ハナウマ・ブログ

'00年代「ハワイ、ガイドブックに載らない情報」で一世を風靡した?花馬米(はなうま・べい)のブログです。

スマホ真理教

2022年10月21日 | 沈思黙考

「スマホ真理教」なる宗教法人など存在しない……たぶん。しかし筆者がここでいうスマホ真理教は、現代の日本社会においてひたひたと、その信者数を増やしてきているのではないか。
信者のうち少なくない人々は、「スマホ様の言うとおりに物事は運ぶ」、「その通りにならないとすれば、そこに関係する他人たちが悪魔であるためだ」、そして「自分自身は決して悪くない」といった思考パターンに侵されている場合がありそうだ。生身(なまみ)の人間が作り出しているはずの現実世界を、ゆがんだスマホ真理教の世界観で生きようとする、一部の信者たちにスポットを当てる。

INDEX

  • スマホ真理教の神々
  • 祭壇と信徒団体
  • ゆるい信徒団体と、個人信仰者たち
  • ヤバイ個人信仰者たち
  • ヤバイ神々たち
  • スマホ真理教の正しい信仰生活

スマホ真理教の神々

冒頭からちょっと空想的な書き出しにしてみたが、筆者が言いたいことは「ネット上にある(本当らしい)情報が真実とは限らない」ということである。
たとえばWikipediaだとか、Google Mapsだとか、現代の日本社会において、ごく普通の人々が「信じていい」と思っているらしい情報の危うさを指摘したいと思っているのである。

いま挙げたWikipediaやGoogle Mapsなどは、スマホ真理教の教義において説かれている、多数の神々の一部である。
ほかにFacebook、twitter、そしておもに個人が発信するような(つまりいま読んでいるような)ブログという神も存在する。これらの神々は、膨大な数の一般人がその存在を支えているという意味で、SNSというカテゴリにグルーピングされている。
これらSNS神の特徴の一つは、客観的な真実というよりも、膨大な個人の願いや思い、さらには強烈な思い込みの集積でもあるという面も持つ。

SNS神たちのほかにも、オンライン辞書、オークションサイトや個人売買サイト、単なる情報書き起こしサイト(ネタの再利用サイト)、Q&Aサイト、広告などの神々も存在している。
特に「広告神」には種類がある。そもそもウソを言う広告神、コンテンツ(本編記事)のように装いながら我々を誘導しようとする広告神などだ。

広告神は検索神(検索サイト)とも仲が良く、広告神はあたかも自分が検索結果であるかのようにしてズラリと、そして平然と我々の前に並ぶこともしばしばである。
もちろん正面切って立ち現れてくる広告神も多いのだが、さらにこんな広告神たちを利用して金を儲ける仕組みを提示する「アフィリエイト神」という存在もある。

アフィリエイト神はブログ発信者たちにささやく。
「あなたのブログに広告枠を設置せよ。あなたが提供するコンテンツが人気となり、その広告枠をクリックしたり、その先で商業契約が結ばれたりしたならば、やがてあなたの口座にお金が振り込まれるであろう」

どうもスマホ真理教の世界では、こういったSNS神と広告神が大きな影響力をもって存在するようである。
そう書いている筆者のブログも、「gooブログ」という神の掌(たなごころ)のうえで一人、好き勝手なことを叫んでいるわけだ。この神の掌は、じつのところ多層的に存在しており、プラットフォームと呼ばれることもある。

筆者のブログは毎月のお布施(gooブログ有料会員の月額費用)を納めているため、PC向けブラウザーで見る場合には広告が表示されない。
しかし先述したように、アフィリエイト神に対して過度にケチをつけるかのようなことを書くと、やがてgooブログ神としても黙っておれない状況になるかもしれない。神々たちは微妙で複雑な依存関係の中に存在している場合だってあるのだ。

ちなみにブログ神によってはお布施不要となる場合もある。そのかわり、自分が頼んでもいない広告神が出て来て、あなたが創り出したブログ記事という場所を、カネ儲けの場として利用されることになる。何らかの主張を展開したい場合は、ちょっと困りものといえるかもしれない。

