で調べ考える」という時間が本当の勉強の時間です。で、こう思う。「厳密に言うと間違いである可能性は少し残るが、本質的部分だけ考えるなら、本郷さんの説明は間違っていない。学術論文じゃないのだから、分かりやすさ優先でかまわない」となります。分かりやすい言葉で書けるならそうすべきです。私のような素人は、重箱の隅をつつくような「細かい史実に関する」学術議論をいきなりふっかけられても困ります。本郷さんは言ってます。「恐ろしいほど日本史に興味がない学生が多い。竜馬が何をしたかも知らないし、興味もない。そういう学生へ、歴史の面白さを伝えたい。細かな議論は学者が専門誌でしていればいい」と。
これは蛇足ですが、そもそも私の関心は次に述べる国家論に向いているので、「細かい学術論争」はあまり興味が持てない。歴史学者じゃないし、歴史学者になりたいとも思わない。歴史学における国家論が主要な興味です。数学論にも宇宙論にも興味がある。歴史は興味分野の一つに過ぎません。

3,権門体制論と東国国家論を考える機会を与える

私、そこそこ黒田俊雄氏を読んでいて、素人にしては権門体制論に詳しいのです。その勉強のきっかけが本郷さんです。偉大ですよね。
で本郷さんはこう言うわけです。「東国国家論と権門体制論、どっちが正しいでしょう。学会では権門が多数派、僕は東国で少数派。歴史学って多数決でしょうか。どう思います」ってね。
で私が今出している答えが「ふたつは同じもの」ということなんです。最近、立命館大学教授の東島誠さんがそう書いているので驚きました。でも「現代文読み」の立場から解読すると、同じものなんです。

東島さんは本郷さんの権門体制論の説明は違うと書いてます。厳密に言うとそうです。でも「正しい」のです。これは東島さんも十分わかっています。東島さんのいう「亜流権門体制論」のほうの説明になっているのです。本郷さんのは。、、、そして「今は亜流が主流」なんです。だから「今の権門体制論」の説明としては「正しい」のです。

まあ以上です。色々詳しく書く学者はいくらでもいます。でも本郷氏みたいな「問いかけ型」は珍しい。これこそ教師のあるべき姿なんです。先生は「どうだろうね」という態度が大切。こうである、まで言わない自制心があってもいい。先生が強すぎると、生徒は思考しなくなります。

最後に権門体制論について、ですますを使わず。自説です。間違いは多々あっても、今の段階ではこれが限界です。論理の強引さ、おかしさがちょこちょこ見えます。まあ「殴り書き」ということで大目に見てください。

戦後史学は皇国史観への深い反省から始まった。しかしそれは「天皇を無視する歴史」という形で表れてくる傾向にあった。天皇の時代は桓武あたりで終わり、あとは摂関政治になり、院政と同時に武士が登場し、それからずーと武士の歴史が日本の歴史である。天皇は重要ではない。、、、武士(鎌倉幕府)が天皇に勝ったということで、皇国史観の否定になると考える学者もいたようだ。
それに対して黒田俊雄は異論を唱えた。それが皇国史観の完全な否定と言えるのか。もっと科学的に天皇権力システムの実相(具体的にはそのシステムを支えている公家・王家・寺社・武家)を解明しないといけない。幕府が強いか朝廷が強いか、どちらが上か下かは、一応論じる必要はあるとしても、本質的には問題ではない。武士は新時代のヒーローだろうか。彼らは所詮支配階級。権力者。天皇と同じ権力者で天皇を支えた。皇国史観を乗り越えるなら、肝心の天皇、その本当の姿、権力構造を明らかにしないと意味はない。武士は所詮最高権力機関・天皇システムの一員である。天皇・上皇・公家・武家・寺社、これらは「荘園を基盤にしているという意味で仲間」であろう。武士は「所詮は天皇の侍大将」だが、天皇も上皇も「武家と変わらない」のだ。みんな同じ基盤をもつ同質の者なのだ。これら全体が天皇システムを形成するが、この天皇システムにつき、極めて非科学的な観点からそれを絶対視したのが皇国史観であり、それは多くの人命を奪う凶器となった。歴史学はその犯罪に加担した。二度とそのような犯罪行為を犯さないためには、天皇システムの実態を、史料に基づき、科学的に研究し、タブーなき形で「ありのまま」を明らかにしなくてはならない。これが黒田の考えと私は思っている。彼の本質はヒューマニズムである。

