6月22日夕刻過ぎ、東京五輪の開催都市であり主催者でもある東京都のトップが、過労と思われる理由で1週間政務を離れると発表した。激務が続いていたことは推測できるが、なにが主催都市のリーダーをここまで追い詰めたのかも気になる。
もう一つ、筆者が皮肉を込めて表現していたKYOKO2020(強行2020)によって、日本がウイルス市場の役割を果たし、パンデミックを再加速させてしまう可能性も気になる。
その際、日本を引き揚げて帰国しようとする選手や関係者を、各国が一時的に拒否するような事態となれば、病原体や患者は日本国内に封じ込められることになる。
【注意】筆者は医療従事者等ではなく、本稿では一般に公表されている情報をもとにした個人的見解を述べています。病気の予防や治療に関してはご自身の責任において判断してください。
悲観的に準備し楽観的に行動する
冒頭述べたシナリオは、あくまで妄想でしかない。
しかし、最悪の事態・展開をイメージしながら出来るだけの準備をしておくことは、個人レベルであっても決して無駄なことではない。たとえ無事にオリンピック、パラリンピックが終わったとしても、気象災害の原因と言われる地球温暖化をはじめとしたあらゆる人類レベルの課題に対して、問題意識を保ち続けられるからだ。
たまに「悪い想像をして悲観的でいるから本当に悪いことが起きてしまうのだ。よい言葉の力を信じて挑戦していくべきなのだ」といったことをいう人が出てくる。
しかし我々日本人は過去に、非科学的な精神論で突っ走った結果、様々な失敗をしてきた。さらには「あれは失敗ではなかった」などと強弁しつつ、きちんとした総括をサボりながら、世代を超えて忘却と失敗を繰り返す。
保健所の縮小をはじめとした医療や感染症に対する問題意識の低さは、令和になってそのツケが回ってきた。「在宅療養」と名付けられた病者放置が、1年半たっても改善されず今後も続きそうな現実を、我々はあらためて認識し直さなければならない。
たしかに悲観的であるより楽観的であることは大切だ。しかし楽観とは、あくまでも科学的・合理的な思考や行動の先にあるべき姿勢だ。はじめから何も考えず問題意識も持たないということでは決してない。
そこを取り違えてただ勇ましいこと、楽しいことを言っているとすれば、毎日なんらかの形でお祭り騒ぎをしていたい幼い心理であるといえるだろう。
アスリートたちも競争相手に勝つために、あらゆる科学的合理的な手段をもって最善を尽くす。そうした地道な積み上げの結果、いよいよ本番となった時に初めて「ここまで来たら、もう(競技を)楽しもうと思います!」といった楽観的姿勢にもなれるのではないだろうか。これは受験生など、人間が行うあらゆる挑戦についても通じる。
検査の限界とバブル方式
我々はどうも「検査」という言葉に過大な信頼を寄せているようだ。
たしかに検査結果を見て判断、行動することは正しい。しかしその検査が100%正しい結果を示すものでない以上、そこから導かれる判断や行動が100%正しいとは言えないことを肝に銘じておくべきだ。
くわえてウイルスがその個人の体内でどのように振る舞い、これに対して個人の生体がどのような反応を示すか、そして感染者自身がその後どのように行動するかということまで、事前にわかるわけではないということもある。
そもそも今回の感染症は、比較的小さな問題が短期間で爆発的に拡大してしまう厄介なものだという事を忘れてはならない。
今週、日本に入国した選手団の中から感染者が発見されている。ワクチン接種を済ませ陰性証明書も持っていたという(ウガンダ選手団9名のうち本稿執筆時点で2名の陽性が判明)。今後たくさんの選手や関係者が集まってくる中で、こういった事例はある程度起こりうるといっていいだろう。
そもそも感染後の検査で反応が出るようになるまでには時間がかかる。ウイルスが検出できる程度に増殖していないからだ。日本に来るフライト中に機内で感染した場合は、空港での検査をすり抜けてしまう可能性は十分考えられる。そしてそのままステイ先へ移動することになる。
現在成田空港で行われている水際検査は、ウイルスのタンパク質を検出する抗原検査である。抗原検査は30分程度で結果が出るというメリットはあるものの、PCR検査に比べて感度も特異度も高くないため「偽陽性」の事例が多くなるようだ。
