数年前のことである。私は時給1,000円でアルバイトをしていた。その仕事の一つに救急車の運転や、入院患者の取り扱いがあった。アルバイトは短期間でやめたが、これはおかしいことではないだろうか。
高齢者チーム
救急車というと、119番通報で消防署から出動する救急車を思い浮かべるが、私が経験したのは病院が持っている救急車である。
つまり時給1,000円のアルバイト先は、とある病院である。
そもそも私の本来の仕事は、鉄道駅や住宅団地と病院の間を、時刻表に従って運行する送迎バスの運転である。定員29名のいわゆるマイクロバスなので、普通免許では運転できない。しかし人を運ぶことそのものでお金を取るわけではないので、二種免許は不要である。
いくつかある送迎バスの路線は、5~6人の高齢ドライバーとシフトを組んで行うのだが、その中では私ですら「若手」という扱いだ。そうしてどの路線でも一人で運行できるように研修し数日たったころ、運転手チームのリーダーから、救急車の仕事をやるよう命じられたのである。
病院の救急車
救急車のボディには「〇〇市消防局」ではなく、「〇〇病院」と書いてあるが、赤色灯もついているし、サイレンや拡声装置もついている。当然だがストレッチャー(移動用車輪付き簡易ベッド)をはじめとした一通りの機器も備えている。
不謹慎ながらワクワクするような気分も正直あった。
しかし考えてみると、病院のことも、ましてや患者搬送、緊急車両の運行といったこともさっぱり知らない、時給1,000円で雇われた素人が、こんなことをやっていいのだろうかと思い始めた。
もちろん救急車の運転だけをしていればいいわけではない。ストレッチャーに乗った患者を救急車に乗せたり降ろしたりする手順も教えられる。そこまでやるよう指示されているわけだ。
やめようと決意した日
ある日、救急車での患者搬送があった。
アルバイト先の病院とつながりがあるらしい、入院設備はあるが比較的小規模の病院へ行き、患者を乗せて連れてくる仕事だ。つまり病院間搬送である。
指示された病院は5階建てほどの、少なくとも20~30床ほどはありそうな病院である。
救急車のバックドアを開けて、毛布などを乗せたストレッチャーを取り出し、エレベータで上がって入った部屋には、数人の医療関係者が、ベッドで横たわる患者のそばでスタンバイしていた。
患者はかなりの高齢男性である。どんなに若くともせいぜい70代後半というところだろう。
意識はあるようだが、目を閉じてじっとしている。というか、寝たきり状態といった方がイメージしやすいだろう。
「じゃ、いきましょう」
リーダー的な男性の掛け声で、みんなが一斉に患者男性の下に敷かれているシートに手をかけた。シートごと患者をストレッチャーに移動させるのである。
次の瞬間、みんなの視線が一斉に私に集まる。
私は、その移動を手伝うのが当然であるという空気を一瞬にして察し、少し高い台の上で膝立ちするような姿勢で、皆と「ハイ、イチ・ニッ・サン」という掛け声に合わせ、高齢男性をストレッチャーに移動させる。
そうして玄関前に停めてある救急車に、ストレッチャーを押し込むと、ガチャン、ガチャンとストレッチャーの脚部が折りたたまれる。
薬の配達
じつはこの救急車での搬送の前から、アルバイト運転手の私には、薬の配達という仕事が命じられていた。病院内に数か所あるナースステーションへ届ける、入院患者用の薬を配達するのである。何台かの台車が必要になるほどの量である。
ところが、配達用の台車を押しながら、「どうもこれは配送先の間違いではないか」と思うことがあった。ナースステーションで私が指摘すると、やはり誤りであることがわかり、事なきを得たということがあった。
もちろん私がロボットのように、言われるまま仕事をしていたとしても、どこかの段階で気づくことなのかもしれない。しかし入院患者に配達する薬の管理がこれほど緊張感のないものなのかと驚いたことがあった。
薬の院内配達も救急車による搬送も、あくまで私が経験した、医療現場のごく一部でしかない。これが「問題」であるかどうかもわからない。しかし強烈な違和感を覚えたことは事実だ。
当然のことかもしれないが、私が関係する範囲はお世辞にも職場の雰囲気はよくなかった。
毎日顔を出す事務方の部屋でも、何かに抑圧されて生気を失ったような人たちが、わが身の不幸を恨むかのような暗い目つきで仕事をしている。より良い仕事のために合理的な考え方をするよりも、大きな力に従うことが仕事となっているような雰囲気だ。
送迎バス運転手チームのリーダーは、封建的な思い込みが強烈な高齢者で、変化を激しく嫌い、合理的改善提案などしようものなら怒りをあらわにする。しかしこの病院組織にとっては好都合な人物なのかもしれない。
そして
おじいさんを乗せた救急車でアルバイト先の病院へ向かいながら考えた。もし私がこの男性患者の家族だったら…。
時給1,000円で雇われたズブの素人が、弱っている大切な家族にこんな形でかかわっているという実態を知ったなら…。
私は翌日、アルバイトをやめることを伝えた。
退職手続きをしてくれる事務方の女性は、「あぁ、やっぱりね」といった表情で、これまで何度もやってきたであろう事務処理をてきぱきとこなしてくれた。
「ここって、こういうところなんですよ」といった意味の言葉をささやきながら、残念そうに書類を手渡してくれた。
その病院は、私がやめた少し後に医療関係の資本に買われたようで、改名して今でも業務を継続している。
状況が改善されていることを祈らずにはいられないが、同居する私の老母が救急搬送されたとき、その病院だけは絶対に避けるよう考えていたのはいうまでもない。