さて、ここで一つ注を加えておきたい。それは黒田が戦後歴史学の天皇制研究に関する課題について「皇国史観と戦うことのみを念頭においていては」と書いていることである。「天皇制研究の新しい課題」という文章。「皇国史観のみ批判するのでなく」とはどういうことか。実は黒田は象徴天皇制さえ射程に入れていたのである。天皇制打破ということではない、昭和の天皇制も歴史学は冷静で科学的な分析の対象としなくてはいけないと考えていたようだ。皇国史観はなるほど「みかけ上は」戦後否定されたように見えた。だが、それに代わって「古代からずっと象徴であった。天皇はずっと日本の中心で、権力はないが、権威はあった」といういわば「隠れ皇国史観」と呼ぶべきものが現れた。私は、今後も黒田が否定したかったのは「皇国史観」と書くが、それは当然、黒田の言う隠れた皇国史観のような認識も指していることはご了解いただきたい。

黒田は、公家や天皇・上皇が鎌倉時代においてまだ強い力を持っていることを強調した。また天皇を宗教的に補佐(補完)する「旧仏教」が強い力を持っていることを強調した。

そうしてできたのが、公家・寺社・武士を権門という支配層とする権門体制論および旧仏教を重んじる顕密体制論である。黒田はその中心に天皇を据えた。要するに黒田は天皇を歴史の舞台に再登場させ、その「ありのまま」を「史料分析を通じて科学的に」かつタブーなく描けと言ったのである。

これはなにも個々の天皇の伝記を書けというのではない。個々の生身の天皇は黒田の書き方だと「形式的存在」である。その実体は権門に支えられた天皇システムである。それが権門体制。権門体制を明らかにすることで、具体的にはその権力がどのような機関によって権力を行使できたかを実証することで、天皇システムの権力構造の「ありのまま」が明らかになると考えたのである。「朝廷の権威」なる曖昧なる概念が、どのような権力システムであるかが、明らかにできると考えたのである。そうすれば天皇権力システムの相対化が可能となる。

武家研究一辺倒の歴史学はやめよ。公家天皇・寺社を研究の対象にせよ。天皇中心主義とは真逆の位置にいる彼がこれを唱えたことの意味を考えることが重要である。彼は「科学的方法によって、タブーなく、天皇・公家・寺社の実態を明らかにし、もって非科学的歴史学である皇国史観とその「亜流」(戦後においてはこの亜流の方が重要と黒田は考えた)、いわば「隠れ皇国史観」を歴史科学から放逐しようとしたのである。むろん、それによって得られる「史実の解明」が重要であることは、いうまでもないことである。

黒田は「中世国家はこうなっている」と説明したわけではない。「中世国家をこういうものだと仮定すれば、天皇システムの解明ができるのだ」と主張したのである。だから石井進の「中世に国家はあったか」という質問は、彼の真意を誤解した結果か、分かっていてわざと誤解したふりをした結果である。石井氏は学究肌で、黒田氏の「政治」に巻き込まれたくなかったのだろう。それがおかしいとは思わない。黒田は政治を仕掛けていたが、歴史学を政治のために利用したともいえないだろう。「こうなっていると仮定すれば皇国史観や現代の皇国史観(天皇は古代より象徴であり、権力はないが権威を持っていた)が相対化できるはずだ」と考えたのである。本郷和人氏がぐちを書いている。「僕の師匠の石井先生が権門体制論ともっと真剣に戦っていれば、佐藤先生の東国国家論は今よりもっと支持者を増やしただろう。石井先生は尊敬するけど、権門体制論との戦いを避けた。中世に国家はないよね、で否定完了としてしまった。」。しかし、黒田には国家があったと主張しなくてはいけない切実な理由があったのである。皇国史観、および戦後の隠れ皇国史観の徹底的な批判と止揚のことを私は言っている。これは思想の問題ではない。黒田には強烈な思想があったが、それを歴史論文に持ち込むことには慎重だった。皇国史観は科学ではない。科学的な歴史学で、皇国史観を乗り越える必要があると論じたのである。彼は天皇制に対する嫌悪を表明したが、「思想で歴史をねじまげよう」としたわけではない。ただし歴史学の政治的中立性という言葉は虚妄である。だからと言って露骨な形で政治信条を歴史に反映していいかとそれも違っていて、要は「科学を目指す」ということに尽きる気がする。