【筆者注】
「お布施」は仏教僧侶に渡す金品のこと、という単純理解は誤りである。
仏教においてはさまざまな修行、いわば上手に生きるためのトレーニングがあるが、この中のひとつにモノやコトを手放す、すなわち執着心を捨てるトレーニングがある(布施波羅蜜:ふせはらみつ)。
人間は誰しも死ぬわけで、愛する人と別れ、大切なモノやコトを手放すことになる。そのとき握りしめていた手をゆるめ、手放すトレーニングが出来ていないと「死ぬほど」苦しむことになる。それだけでなく生きている間は、何かにつけて、失う恐怖、死の恐怖が襲ってくることになる。
「布施」の原語は「ダーナ」であり、臓器提供などで耳にする「ドナー」とか、寄付という意味の「ドネーション」も語源を一にしている。
布施は、損得といったモノサシで考えるのではなく、生きることのつらさや悲しみを引き受ける体力を、自ら身につけるにつけるためのトレーニングととらえた方がより正確である。

祭壇と信徒団体

さてスマホ真理教とはいうものの、その信仰生活においては、スマホだけが「祭壇」となっているわけではない。パソコン(PCやMac)もあるし、タブレットもある。
これらの祭壇は、アクセスラインと呼ばれる無線や有線を介して、最終的にインターネットにつながっている。インターネットは、これまで紹介してきたような様々な神々たちが無数に存在している世界だ。そしてその祭壇は、神々の世界にアクセスするための「端末」でもある。
ただ、日本人の信仰者の大多数は、日本語が上手に扱える神々としかコンタクトしようとしない。

この祭壇はかつて我々の部屋や職場の、机の上などに設置され、場合によってはワイヤーで固定されて盗難に遭わないよう工夫されていた。
いまでもマトモな信仰者たちは、入退室管理などをはじめ様々な安全措置をキチンと実行している。

しかし最近は、手に持って、あるいはカバンに入れて持ち歩ける祭壇が大流行している。主流になっているといってもいいだろう。ただしそれはおもに、個人とか消費者と呼ばれる信者たちのありようだ。
株式会社などと呼ばれることも多い信徒団体(組織)の祭壇は、やはり基本的に机上に設置されるものが主流であり、持ち出せるタイプのものは特別な管理や監視を受けるというのが、真っ当な信徒団体の姿である(組織のモバイルセキュリティ施策)。

そもそも株式会社などと呼ばれるような信徒団体は、自分たちの経済的利害だけを目的に神々たちを利用しているので、質(たち)の悪い神々には触れようとしない賢さを持っている。それどころか自分たちが神々として列せられることを企図している例もある。

ところがマヌケな信徒団体や、基本的に勘違いをしたまま、あるいは知識不足のまま信仰生活に巻き込まれてしまっている中小集団も少なくない。こういった信徒団体は、スマホ真理教に真っ向から反対する人々をも巻き込んで、人や社会を危険にさらしたり、不幸に突き落としてしまったりすることがある。
最も多いのは秘密情報の漏えいや、秘密情報が記録された物(情報記録媒体)の紛失である。その信徒団体が大規模であったり、行政機関であったりすると問題はより深刻である。

令和4年の夏、フロッピーディスクと呼ばれる、古い教えにもとづく祭壇具を使用していた行政組織、金融機関の実態が、ニュース神やSNS神たちによって広められ、信者のみならず社会全体に物議を醸していた。
なんでも行政庁としては、古い教えしか知らない、あるいは古い祭壇具しか使えない信者たちを無碍(むげ)に切り捨てるようなことはよくないと考えているようだ。

またUSBメモリーというものも、気軽に使えるものでありながら、セキュリティ的にはある程度専門的な知識が必要な祭壇具である。使用する者に対してはしっかりと、「事故をおこせば破門、すなわち社員生命を失う場合がある」という戒律を伝えておく必要がある。

しかしこういった残念な信徒団体の不祥事は、しばしば矮小化されたり、なかったことにされたりしていると考えるのが自然であろう。

ゆるい信徒団体と、個人信仰者たち

先に示した信徒団体は、明確にカネ儲けを目的とした信仰生活をしており、その意味で神々たちを上手に利用しようと考えている。そのため自己研鑽にも積極的で、結束力も強く、内規も厳しく、メンバーたちに細々(こまごま)とした信仰スタイルを強要している。

