ハナウマ・ブログ

'00年代「ハワイ、ガイドブックに載らない情報」で一世を風靡した?花馬米(はなうま・べい)のブログです。

五輪組織委はドラッカーが見た「職員会議」か

2021年02月11日 | 沈思黙考

また思い出したように問題発言をして騒がれ、その職を辞する人物がいる。しばらくぶりに出た発作のようにも思えたけれど、たとえ彼がその職を辞したとしてもこの種の問題は必ず今後もどこかで起きるはずだ。なぜなら彼のような人物を支える一群の人々がこの国に厳然と存在しているからだ。

問題発言の周辺

かねてから「その種」の問題発言が多かった人物が、しばらくぶりにその思想を披露するような発言をして世間を騒がせている。その種とは、女性蔑視を含む前時代的で独善的な世界観である。
今回は女性蔑視という、あくまでもひとつのカタチで表出したわけだが、こういった思想を持つ人物は21世紀の日本にも決して少なくはない(女性蔑視問題に限って言えば、こういった思想を支えている人々には、少なくない割合で日本女性が存在しているということも忘れてはならない)。

今回の問題発言についてはすでに各方面から指摘されているように、彼個人の問題もさることながら、こういった人物が支えられてしまう日本社会そのものが国際的評価を低落させ、非難や孤立を招きかねないという本質的な問題がある。

さらに一歩踏み込んで言うならば、アジア各国を中心に懸念が広がるという面もある。
「やっぱり日本は(日本人は)戦後70数年を経て、再び軍事国家への道を歩みだそうとしているのか」といった危惧が常に彼らの腹の底にあるからだ。何をバカなと思う人もいるかもしれないが、世界史を知る人にとっては不自然でも何でもないストーリーである。

彼の生い立ち、経験

彼は筆者と同じ石川県の出身で、石川県能美郡根上町(のみぐん・ねあがりまち)の地元の名家の長男として生まれている(現在は石川県能美市、父は根上町長)。
小学生時代から困った乱暴者だったようで、イジメの度が過ぎて交番へ連れていかれるほどだった。しかしこの時、「町長の息子」という立場を慮(おもんぱか)って警官の前で彼を激しく怒鳴りつけ、殴りつけた教師との出会いは、その人格形成に小さくない影響を与える。

一定の勢力がある集団の中の困った存在、という構図はめずらしくはないが、その後ラグビーに出会って本気でこの道を進もうと決心する。早稲田大学のラグビー部に入るものの、全国レベルの厳しさについていけず退部を決意する。しかしこの時もまた恩師の言葉によって、彼は救われている。

社会に出るまでの短い期間ではあるけれど、彼はかなりの問題児であったにもかかわらず、様々な人々との出会いで救われるという強烈な経験を何度もしてきている。
そして政界に入れば、やはり誰かの引き上げや有力者への紹介など、それこそ「恩義」や「人情」といったような評価軸、価値基準が、彼の人生観や世界観を形作っていったであろうことは想像に難くない(そういえばつい先ごろも、銀座のクラブにいたのは自分だけだった、と国民の前でウソを言って新人議員をかばおうとした人物がいた。一瞬、被災地で暴言を吐いた当時の復興大臣かと勘違いしたけれど)。

じつは彼を支持する人々の多くは、彼の面倒見の良さを挙げる。彼流の細やかな気遣いが周囲の人の心にしみているようである。もちろん個々のエピソードだけを拾い集めれば、一編の美しい偉人伝でもできそうな気はする。
しかしどんなに優れた人物であったとしても、どんなに温かい人格を持っていたとしても、その人物にいつまでも黙って付き従っていく人間たちの姿は、およそ民主的なものとはいえない。
こういった、悪党のイメージと温かな人情味が共存する様子は、田中角栄を彷彿(ほうふつ)とさせるが、見方を変えれば自分の言う事を聞く者、服ふ(まつろう)者は可愛がり、そうでない者は徹底的に排除するという考え方ともいえる。

ドラッカーが見た職員会議と東京2020組織委員会

【筆者注:この項では筆者の過去の投稿の一部を下敷きにしています】

ところで、ピーター・F・ドラッカーといえば、ほとんどの人は「経営の神様」といった位置づけで理解していると思う。
しかしドラッカーは経営の神様である前に、社会の自由や民主主義といったことに対する思想人であった。

ドラッカーは1909年、ドイツの南隣に位置するオーストリアの、比較的裕福でインテリジェンスの高いユダヤ系家庭に生まれている。若い時期にドイツに移り21歳で、当時国内で最もリベラルであったフランクフルト大学の講師を務めるようになる。
そしてほぼ同じタイミングでヒトラーが率いるナチスが政権を握っている。

ある日、大学にヒトラーが送り込んだナチスの党員がやってきて、全教員を集めた席で「明日からユダヤ人教員は出ていけ」という。
ふつう、職員会議の席でそんなことを言われた講師たちは唖然としたり反発したりするはずだ。しかし、いつも高い問題意識を持ち積極的に意見を言うノーベル賞クラスの講師ですら黙り込んでしまったという。それどころかこの講師は「少なくとも私の研究費はいただけるんですよね?」と発言したのだ。
この様子を見ていたドラッカーはかつてない激しい嫌悪を抱いたという。そうしてドラッカーの親友たちは、その流れに与しようとしないドラッカーを避けるようになり離れていったという。

ナチスの体制を嫌悪し、それに沈黙してしまう人々に失望した若き日のドラッカーは、こうした出来事をきっかけにドイツを後にアメリカへ渡るのである。

変わるべきなのは誰なのか?