あの長い歴史を持つ強烈な皇国史観(その亜流、天皇は古代から象徴だった、ずっと権力はなかったが、権威はあった、も含む)が、民主国家になったぐらいで消滅するわけない。消滅をしたように見えても、地下でしたたかに生き残っているではないか。隠れ皇国史観がいくらでもあるではないか。しかし権門体制仮説を検証していけば、その仮説の実証の過程で、「天皇・天皇システムの実態がタブーなくありのまま明らかになり」皇国史観およびその亜流は真に相対化されるはずだ。そう黒田は考えたのである。ただ現状の「亜流権門体制論」が、黒田の言う通りになっているかは、難しいところである。黒島誠さんは「なっていない」と書いているが、なっている人もいる気がするのである。また黒田の考えとは真逆に「隠れ皇国史観」になっているのもありそうである。隠れ皇室史観になってしまうのは、権門体制論がもつ危険性である。「理趣経」と同じだろう。解釈を間違えると大変な事態になるのである。では天皇の煩雑な儀礼を分析する仕事をどう評価すべきか。文化史としての意味はある。しかし権門体制論は権力の分析をその主眼とするものであるから、シン権門体制論(黒田俊雄の権門体制論)から見れば、権力論を考えず、ただ儀礼の様子を長々と再現するような研究は、おそらく「興味のらちがい」であろう。それはそれ単独で意味を持つもので、それが「天皇の歴史の解明」かといえば、シン権門体制論の立場のみから見るならば、意味はない。しかし文化史としての意味は多いにある。とでもなるのだろうか。

儀礼の分析ではなく、権力論として分析に「なっている」代表例は東大准教授の金子拓さんである。「天下静謐」を一部の学者が単純素朴に「天皇の平和」としてたのに対し、金子氏は「まあ見方によってはそうだけど、天下静謐って将軍や天皇をはるかにこえた徳目、そう信長は信じていたでしょ」と「やんわりと反論」する。氏などは、「タブーなく天皇の姿を厳密な史料解析によって解明している」から「なっている例」と私は考えている。

金子氏は書く。信長の時代、天皇・朝廷には公平な裁判という観念がなくなっていた。利害や人間関係で判断を下し、しかもそうした姿勢に問題あるとすら思っていなかった。信長は何度か天皇を叱責した。天皇は始め、何を注意されているのか分からなかった。やがて分かるとパニック状態になった。正親町天皇は息子を前に出し、自分は隠れるようにして信長に謝罪した。もちろん厳密な史料分析に基盤をおいています。おそらく金子氏は最も「篤実な」研究者の一人です。(織田信長・天下人の実像)

これは信長が上か正親町が上かという幼稚な問題ではない。信長には天下静謐への強烈な使命感があり、そのためには現実の天皇は先例に対し公平でないといけないと考えたわけである。史料を読み込み、科学的に、タブーなく、天皇の実態をあきらかにする。金子氏は東大准教授で、おそらくバリバリの権門体制論ではないが、黒田や佐藤が目指したことを継承していると私は考えている。

あと桃崎有一郎氏も明らかに分かっているのだが、権門体制論、マルクス史観を「生きる言説にアップデートして継承する意図はない」ように見える。ただこうは言っている。
「天皇は絶対善であり、京都はそのような天皇が、1200年もの間、民のためを思って維持してきた賜物である。というまことしやかな神話に退場してもらわなければならない。」

この神話は思想というより、観光宣伝の「1200年のミヤコ」というイメージ作りを想定しているようだが、いずれにせよ現在の神話である。現在も「神話」があることを明示している。(京都を壊した天皇、護った武士)

さて本題に戻って黒田俊雄の言葉を紹介しよう

全人民を覆っている、全支配階級の、全権力機構を明らかにしろ、、、、これが黒田の主張であった。これがオリジナルの権門体制論である。

朝廷は鎌倉幕府よりエラいぞ、とか、そんな次元の話ではないのだ。なお私が天皇の敵だと考えたら間違いである。私見では平成の上皇こそ伝統的天皇像と戦いつづけたのであり、そのイズムは秋篠宮に継承されている。それに今の日本が共和制=大統領制に耐えられるだろうか。衆愚政治の問題をクリアーできるだろうか。いささか心もとない。私は反天皇主義者などではない。反皇国史観、というより反・非科学的歴史観の徒である。あえて敵というなら、それは「全体主義」である。

東国国家論も皇国史観(おそらく戦後の亜流も含む)への反省とその乗り越えを目指して作られた。東国国家論は、日本の中心は複数あると主張した。しかし複数あるというためには、天皇の具体的政治機構の分析が必要である。だから佐藤進一は「日本の中世国家」を「王朝国家の政治機構の分析」から始めたのである。

