ハナウマ・ブログ

'00年代「ハワイ、ガイドブックに載らない情報」で一世を風靡した?花馬米(はなうま・べい)のブログです。

「東京地裁」と「God」と「神明」

2021年03月25日 | 沈思黙考

23日、元法相で衆院議員の河井克行被告(58)はそれまでの主張を一転、買収を認めた(議員辞職見込み)。3月3日の保釈後、親交のあるカトリック神父による「神の前で誠実であることが第一です...」という助言で決断したという。いっぽう妻の案里元議員の事件に関しては「...私と妻が共謀した事実は天地神明に誓って全くございません」と供述している。彼にとって、あるいは日本人にとって「神」や「誓い」とはいかなるものであろう。

超越的なるもの

筆者はこの報道にちょっとした違和感を持った。
買収を認める点についてはキリスト教の神を意識して考えを変えたらしいが、妻の事件とのかかわりについては天と地の神明、つまり「日本古来の」と言っていいであろう多神教の神々に誓うと言っていることになる。
揚げ足を取るつもりはないが、法相まで務めた人物が究極的な状況に置かれて本人なりに考えぬいた結果にしては、やや哲学的一貫性がない気もする。

筆者は宗教の専門家ではないが、彼の知人のカトリック神父が言う「神」とは、受肉させたイエスをこの人間世界に遣わした父なる神のことだろう。
いっぽうで神明とは複数の神様のことである。「明」は神のことであり「神明」は神々ということなのだそうだ。あらゆる場所におわす神々である。
つまり理屈で言えば、一神教の思想と多神教の思想が「一緒くた」になっているのである。

裁判所の証言台で供述するときは刑事訴状規則により宣誓をしなければならない。
「良心に従つて、真実を述べ何事も隠さず、又何事も附け加えない」ことを誓うわけだ。実際の文章は裁判所によって微妙に異なるようだが、とにかくこれを声に出して読み上げ、署名・捺印する。
まぁ平たく言えば、証言がウソだとわかった時に「お前ぇ、ウソつかねぇって言ったよな」ということで偽証罪に問うための根拠ともなるからだろう。正直に証言してもらうための効果はある。

宣誓というからには宣誓する対象が存在するはずだが、公判においては裁判官をはじめ法廷に集った人々に対してだろうし、さらに言えばこの国の国民に対して宣誓していることになるのかもしれない。
そうすると元法相の彼は、買収を認める決断をしたときの神(God)、供述前に宣誓したときの関係者たち(自然人とその社会)、妻を擁護する供述の時の天地神明と、さまざまな対象に向かって別個に「誓い」を立てていたことになる。

「誓い」ってなんだっけ?

「誓い」とか「宣誓」というものは一般人にも身近である。
ちょうどいま春のセンバツ高校野球が行われているが、スポーツ大会の始まりには選手宣誓がある。また結婚式には神仏や関係者の前で誓いを立てる(または交わす)。成人式でも誓いを立てるし、最近では小中学校で、「マトモな大人になります」みたいな言葉を言わせたり書かせたりする儀式があるらしい。
辞書によると「誓い」とは必ずしも神仏に対するものとは限らないようだから、いろんなシーンでいろんな対象に向かって誓いが立てられていることになる。

で、問題は誓ったにもかかわらず、そうならなかった場合である。
スポーツマンシップに則ると誓ったのに反則タックルしたり、添い遂げると誓ったのに離婚したり、立派な大人になると誓ったのに反社会的な人物になったりするのが人間世界の現実だ。

筆者は「誓い」は決して「契約」ではないと考えるのだが、あるいはキリスト教の考え方ではやや言葉の概念が違うのかもしれない。契約当事者が人間同士であるか、ないかの違いだろうか。
ただ一般的に契約というと明文化された契約書がある。そこには違背した場合の処置について決められていたり、そこに書かれていなくともその時代のその国の法律・慣習に従って処分が行われたりする。

しかし誓いの場合はどうだろうか。裁判所や国会などで先のような宣誓を破ると、偽証の罪にとわれる。そして誰の目にもハッキリわかる処断が行われる。
また反則タックルのような社会的関心や注目度が高い場合は、社会が一定の納得をするであろう処分が行われる。これは処分する側の立場の人間が、社会的批判にさらされるからだ。
では神仏に誓った場合の違背はどうであろうか。

