路線バスの運転手が不足しているといわれています。これも少子高齢化時代における、団塊の世代のリタイア時期ならではの現象なのかもしれません。私の周囲でも、養成制度を復活させて若手の採用を活発化させていたり、リタイアした元バス運転手を嘱託社員などの契約形態で呼び戻そうとしたり、運転手確保に必死の様子です。
路線バスの利用者は昭和40年代頃をピークに急激に落ち込み、その後ゆるやかな減少が続いています。しかし、少子高齢化社会であるからこそ、コミュニティバスや路線バスの必要性が高まっているとも考えられます。
しかし、単にかつてのOBを呼び戻して運転させることについては一抹の不安を感じています。それは運転技量の問題ではなく、その世代の運転手のサービス意識が、現在の日本社会で求められているものとは少し異なっているのではないか、と考えているからです。さらには、サービス意識の低い運転手が生まれてくる原因の一部に、じつは利用者側の意識や態度も関係しているのではないか、ということも考えてみたいと思うのです。
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少し前、路線バスの運転手が営業運転中に意識を失い、事故につながったことが報じられました。車内カメラによるリアルな映像とともに報じられたこのニュースは、特に日常的に路線バスを利用している人々に衝撃をあたえました。
と同時に、この問題には、単にバス運転手やバス会社を責めるだけでは解決できない背景があることについても、考えさせられるものでした。
だいぶ前の話になりますが、東京都営バスでお世辞にも丁寧な運転とは言えないバスに出くわし、その事業者である東京都交通局に問い合わせたことがありました。
「都営バス」といえば、路線数、利用者数、車両やシステムの先進性など、そのサービスレベルでは優秀なバス事業者といって過言ではないでしょう。事実、多くの運転手は運転も接客もていねいであり、お年寄りの利用率が非常に高いこともあって、バス停での乗降時に、客を焦らせるような態度に出ることもあまりありません。
私は10年ほど運転手をしていたこともあって、運転や接客の細かなところで運転手の気持ちの微妙な変化が読めてしまいます。その都営バスの時は、技量未熟などという問題ではなく、あきらかに運転手の個人的な感情の表れで、雑で危険なオペレーションをしており、事実車内のお年寄りがあやうくケガをするところだったのです。
私の問い合わせに出た交通局の担当者は、当然ながらていねいに、しかしざっくばらんな態度でバス運転手の状況について話をしてくれました。
私はその頃、頻繁に都営バスを利用していたこともあり、「若い運転手ほど基本に忠実で、たとえばお年寄りの着席を確認してから発車したりするが、ベテランほど荷物運びのようなオペレーションをする人が多い」ということを話しました。
これに対しその担当者は、「ひと昔前に採用した運転手は、なかなか今の時代に求められる運転や接客が出来なくて...」というようなことを語ってくれました。
またつい最近、これは横浜市内でのことですが、うっかり前方の降車扉から乗り込もうとした利用者に対して、「後ろだっていってんだよ」と言いながら、手で払いのけるような動作をしている運転手がいました。その乗客は素直に従っていましたが、客席の先頭に座っていた私は、一人で釈然としない気持ちでいました。
この地域は、たとえバス会社や車両のドア配置、バス停が同じであっても、入口や出口が前だったり後ろだったり、二か所の扉があるのに1か所で出入口としていたりとかなり複雑に変化します。また料金の支払い方にしても先払いだったり後払いだったりします。
運転する方は毎日ほぼ同じことの繰り返しかもしれないけれど、乗客はいろんな路線を乗り継いでいたり、遠方からきている場合もあります。「何べん言ったらわかるんだ」的な態度は、何とか抑えてほしいものだとも感じます。
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さて、こういった「困った運転手問題」の遠因となっているものに、利用者側の態度、意識も関係しているのではないかということを、今回考えてみたいと思うのです。
ただしこれは、バスの利用の仕組みを理解しようとか、掲示や車内放送をよく注意しておこうとか、そんなサービス提供者側の一方的な押し付けを繰り返すものではありません。