権門体制論はそのオリジナルの姿においては、東国国家論と対立するものではなく、同じ問題意識を共有する「兄弟理論」だったのである。私はひそかに「東国・権門体制国家論」と名付けている。

本郷さんに望むこと、ぜひ東島誠さんが「幕府とは何か」で提起した「二つは同じもの問題」を「検討」してください。この二つを融合させた「東国・権門体制国家論」に問題ありというのなら、それでもいい。またご本を読んで勉強します。そんなこんなで、心より、本当に社交辞令ではなく、応援いたしております。

即興小説「信長の涙」・金ケ崎ののちに

2023-04-25 | どうする家康
ある歴史ドラマにリスペクトを込めて。

金ケ崎から逃げ帰った信長は岐阜城に戻った。帰蝶は急いで信長の部屋を訪れた。いつもにもまして、信長は孤独に見えた。
帰蝶の顔を信長は見た。抑えていた感情がはじけたのだろう。信長は泣き崩れた。

「またおれの兵が死んだ。あの権助も死んだ。弥太郎も死んだ。子供のころから親しくしてきた友が死んだ」信長は顔を覆った。
「また、、、まただ、、、また殺してしまった」
帰蝶は涙を堪えた。ここで泣くわけにはいかない。
「信長様のせいではありません。信長様は天下静謐のため尽くしているのです」
信長の涙顔が怒りに変わった。
「帰蝶、よくそんなことを言えるな。おれの為に働いてくれた家臣が死んだのだ。朝倉は、すぐにも降伏すると思っていた。人の死は多くはないはずだった。浅井が裏切った。そして朝倉の兵も死んだ。浅井の兵も死んだのだ。おれは、長政を殺さなくてはならなくなった。また殺さなくてはならないのだ。」
「信長様のせいではございません」
「おれが殺したのだ。そしてこれからも殺さなくてはならぬ。何人殺せば、何人殺せば、この世に静謐が訪れるのだ。」
「信長様のせいではございません」
「己の手を汚したことのない、おのれごときが何を言うか。おれのせいなのだ。おれの兵が死ねば、それはおれのせいなのだ。いや今やおれは天下にいる。天下で起こることは、全ておれのせいだ。花が落ちるのも、子供らが死んでも、それはおれのせいだ。天下を担うとは、そういうことなのだ」
「信長様のせいではございません!」
「まだ言うか」信長は力なく帰蝶にもたれかかり、そして帰蝶の手を握った。その手は温かかった。
帰蝶の目から堪えていた涙がこぼれた。
「帰蝶泣くな。おれの為に泣くな。これは命令だ。おれの為に、、、一滴の涙も流してはならぬ。帰蝶が支えてくれなけばおれは倒れる。お前は揺らぐな。」
帰蝶は信長の手を握り締めた。そして体を抱きしめた。

了。

織田信長が足利義昭に送った「17カ条の異見書」。短くて超かんたんな訳。

2023-04-20 | 織田信長
織田信長の17カ条の意見書。超かんたん訳です。むろん原文は「ですます体」。1572年、元亀3年9月です。

1、参内しろよ。義輝さんは参内しないからあの運命なんだ。
2、馬とか欲しいなら用意する。他にねだるな。みっともない。
3、「ひいき」してるよな。
4、宝物をどっかに移すなよ。
5、岩成友通に土地をやるふりして、実際はやってないだろ。
6、オレと親しい人間にわざとパワハラしてるだろ。
7、ブラック企業か!待遇悪いってオレに言ってきてるぞ。
8、若狭の代官の件。早く訴えを処理しろよ。
9、小泉の女房が質屋に預けたものまで没収したろ。夫が喧嘩で死んだだけで。
10、元亀の年号、不吉なんだよ。変えろよ。
11、公家の烏丸。勘当したのに、ワイロもらって許したろ。
12、地方からお礼で貰った金。有効利用しないで隠してるだろ。何の為?
13、明智光秀が集めた税金。なんだかんだ言って「くすねた」だろ。
14、蔵の米売ってるだろ!商人かよ!
15、自分の若い側近に高給の役職を斡旋してるだろ。自腹で金やれよ。
16、将軍が貯金してるのは京を捨てるためだと、みんな言ってるぜ。
17、恥も外聞もない強欲人間なんだよ。悪しき将軍とみんな言ってるぜ。

