ハナウマ・ブログ

'00年代「ハワイ、ガイドブックに載らない情報」で一世を風靡した?花馬米(はなうま・べい)のブログです。

原子力発電をどう考えるか

2011年06月28日 | 沈思黙考

東日本大震災は災害としての規模も大きいですが、今回のことによってわたしたちが考えさせられる問題もたくさんあり、それぞれが、そう単純に結論を出せるものではないという感じがしています。

「自然災害」とは、そこに人間がいるから「災害」なのであり、そこに人がいなければ、「自然現象」ということになります。今回は始めに大きな地震があり、そして大津波がありました。ここまでは、自然現象が自然災害となってしまったといえます。
では原子力発電所はというと、自然現象ではなく、人為的に作られたものや仕組みによって災害につながってしまったということになります。

大震災についていはさまざまに考えるべき問題、側面がありますが、今回は原子力発電について考えてみたいと思います。
しかし、「原子力発電は是か非か」といった単純で反射的な結論を求めようとするのではなく、私たちはこの問題をどうとらえていくべきなのか。何を視野に入れておかなければならないのか。という姿勢で考えてみたいと思うのです。

私は、短期的な視点、中長期の視点、国際的な視点の3つの視点が大事なのではないかと考えているところです。

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もし原子力発電所というものが存在せず、それでも必要なエネルギーを安定的に得られるのだとしたら、これは一つの理想郷といえるかもしれません。
では、現在の日本から原子力発電所がなくなったと仮定するとどうなるか。ザッと計算すると、日本国民は昭和40年ころの生活レベルを受け入れなければならないのだそうです(まぁ、この部分の計算、見積もりにもさまざまな意見があるようです)。
生活レベルに個人差はありますが、想像しただけで非常に厳しいことになります。「みんな昔の生活に戻りゃいいんや」などと、たまにウチの年寄りが言ったりしますが、豊かな時代に生まれ、それを感覚の基準として成長してきた世代にとっては、到底無理な話です。またこれは、家の中の生活だけにとどまるわけではなく、そんな生活をする人たちが集まって作る社会も、昭和40年ころのしくみとレベルにもどるということを意味しています。つまり、いまのような便利なしくみや制度すべてについて、依存や期待ができなくなるということです。
中には「自分は我慢できる、頑張れる」という人もいるでしょう。しかし社会というものは、非常にたくさんの個人の相互作用で成り立っているものなので、これは説得力がありません。
それに我慢できる人でも、現在のようなレベルの医療、警察や消防の対応、さまざまな民間サービスなどが受けられず、苦しまなくてよかったこと、悲しまなくてよかったことに、今以上に悩まされるとも考えられます。
さらに、新しい時代に必要な水準の教育を、子どもや若者に施すことも、難しくなるでしょう。そうすると日本の将来は国際的にも苦しい立場になりそうです。右肩上がりの希望ある昭和40年ならまだいいのかもしれませんが、挫折した結果としての昭和40年の再現です。
突然、忍従の生活を強いられた日本国民は、どんな行動に出るかということは想像もつきませんし、そんな日本を冷徹に眺めている諸外国が、どのような行動に出てくるかもわかりません。

政府民主党は2010年6月にまとめたエネルギー基本計画で、電源に占める原子力発電の割合を53%に引き上げるとしていました。これは、政治指導者の国際会議におけるCO2排出量25%削減発言とつながるものと想像できます。
そのころ私は静岡県に住んでいたのですが、新幹線の改札を出てすぐ目につくところに、中部電力の広告が掲げられていました。その広告には「事実、原子力発電はCO2を出さない」といったコピーが、「自然派」を強調するようなイメージ写真とともにデザインされていました。
やや、ひねくれた発想をする私はいつも「※まれに放射線を出すことがあります」というフレーズを極小フォントで付け加えると笑えるよな、と無責任に考えていました。

