テスト
架空の世界の、架空のお話。
慶長3年、1598年7月、徳川家康は秀吉の病床を見舞った。
「おお、家康か」。普段は秀吉は家康を内府と呼ぶ。家康と呼ぶ時は、無礼講でいこうという合図だった。家康はその機微を敏感に察した。
「どうした筑前、醍醐の花見の時は、元気だったではないか。お前らしくもない。しっかりせえ。」
「あん時からもう体はガタガタだったのよ。これもみんな信長様のせいだで。若い時あんだけこき使われたら、年取ってガタもくるわ」
「そうじゃ、その調子じゃ。信長殿の悪口でもたんと言うがいい。それでこそ筑前じゃ。信長ってのはそりゃひどい主君だったわな。人の情というものがねえ」
「信長様を悪く言うな。恩人は恩人なんじゃ。ひでえやつだったが、恩は恩」
「ああ言えばこう言うの。それでこそ筑前じゃ。実際のところ、今お前が死んだら、わしでは豊臣を統率できねえ。うるせえ奴らがたんといる。秀頼がもうちっと大きくなるまで、這ってでも生きろや」
「秀頼か」と、秀吉はつぶやいた。そして続ける。
「あんな赤子に天下様がつとまるかよ。無理に無理をして明日関白にしても、誰もついてこねえわ」
「といってどうする。秀次もお前の考えに反して死んでしまった。お前は許す気でいたんだろ。なにも切腹するこたぁなかったよな。あれでお前の計画も狂ったわけだ」
「まあ天下なんてものは回り持ちよ。わしゃ、わがまま放題に生きた。でっけいこともやった。正直死んだ後のことはどうでもいい。新八幡様にでもしてくれ。それでいいわ」
「といって、天下様をお前に譲ると言われても、なかなか難しいぞ。もう秀頼には派閥がついとる。茶々もあの通り気位が高い。お前が何を遺言しようが、徳川の天下なんて許せねえ。そういうやつらがたんといる」
「おめえもわしも、人望がねえの。誰がお前になんぞ譲るか。おめえももうじじいではないか。譲るとしたら秀康じゃ」
「あのわしの息子に。オギイに。織田信雄と同じぐらいのぼんくらだぞ」
「秀康はぼんくらなんぞじゃねえ。そもそもおめえは息子に対して厳しすぎるのよ。人の情がねえのは信長様だけじゃあねえ。いや信長様は息子に甘かった」
「そうじゃったの。信長殿は家族には妙に優しかった」
「家康よ、わしゃほんにわがままでな。正直、死んだ後、わしの偉業が世に伝わればそれでいいのよ。わしが作った天下じゃ。わしの名が上がればそれでいい。それには天下を崩さんことよ。秀頼は生きて暮らせればそれでいい。それにしても朝鮮のことは余計じゃったな」
「今頃気が付いたか。あれは異国だと言っただろ。日本じゃねえ。」
「わしが死んだら、すぐ引き上げだ。家康、朝鮮にはお前から詫びを入れてくれ」
「損な役回りは全部わしじゃの。それは分かった。早速引き上げ計画を立てるわ。しかし天下をオギイにというのは、誰も納得しねえぜ」
「オギイはお前の息子じゃねえ。長い間ほったらかしにしやがって、おめえは父親じゃないわ。人でなしが。オギイは羽柴の子じゃ。わしを継いでも大義名分は立とうが」
「無理だとは思うがな。まあやってみる価値はあるか。いずれにせよわしが後見じゃ。そうなると宇喜多、石田、小西あたりが黙っていまい」
「いや毛利よ、毛利には小早川秀秋がいる。一応わしの縁者じゃ。毛利が黙っていまい」
「いろいろ難しいが、結局はなるようになるだけだ。わしも頑張ってみるわ。秀吉よ。わしのわがままが分かるか。」
「分からん」
「わしゃ、のちの世に立派な人だったと言われてえ。その為には秀頼を殺すわけにいかんし、死なすわけにはいかん。そこは何とか頑張ってみるわ。信長殿、筑前、それにわしの3人で築いた天下じゃ。乱世に戻してなるものかよ」
「まあ、頼むわ」秀吉は初めて微笑んだ。
慶長3年、1598年7月、徳川家康は秀吉の病床を見舞った。
「おお、家康か」。普段は秀吉は家康を内府と呼ぶ。家康と呼ぶ時は、無礼講でいこうという合図だった。家康はその機微を敏感に察した。
「どうした筑前、醍醐の花見の時は、元気だったではないか。お前らしくもない。しっかりせえ。」
「あん時からもう体はガタガタだったのよ。これもみんな信長様のせいだで。若い時あんだけこき使われたら、年取ってガタもくるわ」
