もしかしたら、すでに NHK の「ことばおじさん」が取り扱っているネタかもしれません。よく、意見を求められた人が答えるときに、「・・・かな、と思っています」といヤツです。
これはまぁ、自分の意見を述べるにあたって、相手に押し付けるような印象を和らげ、やや謙遜気味に意見を述べるという気持ちの表れとも言えそうです。そう考えると、なかなか日本人的な奥ゆかしさというか、謙譲の美みたいなことにもなるのかもしれません。
しかし、ある程度地位のある人の発言や、ある状況下で責任を負う立場の人の発言の中に出てくると、どうも苛立ちにも似た違和感を覚えるのであります。
たとえば小学生が何らかの被害に遭ったとき、校長先生や教育委員会の人が、
「今後は地域パトロールなどを強化することが大切かな、と思っております」
と発言してみたり、政治家が
「大変な思いをされている方々のためにも、早急な対応が必要かな、と思っております」
などというのを耳にした時です。
リーダーや責任者なのであれば、「と思います」「と考えます」「○○します」と、なぜハッキリ言いきることができないのだろうか、と思ってしまうのです。
「あの時はあくまで、そうかな、と思っただけでございまして、そうではないかな、ということもあるわけでございまして・・・」
などと、答弁するつもりなんでしょうか。なんだか、どう転がっても責任は取らないで済むように生き残ろう、という何とも情けない、覚悟の決まっていない根性が透けて見えるようです。
「説明責任」という言葉が十数年前ころから日本で使われるようになってきました。しかし、この言葉の意味はおそらく、Responsibility に対する Accountability の訳だったのではないかと思うのです。
Responsibility は、一般的に言われる責任ということで、失敗の責任を取って降格を受け入れるとか、辞任するとかいう時の責任でしょう。
Accountability を「説明責任」と訳したのは苦肉の策だったかもしれませんが、「説明責任を果たせ」などと求められた人間は「私ぁちゃんと説明してますよ、こうで、ああで...」となってしまいがちです。説明すればそれでいい、ということになりがちです。
しかし、Accountability とはそういう発想ではないはずです。
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ある人が、何らかの根拠をもとに一定の判断を下した。そして結果が出た。これが成功であれ失敗であれ、「あのとき、なぜそのような判断をするに至ったのか」という、判断に至る道すじの説明こそが Accountability というものではないでしょうか。
Accountability という言葉の背後には、たとえ物事が失敗したとしても、その判断のある時点までさかのぼって再検討すれば、今度は失敗しないようにやることができる、という考え方があります。間違ったところまで立ち戻ってやり直す、ということです。
Accountability という言葉には、失敗をきちんと分析し、次回に、次世代につなげていこうとする考え方があるように思います。決して人をとらえて、どうこう言うのではなく、問題のみをとらえて、時代や世代を超えて継続的に改善していくための方法という思想です。
間違った(かもしれない)判断者の罪状を白日の下にさらし、叩きのめすための「説明」なのではありません。
日本では21世紀に入ってもまだ、「責任」という言葉の概念が、失敗者を叩きのめすための、刑罰としての論理以外の何物でもない気がします。
そのため Accountability の翻訳であろう「説明責任」もまた、叩きのめすためのツールとなってしまっているような気がします。
そして「説明」する側も、そんな世間の受け取り方、ものの考え方がよくわかっているからこそ、自己保身的な説明に終始してしまうのかもしれません。
自分たちより強い立場にある人、攻撃しやすい人が失敗したら、完膚なきまでに叩いて溜飲を下げ、そうして話題性が薄らいでいき、ついには問題の本質を忘れてしまう。そして同じ失敗を繰り返す。もしこの思考パターンがこの国の多数派であるとすれば、なんと未熟な集団であろうか、というところまで考えてしまうのであります。