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風力発電や太陽光発電などで需要を賄うことができればいいのですが、それはまだ安定供給にはほど遠い状況です。そうすると現実的に頼れるエネルギーは、やはり石油・天然ガス(LNGとガスタービンの組み合わせが有望か)・石炭といったことになります。
少なくとも自然エネルギーが安定供給できるレベルになるまでの一定期間は、これらのエネルギーを考えるということが現実的な気がします。

日本が原子力発電からいっさい手を引くと決意したとしても、諸外国では事情が違います。とくに近隣国の中国、韓国、台湾などは、今後積極的に原子力発電を拡大していくことは間違いないでしょう。特に成長著しい中国ではいま、原子力発電で1,000万KWを超す能力をもっているのだそうですが、これを2030年までに8,000万KWまで上げていくと宣言しているのだそうです(※1)。
つまり、たとえ日本が原子力をあきらめる決意をしたとしても、近隣諸国で原子力発電は増える一方なのであり、それは日本にとってもリスクにつながってくるわけです。
そんなとき、「原子力はやめようよ、あぶないから」といっても、果たして国際社会の場で日本は相手にしてもらえるか、という疑問が残ります。
実際に原子力発電を行い、安全に運用し、今回のような事故があったとしてもこれを技術的な蓄積とし、日本国内で原子力に関する技術者を継続的に育成していればこそ、世界も聞く耳を持ってくれるのかもしれません。そうでなければ、アメリカ、イギリス、フランス、中国、ロシア、インドなどの核兵器を持っている主要国が、日本を排除した場で原子力発電の方向を決めていくという状況を作ってしまう可能性は、十分に考えられるわけです。

もちろん、核分裂反応によるエネルギーに頼るなどということは、将来的にこの世界からなくしてしまうべきです(※2)。しかし、今現在の日本を維持、発展させていくには、国内の事故だけを見て判断してしまうことは、非常に危険かもしれないということです。子どものために良かれと思ってやったことの結果が、厳しい日本の国際的立場を招いてしまい、そこに子どもを置いていくことになる可能性もあるわけです。

かつて、スペースシャトルチャレンジャーの爆発事故があったとき、テレビなどで打ち上げの生中継を見守っていた人々、特に爆発の瞬間を見た子どもたちへ向けて行われた、当時のレーガン大統領のスピーチの中に、「人類の輝かしい未来は、臆病者の側ではなく、勇者の側にのみあるのです(花馬米訳)」という部分があります(※3)。

悲しい事故や災害。それはつらいけれども今後も起こるのでしょう。そして「そんなもの(科学技術)なんかやめてしまえ!」という、人として、当事者として、関係者として、同胞としてあたりまえの叫びが沸き起こってきます。愛する人を思えばこそ、さらにその気持ちは強くなります。信じて裏切られたという人もいます。
被災された方々への補償や今後の支援などは、十分配慮されるべきであり、日本国民全体で(個人的には関東地方で生活・就業している人は重点的に)、自身の生活の一部として、人生の一部として、真剣にとらえていくべきだと思います。
と同時に、科学技術によって支えられ、発展している我々の生活・人生というものについて、いまいちど「科学技術とは結局なんなのか」と考え直してみる必要があると思うのです。

※1
全人代が3月14日に正式承認した2015年までの5か年計画でも、原発能力の拡大方向が確認されているようです。

※2
核分裂反応では放射線が発生しますが、核融合反応では発生しないとされています。しかし核融合反応のエネルギーを取り扱うことについては、現在の人類においては非現実的な技術といえるでしょう。またそもそも、自然にできた化石燃料を使うならともかく、原子核の中をコントロールしようとすることそのものが、神をも恐れぬ仕業とでもいう意味で、別の問題が残るかもしれません。

※3
原文は、
“The future doesn't belong to the fainthearted; it belongs to the brave.”
英語全文は、
http://history.nasa.gov/reagan12886.html

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今日のお写真は、富士山ちかくにある墓地公園で撮影したものです。
2003年の春のことです。

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