「そうじゃ、その調子じゃ。信長殿の悪口でもたんと言うがいい。それでこそ筑前じゃ。信長ってのはそりゃひどい主君だったわな。人の情というものがねえ」
「信長様を悪く言うな。恩人は恩人なんじゃ。ひでえやつだったが、恩は恩」
「ああ言えばこう言うの。それでこそ筑前じゃ。実際のところ、今お前が死んだら、わしでは豊臣を統率できねえ。うるせえ奴らがたんといる。秀頼がもうちっと大きくなるまで、這ってでも生きろや」
「秀頼か」と、秀吉はつぶやいた。そして続ける。
「あんな赤子に天下様がつとまるかよ。無理に無理をして明日関白にしても、誰もついてこねえわ」
「といってどうする。秀次もお前の考えに反して死んでしまった。お前は許す気でいたんだろ。なにも切腹するこたぁなかったよな。あれでお前の計画も狂ったわけだ」
「まあ天下なんてものは回り持ちよ。わしゃ、わがまま放題に生きた。でっけいこともやった。正直死んだ後のことはどうでもいい。新八幡様にでもしてくれ。それでいいわ」
「といって、天下様をお前に譲ると言われても、なかなか難しいぞ。もう秀頼には派閥がついとる。茶々もあの通り気位が高い。お前が何を遺言しようが、徳川の天下なんて許せねえ。そういうやつらがたんといる」
「おめえもわしも、人望がねえの。誰がお前になんぞ譲るか。おめえももうじじいではないか。譲るとしたら秀康じゃ」
「あのわしの息子に。オギイに。織田信雄と同じぐらいのぼんくらだぞ」
「秀康はぼんくらなんぞじゃねえ。そもそもおめえは息子に対して厳しすぎるのよ。人の情がねえのは信長様だけじゃあねえ。いや信長様は息子に甘かった」
「そうじゃったの。信長殿は家族には妙に優しかった」
「家康よ、わしゃほんにわがままでな。正直、死んだ後、わしの偉業が世に伝わればそれでいいのよ。わしが作った天下じゃ。わしの名が上がればそれでいい。それには天下を崩さんことよ。秀頼は生きて暮らせればそれでいい。それにしても朝鮮のことは余計じゃったな」
「今頃気が付いたか。あれは異国だと言っただろ。日本じゃねえ。」
「わしが死んだら、すぐ引き上げだ。家康、朝鮮にはお前から詫びを入れてくれ」
「損な役回りは全部わしじゃの。それは分かった。早速引き上げ計画を立てるわ。しかし天下をオギイにというのは、誰も納得しねえぜ」
「オギイはお前の息子じゃねえ。長い間ほったらかしにしやがって、おめえは父親じゃないわ。人でなしが。オギイは羽柴の子じゃ。わしを継いでも大義名分は立とうが」
「無理だとは思うがな。まあやってみる価値はあるか。いずれにせよわしが後見じゃ。そうなると宇喜多、石田、小西あたりが黙っていまい」
「いや毛利よ、毛利には小早川秀秋がいる。一応わしの縁者じゃ。毛利が黙っていまい」
「いろいろ難しいが、結局はなるようになるだけだ。わしも頑張ってみるわ。秀吉よ。わしのわがままが分かるか。」
「分からん」
「わしゃ、のちの世に立派な人だったと言われてえ。その為には秀頼を殺すわけにいかんし、死なすわけにはいかん。そこは何とか頑張ってみるわ。信長殿、筑前、それにわしの3人で築いた天下じゃ。乱世に戻してなるものかよ」
「まあ、頼むわ」秀吉は初めて微笑んだ。
歴史に法則はあるのか。ない、という人も多いでしょう。でも「あるように見える」のは何故でしょう。中国もインドも、世界の国々は次々と「近代化」していきます。この「近代化」というトレンドは「法則じゃない」のでしょうか。
日本では戦前皇国史観が主流だったようです。今でもその傾向は存在します。朝廷への尊皇度が「法則」になります。朝敵だったから滅んだ。尊皇の度が低いから駄目だったという法則です。
戦後建前上はこの法則は否定されました。否定は、あくまで建前で、今でも同じようなことを主張する人はウヨウヨいます。
しかし形式的には否定され、そして唯物史観が主流になりました。封建制を経て、近代化し、資本主義になり、その資本主義が最高点に達したところで社会矛盾が解決できなくなり、共産主義に向かうという「法則」です。