もちろん、マスメディアにも責任の一端はあるでしょう。震災復興の報道を注視しているとわかりやすいかもしれません。
震災から1ヶ月たち、3ヶ月経ち、だんだんと復旧が進んでいく。時には希望的なニュースも入る。最初は悲惨なニュースが9、希望のニュースが1だったものが、彼らが夢想する「復旧復興のシナリオ」に則って、悲惨なニュースを6に、希望のニュースを4にしていくというような、無意識のコントロールをしてしまうという特性です。
場合によっては、そうあるべきだと確信してコントロールしている可能性すら考えられます。
しかし現実というものは、メディアが切り取れるものでもなく、それを視聴したり読んだりして、全体が理解できるような単純なものであるはずがありません。
一生、重荷を背負っていく人。愛する人のもとへ自ら旅立つ人。逆にあっけらかんとしていられるのに周囲の状況によって仕方なく、あるいは意図的に悲惨な立場をアピールしている人。一連の災害によって思わず、または意図的に仕掛けた結果として、ニンマリとしてしまう表情を押し隠そうとしている人。
じつにさまざまであり、混とんとしているのであって、きちんと整理してとらえようとすること自体、矛盾しているのかもしれないと思えるほどです。
「・・・かな」と思わず言ってしまう人に出会ったら、それは奥ゆかしさの表れ、遠慮や配慮としての「かな」なのか、責任を取ろうとしない人格の表れなのかを見きわめていきたいと思うのです。
単に溜飲を下げるために説明を求めるのではなく、判断過程・意思決定過程としての説明を求め、マスメディアに対しては Accountability としての説明をきちんと責任者に正しているかどうか、見ていきたいと思うのです。
これはある部分、上司が部下に対して、親が子に対して接するときの心構えと近いものかもしれません。
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いやしかし、またまたカタい話題になってしまいました。
写真はせめて気楽にということで、テング印のコーンチップスであります。近所のローソンで売っていたので、「懐かしく」購入してしまいました。
ハワイ土産の定番としては、チョコやナッツが多いですが、狂牛病問題以前はビーフジャーキーもよく買っていました。なかでもこの Tengu Brand は ABC ストアにも DFS ギャラリアにもたくさん並んでおり、ごっそりまとめ買いする人が少なくありませんでした。
ところがあるころから、フッとこのブランドを見かけなくなってしまいました。理由はよく知りませんが、日本人や日系人にとって印象的なこのブランド。コーンチップスそのものにはビーフジャーキーは使用しておらず、あくまでも「味のイメージ」としての表現なのだそうですが、明日もまたローソンへ行ってしまいそうな気分なのであります。
あ、2枚めは、NHK 筑波山中継所の中の黒板です。どんな世界でもそうですが、華やかな舞台には必ず見えないところで支えている人々がいるのでありますなぁ~(涙)。
今時は「断言する」ことがカッコ悪いとかみたいな風潮もあるからなのでしょうか。
単なる話し言葉の流行で使っているとしたら、それに乗っかってる大人もどうなのよー?とも思います。
確かに、ある程度の高い位置にいる責任者が、「・・・かな」と、それも「かな」の部分で小首をかしげたりするのをよく見ますよね。えらく子どもっぽいなと気になっていました。何もこんな幼稚な言い方をしなくてもと。発言に自信がないとか、逡巡している気持ちを表しているのだとしたら、単なる頼りない人ですし。
意図を見極めるのは難しいですね。
この「かな」は、人の心の配慮のためなど良いほうに上手に使う言葉限定にしてほしいですね。
筑波山の黒板メッセージ、こういう普段目にしないものって読むの面白いです。
「~することとします」って断言して書いてあるのがなんだかカッコよく感じるなあ。
先週、ハワイ観光から帰国しましたが、そういえばテングジャーキー全く見ませんでした。狂牛病の影響・・・かな?
では失礼しました。
羨ましいことであります。
TENGUブランドのビーフジャーキーは、いったいどうなったんでせうね。
見かけなくなると、ムショーに欲しくなってみたり...。