「公平公正じゃない、ひいきしている」「金に汚い」「恥も外聞もない」の3つを主に指摘しています。特に多いのが「金、財産」ですね。

13の明智光秀。正確な訳を考えている最中ですが、うまく話が繋がりません。

「 明智地子銭を納め置き、買物のかはりに渡し遣はし侯を、山門領の由仰せ懸げられ、預ケ置き侯者の御押への事。」

明智が税金として徴収した金を、買い物の代金として誰かに渡しましたところ、山門領からの税収だとおっしゃって、受け取った者の金を差し押さえられましたね。

一応こうなりますが、これだけでは意味が分かりません。「なんだかんだ言って、くすねた」と訳しました。正確な訳も作成中ですが、今は以上です。

即興小説「金ケ崎の家康」(1分で読めます)

2023-04-19 | どうする家康
浅井が敵に回る。この一報が信長軍を震撼させた時、前線にいた家康は、朝倉総攻撃に備え、信長本陣での軍議に参加するため、戻ってきていた。

軍議は短かった。柴田勝家が静かな声で、「両面と戦うという選択もありますな」と信長に進言した。信長連合軍は3万、朝倉浅井軍は2万5千程度と勝家は言った。
「勝てぬ戦でもありますまい」

信長は彼の癖で小さく首をかしげ、それから「いや、やめておこう。俺は逃げる」と言った。言った時には既に立ち上がり、重い甲冑を長乗馬のために脱ごうとしていた。
「しんがりは、藤吉郎と十兵衛光秀」と信長は平然と言った。藤吉郎も光秀もちらと信長の顔を見ただけで何も言わない。

なんだ、織田家という家は、、、。

家康は腹が立ってならなかった。自分は浅井長政の従軍を主張した。しかし信長は奇襲だからという妙な理由でそれを退けた。
信長は、すでに立ち去ろうとしている。自分など眼中にもないようだ。

この態度だ、、、この態度が長政を怒らせたのだ。われらは国人領主から成りあがった小大名に過ぎぬ。信長はこの傲慢な態度で長政にも接していた。
人の心が読めぬ大将。これが信長の限界だ、、、そう家康は思った。

「織田殿、待ってもらおう」家康がそう発すると、信長は体を半分ほど家康に向けた。

「織田殿、謝ってもらいたい。こんな遠地までわれらを呼び寄せて、その態度はなんだ。その傲慢な態度が長政を怒らせたのだ。」

信長は不思議な表情で家康の言葉を聞いていた。それからふっと笑った。

「竹千代、長政はそちほど心が細くはないわ。やつはやつなりに損得を考えたのだ。あいつは俺に似ている。俺を倒して、俺にとって代わろうとしているのよ。あいつはそういう大きな男だ」

「信長、貴様」、小さな男と言われた家康は激高した。信長は赤子をあやすような声で、「竹千代、今は謝っている暇もない。さあ、逃げよう。死ぬなよ、竹千代」と言った。

家康一人が激高している。さすがに恥ずかしくなった。信長はそのまま速足で去った。

織田家の諸将も去り、秀吉、光秀、家康だけが残った。家康には確かめたいことがあった。なぜ秀吉と光秀は平然としているのだ。それが知りたい。
そんな家康とは関わりなく、二人はもういかに退くかを早口で話しあっている。秀吉が家康に気が付き「何をしておられる。家康殿もはよう逃げられよ」と言った。

家康は早口で、死命を受けても平然としている秀吉と光秀が理解できないからだと言った。

「まあもともとですから」と秀吉は答える。光秀はそれにうなづいている。信長に拾われなければ、とっくにどこかでのたれ死にしていた。死んでも「もともと」なのだ。そういうことを秀吉は特に気負い込むでもなく、平然と言った。

忠義とは違った心持ちだろう。無常観とも少し違う。自分はいつ死んでも当然な人間。家康は見たこともない人間に出会った気がした。

「私も十兵衛もそういう地獄のような若き時を生きてきたのだ。さっ、分かったならもう逃げろ」

家康は思わず震えた。この二人の静かに湧き出てくる凄みはどうであろう。その「地獄」とやらを家康は知らない。今は聞く時でもない。しかし家康が想像する以上に悲惨な日々だったに違いない。

自分は人質だった。しかし今川では大事に育てられた。食べるものに困ったこともない。

この時家康は、この小男と切れ者顔の男には一生勝てないような気がした。そしてこの男たちを家来にしている信長とは何者かと考えた。途方もない怪物ではあるまいか。おれは、この男たちを越えていかねばならないのか。おれに、それができようか。この凄みが自分の身につく時がくるだろうか。