しかし、ゆるい信徒団体もある。
そもそもこの人たちはカネ儲けというより、逆にカネを使って(あるいは巧みな広告に誘導されながら)楽しく便利に生きていこうとする信者たちである。

信徒団体とはいいながら、自分がスマホ真理教の信徒団体に所属しているなどと言う意識は持ち合わせていないし、そもそも自分がスマホ真理教を信仰しているという意識すら希薄だ。
だいたい、このゆるい信徒団体には代表者も存在しない。ただし、インフルエンサーと呼ばれる上級幹部のような人物が(あるいは企業に金で雇われた幹部が)、一部の派閥に対して強い指導力を見せている例もある。

個人信仰者たちはそれぞれ、自分だけの考え方や信仰スタイルで、スマホ真理教を基調にした素直で敬虔な信仰生活を送っているが、友人や同僚、マスメディアの影響も受けながら生活を送っている。
しかし、あまりに純粋な信仰姿勢が災いして、不幸な目に見舞われることもある。それは、「スマホ真理教の神々たちはみな、常に正しくて良心的なのだ」と信じ込んでしまっているからに他ならない。
仮に良心的な神であったとしても、その神(しくみ、システム)を利用してカネ儲けや悪だくみを遂げようとしている生身の人間が、神の背後に隠れているのだということを想像できない(あるいは想像したくない)。

ヤバイ個人信仰者たち

こういった純粋な信仰者たち(あえて言い換えれば残念な人たち)には、特徴的な共通性がある。

たとえば検索神が提示するもの(検索サイトで表示されるもの)だけがこの世の真実であり、それ以外のすべてはこの世に存在しないと考えてしまう。
また、Google Maps神が「15分で目的地に到着する」と宣(のたま)えば、そうでない現実に出会ったときに、混乱し、怒り、誰かのせいにして激しく非難・攻撃したり、必死に自己弁護を考えたりする。あまつさえ自分が信じ込んだGoogle Maps神のせいにしたりもする。
このとき、自分自身を見つめるといった人間らしい感覚は消え失せてしまっている。

そもそもGoogle Maps神をはじめとしたスマホ真理教のほとんどすべての神々たちは、ずっと昔から宣言しているではないか。
「幸福になりたいと思うならば、わたしの言うことを信じなさい。ただしその結果についてどうなろうとも、それはあなたの責任である」と。
神々たちによるこういった「ご宣言」をスマホ真理教では「terms and conditions」とか「利用規約」などと呼んでいる(考えてみればかなり尊大で無責任なようにも聞こえてくる)。

しかし純粋な信仰者たちは、もうそのことを忘れている。いや正直なところ利用規約のようなものは、一般信者にとっては読む気も起きない難解な経典といえる。それゆえ「了承する」ボタンを押すことなどによって、この難解な経典を理解したことにして信仰生活に入っている場合がほとんどである。ただ、ほとんどの神々は「我を信じた以上は(使用を開始した以上は)戒律を了承したことになるぞよ」とコッソリ宣言している場合が多い。
いずれにしろほとんどのスマホ真理教信者たちは、自分がいま生きている世界が、生身の人間が駆動している世界なのだということを忘れかけているのである。スマホ真理教の神々が提示した通りに事が運ぶとは限らないということを、忘れてしまっているようなのである。

スマホ真理教の本質は、
「この世はこうなのである!……たぶん。でも実際どうなるかなんて知るか」
というものなのである。または、
「私の掌の上で何をしようとあなた方の自由だ。しかしその結果、私の手からすべり落ちようとも、私はあなたを救う方法など知らない。それどころか私があなたをウッカリ踏みつぶしてしまうかもしれない」
とでもいうものなのである。