ちなみに感度とは感染している人を正しく陽性であると判定できる確率のことである。つまり陽性の人を間違って陰性と判定してしまうことが極めて低いため、感度の高い検査において「陰性」と判定されれば、感染している確率は極めて低いといえる。
また特異度は、感染していない人を正しく陰性であると判定できる確率のことである。特異度の高い検査で「陽性」と判定されれば、感染している確率が極めて高いと言える。
さらに言うなら「偽陽性」と「疑陽性」は意味が異なる。感染していないのに陽性と判定されてしまうことが「偽」陽性であり、陽性と陰性の中間が「疑」陽性である。
さて選手団や関係者は、いわゆる「バブル方式」という方法によって滞在中や移動の際の安全・安心を確保することになっている。
ただこの場合、バブルの中で感染拡大が起きてしまうと、かなり厳しい状況になってしまうということも考えられる。万一そうなってしまうと、たとえは悪いが1940年代のドイツをイメージしてしまう。
またオリンピックへの協力を組織委員会から依頼されていたホテルなどでは、当初宿泊のみの依頼だったにもかかわらず、このタイミングで急きょ宿泊人数の増加、三食の提供、濃厚接触者の受け入れなどを要求されている。にもかかわらずそのために何をどうするかは具体的に指示されていないという。
口に合わない食事を提供され、深夜コンビニへ出かける選手がいても不思議ではない。
ところでちょっと気になるのはJOC(日本オリンピック委員会/山下泰裕会長)がこのところ、スッとその存在感を消し始めていることだ。
IOCからの指示なのか、それともIOC批判の受付窓口としてサンドバッグにされる危機感を持ち始めているためだろうか。
アスリートを美化しすぎるな
オリンピックに参加するすべての国の選手、出場できなかったけれどそこを目指して苦しい道を歩んできた選手、聖火ランナーも含めてそんな彼らをサポートしてきた周囲の人々。その準備段階の物語を見聞きするだけでも我々は胸が熱くなる。
しかし、だからといってアスリートが競技以外のシーンでも品行方正、模範的な人物であるとは言い切れないことを認識しておくべきだ。
オリンピックを機に、ある種の国外脱出を考えている者もいるかも知れないし、二度と来られないかもしれない憧れのJAPANに来ている以上、ひとときでも「本物の」街を楽しみたいと思うのは人情だろう。邪推だが、競技前後のストレスを発散させたい彼らを、密かにサポートする者がいたとしても不思議ではない。
アスリートは毎日その競技に全身全霊で打ち込んできており、それゆえ極度のプレッシャーがかかっていたり、また世間知らずの面があったりもする。ほとんどの場合は周囲がサポートしてくれるが、プレッシャーや常識的感覚の欠如が原因で、あるべき振る舞いを踏み外したりする例は芸能・スポーツ界ではそれほどめずらしいことではない。
日本人はわりと、武道精神につながるような日本人アスリートをイメージしがちだが、少なくとも海外選手でそのような自覚や世界観を持っている人物は少ないだろう。
オリンピック選手は競技の場では英雄かも知れないが、聖人君子ではない。選手を管理する当該国のスタッフたちもまた然りである。
まとめ
オリンピック開会の1週間前からパラリンピック閉会後の1週間は、世界中で戦争が休止になるという。
「世界平和なんてありえないぜ」などとわかったようなことを言う人よりも、「それでもそこを目指していこう」とする姿勢を持つ方がよほど人間らしい。そしてオリンピックによって一時的、局所的にでも世界が一つになる様子を、4年に1度ひとりでも多くの人間が、言葉を超えて感じることの意味も大きい。
しかしいま我々に必要なのは、理想と手段のみを考えることではなく、冷静な状況判断をすることではないだろうか。
平和な社会のためにも経済が大切であることはわかっている。しかしその大切な経済が、強欲資本主義に捻じ曲げられている状況をよく考えてみる必要があるだろう。
もし「もうここまで来た以上引き返せない」と言うのであれば、被害を最小限に抑える知恵が必要になってくる。そして、なぜこうなってしまったのかを丁寧に記録し、記憶し、事後に総括することが大切である。資本主義は本来、悲しい物語を生み出すために創られた仕組みではない。
今回のオリンピックが強欲資本主義のひとつの象徴だとするならば、そこで勝ち得たメダルには、いったいどのような意味が宿るのだろうか。