「共産主義に向かう」ところは日本にとっては未来ですから、そこはあまり言われません。むしろ経済から社会の動きを見るという形になりました。唯物史観も建前上は否定されましたが、経済や民衆の生産性から歴史を見る事自体は、方法の問題なので、これも当然生き残っています。
どっちにせよある程度の「法則はある」ということで進んできたわけです。
ところが「建前上であっても」、2つとも否定されてしまいました。とどのつまり、法則はないということになっていきます。すると歴史の叙述が難しくなります。事件だけを並べるわけにはいかないからです。で、法則に変わって、権門体制論とか2つの王権論とかが言われているようです。それについては叙述しません。叙述する力がありません。
「法則がない」にしては、世界の国々はグローバル経済によって「同じような国」に向かって進んでいるように見えます。伝統や宗教を乗り越えて、進んでいるように見えるのです。その反動として、日本でも各国でも、伝統主義の復活は一部見られます。しかし大きな流れとしては、効率的な経済システムを目指して進んでいます。
しかし日本史学者の記述は、どんどん「法則を見つけない」という方向に向かって進んでいるように見えます。「偶発的だった」「たまたまだ」「そんな劇的なことはないよ」「突発的でしょう」と言うと、なんだかトレンドに乗っているように見える。そしてそういう叙述をする学者が増えている。
ただでさえ「専門を絞りに絞って」、通史を書かず、非常に細かいところにこだわって研究をする学者が存在する。それに加えて「偶発的だった」という叙述が増える。これでは歴史というものを「つかむ」ことができなくなっていくのではないか。そんな危惧を抱きます。
浅井長政が「あさい」か「あざい」かなんてことがそんなに問題なんでしょうか。日本史の核心なんでしょうか。どーでもいい問題に思えてなりません。
いまこそ通史を、と思いますね。学者さんには、もっと大きく歴史をみて、日本史全体の中で、どう位置づけられるかの叙述をしてほしい。素人としてはそう思います。
日本では戦前皇国史観が主流だったようです。今でもその傾向は存在します。朝廷への尊皇度が「法則」になります。朝敵だったから滅んだ。尊皇の度が低いから駄目だったという法則です。
戦後建前上はこの法則は否定されました。否定は、あくまで建前で、今でも同じようなことを主張する人はウヨウヨいます。
しかし形式的には否定され、そして唯物史観が主流になりました。封建制を経て、近代化し、資本主義になり、その資本主義が最高点に達したところで社会矛盾が解決できなくなり、共産主義に向かうという「法則」です。
「共産主義に向かう」ところは日本にとっては未来ですから、そこはあまり言われません。むしろ経済から社会の動きを見るという形になりました。唯物史観も建前上は否定されましたが、経済や民衆の生産性から歴史を見る事自体は、方法の問題なので、これも当然生き残っています。
どっちにせよある程度の「法則はある」ということで進んできたわけです。
ところが「建前上であっても」、2つとも否定されてしまいました。とどのつまり、法則はないということになっていきます。すると歴史の叙述が難しくなります。事件だけを並べるわけにはいかないからです。で、法則に変わって、権門体制論とか2つの王権論とかが言われているようです。それについては叙述しません。叙述する力がありません。
「法則がない」にしては、世界の国々はグローバル経済によって「同じような国」に向かって進んでいるように見えます。伝統や宗教を乗り越えて、進んでいるように見えるのです。その反動として、日本でも各国でも、伝統主義の復活は一部見られます。しかし大きな流れとしては、効率的な経済システムを目指して進んでいます。
しかし日本史学者の記述は、どんどん「法則を見つけない」という方向に向かって進んでいるように見えます。「偶発的だった」「たまたまだ」「そんな劇的なことはないよ」「突発的でしょう」と言うと、なんだかトレンドに乗っているように見える。そしてそういう叙述をする学者が増えている。
ただでさえ「専門を絞りに絞って」、通史を書かず、非常に細かいところにこだわって研究をする学者が存在する。それに加えて「偶発的だった」という叙述が増える。これでは歴史というものを「つかむ」ことができなくなっていくのではないか。そんな危惧を抱きます。
