ハナウマ・ブログ

'00年代「ハワイ、ガイドブックに載らない情報」で一世を風靡した?花馬米(はなうま・べい)のブログです。

守りたかった「勉強ができるバカ」

2020年05月23日 | 沈思黙考

昔は学校の勉強ができない子を「バカ」などと言っていたものだが、いつの頃からか「勉強ができるバカ」が増えてきたように感じる。我々の国の政治指導者たちが守りたかった検事長という人は、勉強ができるバカではなかったか。

賭けマン検事長

先ごろ東京高等検察庁の検事長という人物が、辞任を申し出て了承された。
彼の経歴を調べてみると、1981年に東京大学法学部第1類を卒業したのち司法修習、検事任官。地方検察庁をいくつか渡り歩いたのち法務省に異動するなどして、東京高等検察庁の検事長になったのは2019年1月だ。

まさにエリートという言葉にふさわしい経歴であることは間違いないだろう。
しかし学校の勉強がいくらできようとも、そして組織内で着々と出世していようとも、バカであった。
もしそうでないとすれば、何らかの形で検察は政治に脅されていた(いる)のか。

緊急事態宣言で国民が死ぬほどの苦しみに耐えているなか、不正があれば内閣総理大臣をも逮捕する検察機構のトップグループに位置する人物が、マスメディアの記者と、賭けマージャンをしていたことが明らかになった。
正常な感覚の人間からすれば、状況判断が出来ないバカとしか言いようがない。

彼は辞任をすることになったが、約6千万円といわれる退職金(*1)を手にするという。
また「懲戒免職」ではなく「訓告」という名のお叱りで済んでいることもあり、それゆえ弁護士資格も剥奪されず、今後は弁護士として開業することも法的な問題はないということになる(いったい誰の弁護をするのか)。
この処分についても、正常な感覚の人間からすれば、まったく理解が出来ない。

さらにいえば、この人物も問題だが、彼を必死でつなぎとめようとしていた人々は、いったい何が目的だったのだろうか。森友加計問題にからんだあの理財局長の起訴が見送られたこともあわせ、現政権は限りなく黒に近いグレーといえそうだ。

エリート

「エリート」という言葉はフランス語らしい。
私のような年代の人間はタイプライターをイメージしたりする場合もあるのだが、昭和の終盤以後に生まれた世代にとっては「タイプライター」という言葉すら、何のことだかわからないかもしれない。

話を戻すと、エリートという言葉の意味はかなり広がりがあるようだ。
学校の成績が良いとか、卒業後に所属した組織の中での地位が高いなどといったことをエリートというなら、その人のある一面だけをとらえて称しているに過ぎないことになる。

しかし、今回の賭けマン検事長に限らず、「勉強ができるバカ」が人々の上に立ち、人々に不利益を与えたり、自分の利益を貪ったりする構図を、これまで数えきれないほど我々は見てきている。

確かに、科挙にはじまる実力主義の考え方は重要だ。
血筋や家柄、経済力などではなく、一定の合格ラインを設けたテストを受けさせ、これをクリアできた者にのみ指導的立場や権力を与えるという考え方だ。
議員の子は議員になる、ではないが、オイシイ仕事を孫子(まごこ)の代まで引き継いでやりたいと思うのは素直な親心だから、公平公正な実力主義の手続きである試験制度は基本だ。
しかしそれだけでは弊害が大きくなってしまう時代になっていることに、我々は気づいているはずだ。

要領がいいだけの「エリート」

昭和も後半になってきたころから、要領の良さだけで世間を渡ろうとする流れが出てきたように感じる。例えば、東大に合格するための「手法」を研究するような考え方だ。
様々な試験の「傾向」を分析し、的確な「対策」を行えば、問題(試験)はクリアできるという考え方であり、まったく合理的なアプローチではある。
しかし別の言い方をすれば、「試験に合格すりゃいいんでしょ」ともいえる。

そうなってくると、要領よく「傾向と対策」を行える者ほど、合格しやすくなる。
人間力や共感力などといった価値観はほとんど無意味で、合格のためのテクニックのみを研究し、効率よく成功していくことが目的化していく。
そして、優れた傾向分析と優れた対策を売りにするビジネスが発達し、それはつまり経済力のある者ほど、合格しやすいという現象につながっていく。

かくて日本の政治指導者層、企業などの組織の上層には、「金があって要領がいいだけの人物」が増えていくことになる。
そうして手に入れた、恵まれた環境や立場からの景色、感覚だけで、社会や組織を取りまわしていくことになる。
彼らは生涯、ある意味で世間知らずのまま社会の上層に存在し続けるのだ。そんな人生を生きている人物に、一般市民や弱者、マイノリティ、多様性といったことに関する理解を期待するというのは無理スジな気がする。

試験に通ればそれでOKという考え方は、もう現在の日本では役に立たないどころか弊害が大きくなってきている。

エリートから「レジティマシー」へ

「勉強さえできれば(他はどうであれ)良い、安心」という考え方は、戦後の一定期間において、社会の建設や発展のために意味を持っていたとは思う。
しかし、そういった時代はとうの昔に終わっていて、「(学校の)勉強ができるバカ」が社会を悪くさせる時代に入っている。そういった人物を我々の上に据えるような仕組みであっては、社会の害悪となる時代になっているのだ。
より高度な勉強ができるからといって、より高い倫理観を持って社会に向き合えるなどと考えてはならないのである。

今の日本において「エリート」という言葉は、いささか皮肉めいた響きがある。
だとすれば、最近耳にすることが多くなってきた「レジティマシー」を持った人物であるかどうか、といった言い方も悪くないのではないか。

レジティマシーとは、一言で言えば「正当性」ということになる。
ある人物が一定の立場に立つとき、何よりもまず必要とされるのは、ほかの多くの人々から尊敬を集められるかどうかということだろう。リスペクトと言い換えてもいい。
「あの人なら」と、多くの人が納得するという意味での正当性である。わけのわからないブラックボックスでの意思決定や、奇妙なリクツをこねられてその地位に就いている人物などは、まったくレジティマシーに欠ける人物ということになる。

「余人をもって代えがたい」とは便利なフレーズである。このフレーズが聞こえてきたとき「それって誰にとって?」と、即座に問いかけたい。
そして、もし「国民のために」ということであるならば、なぜその人物が国民のためになるのかを、多くの人々が納得するような形で説明されるステップが必要だ。
もちろんこれは、説明する方も聴く方も少々しんどい作業ではある。しかし、それが民主主義に必須の手続きだろうし、その議論をサポートするのはマスメディアの重要な仕事でもある。
これがおざなりにされるならば、日本は暗黒時代に傾斜していくことになる。

【訂正】
5月24日、「7千万円を超えるだろうといわれる退職金」を「約6千万円といわれる退職金」に訂正しました。


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