要領としての誓い

あたりまえだが東京地裁は日本の裁判所である。
その法廷で証人が、彼個人の自由な思想信条と良心に従って「父なる神、子なるイエス、聖霊に誓って」みたいに供述しても「効果」は薄いかもしれない。そこはやはりテクニックとして「天地神明」がいちばん「効く」のかもしれない。大方の国民にもその気持ちは伝わるだろう。
仮に元法相が敬虔なクリスチャンだったとして「神に誓って妻とは共謀していない」と供述した場合、裁判所はどういう心証を得るのだろうか。裁判官が敬虔なクリスチャンか、熱烈な神道思想の人物かによって異なってくるのだろうか。

そもそも人間の認知を超越する存在を設定し、それへ向けて誓いをたてるということは、厳粛であると同時に滑稽でもある気がする。
筆者自身はこの世がいったいどういう風にできているのかはわからないけれども、死後になんらかの裁きがあると心から信じている人にとっては、それらに宣誓をしたうえで偽証することは相当に恐ろしいことに違いない。
裸にされた自分の体に大蛇が巻き付いて、股間に噛みつかれるかもしれないし(ミケランジェロによるシスティーナ礼拝堂の祭壇画)、閻魔大王に舌を引き抜かれ、火炎地獄に突き落とされるかもしれないのである。
筆者はどっちも強烈にイヤである。

しかし考えてみればキリスト教には教会での告解(告白)や、歴史的には免罪符(贖宥状)があるし、大乗仏教の浄土思想には阿弥陀仏に必死に祈るという方法がある。またこの世における善行を積み上げることによって、そのプラス要因がわずかでもマイナス要因を超えていればOKなど、赦(ゆる)しのシステムも各種取り揃っていたりする。

「神仏に誓って」というセリフは、一見(一聴)ものすごく信頼度が増す感じがするけれども、それはその問題に関係する人間が、同じ死生観や世界観を共有している前提が無ければ無意味な気もする。
宗教的思想や信仰心など持ち合わせない人物にとっては、「ま、テキトーに天地神明に誓って...とか言っときゃ、ちっとは信じてくれるだろうぜ。ところで天地神明ってなんなんだ?」といった具合になるのではないだろうか。
弁護士が事前に証人に対して「必ずアタマに『天地神明に誓って』をつけといてくださいね。間違っても『父と子と』なんて言わないように。心証が変わってきちまいますから」なんて言ってたりして。

日本人の腹の底(脳内)にあるもの

元法相の裁判所での供述などから考えを広げて来たけれど、日本人一般の死生観や世界観というのは、ひょっとしたら「空(から)」つまりカラッポな容器のようなものなのかもしれない。
だからこそ、七五三では神社に参拝し、結婚式ではGodに誓いを立て、葬式では(大乗仏教でいう)仏に願い、その後の法事や墓についても江戸期以降に作られた(加上された)日本オリジナル仏教の慣習にこだわるという、欧米人が理解しがたい柔軟性?を持っているのかもしれない。入れ替え可能でマルチ対応できる死生観・世界観は、「空容器」だからこそなせる業(わざ)ではないか。

「個人」という言葉は明治期に福沢諭吉が考案するまで日本には存在しなかったという。言葉がなかったと言うことはそういった概念もほぼ存在していなかったと言うことになる。
長い歴史のごく最近において「個人」という言葉を使い始めた日本人にとっては、自分を空っぽにしておくことこそが、人として生を受けた者の賢い生き方ということになるのだろうか。

17世紀、キリスト教の世界観だけがこの世のすべてであったヨーロッパ人は、モンタヌスの日本誌によって初めて日本人の生活様式を知り、驚いたという。 この世界には日本という国があり、その国ではキリスト教が禁止されていることもあってキリスト教を知らない人たちが住んでいる。にもかかわらずその日本人たちはそこそこ平和に暮らしている。つまりキリスト教と関係なく人間は、それなりに幸福に暮らしていけるということに驚愕したのである。

ここ何年か「自分のアタマで考える」なんていうフレーズをよく聞くけれど、そもそも昔のヨーロッパ人がそのことに気づき始めたのはデカルトの「われ思うゆえにわれあり」以降である。この、神をも恐れぬものの考え方、この世のとらえ方を言い出したデカルトに始まる「個の覚醒」は、宗教改革の大きなうねりとも作用しあい、やがてオランダを中心として民主主義という人類の進歩へとつながっていく。

しかし日本においては、「和魂洋才」という言葉のもとに、科学技術をはじめとした西洋文明の表層だけを取り入れることに腐心し、それを生み出したものの見方や考え方、世界観といったものをなおざりにして、うわべの近代化に突っ走ってきた。
日本には本当の民主主義が存在しないと言われて久しい。どんな宗教的世界観をも出し入れ自由にしている日本人の真実は、「カラッポ」ということなのかもしれない。


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