浅井長政が「あさい」か「あざい」かなんてことがそんなに問題なんでしょうか。日本史の核心なんでしょうか。どーでもいい問題に思えてなりません。
いまこそ通史を、と思いますね。学者さんには、もっと大きく歴史をみて、日本史全体の中で、どう位置づけられるかの叙述をしてほしい。素人としてはそう思います。
2回見ただけなので、武士の棟梁という一点のみをテーマにして短く。
予想通り「武士の棟梁」という言葉が重要ワードになってきました。「武士の誇りを忘れぬ男・明智光秀」、、この言葉を聞いた時、私は随分考えて、それでも理解不能でした。武士の誇りというのは江戸武士的(観念的)で、戦国時代の武将で「大河において」ですが、そういう観念にこだわった人物をあまり思いつきません。真田の誇りとか上杉の誇りなら分かります。明智の誇りでも分かる。でも武士の誇りを「戦国武将が口にする」というのは、長く大河を見ている私にとっては驚きです。実際例えばこの作品でも斎藤道三は武士の誇りなんて言葉は全く口にしていません。わが子高政は嘘つきだから醜いとは言っています。でもおそらく道三の方が嘘つきです(笑)
十兵衛だけが何故か(実はその理由はおぼろげに分かっていますが)、道三から「ほこり」のみを継承するのです。本来なら兵の駆け引きとか、政治のやり方とか、権謀術数を継承するのが普通でしょう。そういうのはまるで継承しない。そして道三を「誇りの人」にしてしまい、「誇り高く、誇り高く」と考える。番組のプロデューサーが「武士という桎梏にとらわれ」と言っています。桎梏は足かせです。十兵衛はまるで「武士の誇り主義者」として振る舞うしかなく、柔軟な発想も自然な発想も「できにくく」なっている。嘘すらつけない。いつも本当のことを言う。
この「武士の誇り」主義が、本能寺に繋がることは明確だと私は考えます。
まあ正直に書くと「なんか変な人になってきてしまったな」というのが感想です。誇りのために生き、誇りのために死す。「〇〇の誇り」発揚のプロパガンダ作品ならそれでもいいのですが、大河でそれをやってほしくはない、というところです。もっと柔軟で変幻自在で、活動的で、人間味があって、、例えば真田丸の真田昌幸(草刈正雄さん)なんかはそういう人物で、わたしにとってはああいう人が、大河の主人公としてはふさわしいように思います。「観念にとらわれすぎ」ということです。大河は時代を映します。これも時代の反映なのか?(どうにもこの設定はおかしい、そうなるとそのおかしい事自体に意味があるはずだ。そう考えた時、このブログの次に書いた「隠されたメッセージ」という考えが生じてきました)
といってこの作品を否定する気は全くありません。むしろ大好きです。同じ回を何度見直すかわからないほど見ています。十兵衛を愛するがゆえに、もっと十兵衛を気楽に自由に、というより痛快に活躍させてほしいのです。
本能寺は「武士の誇りをめぐっておきる」ことも明確になってきたと思います。「十兵衛の誇り」ではなく「武士の誇り」です。だから十兵衛が個人的に「頭を叩かれた」とかいうことではありません。信長がもっと根源的に武士の誇りを奪うような存在になっていく。単に将軍を追放するとかいうことだけでなく、もっと根源的に。具体的にどういう形をとるのか。それは上洛以後の信長の描き方を見ないと分かりません。皇帝のような存在になろうとするというのも考えられます。そして名誉ある武士が、単なる「皇帝の手先に過ぎなくなる」とか。まあこれはないかな。でも皇帝だと、天皇をしのぐことになりますから、これも問題となる。史実としては正親町とは協力関係ながら、金銭的には信長がパトロンです。だから金銭的には「既にしのいでいた」わけで、そこは問題じゃないのですが、ネット世界の今の思想傾向を見ると「問題にする人がいるだろう」ということです。もっとも十兵衛の朝廷・天皇に対する考えは、今の時点では分かりません。公家と対面したことないからです。