日本オリンピック委員会(JOC)の会長で、東京2020組織委員会の副会長も兼務する山下泰裕氏は記者会見で、今回問題となった発言の場に居合わせた一人として、その時の状況を説明した。
山下氏の話によれば、評議委員会が終わった後のタイミングで、約40分間にわたって「演説」が始まったのだそうだ。合計何人が集まった場なのかはわからないが、いわば本編の評議委員会が終わった後に約40分間も滔々(とうとう)と独演会をやれてしまう異常さに、筆者は前述の職員会議の様子を重ね合わせていた。

問題発言をした本人もさることながら、その人物や発言に対して(いままで)沈黙していた周囲の人々の存在はきちんと考えなければならない。
特に今回は組織委員会という、規模も公共性も圧倒的に大きい組織の会合出席者として、国民からその意識や資質を問われなければならない。
「謝罪」会見の直前約3時間、組織委員会事務局にいた本人はすでに辞意を固めていたらしいが、そのとき「しっかり私たちも支えますから」とか、「ここで辞められたら日本の信用もなくなる」「5,000人の組織(自分たち)はどうなる」と食い下がったらしい人々である。

国際社会の常識では黙っていることは同意したことになる。しかし閉鎖的な集団の中ではそうでもない場合がある。
「誰のおかげでオマエの今があるか、わかってるよな」という無言の圧力がかかっている集団内では、たとえ同意はしていなくとも沈黙することが自分を守る手段となる。こういう集団を、規模の大きさを問わず「ムラ社会」と呼ぼう。
しかし、組織委員会がムラ社会であっていいわけはない。密室で会議をしたり、「本編」とは別のところで方向性が決まったりするということ自体が異常である。
そもそも組織委員会という集団は、やや品のない言い方をすれば、オリンピックで動く巨額のカネやウマミをどう分配するかを決める組織ともいえる。そしてこの組織は、マーケティング専任代理店として電通を指名している。
なんだかいつもの「日本の風景」という気もしてくる。

しかし引いて考えてみた時、まだまだ日本という国自体がムラ社会なのかもしれない。社会の仕組みがムラの論理で作られ、ムラの論理で運営されているのである。その方が都合がいい人たちが存在するということでもある。
科学技術をはじめ多方面で世界から高い評価を集めている日本、日本人は、いっぽうで「やっぱ日本人ってのは、根っこは未だにああなんだよね」と失望気味に見下されていることに敏感でなければならない。

武士(もののふ)の晩節

「日本人は農耕民族の血を引いているから、おとなしいのだ」というようなことがまことしやかに言われるけれども、日本史をよく見れば決してそうではないことがわかる。農民が団結して為政者、権力者に実力行使をした例は多数存在する。
もちろん今の時代に実力行使は考えられないが、問題意識を持って知識や情報を集め、議論し、自分の頭で考えて発言していく姿勢は大変重要である。それこそが民主主義の前提条件である。

自らの血を流し、自らの手で勝ち取ったわけではない民主主義だからこそ、日本人は今後も継続的に問題意識を高めていく必要があるだろう。国民の問題意識が低い民主主義国家は、事実上の独裁的国家になりやすいし、またそうなりつつある状況にも鈍感である。
以前、「つまり日本の民衆は情報を鵜呑みにするアホということだ」というような発言をした与党の重鎮がいた。悲しいけれど全面的に間違いでもない気がしてしまう。

義理と人情と暴力的なまでの実行力、そしてそこに至るための手段としての優しさや気づかい。これが彼の人生観、世界観だったのだろうか。幼いころから怒鳴られ殴られる中で培われてきたその人生観は、いつしか国家神道的な思想とも融合し、現在の彼の思想となっているのではないだろうか。

過去の総理時代、「日本は天皇を中心とした神の国」といった発言をしたり、えひめ丸遭難事故の報に接してもゴルフを続けていたことなどで批判が高まり、ついには総理を辞することとなった。「総理になったのも天命、その職を辞したのも天命」と本人は言っているそうだ。ならば今回の会長辞任も天命と心得たのだろうか。

「晩節を汚(けが)す」という言葉がある。
組織委員会の会長を辞任することが彼自身の意思であるかどうかにかかわらず、あのまま居座り続けたとしたら、そうなっていた可能性は高い。
せめて今後、潔い武士(もののふ)としての生き方をしたならば、きっと美談を含めた偉人伝の方が歴史の中で比重を増してくることだろう。そうすれば彼の信念は少なくない人々に一定の理解をしてもらえるのかもしれない。それはこの先の処し方如何で決まるのではないか。
彼が愛する孫娘はその立場上、会社を辞めるとまで言って相当に苦しんでいるらしい。彼女のためにも郷土の為にも、彼の晩節に注目しておきたい。
同時に、国民の代表から「国民はアホ」などと言われない、しっかりとした問題意識と判断力を持つ日本人であり続けたい。


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