さまざまなシステムは、生身の人間のなせるわざを代表し、補助しているに過ぎない。
たとえば「クリック一つでお手元へ」は、物流の現場やその管理のシーンで、生身の人間たちが一致協力した結果なのである。
人間が人間らしく思考し思惟することを前提としているスマホ真理教を誤った姿勢で信仰していると、最後はとんでもない所へ連れていかれ、しかも本人はそのことに気づいていないという事態にもなりかねない。
しかし、純粋で残念な信仰者たちは、誰かを批判する能力だけはこのスマホ真理教の信仰生活で身につけてきている。自分の身に起きた不幸や不都合を、巧みに他人や社会のせいにしたり、特定の生身の人間を完膚なきまでに叩きのめす手法だけは熟知していたりするのである。

いま「批判」という言葉を使ったけれども、本来の批判はこんなふうに使う言葉ではないだろう。理由や根拠、代替案を、正しい言葉で理路を明らかにして述べ、反対意見にも耳を傾ける。それが本来の批判なのであり、それは結果として個人や社会がよりよい未来を作ろうとする営為でなくてはならない。
単に目前の対象を叩き潰すことが批判なのでは断じてない。

ヤバイ神々たち

スマホ真理教の神々たちは、完全なる神のように見せながら、しかし基本的には一切の保証(保障・補償)はしないし、責任など断じて取らない。
Wikipediaに書かれていること、Q&Aサイトに書かれていること、Google Mapsが示す時間や空間、検索結果にリストされてくるサイトの情報、これらはたとえ信頼性が高いものであったとしても、「一面の真実」に他ならない。

そのことは、その道の専門家や、それで日々メシを食っている人が、WikipediaやQ&Aサイトをのぞいてみるとすぐにわかることだ。
「大筋としては間違いではないけれど、不完全であり、一部に誤解を招く部分もある」と感じるはずだ。

特にWikipediaなどは無条件に信頼している人も少なくないようだが、明らかに誤った記述が放置されている場合もあるし、そもそも日本語の文章としておかしなものも少なくない(その分野の専門家であっても文章の記述が苦手な人はたくさんいる)。
Wikipediaの解説もやはり玉石混交なのであり、昭和の時代に書棚に並んでいたような百科事典と同レベルの品質・信頼性は無いのである。

かつて防衛省が、現実空間の説明をするにあたってGoogle Maps(Google Earth)を使ったため、現実世界とは異なる結果を導き出し、公開資料に掲載してしまった事案を記憶している人もいるだろう。

純粋な信者たちは神々の言葉を鵜呑みにし、それ以外の情報はウソではないかと疑うようになってしまう。分野が異なったりする生身の人間との疲れる議論や検討を避け、やがて「自分が信じるモノ、コトだけが真実である」という、スマホ真理教の狂信的な信者となっていく。

いまWikipediaを俎上にのせたけれども、人々に公開され、議論され、随時編集される百科事典(しかも無料)という意味では、従来の百科事典が追随できるものではない高度なサービスであるといえる。
だが、自分が詳しい分野について調べてみると、その内容に疑問を持ったりすることが多々ある。
しかしだからといって、それを編集し直すような気も起きない。なぜなら、そのことに関する真実、視点は複数あると知っているからでもある。それにコンピューターで表現できる何かしらが、この世のすべてを説明しきれるとも思ってはいないし、定義すること自体が何かしらの矛盾を呼び起こす場合もあると知っているからでもある。

スマホ真理教の正しい信仰生活

スマホ真理教の神々は、上手に利用するものである。
そのためには我々自身がつねに前向きに思考し、学び続ける姿勢が欠かせないだろう。

もちろんスマホ真理教の神々に頼るだけではいけない。
たしかに、しょっちゅう変化し続け、消えてはなくなるような物事に対する表面的な説明も、時には必要かもしれない。しかし書籍や文献あるいは生身の人間にあたってみて、自分の頭で考えてみるという、少々時間のかかる学びの姿勢も大変重要である。

たとえば週刊誌は、つまり1週間の命の本である。しかし、時代を超え、国を超えて読み継がれている本もある。
どちらがいい悪いとは言わないけれど、自分がいま生きているこの世界を、より正確に理解し、なるべく良い人生を送っていきたいと思うのなら、スマホ真理教の信者として、正しい信仰スタイルを考えてみる必要があると思うのだ。


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 東京のタクシー運賃ウラ話 | トップ | LINEにおける情報保存 »

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。