この6月末にようやく、あおり運転に対する厳しい罰則をともなった法律が施行される見通しだ。しかし、そういった「よからぬ者」の何割かは、懲罰を与えて反省させ教育しても効果はなく、むしろ社会的に「養護・治療」すべき者も存在するのではないか。
ある1冊の本
本稿のタイトルや冒頭の文章でピンと来た人もいるかもしれない。
「ケーキの切れない大人たち」とは、精神科医で大学教授の著者による「ケーキの切れない非行少年たち(宮口幸治著/新潮新書)」にヒントを得て、私が勝手に作ったフレーズだ。
この本では、少年院に入っているような重い罪を犯した非行少年たちの、精神的な面にスポットを当て、彼らの認知機能、発達障害といった観点から分析、考察をしている。
そして彼らを単純に「ふまじめ」「努力が足りない」といった評価をして、反省を促してみたり、教育し更生させようとしたりすることの限界を述べたものだ。
「ケーキの切れない...」とは、著者が少年院に入所している子どもたちの検査を行った際、丸いケーキを3人で平等に分ける方法を課題として出したところ、例えば上図のように回答する子が一定数認められたことに由来している。それはどうやら、本当に3等分ということが理解できず、そもそもこの世の中が歪(ゆが)んで見えてしまっている子が存在するということらしいのだ。
つまり非行の根本的な原因が、その子の脳の問題である場合があり、その場合には彼らを排除・隔離したり、懲罰を与えることには意味がなく、むしろ社会が積極的に養護・治療するべきだ、という考えである。
認知機能について筆者はよく、「この世の中の見え方」と呼んだりしているが、その子の認知機能に問題があるということは、世の中が歪んで見えてしまっていると言える。
そもそもこの世が歪んで見えてしまっている彼らは、「非行少年」というレッテルを貼られ、再教育が必要な「悪い子」として分類される。そうして少年院などの矯正施設へ送られる。そこで注意、指導、教育、懲罰をうけることになるのだが、じつはその意味がさっぱり理解できない。
しかし反省したフリをしておけば、とりあえず苦しい懲罰環境から解放されるということはわかる。ところが解放され一般社会に戻ったとしても、この世が歪んで見えているということについては、まったく変わっていないため、再びトラブルを起こすことになってしまう。
つまりこういった実態は、決してその子のためになっていないし、社会のためにもなっていないという考えだ。そして彼らは(彼らにとって)わけのわからないこの世を苦しみながら生きつづけけるほかない、というのだ。
さらにこういった問題は少年院などに限った問題として済むものではなく、虐待する親や、一般の学校教育にも視野を広げて議論されるべきであるともしている。
少年はやがて大人になる
たとえば小学校低学年ぐらいの頃に、「ちょっと変わった子」とみられて親がその分野の医師に相談すると、医師は「特別な療育環境が必要」と判断したり、「一般的な教育課程でよい」と判断したりするのだそうである。
では、その判断基準は何か。
それは素人が語れる単純なものではないのだが、ひとことで言えばやはり知能指数であるらしい。
そしてその基準となる数値、すなわち「この数値より下だと、特別な療育環境が必要」と判断されるラインが、近年引き下げられているというのである。
つまり、以前なら特別な療育環境を必要とされた子が、通常と同じ教育でよいと判断されるようになったということである。
もちろんこのことが即座に「問題」であるとはいえない。あらゆるタイプの人々が、ともに生きようとするのが人間社会であり、そういった社会の中で生きるからこそ人間でもあるからだ。
ただ、だからこそ一定の秩序も必要なわけで、「あおり運転」などといった、積極的に社会に不利益をもたらしてしまうような人物に対しては、何らかの社会的対応が必要となる。
以前なら本人に適した専門的な療育環境で育っていたであろう子どもたちが、通常の教育を受けて大人となり、社会に出てきているのだとすれば、もしかしたら「社会の中に、一般的とはいいがたい人々が増え始めてきている」という心構え、理解も必要なのかもしれない。
懲罰よりも養護・治療が必要な「あおり運転者」
あおり運転という行為が社会的に非難されることについては、誰しも異論はないだろう。そしてそういった行為をした人に対しては、何らかのペナルティを与えるということにも疑問はないと思う。
加えて「運転免許の即取り消し」、「新たに免許を取りなおすことができない欠格期間の適用」、「罰金や懲役」といったペナルティ、そしてこういった制度が社会に存在するということの抑止力は、本人の反省や更生を期待して設けられているものだろう(罰則は無事故でも適用、6月末から)。
しかし、あおり運転をするような者の中には、そもそも反省や更生というものが期待できない者、それよりも養護や治療を必要とする者も一定数存在するのではないか、と考えるのである。
あおり運転については以前、本稿とは別のアプローチで取り上げているが、あおり運転に至ってしまうその人物の思考パターン、運転中に出会う様々な外界からの刺激に対する反応の仕方にも、専門的な研究や議論が深められるべきだと考えている。
それは、少しでも自分の思い通りにクルマを走らせられないと、直ちに怒りと攻撃という部分に思考が短絡し、それが加速度を持ってしまい、抑制も効かなくなるという、「脳のクセ」とでもいうものに対する社会の関心の高まりである。
言い換えれば自動車運転免許を所持している、「ケーキの切れない大人たち」の存在を考えるということでもある。