7月6日、オリンピック日本選手団の壮行会・結団式が行われ力強い宣言が行われた。聖火リレーも着々と進む中、小旗を振る市民が並ぶ。
勇ましく、華々しく、世界平和を目指す人道に基づく意義あるオリンピック。
こんな様子を目にして筆者は、七十数年前の特攻隊の結団式、出征兵士を送る市井(しせい)の人々をイメージしてしまう。
出来ることなら今からでも五輪は中止・再延期して、すべてのリソースを熱海へ注いでほしい。冷たい土砂・ガレキに埋もれたまま、人間らしく食うことも排泄することもままならない人たちを横目に、お祭り騒ぎをする気にはなれない。
「たとえ矛盾をはらんでいても、そこを突破することこそが意義ある挑戦、チャレンジなのだ」とでもいう精神性が、いよいよ本格的になってきた。
当然だが挑戦は大切である。人間が人間であることの意味でもあるだろう。しかし、状況判断が出来ないまま破滅へ突っ込んでいく愚かさを学習するのも、人間のあるべき姿なのではないか。
筆者は以前、日本陸軍のインパール作戦になぞらえて「強行2020」を批判したが、どうしても戦時のイメージが重なって仕方がない。
埼玉県の聖火リレーで出発式に駆り出された正常な感覚の中学生は「応援していいのかどうかわからない」とTVインタビューに応え、感染対策を指示する自治体首長も複雑な笑顔で並んでいる。
新型コロナウイルス感染で亡くなる人は隔離状態のまま(あるいは「在宅放置」のまま)家族と手を握り合う事さえ許されず一人ぼっちで亡くなっていく。それは戦地で看取りさえ(軍律によって)許されない状況とも重なる。
そしていまも、冷たい土砂やガレキに埋もれている人が東京から100kmもないところで戦っている。
こんな状況であるにもかかわらず、「人類がコロナに打ち勝った証(あかし)」などと叫んで人々を祝祭に駆り立てようとする。いったいこれが人道だろうか。
今回のオリンピックで得たメダルがどのような意味を持つのか、筆者にはわからない。しかし複雑な精神状態で「戦地」へ送られる選手には温かいまなざしを注ぐべきではあるだろう。しかしそれは、悲しみを含んだ目であるに違いない。
アスリートは常にスポンサーや競技団体からの「誰のおかげで今がある?」という圧力に支配されている。
コロナ後を語ることも大切だが、「五輪後」に世界が、歴史が日本をどう評価するかを議論することも大切ではないだろうか。
マスメディア(ほとんどが広告ベースの民間事業者だ)は業務上、明るい笑顔でオリンピックを語らざるを得ない状況に追い込まれている。
私たちはいま、一人の人間として正常な感覚でその態度を示さねばならない。