イロハ大夫のいう「武士なんていなくなればいい」という言葉、信長が言った「戦が嫌いという言葉」が伏線として機能していくのかなと思います。そして、まあこれはあっと驚く裏技なんで使わないでしょうが、光秀そのものが「武士の時代を終わらせようとする。武士のほこりを守るために。」という飛躍的展開も、1%ぐらいあり得るかなと思っています。
予想通り「武士の棟梁」という言葉が重要ワードになってきました。「武士の誇りを忘れぬ男・明智光秀」、、この言葉を聞いた時、私は随分考えて、それでも理解不能でした。武士の誇りというのは江戸武士的(観念的)で、戦国時代の武将で「大河において」ですが、そういう観念にこだわった人物をあまり思いつきません。真田の誇りとか上杉の誇りなら分かります。明智の誇りでも分かる。でも武士の誇りを「戦国武将が口にする」というのは、長く大河を見ている私にとっては驚きです。実際例えばこの作品でも斎藤道三は武士の誇りなんて言葉は全く口にしていません。わが子高政は嘘つきだから醜いとは言っています。でもおそらく道三の方が嘘つきです(笑)
十兵衛だけが何故か(実はその理由はおぼろげに分かっていますが)、道三から「ほこり」のみを継承するのです。本来なら兵の駆け引きとか、政治のやり方とか、権謀術数を継承するのが普通でしょう。そういうのはまるで継承しない。そして道三を「誇りの人」にしてしまい、「誇り高く、誇り高く」と考える。番組のプロデューサーが「武士という桎梏にとらわれ」と言っています。桎梏は足かせです。十兵衛はまるで「武士の誇り主義者」として振る舞うしかなく、柔軟な発想も自然な発想も「できにくく」なっている。嘘すらつけない。いつも本当のことを言う。
この「武士の誇り」主義が、本能寺に繋がることは明確だと私は考えます。
まあ正直に書くと「なんか変な人になってきてしまったな」というのが感想です。誇りのために生き、誇りのために死す。「〇〇の誇り」発揚のプロパガンダ作品ならそれでもいいのですが、大河でそれをやってほしくはない、というところです。もっと柔軟で変幻自在で、活動的で、人間味があって、、例えば真田丸の真田昌幸(草刈正雄さん)なんかはそういう人物で、わたしにとってはああいう人が、大河の主人公としてはふさわしいように思います。「観念にとらわれすぎ」ということです。大河は時代を映します。これも時代の反映なのか?(どうにもこの設定はおかしい、そうなるとそのおかしい事自体に意味があるはずだ。そう考えた時、このブログの次に書いた「隠されたメッセージ」という考えが生じてきました)
といってこの作品を否定する気は全くありません。むしろ大好きです。同じ回を何度見直すかわからないほど見ています。十兵衛を愛するがゆえに、もっと十兵衛を気楽に自由に、というより痛快に活躍させてほしいのです。
本能寺は「武士の誇りをめぐっておきる」ことも明確になってきたと思います。「十兵衛の誇り」ではなく「武士の誇り」です。だから十兵衛が個人的に「頭を叩かれた」とかいうことではありません。信長がもっと根源的に武士の誇りを奪うような存在になっていく。単に将軍を追放するとかいうことだけでなく、もっと根源的に。具体的にどういう形をとるのか。それは上洛以後の信長の描き方を見ないと分かりません。皇帝のような存在になろうとするというのも考えられます。そして名誉ある武士が、単なる「皇帝の手先に過ぎなくなる」とか。まあこれはないかな。でも皇帝だと、天皇をしのぐことになりますから、これも問題となる。史実としては正親町とは協力関係ながら、金銭的には信長がパトロンです。だから金銭的には「既にしのいでいた」わけで、そこは問題じゃないのですが、ネット世界の今の思想傾向を見ると「問題にする人がいるだろう」ということです。もっとも十兵衛の朝廷・天皇に対する考えは、今の時点では分かりません。公家と対面したことないからです。
イロハ大夫のいう「武士なんていなくなればいい」という言葉、信長が言った「戦が嫌いという言葉」が伏線として機能していくのかなと思います。そして、まあこれはあっと驚く裏技なんで使わないでしょうが、光秀そのものが「武士の時代を終わらせようとする。武士のほこりを守るために。」という飛躍的展開も、1%ぐらいあり得るかなと思っています。