話はちょっとタクシーに寄り道します。
私が友人同様に懇意にしている個人タクシーの運転手の興味深い話がありました。
「○○(都内の有名な地域)あたりは客層が悪くてねぇ、あんまり近づかないようにしてんの。逆に六本木あたりはバブル後に落ち着いてから、意外と客層がいいよ。若い子でも運転手に対してていねいな子が多かったりするよ」
その「客層」という言葉に引っかかった私ですが、バスやタクシーの運転手の質には、その地域の「客層」も相関しているはずだ、と私は考えています。
はじめから運転手を見下すような態度や、無理な要求をしてくる利用客に対しては、やはり腹が立って当然だと思うのです。それが、たまにいるくらいならともかく、ある一定以上の割合になってきたり、たちの悪いタイプの利用者に出くわすと、運転手だって「(労働条件なども考え合わせ)やってらんない」と感じることは容易に想像できます。いきおい、運転も接客も雑になりがちだと思うのです。
私は日本全国とまではいきませんが、各地で路線バスやタクシーに乗ってみるのが好きで、客や運転手の様子、駅前ターミナルでの様子、待ち行列の客の様子、システムとしてのその地域のバス・タクシーを、じっと眺めていることがよくあります。
客層(利用マナーや、運転手に対する無理な要求など)がよろしくない地域では、運転手のサービス意識も低く、その逆もまた然り、と感じます。別の言い方をすれば、サービス提供者と利用者との間の、好循環と悪循環を各地で見せられている気分になるのです。
そしてどうやら、好循環は大都市や都市部に比較的多くみられる、というのが私の実感です。だとすると、「外からやってきた他人の集まり」とも言われがちな都市部では、じつは「公」の意識が育まれやすいのではないかというところまで、考えが深まってきます。
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もちろん、地方や田舎に住んでいる人をけなすつもりなど毛頭ありません。バスの本数も少なく、都市部とは異なるさまざまな物理的条件、社会的条件が背景にあり、それゆえ自家用車の依存度が高い地域では、そもそもバスやタクシーの存在理由が、都市部とは少し異なるということもいえるでしょう。
特に過疎化しているなど極端な場合は、みんなが顔見知りであったり、日常生活をなんとなく把握し合っていたりして、却って好循環になっているという場合もあるでしょう。
ただこれから先、少子高齢化(そしてもしかしたら移民受け入れ増大)となっていく日本において、ますます重要になると考えられる公共交通機関、ことに身近な路線バスについて、利用者側でも考えてみるべきことがあるのではないかというのが、私の考えなのです。
いま日本のあちこちで、いろんな分野で、参加者意識を見直そうというような流れが起こっているように感じます。「顔のないサービス提供者と利用者」ではなく、たまたまそのバスに乗り合わせた「私たち」という意識に心が向いていけば、利用者同士だけではなく、サービス提供者と利用者の関係にもいい影響が働くのではないか、そう考えているところです。
バスの語源である「オムニバス」とは、多様なるすべての人のために、といった意味があるのだそうです。まさに、みんなの乗合バスなのです。
ハワイオアフ島の市バスについて研究している筆者としては、少しばかり、あのハワイの路線バスのゆとりある空気が、こちらにも吹かないものかという思いでもあります。
先日、小学生がバスを降りるとき、「ありがとうございましたぁ!」と大きな声で運転手にあいさつをして降りていきました。
運転手はちょっと困ったような、しかし微笑ましい表情で見送りながらドアを閉め、緩やかに発車したのでした。
街路樹の紅葉が、いつもより美しく見えた秋晴れの日でした。
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【参考情報】
日本のバス事業(公益社団法人日本バス協会 http://www.bus.or.jp/ )
http://www.bus.or.jp/about/pdf/h23_busjigyo.pdf
バスの運行形態に関する調査(国土交通省)
http://www.mlit.go.jp/jidosha/sesaku/jigyo/bus/houkoku/chousa.pdf