いや違う、人には持って生まれた性質がある。おれは彼らとは違う。おれにも生きるための武器があるはずだ。

おれは人を裏切らない、いや氏真を裏切ったのか。いやあれは氏真が松平に助力をしなかったせいだ。助力しない大大名など国人領主に必要ない。

おれは律義者だ。そうだそれしかない。この律儀な性格で諸将の信頼を買うしかないのだ。信長には信長の、光秀には光秀の、秀吉には秀吉の道がある。

おれはおれの道を行くほかない。

それからふいに「藤吉郎殿、光秀殿、わしもしんがりに加えてくれ」と言った。言ったあとですぐ後悔した。でもこれでいい。命をかけても、人々の信頼をかうのだ。家康はそう思った。
 了。

「中学時代のあまり有名ではない芸能人の女子」のお話

2023-04-18 | 日記
高校に行くと、成績のレベルというのはだいたい一緒なのですが、中学には「全国3位」とかいう化け物のようなやつがいて、体育もできるので本当にオール5なのです。実物を見ました。しかも相対評価ですから、「5」は学年の10パーセントという時代です。私がいくら頑張っても、5は体育と社会科ぐらいだったと思います。一方でとんでもなく学業が苦手な子もいて、先生がオール5の生徒に「学校内家庭教師」を頼んでいました。これも今では考えられない話かも知れません。

何が言いたいかとうと「いろんなやつがいたな」ということです。「あまり有名ではない芸能人の女子」もいました。子役で民放の時代劇に一度だけでました。当時AKBがあったら、その下ぐらいのグループに入っていたと思いますが、当時は個人アイドルの時代なので、彼女は有名でないまま高校時代には芸能活動をやめたようです。

その子とは同じクラスで、理科の実験グループが同じで、実験の時だけ仲良しでした。恒常的に仲良しだった記憶はありません。理科の実験の前と後ろの休み時間にだけ集中的に話していた記憶があります。何を話していたかは思い出せません。信長の話をした記憶だけはあります。彼女は興味なさそうに「不思議な生物を見るような目」で私を見ていたと「たぶん」思います。

これもたまたまなのですが「ジャニーズジュニアの男子」が学年にいました。実は私には超有名な女優さんと「知り合いだった時期」があるのですが、それは仕事上のちょっとした付き合いなので、芸能人で「かつまあまあ友人だった」のは上記の女子とこのジャニーズジュニアだけです。ただしジャニーズジュニアは親しい友人ではなかったので、話したのも一回きりです。彼は上記の彼女の「カレ」でした。

ある時下校中。その「カレ」がいきなり話しかけてきました。話したこともなかったのでわけわからなかったのですが、要するに「君は彼女が好きなのか」が聞きたかったようです。形式上の言い訳としては「一人で帰ると女の子が付きまとってうるさいから一緒に歩いていいかな」でした。今なら「自信過剰かよ。」と三村流の「ツッコミ」を入れますが、当時は「そんなものかな」と思いました。

彼女と話していると私の話がしばしば出てくると言うのです。「理科の実験の時だけの友達」ですから、にわかに信じられませんでしたが、「彼女でもないし好きでもない」と丁重に話して、ジャニーズジュニアにはお引き取り願いました。きれいな子で気も合ったので友人としては好きだったのですが、「友人としては好き」とか言うとややこしくなる。中学生でもそのぐらいの計算はできたようです。

上記の女子がTVに出たのは二回で、一つが時代劇、もう一つがバラエティの水着コンテスト。当時はアナログのだぶったような画面で「くっきり細部までは見えない」ので良かったのですが、同級生がいきなり水着でTVに出てくるのは結構衝撃的です。その画面は今も覚えています。

そう言えば、クラスの女子と男子でプールに行った時、ただ一人「大胆なビキニ」の子がいました。例のオール5が「興奮するからそういう格好はやめてくれ」と言ったら、「だってお父さんがこれ着て行けというんだもん」とのこと。男子で集まり「父親、頭がおかしい」と話しあいました。思春期は色々面白い。そのビキニの子は「セクシーでしょ」まで言いましたから、女子も男子も、いかりや流の「だめだこりゃ」であきらめました。

有名でない芸能人の子と水着の話をしたかどうかは全く覚えていません。へたに「水着とかやめてくれ」とか言うと、「ははーん、やっぱ私が好きなんだ」とかいう反応をするタイプの子だったので、意地でもしなかったのでないか。たぶんそんな感じだったと思います。オチもないくだらない話ですが、以上です。